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  • 第308号【レモンと長崎】

     レモンの弾けるようなフレッシュな香りは、気分をパッと明るくしてくれます。その爽快感は、柑橘系の中でもダントツではないかと思えるほどシャープ。アロマテラピーに詳しい友人によると、レモンの皮に含まれるオイルの香りには、確かにリフレッシュ効果があり、気分を落ち着かせ、やる気を出したいときや集中力を高めたいときなどに有効だとか。ジメジメのお天気が続いて気分がすぐれないなあという方は、レモンを一個買ってきて香りを楽しんでみませんか? レモンはミカン科の常緑果樹。温暖で乾燥した地域に適し、地中海地方やカリフォルニアなどが産地として知られています。最近、長崎のスーパーでよく見かけるのは、アメリカ産や南アフリカ産。そして、量は輸入ものより圧倒的に少ないですが、国内産もちらほら。その中には長崎産もあり、それぞれ微妙に姿や色合いが違います。どうやらレモンにもお国柄があるようです。 樹齢30数年のレモンの木を大切に育てている長崎の友人は、毎年冬になると収穫したレモンをお裾分けしてくれます。花の時季は5月で、とてもいい香りを漂わせる白い花を、今年も咲かせたそうです。夏場の台風を無事に乗り切れば、緑色の小さな実がだんだん大きくなり、冬、黄色くなったところで収穫します。酢のものや、はちみつ漬け、レモン酒、手づくりの化粧水と、いろんなものに利用するそうです。 レモンの歴史を百科事典で調べてみると、『原産地はインドで、古くヨーロッパに伝えられ、さらに新大陸に伝わった』とありました。レモンの伝播で大きな動きがあったのは、大航海時代です。15世紀末、コロンブスによってアメリカへ伝えられるなど、当時、海を渡った船乗りたちによって世界各地に運ばれたといわれています。 日本へは、江戸時代後期に唐船によって長崎に運び込まれたらしく、これが日本における最初のレモンではないかという説があります。しかし、その時は、定着するまでには至りませんでした。レモンが栽培という形で日本に根を降ろしたのは、明治に入ってからのことだそうです。現在、日本での栽培は、温暖な気候の瀬戸内海地方がよく知られています。  異国で味わったおいしい料理を帰国のたびに再現してくれる、旅行好き・お料理好きの友人がいます。彼女がイタリアから帰ったとき、とてもシンプルなレモンのパスタ料理を作ってくれました。作り方(2人分)は、1、細めのスパゲティ160gをゆでます。この時、スパゲティに塩味をしっかりつけるため、いつもより少し多めに塩を入れます。2、フライパンにオリーブオイル大さじ3を入れ弱火であたためアンチョビ2本くらい(量は適宜)を溶かしいれ火を止めておきます。3、レモン1/2個は手でしぼりやすいように、くし型に切り分け、皮も適量おろしておきます。4、ゆでて水切りをしたスパゲティをフライパンに作っておいたアンチョビのソースとさっとからめ、さらにレモンをギュッとしぼってまぜ合わせ、お皿に盛り、おろしたレモンの皮をかけて出来上がりです。 レモンのさわやかな酸味と、皮のほのかな苦味が効いたさっぱり味のパスタ料理。材料も、レモンと塩とオリーブオイルとアンチョビだけというシンプルさ。市場でも食卓でも、レモンを見かけない日はなかったというレモンの国・イタリアならではの料理です。参考にした本:ながさきことはじめ(長崎文献社編)、大日本百科事典(小学館)

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  • 第307号【坂のまち、長崎を歩く~相生町~】

     5月も下旬になると長崎のまちの空気は少し湿り気を帯び、そろそろ梅雨入りの気配。眼鏡橋などの石橋群で知られる中島川周辺では、そんな季節を知らせるように、「長崎あじさいまつり」がはじまり、街角のあちこちであじさいの姿を見かけるようになりました。雨の日も気分を明るくさせるブルーやピンクのやさしい色合い。坂のまちの風景に素敵な彩りを添えています。 坂のまち長崎は、平地がとても少なく、一歩裏通りに入ると、斜面地に続く坂道や坂段があちらこちらにあります。斜面地には、民家がぎっしり建ち並び、家々の間をせまい坂段が、さながら迷路のように縦横無尽につながっているのです。車が通らないところも多く、高台で騒音が届きにくいこともあり、市街地のほぼ中心部にいながら、街の喧噪を遠くに聞くような不思議な感覚があります。 今回は、長崎の坂道のある風景をテーマに、相生町(あいおいまち)へ出かけてきました。グラバー園のある南山手町のすぐお隣にある町で、南山手町同様、幕末~明治にかけて外国人居留地だったところです。どこか懐かしい雰囲気の漂う市場やお店、そして坂段があり、気ままな散策が楽しめます。 相生町へは、「築町」電停から5番系統「石橋」行きの電車に乗り、終点「石橋」電停で下車します。ちなみに、終点のひとつ手前が「大浦天主堂下」電停で、観光客の方々がグラバー園、大浦天主堂などに向かうときによく利用します。さて、「石橋」電停のすぐ近くには、グラバースカイロードと呼ばれる斜行エレベーターがあり、それを利用すると、グラバー園などがある南山手の丘の上へラクラク到着することができます。でも、今回は、「相生地獄坂」と地元の人が呼んでいる坂段を登っていくことにしました。 地元自治会が掲げた案内板の地図には、「相生地獄坂223段」と記されています。気軽な散策にしては、ハードなその段数。しかも坂段の下から上を見上げた時にわかったのですが、かなり急な傾斜でまさに名前の由来が想像できる坂段です。そこをボチボチ登りながら、途中、何度か後ろをふりむくと、少しだけ息を飲むような風景が目の前に広がります。向い側の丘全体が、家々にびっしりと覆われているのです。坂道はしんどいけれど、登って良かったなと思える長崎らしい景色でした。 「相生地獄坂」を登り切ると、「南山手レストハウス」という慶応元年頃建てられたという古い洋館の前に出ました。ここは、まち歩きをする人のための休憩所もかねていて、南山手と同じくかつて居留地だった東山手の景観を楽しむことができます。別の角度からは長崎港を望め、その景観を描いている若い外国人の姿がありました。港と洋館、石畳などのエキゾチックな風景が絵心をくすぐるのでしょう、この界隈はスケッチを楽しむ人の姿をよく見かけます。 「南山手レストハウス」のそばには、大浦天主堂の脇へと下る「祈念坂」と呼ばれる坂段があります。人ひとりが通るくらいの道幅の「祈念坂」は、どこかひっそりとした佇まいで、港側を見下ろす眺めには情緒があります。この坂は「沈黙」などで知られる作家、遠藤周作氏のお気に入りの場所のひとつだったそうです。 「祈念坂」を下りきると、「大浦諏訪神社」、「妙行寺」、「大浦天主堂」の敷地が接しあう場所に出ます。地元の人が「祈りの三角ゾーン」と呼んでいるところです。神社、お寺、教会がこんなに近くに何の違和感もなく建っているのは、長崎ならでは光景かもしれません。長崎とおなじくキリスト教ゆかりの地、平戸にもお寺と教会と神社がひとつのフレームにおさまる場所があったことを思い出しました。

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  • 第306号【長崎ゆかりの花々(春~初夏編)】

     先日、カーネーションを買いに花屋へ行くと、その種類の多さにあらためて驚かされました。赤、白のほか、イエロー系やピンク系など多彩な色合いがあり、よく見ると姿も個性的です。どれも素敵だけれど、母の日はやっぱり赤を贈るべきなのかしらと思っていたら、「みなさん、お好みで選ばれていますよ。ピンクやイエローのカーネーションもよく出ていますね」と花屋さん。また、母の日だけ注目される花かと思いきや、かわいらしくて芳香があり、花もちもいいので、ふだんからバラと並んで人気ものなのだそうです。 カーネーションの原産地は南ヨーロッパおよび西アジア。ナデシコ科の多年草です。花屋さんでは一年中見かけますが、本来は初夏が開花の時期。俳句の世界では夏の季語で知られ、和蘭石竹(おらんだせきちく)、和蘭撫子(おらんだなでしこ)とも呼ばれています。「和蘭」とくれば、出島がらみの話がありそうです。調べるとすぐにわかりました。日本へは江戸時代にオランダ船によって輸入されたそうです。ただし、現在、花屋さんで見かける花びらがフリル状になった八重咲きタイプではなく、花びらが5枚の原種に近い種類だったようです。 カーネーションのように、江戸時代にオランダ船が日本に初めて運んできた花で、今も切り花として私たちの暮らしに身近な存在は他にもあります。春~初夏の花としては、ストック(南ヨーロッパ原産)、シロツメクサ(ヨーロッパ原産)、カラー(南アフリカ原産)など。夏のヒマワリ(北アメリカ原産)、オシロイバナ(メキシコ原産)などもそうです。原産地が世界各国に及んでいるところに、西欧の国々のダイナミックな各大陸と交流がうかがえます。 大陸と言えば、長崎県には4月末から5月初旬になると地元紙で必ず花の見頃がニュースになる中国大陸系の樹木があります。対馬・鰐浦(わにうら)のヒトツバタゴ(国の天然記念物)です。中国大陸に分布するモクセイ科の落葉高木で、白くて細い花びらのようなものがモジャッモジャッと咲いているのが特長的です。小さな入江を囲む山の斜面にたくさん自生していて、開花すると純白の花が緑の山に覆いかