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  • 第323号【2009長崎ランタンフェスティバル好評開催中】

     長崎の冬の風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」が開幕しました。中心市街地は、朱色、桃色、黄色のランタンに埋めつくされ、アジアンチックなオブジェがあちらこちらでお出迎え。ランタンの幻想的でやさしい灯りに導かれるようにして歩けば、どこか架空の国に迷い込んだかのよう。いつの間にか煩雑な日常を忘れ、明るい気分になってくるから不思議です。 旧暦のお正月を祝う、「長崎ランタンフェスティバル」。今年は1月26日(月)から2月9日(月)まで開催されます。中心市街地に点在する会場6カ所(湊公園・中央公園・唐人屋敷・興福寺・浜んまち・鍛冶市)では、今年も中国獅子舞、中国雑技、龍踊り、二胡の演奏など中国色豊かな催しが毎日、行われます。各催しはだいたい夕方近くからはじまりますが、各所で配付されている「長崎ランタンフェスティバル」のチラシやインターネットなどでイベントスケジュールをチェックしてお出かけになれば、見逃すこともありません。 毎年、大勢の来場者が楽しみにしているのが、メイン会場の湊公園に設けられる干支の巨大オブジェです。丑年の今年は、「富みの牛」を意味する「金牛(キンギュウ)」のオブジェが飾られています。激流を登る鯉と、金牛に乗った中国の貴士の姿をあらわした吉祥図の構成で、その貴士は昔、中国にあった「科挙」という高級官僚登用試験で、厳しい競争を勝ち抜き、筆頭合格した人物だとか。受験シーズンでもあるこの時期、高さ8.4mもあるこの縁起のいいオブジェを見上げれば、受験を勝ちぬく勇気が湧いてくるかもしれませんね。 ちなみに、干支の巨大オブジェが作られるようになったのは12年前の虎年から。今年で12支が揃ったことになります。昨年子年のオブジェは浜市アーケードの出口の鉄橋に、亥年のオブジェは長崎市役所前にと、各所に設けられているようです。ご自分の干支を探してみてるのも楽しいかもしれません。 ところで、全部で1万5千個ものランタンを使用する「長崎ランタンフェスティバル」。今年からエコな取り組みも少しずつはじまっています。新地中華街に飾られる朱色のランタンの内500個が、白熱灯から省エネ型の電球型蛍光ランプに取り替えられたのです。明るさはほとんど変わらず、消費電力は少なくなって排出CO2を削減、電球の寿命も長くなりました。これは地元企業の三菱電機オスラム株式会社、三菱電機住環境システムズ株式会社から提供されたものだそうです。新地中華街へお越しの際は、ぜひ、エコなランタンのことを思い出してください。 カップルに人気の縁結びの神様「月下老人」のオブジェ(浜市アーケード・浜屋百貨店前)をはじめ、歴史ある唐人屋敷での「ロウソク祈願四堂巡り」、土日に開催される「皇帝パレード」や「媽祖行列」、そして眼鏡橋界隈の黄色いランタン飾りなど、今年も見どころ満載です。一番星が輝きはじめる頃、灯りはじめるランタンの景色は、本当に美しいものです。ぜひ、長崎へ足をお運びください。◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会

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  • 第322号【長崎ことはじめ(東山手~南山手)】

     1月15日を中心としたこの時期は「小正月」と呼ばれ、1年の邪気を払う行事として小豆粥を食べる地域もあります。江戸時代の長崎でも、小豆と供えていた餅を割り入れた粥を炊いて食べていたようですが、現代、そうした家庭はずいぶん少なくなったようです。小豆もお餅も食べると不思議に力がわきます。小豆粥は、もっとも寒いこの時期を乗り切るための先人達の知恵だったのでしょう。 さて、今年最初のテーマはお正月らしく「ことはじめ」にちなんだ記念碑をご紹介します。これまで当コラムでもずいぶん取り上げてきましたが、長崎には「日本で最初」といったものがたくさんあります。街角にはそういった記念碑が各所に設けられているのですが、意外に見過ごされているようです。無言でひっそりと建つ「碑」そのものは地味ですが、観光地におけるゆるぎない記念撮影スポットであることに変わりありません。訪ね歩けば、「あら、こんなところに!」「やっと見つけた!」といった小さな感動ももれなく付いてきます。 今回は、観光客の皆さんがよく訪れる東山手、南山手界隈からピックアップしました。ひとつめは「近代塗装伝来の碑」。新地中華街そば湊公園内の一角にあります。碑文には、「わが国における本格的なペイント塗装は幕末より明治初年にかけて導入された洋風建築にはじまっているが、長崎出島のオランダ屋敷内では18世紀中頃すでに一部の建物にペイント塗装が行われていた。…」とあります。碑を建立したのは日本塗装工業会九州支部連合会とあります。なるほど、この碑は知る人ぞ知る、けっこうマニアックな碑といえるかもしれません。 湊公園からほど近い「大浦海岸通り」一帯は、かつて外国人居留地だったこともあり、「日本初」に限らず、近代日本の歴史を刻んだ碑が特に多い地域といえます。「我が国鉄道発祥の地」と刻まれた碑もそのひとつです。慶応元年(1865、英国人貿易商トーマス・グラバーが、この海岸沿いに数百メートルのレールを敷き蒸気機関車を試走させたことを記念した碑で、碑文によると、このアイアン・デューク(鉄の公爵)号という英国製の蒸気機関車は、日本の近代化まで牽引したとありました。機関車ファンならずとも、日本ではじめてレールが敷かれたこの海岸沿いを一度は訪れてほしいです。 この「大浦海岸通り」から徒歩数分でグラバー園のふもとへ出ます。お土産屋さんが連なる坂の下にある「ホテル」の前に、「わが国ボウリング発祥の地」という比較的新しい碑が建っています。ボウリングのピンとボールが型抜きになったおしゃれな碑で、平成15年(2003)に日本ボウリング場協会によって建立されたものです。説明文によると、日本最古のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が幕末の文久元年(1861)6月22日にここ大浦に開業されたとありました。当時、新装開店を告げる新聞広告も、日本で初めての英字新聞「ザ・ナガサキ・リスト・アンド・アドバタイザー」に掲載されたそうです。 ちなみにボウリング発祥の碑は、いつ頃からのものかわかりませんが、もうひとつ古いタイプが、「ホテル」横の坂道のお土産屋さんの一角に残っています。この「ホテル」の前には、ほかにも「国際電信発祥の地」「長崎電信創業の地」といった、ことはじめの碑が建立されています。幕末・明治期、この一帯はある意味、磁場のような存在となって、時代のうねりを生み出していたのかもしれません。 本年もいろんな視点で長崎の魅力を発信したいと思っています。どうぞよろしくお願い申し上げます。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第321号【家族の絆を深める雑煮】

