おいしい笑顔、長崎から
私たちの使命は、“おいしい笑顔”を追求することで、お客様の「幸せ」に貢献することです。
みろくやのコーポレートスローガンである「おいしい笑顔、長崎から。」にはその想いを込めています。
お客様に「おいしい笑顔」になっていただきたい。
「おいしいひと時を通して、あなたや、あなたと一緒に召し上がる方にホッとやさしい気持ちになっていただきたい。」
そんな想いを大切にして、長崎からおいしいちゃんぽん・皿うどんをお届けし続けています。

ちゃんぽんへの想い

ちゃんぽんは優しさから生まれた愛情料理です。私たちは“おいしく”て“栄養たっぷり”で“優しい”ちゃんぽんの魅力を長崎の地から発信し続けています。

皿うどんへの想い

皿うどんは一度に様々な食感や、香り、味を感じられる楽しい料理です。私たちはその楽しさとおいしさでお客様に喜んでいただきたいと考えています。

みろくやブログ

  • 第682号【人と時をつなぐ伝統の祭り】

     10月中旬。九州は、日中の気温が30℃を超える日があるものの、めっきり過ごしやすくなりました。夕刻になると大型クルーズ客船が停泊する長崎港の空気もひんやり。イソヒヨドリもひと息ついているようでした。列島を見渡せば、大きな爪痕を残した令和8年熊本地震や大雨や長雨による災害に見舞われた各地の復旧作業はまだ続いています。台風の発生が例年より多い今年。9月を過ぎたいまも日本のはるか南では、台風のたまご(熱帯低気圧)が生まれています。人智を超える自然の猛威。万全の準備を整えておきたいものです。   さて、秋はお祭りの季節です。先月、長崎市民体育館では、「第49回長崎郷土芸能大会」が開催されました。5つくらいの地域の芸能をまとめて観ることができるので、毎年楽しみにしている方も多いよう。今年は、「安珍清姫(あんちんきよひめ)」(式見地区)、「矢上平野浮立」(東長崎地区)、「長崎半島樺島ハイヤ節」(野母崎地区)、「中尾獅子浮立と唐子踊」(東長崎地区)そして、雲仙市からの特別参加で、「瑞宝太鼓」が参加。例年、市中心部で行われるパレードは、雨のため中止でしたが、午後から演舞が行われる体育館には多くの市民が集まっていました。    地域の保存会等によって守られ伝承されている郷土芸能。「郷くんち」と総称されるその多くは、かつて農作業の節目や雨乞いの神事等として行われてきました。歌舞伎の演目が寸劇となり紀州の国から伝承されたという「安珍清姫」、肥前浮立らしい特徴が見られるという「矢上平野浮立」、漁師町独特の活気が表現された「長崎半島樺島ハイヤ節」など、いずれも江戸時代から受け継がれて来たものだそう。個性的な演目に、地域性が垣間見えるようです。   10月初旬は、諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」で賑わいました。令和8年の踊町は今籠町(傘鉾・本踊)、油屋町(傘鉾・川船)、元船町(傘鉾・唐船祭)、上町(傘鉾・上町コッコデショ)、鍛冶屋町(傘鉾・宝船・七福神)、筑後町(傘鉾・龍踊)。3日は夕刻から「庭見せ」。踊町の各戸で、家紋を染め抜いた幕を張り、本番で使用する衣装、小道具、楽器などを披露しました。そして7、8、9日はいよいよ本番。踊町による奉納踊が勇壮に、華やかに繰り広げられました。     豊かな恵みをくれる自然に感謝し、人の幸せを祈る伝統の祭りや芸能。先人が残してくれたものを絶やしたくない、未来へつなぎたい、そんな思いで脈々と受け継がれてきました。それは、時と人をつなぐ「たすき」のようなもの。演者も観客も一緒になって、この「たすき」を次の世代へ受け渡していきたいものです。

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  • お客様の声

    冷凍の商品ですが、水を加えるだけで、すぐに美味しいちゃんぽんや皿うどんが食べられるので大変重宝しています。色んな具材が入っていて、栄養のしっかりとれて、子どもも喜んで食べてくれます。大阪府 C・Ⅿ様野菜をたくさん入れて食べました。お酢をかけて食べるのも大好きです。大大好きです。また長崎へ行く機会があったら、買わせていただきます。通販も気になります。東京都 Ⅿ・Ⅿ様

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  • 第681号【近代活版印刷の祖・本木昌造のこと】

     令和8年熊本地震の後、各地で大雨による災害が起きています。被害に合われた方々に心からお見舞い申し上げます。一日も早く復旧し、安心安全な暮らしができますようお祈りいたします。  9月初め、多良岳の上に連なっていたのは、真夏の雲。その日の最高気温は36℃でした。その後、曇りや小雨の日が続き、気温はようやく下降傾向に。中島川では、炎天下では見かけなかったアオサギが、川面を歩いていました。ただ、涼しさを感じるとはいっても、長崎の日中の気温はまだ30℃台。引き続き暑さと大雨への対策は必要です。 さて、今回は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍したオランダ通詞で、印刷技術者でもあった本木昌造(もとき しょうぞう)(1824〜1875)をご紹介します。昌造は、長崎の新大工町出身。11歳のときオランダ通詞を家業とする本木家の養子となりました。好奇心旺盛で才気あふれる昌造は、家業を継ぐ一方で、造船や製鉄、さらには航海術など西洋の技術を習得。なかでも、昌造の興味を強く引いたのは、西洋の印刷でした。 当時の日本の印刷は、木に掘った文字を紙に写し取る「木版印刷」。それは、職人たちが手間をかけて作るもので、ものによっては、かすれて読みづらいものもあったようです。通詞の仕事を通して手にする、西洋の本の克明に刻まれた文字は、「活版印刷」といって、あらかじめ金属で文字の型(活字)をつくっておき、それを組み合わせて機械を使って印刷するもの。昌造は、木版印刷よりも早く明確に印刷できるこの技術が、国の発展に寄与すると考え、活版印刷機を手に入れて、見よう見まねで木製の活版を作るなど、試行錯誤をしたと伝えられています。  時代は、幕末の激動期。通詞としての仕事も忙しくなり、長崎に来航したロシア極東艦隊司令長官プチャーチンに同行したり、日本各地を飛び回ったりしながらも、活版印刷への情熱は消えることはなく、長崎奉行に働きかけ、1869年(明治2)「活版伝習所」(現在の長崎市興善町・長崎市立図書館付近)を設立しました。 その後、アメリカ人の印刷技師ウィリアム・ガンブルから伝授された技術、「電胎法(でんたいほう)により、銅で型どった丈夫な活字をつくることに成功。「活版伝習所」にほど近い場所に、私設の「新町活版所」を設立し、日本における印刷企業の産声をあげました。現在、その跡地に建つ「〜近代活版印刷発祥之地〜新町活版所跡」の碑の文字は、当時、昌造らが鋳造した活字をもとにしたものだそう。また、現在の長崎市役所前には、いまから150年ほど前に昌造らが作成した新聞の活字を再現した「長崎市役所」「長崎市議會」の銘板が設けられています。 新聞や書籍、雑誌など、活字を扱う業界の基礎をつくりあげ、印刷物をとおして、当時の日本人に新たな世界、知識に触れる機会をつくり、ひいては新時代の文化を生み出すことに貢献した昌造。その人生は濃密で、印刷関係以外でも、多くの偉業を残しました。1875年(明治8)52歳で亡くなった昌造は、大光寺(長崎市鍛冶屋町)に葬られました。もっと、その人となりについては、さらに研究がなされ、後世に語り継いでほしい人物です。 ◎参考:『本木昌造先生略伝〜追録 新町活版所の記〜』

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  • お客様の声

    いつも九州の実家から送られてくると、とても幸せな気持ち、なつかしい気持ちになり食べるとほっとする味です。埼玉県 A・H様家族旅行で九州一周した時に購入しました。自宅でこちらの皿うどんをみんなで食べた時、楽しかった旅行を振り返ることもできました。おいしかったです。神奈川県 K・I様

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