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  • 第338号【長崎に伝わる河童の話】

     夏休みの間、眼鏡橋など石橋群で知られる中島川では、子供たちが川面に降りて遊んでる姿をよく見かけました。無邪気にはしゃぐ様子を眺めていて、ふと思い出したのが、「河童」の話です。日が暮れるまで川や池で遊んでいると、大人たちに「河童が出るぞ」なんていわれ、早く家に帰るよう注意されたものです。そんな思い出、皆さんもありませんか? 頭の頂きにお皿があって、口は鳥のようにとがっていて、背中には亀のような甲羅がついている。河童と聞いて想像する姿は、きっとこんな感じではないでしょうか。河童に関する話は、全国各地にあるといわれ、その土地特有のむかし話となって今に語り継がれているようです。そこに登場する河童たちは、いたずら好きで人を困らせるかと思えば、貧しい家に食べ物を届けるなどの優しい面もあったりなど、善にも悪にも語られます。それは、まるで人間の姿を河童という不思議な生き物に置きかえているかのようです。 さて、長崎にも河童にまつわるものがいろいろあります。長崎の諏訪神社には、河童の姿の狛犬がいますし、中島川の阿弥陀橋の近くには、中島川河童洞というお堂があり、あぐらをかいた河童の像などが祀られています。眼鏡橋のひとつ下流にかかる袋橋そばには子クジラに乗った河童像もあります。また、中島川では戦前まで、河童祭りとも呼ばれた水神祭が行われていたそうで、その祭の由来というのが、次のような話でした。 江戸時代は享保(1716~1736)の頃。川にごみを捨てる者が増えていました。ちょうどその頃、地元の水神神社には河童が毎晩のように訪れて、門を叩いたり、小石を投げたりなどのいたずらが続きました。神社の神主さんは、きっと、川が汚れて河童たちが住みづらくなったことを訴えているのだと考え、川を清掃し、長崎奉行所にも願い出て、川に物を捨てないようにおふれを出してもらったそうです。すると、河童たちのいたずらはピタリと止み、それ以降、毎年水神祭を行って河童たちをなぐさめたということです。 もうひとつ、いかにも長崎らしい話があります。これも江戸時代の話で、つみ荷を満載にしたオランダ船が、いよいよイカリを上げて長崎港から出航しようとしましたが、イカリがとても重くて、上げることができません。驚いたオランダ人は、奉行所の役人に頼んで、水中の様子を見てもらいました。すると、10匹ほどの河童たちがイカリの上に座っていたとか。このままでは、河童たちに船まで沈められてしまうかもしれないと、水神神社の神主さんに何とかしてもらうよう頼みに行きました。神主さんは、お酒を飲んで酔っぱらっていましたが、何とか、オランダ船のところまで連れてきました。そこで神主さんは河童たちにイカリを放すよう一喝。すると、イカリがひとりでに上がってきて、オランダ船は無事に長崎港を出航できたということです。めでたし、めでたし。 2つの話に登場する水神神社の神主さんは、河童たちの総元締的存在です。水神神社は、中島川界隈の町を何カ所か移転し、現在、上流の本河内というところにあります。なぜ、河童たちが神主さんのいうことなら聞き入れるのか、その理由は、「読みがたり 長崎のむかし話」(編著者:長崎県小学校教育研究会国語部)の中の「カッパ石」の話を読むとわかります。興味のある方はぜひ、ご一読ください。◎参考にした本/「読みがたり 長崎のむかし話」((株)日本標準)、河童伝承大事典(和田寛)、長崎事典~歴史編~(長崎文献社)

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  • 第337号【夏の身体にうれしい冬瓜】

     暑い日が続いています。いかがお過ごしですか?先日、ご近所の方から「暑気払いに、どうぞ」と手作りのお惣菜をいただきました。干し大根、フキ、ミョウガを甘酢に漬け、さらに赤シソと梅酢を加えてあえたもので、口にすると、暑さでボーっとした気分が吹き飛ぶほどの酸っぱさ!噛むと、干し大根の甘味とフキの風味、そしてミョウガのさわやかな食感と香りが楽しめ、まさに、夏にうれしいおいしさなのでした。 ご近所さんは、長崎県北部に位置する生月島(いきつきじま)のご出身。島を離れたいまも夏になると作る故郷の味だそうで、「フキが入っているのが特長かな」とおっしゃっていました。その地域ではこの時期、旬の野菜などを売っている無人販売所などにも置かれていたりするそうです。 夏のメニューといえば、長崎の家庭で食べ伝えられてきた料理のひとつに冬瓜(トウガン)のスープがあります。冬瓜と鶏肉を煮込んだおつゆで、お盆が終わった16日に食べる精進落ちの一品として知られています。また、夏の卓袱料理にも大鉢で登場することがあります。 冬瓜は東南アジア原産のウリ科の植物。一説には古代、仁徳天皇の時代に朝鮮半島から伝えられたといわれています。長崎では「トウガ」とも呼ばれ、カボチャやスイカ、マクワウリ、シロウリといったウリ科の野菜たちといっしょにこの時期、店頭に並びます。温帯から熱帯地域に育つ冬瓜は、同じ日本でも寒い地方ではあまり馴染みがないかもしれません。余談ですが、収穫した冬瓜はその名にふさわしく、風通しのいい冷暗所に置けば冬まで持つそうです。 水分をたっぷり含んだ白くてやわらかな果肉。淡白でクセのない味と香り。冬瓜は、あっさりとしたものが欲しい夏にはぴったりの食材です。ビタミンCを含んでいるので風邪のときにいいそうで、さらに利尿効果にもすぐれ、むくみや暑気あたりのほか、肥満を防ぐ効果もあるといいます。旬のものは身体にいいとはよく聞きますが、まさにそんな食材のひとつなのです。 冬瓜のスープの作り方は、皮をむき種を除いた冬瓜、鶏肉、きくらげを1~3センチくらいの角切りにし、水から煮込んでいきます。冬瓜がやわらかくなったら、薄口しょうゆ、酒、塩、こしょうで味をつけて出来上がり。器に盛り、小ネギを散らしていただきます。 あっさりとしたスープと煮込んでやわらかくなった冬瓜は、冷やしてもおいしく、夏場に最適です。中華だしやコンソメを加えたり、具材を鶏肉から、豚肉やエビに変えてみたり、仕上げに片栗粉でとろみをつけるなど、それぞれの家庭の好みに応じたアレンジができます。夏バテで食欲減退気味という方は、お試しになってみませんか?◎参考にした本/野菜と豆カラー百科(主婦の友社)、からだによく効く食べもの事典(三浦理代/池田書店)