     きょうはクリスマス・イヴ。気のおけない友人や家族と和やかなひとときを過ごせたらいいですね。クリスマスが過ぎるといよいよお正月の準備も大詰め。店頭はどこも、お正月関連の品々でいっぱいです。八百屋などでは長崎の雑煮に欠かせない唐人菜(長崎白菜)やくわいが待ってましたとばかりに店先に姿を現しました。 雑煮といえば、地方色が多彩なことで知られています。おおまかに分けると、東は角餅ですまし仕立て、西は丸餅で味噌仕立てとよく言われます。長崎は、丸餅ですまし仕立てなので、東西混合のパターンというべきなのでしょうか? 雑煮がお正月の定番になったのは、室町時代だといわれ、江戸時代の末期になると、多くの庶民が雑煮でお正月を祝っていたとか。前述の「東は角餅で…、西は丸餅…」というのも、江戸時代中期には、すでにそういうスタイルであったことが当時の関西人、関東人によって記されているそうです。 雑煮に入れるお餅も地域や家庭によって、角餅や丸餅を、焼いたり、焼かずに煮るなどさまざまです。中でも珍しいのは四国の香川県で、小豆のあん餅を使います。あんが白味噌仕立ての汁によく合うのだそうです。また、北関東から東北地域にかけて、餅を入れない地域もあり、里いもや大根などの根菜類などを煮た雑煮を食すとか。雑煮にはその地域独自の風俗・風習が色濃く残っているようです。 さて、長崎の雑煮は具だくさんで知られています。ブリ、伝統野菜の唐人菜、丸餅を基本に、鶏肉、かまぼこ類(紅・白・昆布巻)、大根、にんじん、ごぼう、里いも、くわい、しいたけ、たけのこ、きんこ(乾燥ナマコ)、卵焼など多いところでは全部で13種くらいがお椀に入ります。それより少なくても、具材の数は祝いをあらわす奇数にするのが決まりです。 同じ長崎でも、やはり地域や家庭ごとに特色がありました。その昔、捕鯨が盛んだった長崎県北部出身の知人は、子どもの頃の雑煮には鯨肉が入っていたといいます。長崎の市街地でもそうしたお宅がありました。いまでは高価になった鯨肉ですが、お正月料理の食材として欠かせないお宅も多いようで、この時期、長崎の鮮魚店や精肉店などでは鯨肉が目立つ場所に並べられています。 全国には長崎のように具材が多い地域もあれば、シンプルにお餅と青菜だけという地域もあります。今回、参考にするために地元や県外の友人たちと電話やメールで雑煮の話をしました。餅の形や具材の種類の違いに驚かされたりしながら、おおげさにいうと、日本の食文化の奥深さをしみじみ感じました。 その中で、地元ではなくお祖母さんの出身地の雑煮をつくっているとか、嫁ぎ先の具材が実家と違っていてカルチャーショックを受けたとか、お嫁さんが来てからちょっと具材が変わったなどの話がありました。雑煮には、脈々と受け継がれる家族の歴史も込められているようです。年のはじめ、そんな雑煮を一緒に食べることは、家族の絆を大切にすることなのだとあらためて思いました。 今年もご愛読いただきありがとうございました。どうぞ佳い年をお迎えください。◎参考にした本/日本の「行事」と「食」のしきたり(新谷尚紀 監修/青春新書)、全集・日本の食文化第12巻~郷土と行事の食~(雄山閣出版)

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  • 第320号【天草のキリシタン文化を訪ねて(2)】

     赤と緑のクリスマスカラーが目立ちはじめた街角。忘年会やパーティーの季節ですね。自慢の手料理でいつも仲間をもてなしてくれる友人が、「人が集うときのいちばんのごちそうは、『会話』なのよ」と言っていました。この冬のみなさんのさまざまな集いが、温かく楽しいものでありますように。 さて、先週に引き続き「天草史跡見学会」の後編です。一行は、天草下島をさらに南下し、山あいにある大江天主堂(天草市天草町大江)を訪れました。大江はキリシタンの里のひとつで、人々は厳しい迫害の時代もひそかに信仰を守り続け、明治になって信仰の自由が得られると、いちはやく教会を建てました。現在の白い教会は、昭和8年にフランス人のガルニエ神父が私財を投じて建てたもの。五足の靴の一行は、天草弁を話すこの神父に温かく迎えられたといいます。大江天主堂のそばには、「天草ロザリオ館」があり、かつてのキリシタンの暮らしや信仰の様子を伝える遺品や資料が展示されていました。 大江をあとにして海沿いのルートを辿ると、ここもキリシタンの里である崎津に出ました。波静かな湾のほとりに建ち並ぶ民家。その路地裏を歩くと突如として、ゴシック様式の崎津天主堂(天草市河浦町崎津)が現れます。明治以降、教会は3度建て直されており、現在の教会は昭和9年に建造されました。禁教の時代、この場所には庄屋があり、毎年踏み絵が行われていたそうです。ちなみに、長崎の浦上天主堂も踏み絵が行われた庄屋跡に建てられています。 昼食は島の小さな旅館でいただきました。野菜や魚介類など新鮮な地元の食材を使い、手間ひまをかけて作ってくれたごちそうです。天草の郷土料理、「せんだご汁」もありました。これは、宣教師が伝えたといわれる料理で、野菜の旨味がたっぷりのコクのある汁に、モチモチとしたのジャガイモの団子が入っています。長崎にはありそうで、ない料理です。地元の海で採れる緋扇貝(ひおうぎがい)の刺身もいただきました。オレンジや黄、紫のカラフルな貝殻で、ホタテ貝のような味わいでした。 ところで前回、地理的にも近い天草と長崎は何かとゆかりがあるという話をしましたが、江戸時代初めに起きた天草・島原の乱以後、天草は天領になりますが、同じく天領であった長崎とは、往来がしやすかったという話を聞きました。また、天草はもともと肥後国(熊本)ですが、明治に入ると一時期、長崎府や長崎県の管轄に入ったこともあったそうです。 一行は「天草コレジオ館」(天草市河浦町)を訪れました。「コレジオ」とは英語で言う「カレッジ」のこと。16世紀末、宣教師養成を目的とした神学校の最高学府「天草コレジオ」が、この地にあったといわれ、印刷や音楽など当時のヨーロッパの進んだ技術や文化も伝えたそうです。天正遣欧使節の伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンも、帰国後の数年間、ここで学んでいます。館内には、当時もたらされた印刷機や西洋楽器などが展示されていました。 このあと、天草市本渡地区へ移動し、天草四郎率いる一揆軍の軍旗として使用された「天草四郎陣中旗」(国の重要文化財)を展示した「天草切支丹館」、45脚もの角柱で支えられた珍しいアーチ型石橋「祇園橋」、勝海舟が二度訪れ、本堂の柱に落書きした跡が残っている「鎮道寺」なども見学。小さな島ですが、一日では巡れないほど見どころが多彩。長崎と似ているけどちょっと違う雰囲気を感じるキリシタンの歴史を振り返りながら、再び船に乗り帰路についたのでありました。

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  • 第319号【天草のキリシタン文化を訪ねて(1)】

     早いもので、あと数日で師走ですね。長崎では、先週あたりから急に冷え込んで、街行く人々は厚手のセーターやコートに身を包みはじめました。気温が低くなるほどに、ますます食べたくなるのが、温か~いちゃんぽんです。夕暮れの帰り道、木枯らしが運んでくる夕飯のちゃんぽんの匂いは、気持ちがなごむ幸せの匂い。今日も、長崎の街角に漂っています。 さて、今回は11月8日に行われた長崎日本ポルトガル協会・長崎歴史文化協会共催の「天草史跡見学会」を通して、キリシタンにまつわる天草の歴史風土をご紹介します。天草は、天草灘を隔てた長崎県の南東部に位置する熊本県の島です。正確には「天草諸島」といって、天草上島、天草下島、御所浦島などの島々で構成されています。今回の見学会では天草下島を巡りました。 天草は、距離的に近いこともあり、長崎とは何かとご縁があります。よく知られているのは、幕末の長崎の開港にともなう南山手や東山手の外国人居留地の造成にまつわる話です。石畳や護岸用の多くの石材は天草産が使用されているのです。石工も天草の方々が多く活躍したそうです。「天草史跡見学会」の参加者(約30人)は、長崎市の茂木港からフェリーで天草・富岡港へ渡りました(所要時間70分)。ちなみにこの茂木~富岡のルートは、今から約100年前の明治40年、世に言われる「南蛮ブーム」の先駆けとなった「五足の靴」と呼ばれる若き文豪たち(与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・木下杢太郎・平野万里)が、長崎から天草へ渡ったときと同じルートです。 富岡港からバスに乗り込み、島の西海岸沿いを南下。美しい海原やのどかな里山が連なる景色が続き、途中、何度も細く小さなトンネルを抜けて行きました。かつては、島内の隣の地区との往来も海路を利用したであろうと容易に想像できるほど、小さな山が入り組んでいます。「隠れキリシタンの里」と呼ばれる地域がこの先にあることがうなずけるような気がしました。参加者の中に、山登りが趣味という方がいらして、「天草の山は低くて簡単に登れそうに見えるけど、意外に難所が多いんですよ」とおっしゃっていました。 そんな天草に、キリスト教が伝えられたのは、ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから17年目の1566年(永禄9)のこと。ポルトガル人宣教師ルイス・アルメイダが、この天草下島の北部(富岡港を擁する苓北町あたり)を治める志岐氏に招かれて来たといいます。当時、天草は志岐氏を含む5人がそれぞれの領地を支配していましたが、中でも最も有力だったのが志岐氏でした。その領民500人は、またたく間にアルメイダの洗礼を受け、クリスチャンになったと伝えられいます。  一行が乗せたバスは、東シナ海に沈む夕日の絶景スポットとして知られる十三仏公園へ。国の名勝・天然記念物に指定された「妙見浦」と呼ばれる海岸の風景を楽しみました。公園内には、夕日を夫婦で堪能した与謝野夫妻の歌碑もありました。与謝野夫妻は昭和7年に子どもを伴ってこの地域の庄屋をつとめた上田家に宿泊しており、600坪の敷地に、7代目当主が1815年に建てたという日本家屋は文化材として大切に保存されていました。(次回に続きます)

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  • 第318号【フランスの家庭に伝わるケーキのお店「リトルエンジェ ルズ」】

     北の各地から初雪の便りが届きはじめています。南国・九州の長崎はまだ秋うららの過ごしやすい日が続き、街路樹も最近になってようやく本格的に色づきはじめたばかりです。秋の観光シーズン真只中ということもあり、きれいな紅葉が舞う石畳の街を、旅行者や修学旅行生たちが楽しそうに行き交っています。本当に美しい長崎の秋、あなたもぜひお出かけください。 今回は、長崎の小さなケーキ屋さん「リトル・エンジェルズ」をご紹介します。全国のスイーツファンの間では、つとに有名なお店で、中でもチーズケーキ「フロマージュ」と「クレームブリュレ」は、雑誌やTVでも紹介されるほどの人気商品。長崎の繁華街の一角にある「リトルエンジェルズ・万屋店」(長崎市万屋町)には、地元客はもちろん、観光客の方々や修学旅行中の学生さんなどの姿が後を絶ちません。 タルトやムース、クッキーなど多彩な洋菓子が揃った「リトル・エンジェルズ」。そのおいしさを生み出しているのは、パティシエのフランス人マダム、ベレニスさんです。15年前、長崎に嫁いで来たのをきっかけに、この街でケーキ屋さんを開店しました。「フランスの家庭には、祖母から母、そして子どもへと受け継がれるお菓子のレシピがあります。そんなフランスの豊かな食文化を日本の皆様へお伝えしたいと思ったのです」とベレニスさん。故郷ロワール地方で過ごしていた頃は、お母さんや妹さんたちと、新鮮な卵や牛乳、そして庭や近くの森から摘んできた季節のフルーツを使ってお菓子作りを楽しんでいたそうです。 「素材には徹底してこだわります」というベレニスさん。たとえば、人気商品のチーズケーキ「フロマージュ」も「クレームブリュレ」も、旭川産の牛乳と長崎の契約農家から届けられる新鮮な卵を使用。チーズケーキ「フロマージュ」は、直火でじっくり時間をかけて焼き上げられ、素材の風味豊かな上品でクリーミーな味わいです。「クレームブリュレ」は、香ばしく焼き上げた表面のキャラメルと、その下のなめらかなクリームが絶妙のバランス。バニラビーンズの甘い香りに思わずうっとりしてしまいます。 ベレニスさんのお菓子作りの思い出のひとつに、クリスマスケーキがあります。「クリスマスの一ヶ月前から、何度もケーキを作る練習をさせられました。そんなふうにして、いつの間にかケーキ作りのコツや勘を養っていたようです」。当時はクリスマスになると、親せきや友人など総勢40人近くが集まり、おおいに語らい賑やかに過ごしたとか。手作りのケーキと、フォアグラ、生カキ、エスカルゴなどおいしいメニューを囲んで過ごしたアットホームなひととき。深夜、教会から帰ると、ツリーの下には家族一人ひとりへのプレゼントがそっと置かれていたそうです。 クリスマスの夜は、毎年うれしさのあまりなかなか寝つけなかったというベレニスさん。そんな人との絆や愛があふれる思い出がつまったクリスマスケーキが、この冬も「リトルエンジェルズ」から期間限定で発売されます。新鮮な牛乳をたっぷり使った真っ白なムースに、木苺や苺をミックスをしたフルーティーな味わいが爽やかな「レーヌ・ブランシュ」と、甘さ控えめのチョコレートムースに香ばしいヘーゼルナッツやサクサクのフィヨンティーヌが入った「チョコレート・ムース・シャモニクス」の2タイプ。ケーキの上のサンタクロースやキノコなどの飾りは、買った方がご自分で好きなように飾れるという小さな楽しみがあります。 今年のクリスマス、洋菓子の本場フランスが香る「リトルエンジェルズ」のケーキを味わってみませんか?

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  • 第317号【おいしい『南蛮』あれこれ】

     爽やかな秋空の日が続いています。晴天を利用して虫干しを済ませた方もいらっしゃることでしょう。東日本では各地で紅葉が見られはじめたようですが、長崎はまだちょっと早いよう。これからしだいに深まる秋。美しい季節をしっかり満喫したいものですね。 さて、秋は食欲の季節でもあります。先日、魚屋さんで体長12~15センチほどの小アジを手に入れました。そこのおかみさんによると、マアジは春から夏にかけてよく出回るそうですが、小アジはちょうど今頃だそう。大衆魚で一年中あるものと思っていましたが、やはりそれぞれ旬があるのでした。 新鮮な魚介類がふんだんの長崎。この日の小アジは10匹180円でした。刺身で食べる方も多いのですが、わが家では、もっぱら南蛮漬けです。ぜいご、はらわた、えらを除いて、小麦粉をまぶしてカラリと揚げ(素揚げでもいい)、酢・砂糖・だし汁・醤油・唐辛子などで作った三杯酢にジュッと漬け込みます。味がしみ、骨までやわらかくなったらいただきます。アジはほかの魚と比べてカルシウムが豊富。頭から丸ごといただける南蛮漬けは特におすすめなのです。 南蛮漬けといえば、長崎の郷土料理には「紅さし」の南蛮漬けがあります(当コラム169号でもご紹介してます)。小アジの南蛮漬けと同じ作り方ですが、「紅さし」独特の風味があり、微妙に味わいも違います。 小アジの南蛮漬けに舌鼓を打ちながら、ふと思ったのは、「南蛮」とは一体何なのかしら?ということ。食べものでほかに「南蛮」の言葉が付くものは、カレー南蛮とか、鴨南蛮があります。いずれも、ネギや唐辛子などでピリ辛風味。また、宮崎県のローカルフードとして有名な「チキン南蛮」、東北あたりでは、江戸時代からの郷土料理で、ニンジンやゴボウ、トリ肉を刻んで唐辛子でピリ辛に味付けした具が入った「南蛮もち」というものがあるそうです。同じ「南蛮もち」でも関西あたりでは、クルミが入りのもちをそう呼ぶところもあるとか。 カステラやボーロなどは総称して南蛮菓子と呼ばれます。さらに食材では、赤唐辛子、トウモロコシ、カボチャなどが「南蛮」の別称を持っています。当社のホームページに掲載している「長崎の食文化」(越中哲也氏著)の中の「西洋料理編(一)」によると、南蛮料理は、我が国初期の西洋料理のことで、「南蛮人(ポルトガル人やスペイン人)が伝えたからそう呼ばれるようになったとのこと。とにかく、「南蛮」という名が付いたものは、その昔、西洋や東南アジアなどから海を渡ってきた食材だったり調理法だったりするものをいうわけです。 「南蛮料理のルーツを求めて」(片寄真木子著)という本によると、ポルトガルには今も、小アジによく似た魚を使ったまさに日本でいう南蛮漬けとそっくりの「エスカベージュ」という料理があるそうです。小魚を油で揚げて酢に漬け込むという調理法もやはり、もともとは日本にはなく、南蛮船が長崎にやってきた時代に伝えられたとされているといいます。 カステラのルーツといわれる、「パン・デ・ロー」もポルトガルですし、ほかにもきっとポルトガルをルーツにした日本の食があるはず。「南蛮」といいながら実は戸唐(中国)がルーツだったりするものもあるよう。「南蛮」が付く食べものは、まだまだ面白い発見がありそうです。◎参考にした本や資料/「南蛮料理のルーツを求めて」(片寄真木子著)、長崎の食文化「西洋料理編(一)」(みろくやHPより)

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  • 第316号【2008年の長崎くんち】

     秋祭りのシーズンです。長崎も今、370余年の歴史ある諏訪神社の大祭「長崎くんち」が華やかに開催中です。前日(まえび:10/7)、中日(なかび:10/8)後日(あとび:10/9)と3日間あって、きょうは中日。「長崎くんち」独特のシャギリ(笛と締め太鼓が奏でる囃子)の音色が響き渡って、街はまさに「長崎くんち」一色といった感じです。 今年も当番の「踊町」が一生懸命に自慢の奉納踊りを披露しています。「踊町」は、長崎市内に約60町近くあって、その当番は7年に1回めぐってきます。今年は、新橋町(しんばしまち)、諏訪町(すわまち)、新大工町(しんだいくまち)、金屋町(かなやまち)、榎津町(えのきづまち)、西古川町(にしふるかわまち)、賑町(にぎわいまち)の7カ町。各町の奉納踊りをご紹介します。 新橋町は、本踊り「阿蘭陀万歳(おらんだまんざい)」。大道芸人風の派手やかな衣装に身を包んだ異人さん2人が、コミカルでユーモアが感じられる踊りを披露。長崎ならではの異国情緒が感じられます。 諏訪町の奉納踊りは、「龍踊り」です。青龍(せいじゃ)と白龍(はくじゃ)の2頭の龍が登場し、ダイナミックな踊りを見せてくれます。白龍は、諏訪神社の「つかい者」が白蛇であることに由来しているとか。かわいらしい子供の龍、孫の龍も見逃せません。 新大工町は、「詩舞」と「曳壇尻(ひきだんじり)」。詩舞の題目は「祝賀の詞 坂本龍馬を思う」。龍馬は幕末、長崎にやってきて亀山社中を立ちあげるなど、長崎とゆかりの深い人物です。男衆が力いっぱい引き歩く「曳壇尻」は、3トンもの重さ。それを豪快にグルグルと引き回す様子は圧巻です。 金屋町は、7年前にも好評だった本踊りで「秋晴勢獅子諏訪祭日(あきはるるきおいのししのすわのまつりび)」を披露。2匹の獅子のコミカルな動きが見物です。1匹の中に前足、後ろ足と女性2人が入り、息を合わせて演じます。さらに、ひょっとことおかめも登場するなど、観客を飽きさせません。 榎津町は、上部に鮮やかな紅葉と白菊を配した「川船」を引き回します。ゴロゴロと重い船を引く根曳衆(ねびきしゅう)たちの屈強な姿がかっこいい。船頭役の子供が網を上手く操って、魚を捕らえる姿も見逃せません。 西古川町は、14年ぶりの登場です。この町の伝統である相撲踊りが復活。力士の弓取り式、櫓太鼓(やぐらだいこ)などを披露します。前日(7日)に、長崎市矢上の中尾地区で伝承されてきた西古川相撲道中囃子(長崎県無形文化財)が披露されました。このお囃子の奉納は百数年ぶりだったそうです。 賑町は、その昔、町内に恵比須神社が祀られていたことに由来して、「恵比須船」を奉納します。船には、いけす用の大籠や錨が載せられ、その上にビードロ製の漁網が施されています。また、賑町は中島川に面した町で、古く魚市場があり、材木を商った材木町などが合併されて現在に至ります。船体の材木が目を引く恵比須船にはそんな町の歴史が込められているようです。 10月3日の庭見せも華やかでしたが、やはり本番はこの3日間。きょう明日と、浜町アーケード界隈に出向けば、街を練り歩く「踊町」やおみこしのお上り(9日午後1時から)を見ることができるはず。今からでも間に合いますように!

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  • 第315号【街道を歩く~矢上宿~】

     日中は蒸し暑いのですが、朝晩はけっこう冷んやり。油断してると鼻風邪をひくなど体調を崩しがちです。どうぞ、お気を付けください。今回は、陽射しが柔らかくなったので、ウォーキングをかねて長崎市矢上地区にある長崎街道・矢上宿の歴史散策を楽しんできました。 矢上地区は、長崎駅から東へ車で15分ほど。江戸時代でいえば、長崎から日見(ひみ)の次に来る2番目の宿場町です。ここ「矢上宿」は、長崎街道と島原街道との合流点で交通の要所でもありました。また、日見までは長崎奉行の支配下でしたが、矢上は佐賀藩(鍋島)の支配下にあった諫早氏の領地でした。つまり矢上宿は、長崎の東の玄関口で国境に位置する重要な宿だったのです。 散策は「矢上番所跡」からスタート。「矢上番所跡」は、橘湾の河口にほど近い中尾川にかかる番所橋のそばにありました。往時の矢上番所は、平屋瓦葺きの建物で、頑丈な門があったとか。説明板には、『頭役以下の役人が警備。長崎に向かう武士、留学生、商人など旅人の往来を厳重に監視した』と記されてました。 ちなみに番所橋は、現在はコンクリート造りですが、以前は石造りのアーチ橋で、1838年(天保9)に佐賀藩によって架設されたそうです。かつての諫早領で佐賀藩ゆかりの石橋といえば、本明川にかかる眼鏡橋が有名です。こちらは番所橋の翌年1839年(天保10)に架けられています。諫早の眼鏡橋の屈強さはよく知られており、一説には、日本が諸外国に開国を迫られていたその時代、軍備を整えはじめた佐賀藩の思惑が関係しているといわれていますが、この番所橋もその一連であったのでは?と想像してしまいます。 さて、「矢上宿」の街道は、国道34号線と平行してあり、宿場町らしくほぼまっすぐにのびています。番所橋から矢上宿のゴール地点と定めた教宗寺まで、早足で歩けば、わずか15分足らずの距離。そんな小さな宿場町も、近くの名所旧跡に寄り道しながら歩けば、1時間以上はかかるようです。 「矢上番所跡」から徒歩3分のところにある「諫早領役屋敷跡」。瓦のついた小さな門と木塀に囲まれた趣のある古い民家です。説明板によると、ここは長崎開港によって、近隣の佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との間で、頻繁に報告事項や紛争、願書の処理が生じたため、その執務にあたるために設けられたそうです。  宿場街道から少しそれたところには、大名や幕府関係者が宿泊したり、休憩したという「本陣跡」(現在の長崎自動車学校のところ)がありました。さらに、県下有数のクスの巨木(矢上八幡神社)とも出会いました。 「矢上宿跡」の碑が設けられた矢上神社を経て、いよいよゴールの教宗寺へ。長崎街道に面したこのお寺は、往来者の休憩所として利用されたそうで、1729年(享保14)に象と象使いが宿泊。1826年(文政9)にはシーボルトが休憩・昼食をとったそうです。 橘湾がすぐそばに広がる矢上宿は、中尾川、八郎川、現川川の3本の川にも囲まれています。街道沿いにはいくつもの恵比寿様が祀られていて、この地の人々が古くから川や海と深く関わっていたことを物語っていました。長崎への往来で賑わった江戸時代以前の歴史にも興味がわいた歴史散歩でした。

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  • 第314号【懐かしのサツマイモ料理】

     朝晩がだんだん涼しくなってきました。9月初め、高原の避暑地として知られる島原半島の雲仙で、なんと例年より2ヶ月半早く紅葉がはじまったというニュースが流れました。一方、長崎の市街地は、日中の残暑はまだまだ続いています。しかし、時折吹いてくる冷んやりとした風に、秋めく気配がいつもより早い感じがしないでもありません。とにかく、行楽の秋、収穫の秋が待ち遠しい今日この頃です。 気候が過ごしやすくなると、気分も体調も良くなり食欲が出てきますね。そこで今回は、食物繊維が豊富なヘルシー野菜のひとつ、サツマイモにスポットをあて、昔懐かしい料理をご紹介したいと思います。 荒れ地にも育つ強さのあるサンツマイモ。飢饉を何度も経験した江戸幕府は作付けを奨励。さらに戦後には、食料不足のピンチを救ったことでも知られています。周囲のお年寄りに子供の頃の食事について聞くと、蒸かした「イモ」や「イモ飯」ばかりを食べていたという方が多いようです。当時の「イモ飯」は、イモの占める割合いが多く、アワや米をわずかばかり足して炊いていたそうです。 サツマイモのことを「トイモ(唐芋)」と呼んでいた島原半島あたりでは、「イモ飯」は、「トイモ飯」と呼ばれていました。乱切りにしたサツマイモとアワを一緒に炊くのが基本で、これにお米(または麦)を加え、三種類を混ぜて炊くと「三品飯(さんちんめし)」と呼び名が変わりました。「三品飯」は、農作業が一区切りした時、麦やイモが新しく収穫された時など、暮らしの節目に炊いて食べていたそうです。 さっそく、サツマイモとアワとお米を使って、「三品飯」を作ってみました。お米(2合)とアワ(お米の量の30%くらい)をそれぞれ洗い、サツマイモ(中1本)を一口大に切って、炊飯器へ。水(約3カップ)を入れ、塩小さじ1、酒大さじ1~2を入れて炊き上げます。 炊きあがった「三品飯」は、アワがモチモチ、サツマイモがホクホクっとしておいしい。彩りも秋らしいご飯です。農作業の一区切りとして食べていた当時の人々に思いを馳せれば、お米ひと粒たりとも残しちゃいけないと、あらためて思いながらいただきました。 サツマイモを使った素朴なお菓子「イモ寄せ」もご紹介します。311号でもご紹介した野母半島に伝わるお菓子です。蒸したサツマイモをつぶし、小麦粉、砂糖、ショウガ汁、白ゴマを混ぜてこねたものを、さらに蒸したもので、素朴なイモ羊羹のような味わいです。祝い事や法事など人が集う時に作っていたそうです。「イモ寄せ」は2タイプあって、最後に蒸さずに、こねた材料をフライパンでホットケーキのように焼くパターンもあります。また、よりおいしくするために、白玉粉や卵を加える作り方もあるようです。 サツマイモの日本への伝来については当コラムの208号、また、サツマイモを使った他の郷土食を246号でもご紹介しています。合わせてお楽しみください。◎参考にした本/日本の食生活全集42~聞き書・長崎の食事~(農山漁村文化協会)

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  • 第313号【中島川の生きものとハート・ストーン】

     子供たちの夏休みもそろそろ終わりです。遊びまくって真っ黒に日焼けした親せきの子は今、半ベソをかきながらたまった宿題をかたずけてるところ。自分にも身に覚えのある光景に、思わずニガ笑い。皆さんは、いかがでしたか? この夏休みのはじめ、子供たちと一緒に中島川の水中の生きものを観察する催しに参加しました。中島川は、眼鏡橋などの石橋群で知られ、観光客の方々が多く訪れるところです。この催しで引率の先生から意外な話を聞きました。山あいの清流などにしか生息しないと思っていた「アユ」が、この市街地の真ん中を流れる中島川で8年ほど前から確認されているとのこと。さらに一昨年、これまた水がきれいな環境を好む「シロウオ」も、眼鏡橋から上流3つ目のすすき原橋近くで確認されたそうです。 中島川は思った以上にきれいな流れ。子供たちはザブザブと水の中へ入ったり、石を返したりして観察に夢中。ミナミテナガエビやモズクガニも捕まえました。中島川では他にも、カワムツ、オイカワ、ゴクラクハゼ、キンブナ、ヨシノボリといった川魚もいるそうです。 実はこの催しの2カ月ほど前、眼鏡橋やすすき原橋の近くで、コイの群れに混じって泳ぐナマズを発見。頭の形がコイよりも丸くて平べったく、身体は円筒状でウロコはありません。背ビレは、コイは体長の半分くらいの長さがありますが、ナマズのは小さい。中島川の近所で生まれ育った80代の男性は、「昔は、ウナギがいて、捕まえて食べよった。でも、ナマズがいるとは知らなかった」と驚いていました。 ちょっと話がズレますが、眼鏡橋付近の護岸の石垣にハート・ストーンがあるのをご存知ですか?詳しい人に聞くと、少なくとも10個はあるようです。眼鏡橋を訪れる機会があったら、ぜひ、探してみてください。ナマズもその界隈にいます。 さて、魚類以外で、中島川で見かける水生の生きものにミドリガメがいます。雨上がりなどには、よく甲羅干しをしています。聞けば、ミドリガメは外来種。誰かが飼っていたのを川に放したのだろうということでした。親亀、子亀と背中に乗せて日向ぼっこしている光景はほのぼのとして悪くないのですが、環境保全のことを思うと複雑です。 すすき原橋から、さらに上流5つ目の桃谷橋付近では、青緑の羽が美しいカワセミの姿を一度だけ確認したことがあります。気を付けていると鳥類もいろんな種類を見かけますし、植物も多様です。街の中で、人知れずたくましく生きる生きものたちをまた別の機会にご紹介したいと思います。

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  • 第312号【かよこ桜~原爆投下から63年目の夏~】

     「かよこ桜」をご存知ですか?長崎市の城山小学校に植えられている原爆慰霊の桜のことです。春には満開の花びらを優しく散らし、夏には緑の葉を生い茂らせ、校庭の一角に涼しい木陰をつくりだしています。「この桜は、昭和20年8月9日、長崎に落とされた原子爆弾で、15才の若さで亡くなった林嘉代子さんゆかりの桜です。いつの頃からか、かよこ桜と呼ばれるようになりました」とお話をしてくださったのは、田中安次郎さん。自らも3才の時に長崎で被爆し、現在、平和案内人のひとりとして修学旅行生らを対象に、原爆の恐ろしさと平和の大切さを伝える活動を続けていらっしゃいます。 田中さんのお話によると、当時の嘉代子さんは長崎県立高等女学校4年生。学徒報国隊員のひとりとして城山小学校で働いていたときに原爆にあいました。城山小学校(当時、城山国民学校)は、爆心地からわずか500メートルほどしか離れていない丘の上にあり、この時、1,400人あまりの児童が尊い命を失っています。 嘉代子さんのご両親は、爆心地から少し離れたところにいたので、かろうじて難を逃れました。惨状の中、連日、歯並びに特長のあった嘉代子さんを必死で探し回るお母さん。原爆が落ちてから22日目にやっと校舎のがれきの中で、亡きがらを見つけ出すことができました。そして、原爆から4年後、お母さんは、娘さんや一緒に亡くなった女学生の慰霊と平和への願いを込めて、50本の桜の苗を城山小学校に植えさせてもらったのでした。 田中さんは、今年春から『かよこ桜植樹100円募金』の活動を仲間とともにはじめました。「かよこ桜はソメイヨシノ。そろそろ寿命のようで、今は6本しか残っていません。この桜の平和を願う心を後世に伝えるために、かよこ桜の2世をみんなの募金で植樹したいのです」といいます。 田中さんが『かよこ桜植樹100円募金』の活動をはじめたのには、もうひとつ大きな理由がありました。それは、原爆の話をいまの子供たちにしても、なかなか伝わらず、危機感を感じていたからだといいます。「いまの子供たちにとって原爆の話は、江戸時代のように遠い過去の物語で、現実にあったものとして感じてもらえない。時間の経過とともに、戦争や原爆の怖さが伝わりにくくなっていることを痛感していたのです」。 これではいけない、どうしたらいいだろうと思っていたある日、「子供たちの年齢に近い嘉代子さんの話なら、子供たちに伝わりやすいと直感したのです」。嘉代子さんとお母さんのお話は、「かよこ桜」(山本典人著)という児童向けの本にもなっています。そこには、親が子を思う気持ち、子が親を慕う気持ちが描き出され、何度も胸があつくなります。 『かよこ桜植樹100円募金』の初年度となる今年は、ソメイヨシノ50本分の植樹をめざしていて、すでに10数本分の寄付が集まり、来年早々、長崎市内の小・中学校などに植樹されることが決まっているそうです。「これからも地道に活動を続け、平和の象徴であるかよこ桜の植樹を長崎から全国へ、そして世界へと広げていけたらと思っています」。 広島、そして長崎に原子爆弾が投下されたあの夏から63年が経ちました。被爆した方々は高齢となり、原爆の恐ろしさと平和の尊さを伝える語り部の方々も少なくなってきています。いま、できることをやらなければ、という田中さんの真剣な思いが伝わってきます。

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  • 第311号【長崎半島の海水浴場を訪ねて】

     夏といえば、海水浴。テレビゲームがなかった時代、海辺の小さな漁村で育った友人は、毎日のように素潜りを楽しみ、友だちと泳ぎまくっていたそうです。大人になって都会で暮らすようになると、海はいつの間にか遠い存在に。潮の匂い、海底の美しい砂模様、海中で出合った魚たち。今も忘れられない子供の頃の海体験は、大切な宝物だと話してくれました。 きれいな海に囲まれた長崎は、海水浴場も近場にいっぱい。長崎駅のある市中心部から車で30~60分であちこちに点在するお気に入りのビーチへ行くことができます。今回はその中から九州本土西南端に位置する長崎半島(野母半島)の海水浴場をご紹介します。 長崎半島は、長崎市街地から南西に伸びた半島で、緑豊かな山が連なり、周囲は五島灘、東シナ海、橘湾、天草灘と美しい海に囲まれています。長崎半島の先端にあたる地域は「野母崎」と呼ばれ、対馬暖流の影響もあって、気候は年間平均気温18度の温かさです。道路を走る車両の数は少なく、あたりは鳥の鳴き声や波音に包まれています。ここに、「脇岬(わきみさき)海水浴場」という長崎県でも最南端に位置するビーチがあります。周囲には、ハマユウが自生、さらにヤシ類など亜熱帯植物も植栽されていて、南の島のような雰囲気が漂っています。 「脇岬海水浴場」は、1、3キロメートルも続く白砂のビーチ。環境省が水質が良好で快適な水浴場として選定した「日本の水浴場88選」にも選ばれています。毎年、夏休みになると家族連れや若者たちを中心とした海水浴客で大賑わい。波がいいらしく、夏場以外でもサーファーたちの姿が見られます。波打ち際を歩けば、小さな貝殻やきれいな石ころがいっぱい。お気に入りの貝殻を集めて、名前を調べれば、夏休みの作品が一丁あがりです。 「脇岬海水浴場」から背後の山間へ向かって5分ほど歩くと、石崎融思や川原慶賀らが描いたとされる天井絵などで知られる観音寺があります。和銅2年(709)に開かれたという由緒あるお寺で、江戸時代には、「みさき道」と呼ばれる長崎から半島の先端にあるこの地までの道を通って、多くの人々が参拝に訪れたといいます。その昔、中国船が長崎へ入港する際、風待ち港として利用したといわれるこの地の港。このお寺で、航海の安全が祈願されたようです。 「脇岬海水浴場」から海岸沿いの道路を10数分ほど北上したところに、小さい子供連れの家族に人気の「高浜海水浴場」があります。延長約800メートル、波静かな遠浅の美しいビーチで、「日本の渚百選」、「日本の水浴場88選」、「快水浴場百選」に選ばれています。沖合いには真正面に端島(軍艦島)を望み、その光景を見るためにわざわざ訪れる観光客もいます。  「高浜海水浴場」の海水は、透明度が高くて本当にきれいです。聞くところによると、ウミガメの産卵もみられるそうです。この海水浴場も「脇岬海水浴場」と同じく、背後に緑の山が控えていました。山が豊かだと、海も美しいということを実感できます。ここで桟敷きを営業している方が、背後の山のひとつを指差して、「あれが、殿隠山(とのがくれやま)ですよ。歴史好きの人たちがときどき来てるみたい」と教えてくれました。ここ高浜地区には、鎌倉時代、関東から下向してきた深堀氏にゆかりの正瑞寺があり、「そのお寺に地蔵菩薩像という有名なお地蔵さんが安置されているんですよ」とのこと。どうやら、この界隈、興味深い歴史がいろいろありそうです。海水浴シーズンが終わったら、ゆっくり訪ねたいと思います。

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  • 第310号【涼あり、歴史あり、小島川】

     7月はじめは山開きや海開きのシーズン。テレビやラジオでそんな情報を見聞きするたびに、夏休みが待ち遠しくなります。さて、今回は、梅雨の晴れ間を利用して、長崎市街地を流れる小島川沿いを散策。夏のレジャーに先駆けて、小さな涼と長崎の歴史を楽しんできました。 長崎市の繁華街・浜町の東の先に小さくそびえる愛宕山(あたごやま:230m)。小島川はその麓を流れ、長崎港へと注ぐ川です。石橋群のかかる中島川とは違い、地元以外ではあまり知られていませんが、川底は岩があらわで、ところどころで樹木や草が生い茂り、流水も意外にきれい。市街地を流れる川にしては、まだまだ自然な風情が楽しめる川です。 散策のスタート地点は上流の「愛宕」地区。ここは、浜町から20~30分ほど歩いていける高台の住宅街です。長崎駅からだと、茂木や風頭方面へ向かうバスに乗って「愛宕バス停」で下車(所要時間:約15分)。このバス停付近から、愛宕山の麓のゆるやかな谷間に民家がぎっしりと建ち並んだ風景と、右手に、谷間の南側斜面を形成している小島地区の丘が見渡せます。 小島川沿いを浜町方面へどんどん下っていく散策ルートの終点は、川が暗渠となる「正覚寺下電停」。所要時間はのんびり歩いて30~40分ほどです。このルートで確認できた橋は、上流から「1、愛宕橋」「2、花やしき橋」「3、東川平橋」「4、小島橋」「5、ひさぎ橋」「6、桃源橋」「7、千畳橋」「8、高平橋」「9、鳴川橋」「10、新玉橋」と、計10本(私設らしき橋は除く)。たいていの橋がコンクリート造りで、石橋のような風情こそないものの、昭和の時代の懐かしさが感じられました。ちなみに、かつて「正覚寺下電停」のところには、「玉帯橋」があり、そのすぐ下流に「思案橋」が架かっていました。  小島川が流れる地域が、今のような住宅密集地になったのは戦後で、それまでは、清水が流れ水車が点在する緑豊かな地域だったとか。10本の橋をたどりながら川沿いを歩けば、ときおり川面からひんやりとした風が吹いてきて、気持ちがいいのです。また、この界隈には、長崎の歴史にまつわる話や史跡もいろいろあり、それも散策を楽しくさせます。たとえば、愛宕バス停から道路下に降りたところにある「2、花やしき橋」。華やかな橋の名の由来は、大正時代に活躍した長崎の実業家、永見徳太郎氏の別荘がこの近くにあったことに関係がありました。その別荘は、もとは「花やしき」と呼ばれた料亭を買い取ったものだったそうです。 「3、東川平橋」付近は、かつて薩摩藩の御用達であった服部氏の別宅があったといわれるところで、現在は、企業のアパートになっています。ここは小島の丘を通る茂木街道にほど近い場所にあります。茂木街道といえば、長崎から鹿児島へつながる重要な街道。服部氏の別宅は、鉄砲や弾薬といった当時の武器を密かに買い集め、薩摩に送っていたらしいという話が伝えられています。そして、この近くの小島の丘の一角にある「白糸の滝」付近にも、薩摩藩の要人の住まいがあったと伝えられています。どうやら、薩摩藩とのかかわりがいろいろありそうな地域のようです。また、この界隈には小説「お菊さん」を書いたフランスの文豪ピエール・ロチが長崎の娘お菊さん出合った茶屋「百花園」もありました。 さらに川を下って「5、ひさぎ橋」。そのたもとに井戸の跡が残っています。江戸時代、この井戸から湧き出る水が、出島のオランダ屋敷までひかれていたそうで、「オランダ井戸」とも呼ばれていました。続いて、小島小学校の裏に架かる「6、桃源橋」。これは、小学校専用の橋。昔は、このあたりの川で子供たちが釣りや水遊びをのびのびと楽しんでいたそうです。  まだまだ見どころ多彩な小島川沿い。観光スポットではありませんが、そこは長崎、の知られざる歴史の宝庫のようです。また別の機会に、あらためてご紹介したいと思います。◎ 取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考にした資料/「愛宕町から小島川を下る」B4プリント(長崎史談会/川崎道利)

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  • 第309号【長崎の夏の美味、草加家の大粒茂木びわゼリー】

     ひんやりと冷たい一さじが、ほてった夏の喉を潤す「びわゼリー」。日本一のびわの生産量を誇る長崎県ならではの銘菓のひとつです。ジューシーなびわの実をゼリーで包んだ「びわゼリー」は、長崎県下では、洋菓子店や和菓子店などを中心に、そのお店ならではの味が作られています。今回は、その中から特においしいと評判の草加家さんの「大粒茂木びわゼリー」をご紹介します。 「大粒茂木びわゼリー」は、ゼリーの色がほんのり琥珀色。今にもとろけそうなゼリーを、そっとすくって口にふくめば、ふるふるの食感に思わずニンマリ。キレとコクのある独特の甘味で、清涼感のある後味です。スプーンがびわにたどり着く前に、満足した気分になれるおいしさなのです。「めざしたのは、ゼリーだけでも食べたくなるようなおいしさです。徳島産の和三盆糖と、厳選した国産はちみつで、スーっときれるような甘味と、コクを出しました」と説明してくださったのは、草加家の二代目店主の髙木龍男さん。ゼリーが琥珀色なのは、そんな独自の工夫があったからなのです。 草加家さんは、佐世保の市街地から少し離れた、田んぼに囲まれたのどかな地域にお店と工場があります。工場を訪ねてびわゼリーの製造の様子を見せていただきました。10人に満たないスタッフが、それぞれの持ち場で真剣な表情で作業中。どの工程も丁寧な作業ぶりで、一つひとつの製品に目が行き届いているのが印象的です。ゼリー液を作るところでは、家庭にもあるようなサイズの鍋を使い、温度を細かくチェックしながら、つきっきりで出来上がりのタイミングをはかっていました。「ゼリー液はちょっとした温度変化で固さが微妙に変わるので、むずかしい作業なんです。小さめの鍋で少量ずつ作っているのはそのためです」。 びわゼリーの容器も特別なものを使っていました。「フタのフィルムは酸素を吸着する特殊なもので、酸化による中身の劣化を防ぎます。これにより品質保持期間も通常の商品より長くなります。このフィルムを採用しているのは日本ではまだとても少ないはず。カップの方もこのフィルムに合わせた特殊なものです」。コストがかかっても、何とかよりよいものを求めようとする髙木さんの姿勢には、誠実さが感じられます。食の安心・安全を求める私たちにとって、そんな作り手の存在は、とってもありがたく、うれしいことです。 「茂木びわは、長崎県内各地で作られていますが、その中で私は、収穫時期が早い茂木地区産で、しかも大ぶりのものを使うようにしています」という高木さん。そこには生産者に対する思いがありました。茂木地区は、江戸時代、中国のびわのタネをもとに栽培がはじまったところで、「茂木」というびわの品種の発祥地として知られています。「私が茂木地区にこだわるのは、昔ながらのやり方で、上へ高く伸びた木で栽培を続けているからです。このやり方だと、実が高い位置になるので、脚立などを使って管理や収穫をしなければならず、きついし、手間がかかります。他の生産地では、普通に立ったままで作業できる低木での栽培方法が増えているのです。茂木地区の生産者があえて栽培方法を変えないのは、びわづくりに対するこだわりをはじめ理由はいろいろあるようですが、私は、そんな農家の方々を、自分の仕事を通して応援したいのです」。 今回、「大粒茂木びわゼリー」を通してご紹介した草加家さんは、実はお店の名前の通り、草加せんべいのお店として半世紀前に創業しました。東京で修業した先代は、今も現役で草加せんべいを焼き続ける九州で唯一の人だといいます。また、草加家さんは現在、かんころ餅のお店として地元では知られています。さらに、数年前からはお芋を使った身体にやさしいパン作りもはじめ注目を浴びています。「いろいろなものを作っていますが、自分の中ではごく自然な流れなんです」とおっしゃる高木さん。その多彩な商品は、いずれも原材料の生産者やお客様とのつながりを大切にする中で生まれたものでした。草加家さんについてもっと知りたい方は、ぜひ、ホームページhttp://soukaya.co.jpをご覧ください。◎ 草加家 佐世保市重尾町210   電話0956―38―3808 FAX0956―38―1490

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