第319号【天草のキリシタン文化を訪ねて(1)】
早いもので、あと数日で師走ですね。長崎では、先週あたりから急に冷え込んで、街行く人々は厚手のセーターやコートに身を包みはじめました。気温が低くなるほどに、ますます食べたくなるのが、温か~いちゃんぽんです。夕暮れの帰り道、木枯らしが運んでくる夕飯のちゃんぽんの匂いは、気持ちがなごむ幸せの匂い。今日も、長崎の街角に漂っています。
さて、今回は11月8日に行われた長崎日本ポルトガル協会・長崎歴史文化協会共催の「天草史跡見学会」を通して、キリシタンにまつわる天草の歴史風土をご紹介します。天草は、天草灘を隔てた長崎県の南東部に位置する熊本県の島です。正確には「天草諸島」といって、天草上島、天草下島、御所浦島などの島々で構成されています。今回の見学会では天草下島を巡りました。
天草は、距離的に近いこともあり、長崎とは何かとご縁があります。よく知られているのは、幕末の長崎の開港にともなう南山手や東山手の外国人居留地の造成にまつわる話です。石畳や護岸用の多くの石材は天草産が使用されているのです。石工も天草の方々が多く活躍したそうです。
「天草史跡見学会」の参加者(約30人)は、長崎市の茂木港からフェリーで天草・富岡港へ渡りました(所要時間70分)。ちなみにこの茂木~富岡のルートは、今から約100年前の明治40年、世に言われる「南蛮ブーム」の先駆けとなった「五足の靴」と呼ばれる若き文豪たち(与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・木下杢太郎・平野万里)が、長崎から天草へ渡ったときと同じルートです。
富岡港からバスに乗り込み、島の西海岸沿いを南下。美しい海原やのどかな里山が連なる景色が続き、途中、何度も細く小さなトンネルを抜けて行きました。かつては、島内の隣の地区との往来も海路を利用したであろうと容易に想像できるほど、小さな山が入り組んでいます。「隠れキリシタンの里」と呼ばれる地域がこの先にあることがうなずけるような気がしました。参加者の中に、山登りが趣味という方がいらして、「天草の山は低くて簡単に登れそうに見えるけど、意外に難所が多いんですよ」とおっしゃっていました。
そんな天草に、キリスト教が伝えられたのは、ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えてから17年目の1566年(永禄9)のこと。ポルトガル人宣教師ルイス・アルメイダが、この天草下島の北部(富岡港を擁する苓北町あたり)を治める志岐氏に招かれて来たといいます。当時、天草は志岐氏を含む5人がそれぞれの領地を支配していましたが、中でも最も有力だったのが志岐氏でした。その領民500人は、またたく間にアルメイダの洗礼を受け、クリスチャンになったと伝えられいます。
一行が乗せたバスは、東シナ海に沈む夕日の絶景スポットとして知られる十三仏公園へ。国の名勝・天然記念物に指定された「妙見浦」と呼ばれる海岸の風景を楽しみました。公園内には、夕日を夫婦で堪能した与謝野夫妻の歌碑もありました。与謝野夫妻は昭和7年に子どもを伴ってこの地域の庄屋をつとめた上田家に宿泊しており、600坪の敷地に、7代目当主が1815年に建てたという日本家屋は文化材として大切に保存されていました。(次回に続きます)