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  • 第336号【飼育ペンギン、海へ出る!(長崎ペンギン水族館)】

     どこか幼児を思わせる体形とかわいい歩き方、そしてタキシードに身を包んだかのような容姿で、多くの人々に愛されているペンギン。空を飛べない海鳥として知られていますが、水中では飛ぶような勢いで巧みに泳ぎ回ります。そんなペンギンのさまざな姿を間近で観察できるのが「長崎ペンギン水族館」です。 長崎駅から車で約20分。目の前に美しい橘湾が広がる海辺に建つ「長崎ペンギン水族館」は、前身である「旧長崎水族館」時代から、ペンギンの繁殖や飼育の技術の高さでは日本屈指の水族館として知られています。けして大きな水族館ではありませんが、アットホームな雰囲気が魅力で、ペンギンをはじめさまざまな魚介類の世界を楽しく観察することができます。 「長崎ペンギン水族館」でこの夏、大きな話題になっているのが、フンボルトペンギンが海に出て泳ぐ様子を観察できる『ふれあいペンギンビーチ』です。7月にオープンしたばかりのビーチで、飼育されたペンギンが、自然の海に出て泳ぐのは世界で初めての試みということもあり、注目を浴びています。 フンボルトペンギンは、体長60センチほどの温帯ペンギン(生息地は南米ペルーあたり)です。性格は温厚で、他の種類のペンギンほど警戒心は強くないそうです。それでも、生まれも育ちの水族館の「箱入りペンギン」ということで、飼育員さんたちは、春頃からペンギンたちが海に慣れるための訓練をはじめたそうです。またペンギンがケガをしないように、岩場についた貝を除いたり、クラゲ対策の網をはったりなど、安全対策に余念がありません。 夏休み期間中は毎日ビーチに出ているフンボルトペンギン(午前から午後にかけての数時間。天候によって変更あり)。訪れたこの日、ビーチに出たのは10羽ほど。飼育員の方々に見守られながら、小さな歩幅で海へと急ぐ姿のかわいらしさといったらありません。ペンギンたちを驚かせないように静かに観ていた人たちは、みんな顔がほころんでいました。 海を目の前にするやいなや一目散に海中へ入っていくペンギンたち。ダイバーのようにスイスイともぐっていく姿は、館内の水槽で見る姿とは違ってとても野生的です。海に浮かぶ様子は、まさに海鳥のようで、ときどき白いお腹をみせるところはラッコのようなユニークさがあります。干潮の時間帯だったため、網で仕切った遊泳範囲がせまかったのですが、海でのひとときをのびのびと楽しんでいる様子です。暑さもあってか、エサの時間になってもなかなか砂浜に上がってこないものもいました。 地球上には、全部で18種類のペンギンがいるそうで、ここ「長崎ペンギン水族館」には、そのうち8種類が大切に飼育されています。館内の水深4メートルの大きな水槽には、キングペンギン、イワトビペンギンなど4種類の亜南極ペンギンがいて、海中をダイナミックに泳ぐ姿を見ることができます。 水族館で大切に飼育されるペンギンたちの姿は、かわいいばかりでなく、人と動物とのしあわせな関係や、自然の豊かさ、不思議さなど、いろいろなことを考える機会を与えてくれます。子供たちはもちろん、多くの大人にも訪れてほしいと思いました。※「ふれあいペンギンビーチ」は諸事情により予告なく中止となる場合がございます。事前に開催状況をご確認いただくことをおすすめいたします。◎ 取材協力/長崎ペンギン水族館(長崎市宿町3-16)     https://penguin-aqua.jp/

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  • 第335号【この夏、体験!軍艦島クルーズ】

     明治期より炭鉱で栄え、1974年の閉山後、長く無人島になっていた端島(通称、軍艦島/長崎市高島町)。いま、この島が、近年の廃虚ブームや、世界遺産の候補として今年、暫定登録された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつとして、大きな注目を浴びています。 長崎港から南西約19キロの沖合いに位置する軍艦島。いま島内は、見学通路が整備され、この春から35年ぶりに一般公開されています。先日、初めて軍艦島に上陸できる長崎港(大波止)発着のクルーズ(やまさ海運/要予約)に乗船しました。定員200人というクルーズ船は満席状態で、乗客は小学生からお年寄りまで幅広く、特に若い女性が多いのには驚きました。 この日の天候は曇り。少し波がありましたが、船が揺れるほどではありません。観光案内の船内アナウンスが流れる中、クルーズ船は女神大橋をくぐって外洋へ。伊王島、高島、中ノ島と小さな島々を通り過ぎ、約40分で軍艦島のそばまで近付きました。 空は青空が広がりはじめたものの、海上は風があり、少し白波が立っている状態。クルーズ船は、船を着ける「ドルフィン桟橋」付近の波を確認し、間もなく、波の様子が上陸可能な規定を超えているため、今回は上陸できないというアナウンスを流しました。参加者はみな落胆しながらも、状況によっては、そういう場合もあると前もって伝えられていたため、軍艦島の周囲をゆっくり一周しはじめた船上から食い入るように廃虚の島を眺めました。 軍艦島は、周囲わずか1.2キロの小さな島です。最盛期の昭和30年代前半には約5300人の島民が暮らし、その人口密度は当時の東京の9倍だったと言われています。学校、病院、商店、映画館、パチンコホール、そして神社やお寺もあり、子供たちの元気な声が絶えない賑やかな島でした。しかし、いまでは主人を無くした建物たちが、無言で朽ちて行く姿をさらけ出しています。コンクリートの荒野と化したこの光景は、日本が近代化に向けて走り抜いた夢の跡のよう。それをどう受け止めたらいいのかわからず、いろいろな思いをめぐらせました。 島内の建物が肉眼でしっかり見える近さで、島の周囲を回るクルーズ船。「ドルフィン桟橋」がある島の南東側は主に鉱業地区で、炭鉱関係の遺構が多く見られました。北東部には、7階建ての端島小・中学校や端島病院などの建物が残っていました。続いて北西部へ回ると、クルーズ船は少し島から離れて島全体が見える位置へ移動。戦艦土佐に似ているといわれる軍艦島の姿を一望しました。ここ北西部は主に鉱員さんたちの居住地区で、コンクリート造りのアパートが所せましと建っていました。その中には、日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートといわれる7階建ての建物もありました。夜には各家庭や炭鉱施設の電気が煌々と照らされ、さながら不夜城のようだったと伝えられています。 今回、上陸はかなわなかったものの海上から十分に堪能できた軍艦島。帰路では、何メートルも低空飛行するトビウオを見ることができました。近代産業の歴史を振り返りながら、爽快な海上の景色も楽しめる「軍艦島クルーズ」。この夏、お出かけになりませんか。

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  • 第334号【亀山社中の志士らが闊歩した通り】

     沖縄地方は一足先に夏を迎えました。長崎など九州北部地方の梅雨明けは、夏休みがはじまる直前になるパターンが多いのですが、今年はどうなのでしょう?入道雲がまぶしい季節が待ち遠しいものです。 梅雨の晴れ間を利用して、長崎の市街地の一角にある「若宮通り」、「寺町通り」を散策しました。この二つの通りは、坂本龍馬が慶応2年(1866)に長崎で結成した「亀山社中」跡に通じ、幕末、長崎に集まった若き志士たちが闊歩したであろうと想像されるところです。 「亀山社中」跡は、「伊良林」という長崎市街地を見渡す高台にあります。そこから右手に下れば「若宮通り」、左手に下れば「寺町通り」に出ます。二つの通りはつながっていて、その道筋には江戸時代に創建された10数の社寺が建ち並んでいます。人通りの少ない静かな界隈で、寄り道せずに歩けば15分ほどで通りぬけられる距離です。それぞれのお寺には、文化財や江戸時代の著名人のお墓などがあるので、時間があるときゆっくり訪ね歩くのもおすすめです。 ところで、長崎市街地の地図をみると、長崎港にそそぐ中島川の流れに平行する通りと、そこに直角に交わる通りが複数あり、碁盤の目のように町がつくられているのがわかります。たとえば、「寺町通り」は中島川にほぼ平行するようにあり、その間には、同じく平行して「中通り」(現在の中通り商店街)があります。それらの通りを横切るように、中島川にかかる石橋から「寺町通り」の各お寺に通じる道筋がきれいに整っているのです。 長崎歴史文化協会の古老によると、このように長崎の町が整備されたのは、江戸前期、寛文の大火(長崎の市中の50数カ町を焼き付くした)のあと、まちの復興の総指揮をとった当時の長崎奉行、牛込忠左衛門によるものだとか。学問や詩学に秀でた牛込氏は京都趣味だったそうで、都のつくりにならったのだろうということでした。 また古老は、亀山社中の若者たちは、「若宮通り」にある「光源寺」の横に出る道をよく利用したのではないかとおっしゃっていました。そこから中島川沿いの八幡町に出て、「中通り」を通っていたと考えられるそうです。 八幡町の界隈には「大井出橋」があります。現在はコンクリート橋になっていますが、江戸時代には風情ある石橋でした。古老は、この橋にまつわる宇和島藩士の二宮又兵衛綱宏のエピソードを教えてくれました。二宮氏は、1867年3月京都で龍馬が暗殺された後、亀山社中を運営した人物。しかし、同年8月には、不正を叱った相手に逆恨みされ、「大井出橋」付近で襲撃を受け亡くなったそうです。 享年29才。二宮氏のお墓は、光源寺にあります。よく学び、剣術にも長け、得がたい人物としてたいへん惜しまれという二宮又兵衛綱宏。彼はシーボルトの門下生のひとりとして知られる二宮敬作の甥でもありました。◎取材協力/長崎歴史文化協会

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  • 第333号【福沢諭吉が過ごした長崎】

    [福沢諭吉の「何にしようか」~100年目の晩ごはんレシピ集~](ワニマガジン社/2001年発行)というユニークな本があります。内容は、福沢諭吉が創設した「時事新報社」が発行した新聞「時事新報」に掲載された料理のレシピを、復刻料理として写真付きで紹介したものです。新聞掲載時は、日本の食卓に諸外国の味付けが広く取り入れられはじめた頃と思われ、近代化をめざして急激に世の中が変化していた当時の様子が、食の面からうかがえます。 そのレシピの中で特に気になったのは、明治26年10月21日付けで掲載された「土耳其めし」です。「土耳其」は「トルコ」と読みます。鶏肉(または牛肉)のスープで炊きあげたバターライスのことです。実は長崎には戦後、誕生したとされるローカル・フード「トルコライス」がありますが、その発祥は諸説あって定かではありません。この「土耳其めし」なるものが長崎のトルコライスのルーツの解明につながるかもしれません。 冒頭からちょっと回り道をしてしまいましたが、今回は、トルコライスではなく、福沢諭吉の話です。慶応義塾の創立者で知られる諭吉もまた、幕末、志に燃え長崎で学んだ若者のひとりでした。 中津(大分)藩士の次男だった諭吉は、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来ました。同じ中津藩家老の子であった奥平壱岐(おくだいら いき)の世話で、光永寺(長崎市桶屋町)に約半年過ごし、その後、さらに砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。 長崎での滞在はわずか1年ちょっとではありますが、のちに「福翁自伝」(福沢諭吉の自伝で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードをつぶさに語っています。また、諭吉はお酒がとても好きだったそうですが、長崎滞在中は自粛。勉学に励み、客人を相手にするとき以外は飲まなかったとも伝えられています。老年になった諭吉にとって、長崎で過ごした若き日々は間違いなくまぶしい青春の1ページだったようです。 長崎滞在中の諭吉の足跡をたどってみました。まずは、最初に過ごした光永寺。眼鏡橋より少し上流の中島川沿いにあります。そこから、徒歩3分ほど離れたところに山本物次郎の家があったようです。現在、その辺り(出来大工町)は、当時は町司(ちょうじ)と呼ばれた長崎奉行直属の下級地役人らが住んだ長屋があったところで、町司町(ちょうじまち)とか町司長屋と呼ばれていたそうです。諭吉が使用したと伝えられる井戸が残っています。「福翁自伝」には、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと地震(安政の大地震)の揺れに合ったという記述が残されています。 かつての町司町から長崎奉行所立山役所跡(現在、長崎歴史文化博物館)まで徒歩2~3分。そこからさらに徒歩2分のところに諏訪神社があり、参道には諭吉の銅像が建てられています。長崎での諭吉は、いずれも徒歩2~3分でつながるこの界隈で多くの時間を過ごしたと思われます。ちなみに、長崎奉行所立山役所跡と諏訪神社の間には、1万円のユキチさんの産みの親である日本銀行の、長崎支店があります。こじつけではありますが、何だか不思議なご縁を感じるのでありました。

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  • 第332号【おいしさを科学的に追求、長崎本舗のカステラ】

     長崎のカステラが大好きな東北在住の知人がいます。その方は「カステラは近場でも手に入るけれど、本場・長崎の味は別格だ」と言うのです。そんなことを言われると、こちらもうれしいもの。全国的に知られる老舗だけでなく、あまり知られていないメーカーのものなども送って、カステラ自慢。知人は、本場の味の奥の深さを感じているようでした。 今回ご紹介するのは、「(有)長崎本舗」という小さなカステラ屋さんです。こちらは、伝統を誇る老舗ではありませんが、カステラの本場長崎で切磋琢磨して独自の味を見い出した、地元でも知る人ぞ知るカステラ屋さんです。 「お客様には、口当たりがサッパリとしておいしい、とてもしっとりしてる、といったお誉めの言葉をいただきます」と話す草野保徳社長。そのおいしさは、先代社長の浅田要三氏のこだわりから生まれたものでした。「九州大学農学部の研究室を訪ねたり、地元の学者が発表したカステラに関する科学的なデータを参考にし、共同して改良を重ね、軽やかな甘さで、なおかつ、しっとりと焼き上がる独自のレシピを開発したのです」。 南蛮時代に長崎に伝わって以来、職人たちの手によって長い年月をかけて改良を重ねられてきたカステラ。その「甘さと、しっとり感」はカステラのゆるぎない個性として、多くの人々に長く愛され続けてきました。しかし、一方で消費者は「甘さ離れ」の傾向に。先代社長は、卵、砂糖、小麦粉、水飴、ザラメ糖というカステラの原材料の配合や、焼き方などさまざまなデータを試し10年以上の試行錯誤を続けました。そして、本来のカステラらしさを保ちつつ、現代の消費者が求めるおいしさの科学的結論を出したのでした。 「実は先代社長は、根っからの数学好き。社長職を退いた後も毎日数時間むずかしい問題を解くのが日課だったほどです」。若い頃は医師を志し、地元の医学部にも合格した経験もあるという浅田氏。「しかし、当時は戦争で混乱した時代です。事情があったのでしょう、医学部をあきらめ、陸軍士官学校に行き、数学を必要とする砲兵を希望したと聞いています」。 浅田氏は戦後、長崎でパン屋を立ち上げ、のちにカステラに事業を切り替えました。ちなみにパン屋時代は、いま近代産業遺産のひとつとして注目を浴びる軍艦島や高島に卸していて、おおいに繁盛したとか。この高島炭鉱の閉山が、パンからカステラへ移行した大きなきっかけだったそうです。 浅田氏が苦慮して見い出したカステラのレシピ。「それを間違いなく継承していくのが、私の仕事です」と草野社長。原材料へのこだわりは言うまでもありませんが、その中でも特に浅田氏が「オレが死んでも絶対に変えてくれるな」と言っていたのが、水飴の種類です。通常、カステラに使用されるのは米水飴が多いそうですが、こちらの会社では、サツマイモを使った「麦芽水飴」を使用しています。これが、しっとり感やコクに大きな影響を与えるのだそうです。 現在、長崎市畝刈町にあるカステラ工場を見学させていただきました。計量から焼き上げまで、1枚のカステラを1人の職人さんが責任をもって作っています。その手際の良さ、ムダのない動きがとても印象的。科学的な根拠に基づいた配合や作り方は、そんな熟練の職人さんだからこそ、活かすことができるのかもしれません。

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  • 第331号【中島川の生物~サギ~】

     眼鏡橋をはじめとする石橋群で知られる中島川。長崎市民にも観光客にも親しまれているこの川には、いろいろな生物が生息しています。散歩がてらの観察で見かける魚類、鳥類、昆虫類は、名前がわからないものまで含めると、数え切れないほど。その中から今回は、川沿いを通るたびについつい姿を探してしまう、サギ(鷺)をご紹介します。 中島川でいつも見かけるサギは、大きい順からアオサギ(青鷺)、コサギ(小鷺)、ゴイサギ(五位鷺)の3匹(種)です。袋橋(眼鏡橋のひとつ下流にかかる石橋)から上流に向って9つめにかかる桃谷橋までの間(徒歩約10分の距離)のどこかにいて、それぞれ単独で行動しています。 サギは、広く世界に分布し(特に熱帯~亜熱帯)、種類も100を超えるとか。そのうち日本には10数種類いるようです。田んぼや沼地、川、海岸などに生息し、魚やカエル、昆虫などをとって食べます。中島川にいる3匹は、本州、四国、九州ではほぼ一年中見られるメジャーなタイプのようです。  俳句では、サギは夏の季語です。季語集には、シロサギ(白鷺/白いサギの総称)をはじめ、アオサギ、ヨシゴイ(葭五位)、ササゴイ(笹五位)、ミゾゴイ(溝五位)など仲間の名がありました。シロサギ、アオサギは日本で一年中見かけますが、それ以外は夏に南方から渡来してきます。いずれも夏が繁殖期なことから、季語になっているそうです。 「夕風や水青鷺の臑(すね)をうつ」は蕪村の句。中島川で見かけるたびに、美しいなあと思うのはこの句にも詠まれたアオサギです。70cmくらいの大きさで、長い頸(くび)の下には、青というより、灰色っぽい羽根が付いています。大きくなると90cmを超えるという日本最大のサギで、ツルと間違える人もいるとか。羽を広げるとさすがに大きく、石橋の上をさっそうと飛んで行く姿は迫力があります。 眼鏡橋そばのハートストーンがはめ込まれた護岸あたりでよく見かけるのが、コサギです。その名の通り小さなサギで、足の指が黄色いのが特長です。飛び石の上でじっと魚をねらっているかと思うと、周囲を歩き回ってみたり、他の2匹と比べると落ち着きがないタイプです。繁殖期にだけ生えるという白い2本の冠羽(かんう/後頭部の長い羽毛)がチャーミングです。 桃谷橋の近くでよく見かけるのが、ゴイサギです。背は濃紺、羽根はグレー、胸からお腹あたりは白。首は短くずんぐりとして、小型のペンギンのようなかわいらしさがあります。石の上にチョコンと乗り、ひたすらエサが近付くのを待ちます。しかし、このゴイサギは基本的には夜行性で、昼間は水辺の木で眠っていると、図鑑にはありました。日中見かける中島川のゴイサギは、エサを待つふりをしながら、昼寝をしているのかもしれません。泣き声はコァッ、コァッ。めったに聞くことはありません。 人間にこびない野生を残しながら街の中の環境に順応し、たくましく生きている中島川のサギ。あなたのお住まいの地域にもこんなサギ、いませんか?◎ 参考にした本/日本動物大百科~鳥類?(平凡社)、日本大歳時記(講談社)、バードウオッチング入門図鑑~はじめに覚える33種~(河出書房新社)

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  • 第330号【浦上街道を歩く(1)(西坂~緑町)】

     長崎の街角では紫陽花たちが固いつぼみを見せはじめました。もう半月ほど経てば、梅雨の訪れとともに満開の季節を迎えます。シーボルトゆかりのこの花は、長崎市民にたいへん親しまれ、あちらこちらに植えられています。紫陽花が咲き誇る長崎へ、お出かけの計画を立ててみませんか? さて、薫風が吹き抜ける5月の休日、浦上街道の散策を楽しんできました。長崎駅にほど近い場所にスタート地点があるこの街道は、約440年前(室町時代末期)、長崎がポルトガルとの貿易港として開港した頃に整備されたとか。長崎から浦上~時津~彼杵(そのぎ)を結ぶ街道で、長崎と江戸や大阪などを結ぶ長崎街道の一部をなす最も古いコースだといわれています。 そもそも長崎街道といえば、長崎から東に出て日見峠を越え、矢上、諫早、大村、松原、彼杵、そして嬉野へ…と続くコースがよく知られています。しかし、これは江戸時代中期頃から主流になったコース。それまでは、浦上街道が主に利用されていたそうです。その道のりは長崎から北上し、時津の港まで3里(約12km)、そこから舟で大村湾を7里(約28km)渡って彼杵へ。そして、お隣の佐賀領へ入ったのです。 大村湾という海の道を行くのが浦上街道の大きな特徴です。しかし、舟の運行は天候に左右されやすく、旅の予定にも大きく影響するため、しだいに陸路の日見峠のコースが主流になっていったのだそうです。 浦上街道の散策は、日本二十六聖人殉教地(西坂公園)のそばにある「長崎浦上街道ここに始まる」の碑の前からスタートし、西坂町~御船蔵町~天神町~銭座町~緑町と5つの町を横断する街道筋をゆっくり1時間ほどかけて歩きました。普通に歩けば30分ほどで行ける距離です。 街道は少し高台にあり、左手を見下ろすと路面電車が走る幹線道路がほぼ平行に通っています。道幅は1~2メートルほどで街道沿いには家々が軒を連ねていました。小さな起伏を繰り返しながらさらに高台へと続く道のり。運動不足の人には少しきついかもしれません。 遠くに稲佐山、そして市街地も見渡す街道筋。いまは建物にさえぎられていますが、かつては相当景色が良かったはず。この辺りは、明治以降の埋め立てですっかり景色が変っています。江戸時代は近くまで海が迫っていたそうです。街道筋には、海際で見られるような岩肌が、ところどころであらわになっていました。 今回は、のんびりとした散策だからこそ気付いた景色や歴史がいろいろありました。昭和天皇お手植えのクスノキ(西坂公園の端)、筒抜けになった西坂教会の入り口から見える福済寺の大きな観音様、街道筋ならではの供養塔やお地蔵さま、眼病にご利益があるといわれる生目神社、浦上街道に面した位置に建つ聖徳寺(江戸時代、浦上地区の住民を檀家としていたが浦上4番くずれで約600戸余りの檀家を失ったという)…。 かつて多くの旅人が往来した浦上街道。キリスト教の弾圧がはじまった秀吉の時代には26聖人(1597年)が通りました。また、江戸時代には出島のオランダ商館医ケンペルが江戸参府の際に利用し、また蘭学者で洋画家でもある司馬紅漢もこの街道から長崎入りしたといわれています。 今回、緑町まで歩いた浦上街道は、このあと浦上地区へ入ります。そのレポートは夏頃お届けします。◎ 参考にした本/長崎の史跡・北部編、長崎の史跡・街道(長崎市立博物館)

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  • 第329号【400年前、もうひとつの教会群】

     新緑がまぶしい季節、いかがお過ごしですか。長崎では陽射しも風もすっかり初夏の装い。不況のことはさておき、爽やかなこの季節を楽しみたいものですね。 ゴールデンウィークには、長崎観光に訪れる方も多いことでしょう。ここ数年、特に増えてる気がするのが長崎の教会めぐりを楽しむ人々です。いま長崎県では、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の「世界遺産」の登録をめざしていることもあり、多くの人々に注目されているようです。この遺産を構成する五島列島周辺や長崎市内などに点在する明治初期から昭和初期にかけて建造された教会群などは、たいへん見応えがあります。ぜひ、お出かけください。 ところで「世界遺産」をめざす現存する教会群とは別に、長崎には約400年前にわずかな期間で取り壊されてしまったもうひとつの教会群があったことは、あまり知られていないようです。その場所は中心市街地の一角で、長崎県庁(長崎市江戸町)から長崎市役所(長崎市桜町)を結ぶ高台を中心とした一帯です。 このあたりはその昔、長崎港に突き出た緑豊かな岬でした。1570年(元亀1)南蛮貿易港として長崎が開港したとき、この岬に新しく6つの町が造られ、町は発展していきます。つまり、この一帯は長崎が歴史の表舞台に登場することとなった最初の重要なエリアなのです。ちなみにそれ以前の長崎の中心地は、この岬から北東に2キロメートルほど離れたところ(いまの桜馬場、夫婦川町)にあり、人口1500人ほどで、素朴な城下町を形成していたそうです。 長崎開港の翌年、岬の突端には「岬の教会」とも称されたサン・パウロ教会が建立されました。この教会はのちに、当時の長崎で一番大きい「被昇天の聖母教会」に建て直され、イエズス会本部も置かれました。ここにはコレジオ(教育機関)もあり、ラテン語、水彩画、油絵、銅版画、声楽、オルガンなどを教えていたそうです。そうして長崎の町は日本におけるキリスト教の本拠地としても発展していったのです。  岬に新しく生まれた6つの町は、1580年(天正8)にキリシタン大名大村純忠によってイエズス会に寄進され、1588年に豊臣秀吉が長崎を公領とするまでの間、教会の領地でした。それは10年に満たない期間でしたが、全国からキリシタンが集まり、宣教師をはじめとするポルトガル人も市中に住み、毎日、定刻に教会の鐘が鳴り響き、街角ではパンを焼く匂いが漂い、ときにはキリスト教の祭礼らしき行列が行われるなど、「日本における小ローマ」の様子を呈していたと伝えられています。  しかし、この岬の町が自由で平穏な空気に満ちていたのはほんのわずかで、しだいにキリスト教弾圧の時代へ突入。1597年(慶長1)には西坂の丘で26聖人が殉教します。そのような中でも、この岬の一帯には、新しい教会や教会の福祉施設などが建てられ(サン・アウグスチノ教会、サン・ティアゴ病院附属教会、サン・フランシスコ教会などその数は10いくつともいわれる)、人口も江戸時代初めには5万人にふくれあがっていたそうです。 弾圧はさらに強まり、それらの教会は、1614年(慶長19)のキリシタン禁教令によってほとんど破壊されました。そんな姿なき教会群の歴史をひもときながら、この界隈を歩くと当時の教会跡の碑があちらこちらに点在していることに気付きます。しかし、小ローマの雰囲気はどこにも残っておらず、本や美術館で見る「南蛮屏風」から当時を想像するしかなかったのでした。◎ 参考にした本/近世長崎のあけぼの(長崎県立美術博物館/昭和62発行)、長崎県の歴史(外山幹夫/河出書房新社)

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  • 第328号【♪さくら、さくら♪】

     桜前線は東北あたりを北上中。今年は桜の開花が全国的に早まったとはいえ、さすがに青森以北の開花はまだちょっと先。中部、関東、東北の一部では見頃を楽しんでいる地域も多いことでしょう。日本の西端に位置する長崎の桜は、平年より4日早い3月21日に開花、3月の終わり頃に満開の時期を迎えました。開花後は、気温の低い日が続いたため花もちが良く、長崎市街地にほど近い立山公園、風頭公園といった花見の名所では、今日、明日あたりまで桜祭りが行われているようです。 満開の桜の下で、ごちそうを詰めた重箱を広げ、お酒にほろ酔い、春のひとときを楽しむ。「花見」は多くの日本人が毎年楽しみにしている行事ですね。もともと日本人には、暖かな春を迎えると、野や山、海辺に出て終日遊ぶ、いわゆる野遊びの習わしが古くからあり、いまの「花見」は現代まで残った野遊びのひとつなのだそうです。長い年月の中で日本人のDNAに刻まれた風習ならば、毎年、桜の開花日を今か、今かと待ちわびる理由に納得がいくような気がします。 「花見」と称して庶民の間で広く行われるようになったのは、江戸時代とも言われています。長崎の郷土史家によると、江戸時代の長崎には清水寺、興福寺、日見など各所に花見処があったとか。そもそも長崎のお花見は、お江戸で行われていたその習わしが伝えられたのであろうということでした。 江戸時代の長崎の名所をはじめ風俗や行事、外国人を挿し絵風に描いたものをまとめた「長崎古今集覧名勝図絵」という本があります。描いたのは、江戸末期の唐絵目利きで、長崎派洋風画家の石崎融思(1767~1846)です。その本の中にも花見の様子を描いたものがありました。「日見櫻」と題した絵で、中国人と地役人らしき日本人が、当時の長崎の桜の名所ひとつ、「日見櫻」(日見峠を越えた先にあったという)の下で酒を酌み交わしている光景です。 この本の注解を著した越中哲也先生の記述によると、融思がこの絵を描いた頃には、すでに日見櫻は何らかの理由でなくなっていたそうで、中国人と日本人を一緒に描いた「日見櫻」の絵は融思の創作であろうとのこと。しかし、こうした光景が、全くありえなかったともいえないと思わせる話を別途、越中先生からうかがいました。 当時、長崎にいた中国人は「唐人屋敷」、オランダ商館の外国人は「出島」での居住が定められ、許可なく市中へ出ることは禁止されていました。しかし、「いつも同じところに居ては息が詰まるでしょう。ですから、中国人もオランダ商館の外国人も、航海安全などの祈願を目的とした社寺へのお参りなどを口実に、ときどき外出していたようです」とのこと。実際、当時の中国人は、日見の先にあった社寺へ航海安全祈願のために出かけていたそうです。それが桜の季節ならば、「日見櫻」を、付き添いの日本の役人らとともに愛でたことがあったかもしれません。 花を愛でる気持は世界共通。遠い江戸時代の長崎の春に、外出先でのわずかな時間とはいえ、中国人と日本人、もしくはオランダ人、ドイツ人、インドネシア人などと一緒に美しい桜を眺めたことがあったかもしれない…。実際のところはわかりませんが、いかにも長崎らしい想像であります。◎取材協力/長崎歴史文化協会 越中哲也氏◎ 参考にした本/日本大歳時記~春~(講談社)、「長崎古今集覧名勝図絵」(長崎文献社)

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  • 第327号【春の味覚、つわぶき】

     ふき、わらび、新タマネギ、春キャベツ…。いま、店先を賑わせている旬の食材たち。その香り、風味、味わいは、冬の寒さをくぐりぬけたものらしく生命力にあふれ、とてもおいしいですよね。栄養価もGoodで、大量に出回るから安いのもうれしいところ。きょうはどれをいただこうかしらと迷えるなんて、本当にありがたいことです。 今回はそんな旬の食材の中から、つわぶきをご紹介します。キク科の常緑多年草で、日本では九州、四国、本州(中部)あたりまでの暖かい地域の海岸近くに自生する植物です。ですから、寒い地域の方にとっては馴染みがなく、つわぶきを長崎で初めていただいたという声もときおり耳にします。 つわぶきは同じ春の味覚である、ふき(蕗)と混同してしまう人もいるようです。実際、つわぶきという和名はふきに似ていることから付けられたとか。たしかに、長い茎の先に大きな丸い葉を付けた形は似ています。しかし、見比べたらその違いは歴然。ふきの葉はライトグリーンなのに対し、つわぶきは深みのあるグリーンでツヤがあります。 長崎地方では単に「つわ」と呼ばれることが多いつわぶき。早春から春にかけて、山野に自生しているものなどを採取して食用にしますが、街の中でも歩道脇の土手など身近なところによく生えているので、そこから摘んできて食卓にあげるという方もいらっしゃるようです。 つわぶきは、煮しめや味噌漬など、ふきと似たメニューに仕上げられますが、それぞれ独特のほろ苦さがあり、やはり違う味わいです。この時期、長崎の料亭や和食のお店では、旬のワカメ、タケノコと一緒に煮た「若竹煮」が春らしい一品として出されます。それぞれの家庭では、干し大根、こんにゃく、油揚げなどと煮たり、きんぴらやつくだ煮、おつゆの具などにしていただいています。 毎年、庭のつわぶきを摘んで食べているという料理上手の友人から、お茶漬け用の塩昆布(適量)と煮るだけのとても簡単でおいしいつわぶきメニューを教えてもらいました(みりんや醤油で好みの味に調整してください)。ぜひ、お試しください。 観賞用としても多く用いられ、多くは庭の立ち木の根締めに利用されているつわぶき。春は産毛を着た初々しい茎と葉、梅雨どきになると葉はよりつややかさを増し、さらに、晩秋から初冬にかけてあざやかな黄色の花を咲かせて楽しませてくれます。 つわぶきを調理するときは、ふきと同じく茎の皮をむいたり、水にしばらくつけてアクを抜くなどしなければなりません。忙しい現代人は、そのひと手間を敬遠しがちです。でも、子供の頃、家族の誰かと1本ずつ皮をむいた経験のある人は、指先をその渋みで黒くしながら、独特の香りに包まれたそのシーンをほのぼのと思い出されることでしょう。それは、子供にとって家族や自然の恵みとふれあういい機会でもありました。あらためて、ひと手間を惜しんではいけないなあと思うのでした。◎ 参考にした本/大日本百科事典12巻(小学館)

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  • 第326号【出島に漂うコーヒーの香り】

     やはり今年は、全国的に桜の開花が早まるらしいですね。近所にある桜の前を通るたびに、つぼみの様子を観察している人も多いのではないでしょうか。ここ数年、長崎では3月下旬に開花、見頃を迎えることも多くなったような気がします。これから先、九州のように温かな地域では、桜は入学式ではなく卒業式シーズンの花になりつつあるのかもしれません。 さて、今回は見目麗しい桜ではなく、香り高きコーヒーのお話です。コーヒーが日本に伝えられたのは江戸時代(おそらく元禄期の1700年前後)、オランダ人によって出島に持ち込まれたのが最初であろうと言われています。出島のカピタン(オランダ商館長)と仕事柄、接触のあったオランダ通詞(通訳)は、ときおりコーヒーをいただいて飲んでいたそうです。 現在、出島は、19世紀初頭の建物や室内が復元されていますが、商館員らが過ごしたという部屋を見てまわると、必ず部屋の小さなテーブルにカップ&ソーサー、そしてポットが置いてあります。当時のオランダ人たちがどれくらいの頻度でコーヒーを飲んでいたのかわかりませんが、その調度品や器を見る限り、日常的にいれたてのコーヒーなり、お茶を楽しんでいたのだろうと想像します。その器類は、たいへん洗練されたデザインで、彼らがコーヒーブレイク(またはティータイム)を大切にしていたことが伝わってくるようです。 ずいぶん前、地元の美術館で、司馬江漢(しばこうかん)が作ったというコーヒーミルを見たことがあります。たしか「阿蘭陀茶臼」と紹介してあり、現在の手回し式のミルとほとんど変わらない姿でした。司馬江漢は江戸後期の洋風画家。18世紀も終わり頃、知り合いのオランダ通詞宅にあったコーヒーミルをまねしてつくったものなのだそうです。 江戸時代のコーヒーにまつわる話でよく語られるのは、文化元年(1804)、長崎奉行所の勘定役として江戸から赴任した太田南畝(おおたなんぽ)のエピソードです。彼は当時の狂歌師、蜀山人としても知られる人物。彼が著した「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」に、長崎でコーヒーを飲んだ際の感想が次のように述べられています。[紅毛船にて「カウヒイというものを勧む」豆を黒く炒りて粉にし白糖を和したるもの也。焦げくさくして味ふに堪ず]。子どもの頃、大人たちのカップから初めてブラックコーヒーを飲み、蜀山人と同じ思いをした人もいらっしゃるのではないでしょうか。 ところで、コーヒーはアフリカのエチオピアが原産地といわれていますが、人間がどんなきっかけで、いつ頃飲みはじめたのかは諸説あり定かではありません。10世紀頃には、アラビア人たちの間で民間薬として飲まれていたそうで、その後、イスラム教諸国を経て、17世紀にヨーロッパ各地に広がっています。オランダ東インド会社(出島のオランダ人らが所属する会社)は、17世紀末には、ジャワ島などへコーヒーの移植栽培を成功させており、日本にコーヒーを伝えたとされる時期とも重なります。日本では、当初薬用として一部の人の間で飲まれるだけでした。一般に広く飲まれるようになったのは明治に入ってからだそうです。◎ 参考にした本/長崎の西洋料理~洋食のあけぼの~(越中哲也)、コーヒーの歴史(マーク・ペンダーグラスト)、コーヒー~最高の一杯COFFEE BOOK~(嘉茂明宏)

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  • 第325号【幕末の志士らの足跡をたどる~勝海舟編~】

     ご近所の庭では、早春を告げるミモザが満開。これから三寒四温を経て、本格的な春へと向かいますが、暖かい日が続くと、つい厚手のコートやセーターを1枚2枚とタンスの奥に仕舞い込んだり、クリーニングに出すなどして、あとで後悔することも。季節の変わり目です。体調と衣服の管理にはどうぞ、お気をつけください。 さて、実はいま長崎では、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の2010年の放映が決まり、その舞台のひとつになるとあって、幕末ゆかりの人物や場所などがにわかに注目を浴びています。また、幕末といえば、坂本龍馬や勝海舟をはじめ吉田松陰、福沢諭吉、榎本武揚、伊藤博文、高杉晋作、大隈重信など、多くの著名人が遊学の志に燃え、長崎を訪れた時代です。あれから130年ほどが経ち、新たな時代の転換期を迎えようとしている現代にあって、彼らの志や思いに触れることは、何か意味があるのかもしれません。 江戸から明治へ、大きく時代を動かした男たちの中のひとり、勝海舟(1823~1899)。幕府側代表として西郷隆盛と話し合い、江戸城の明渡しの任を果たしたエピソードはあまりにも有名です。 勝海舟が幕府の命を受け、長崎にやって来たのは33才のとき。ペリー来航から2年後の安政2年(1855)のことで、長崎奉行所西役所に設けられた海軍伝習所の伝習生頭役として4年間学びました。当時、海舟の宿泊先となったのが、現在、長崎駅前の筑後通りの一角にある本蓮寺(ほんれんじ)です。海舟は、この寺の境内にあった大乗院に寝泊まりしたそうです。 海舟は、長崎でお久さん(本名:梶クマ)という女性と恋に落ち、一男一女をもうけています。本蓮寺のすぐ隣にある聖無動寺(しょうむどうじ)の梶家墓地内には、お久さんのお墓があります。聖無動寺の方によると、いまもときおり、勝海舟の足跡をたどって、お久さんのお墓をたずねてくる方がいらっしゃるとか。お久さんが静かに眠るその墓地は、長崎の街や港を見渡す高台にあります。お墓に手を合わせ、そこからの景色を眺めていると、海舟とお久さんの恋が確かにこの街で育まれたことを強く感じるのでした。  ところで、聖無動寺は、出島のオランダ人とは非常に関わりのあるお寺で、オランダ船の航海安全の祈祷をしたり、江戸参府の際には、一行のために海陸の安全を祈願した守り札を贈るなどしていました。また、出島の火災時には、オランダ人の避難場所でもありました。のちに原爆で大きな被害を受けており、当時の面影は参道の階段、そして安全祈願の石灯篭などに残されているようです。 海舟は、万延1年(1860)に、咸臨丸艦長としてアメリカに渡りました。そして、万治1年(1864)には、四国(イギリス、アメリカ、フランス、オランダ)連合艦隊による砲撃を阻止するために、各国公使との談判の命を帯びて、再び長崎を訪れています。このとき、海舟に同行した門下生の中に坂本龍馬がいたのです。このときの宿泊先は海舟の日記によると福済寺。聖無動寺のお隣の寺です。どうやら筑後通り界隈は、海舟にとてもご縁のある通りのようです。◎取材協力/聖無動寺(長崎市筑後町)

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  • 第324号【幕末の志士らの足跡をたどる~龍馬編~】

     日中の気温が15度(3月中旬並)を超える日もあるなど、にわかに春めいてきた長崎。日本気象協会の予想によると今年は全国的に暖かな春で、桜の開花も早まるのだとか。長崎の市街地に近い桜の名所の山々を眺めると、樹皮の下で開花の準備が着々と進んでいるのか、桜の幹や枝がほのかに赤く染まって見えます。 そんな長崎の桜の名所のひとつに風頭山(かざがしらやま)があります。長崎の街や港を見下ろすその山には、坂本龍馬(1835~1867)の像があることでも知られています。日本の洋々たる未来へ思いを馳せるかのように外洋を見つめるその姿は、等身大の龍馬を彷佛させ、幕末の風雲児の底知れぬ魅力も伝わってくるようです。今回は、この像を出発点にして、龍馬の長崎での足跡をたどってみたいと思います。 龍馬が初めて長崎にやって来たのは、天保6年(1864)のこと。勝海舟(当時、幕府軍艦奉行並)の長崎出張の同行で、1カ月ちょっと滞在したと伝えられています。このときは長崎奉行所、長崎製鉄所、大浦の居留地にあった外国領事館などを訪ねたそうです。龍馬にとって初めての長崎は、相当なインパクトを与えたはず。このとき、近代日本の未来像を明確に頭の中に描いたのかもしれません。その後、はからずも晩年となった約4年の間に、龍馬は断続的に長崎を訪れ、特異な足跡を残すことになるのです。 風頭山を少し下ると伊良林(いらばやし)という地区に出ます。ここには、土佐藩を脱藩した龍馬とその同志らが設立した日本初の商社「亀山社中」(のちの海援隊)の跡があります。ここで海運・貿易を行いながら、倒幕運動にも参画。龍馬は維新の原動力としての大役を果たし、近代日本のはじまりに貢献していくのでした。 「亀山社中」跡から寺町通りへ下る階段は、社中のメンバーが往来したということで、「龍馬通り」と称され、親しまれています。その傾斜も急な長い坂段の途中には、「龍馬の片腕」といわれた近藤長次郎をはじめ陸奥宗光、沢村惣之丞、長岡譲吉、中島信之など亀山社中、海援隊で行動を共にした男たちに関する説明版が掲げられてます。幕末当時、同じ坂段を彼らはどんな思いで登り降りしたのでしょう。 「龍馬通り」のある寺町の近所には、幕末当時、龍馬をはじめ長崎を訪れた著名人らを撮影した上野彦馬(日本初の商業写真家)の撮影局跡もあります。場所は、中島川上流の阿弥陀橋にほど近いところ。ということは、この中島川界隈も龍馬をはじめ長崎を訪れた幕末の志士たちが闊歩したエリアであると想像できます。 長崎駅からほど近い五島町は、江戸時代、各藩の蔵屋敷が軒を連ねたエリアです。そのエリアにほど近いところに土佐藩士で藩政に関与していた後藤象二郎の仮住まいの跡があります。後藤象二郎は、慶応3年(1867)龍馬と長崎で会談。意見が一致し海援隊が組織され、土佐藩を倒幕派へと導きました。 長崎を歩けば、近代日本の夜明けに奔走した男たちの姿があちらこちらに見えかくれするから面白い。次回は、勝海舟を中心とした史跡をご紹介します。

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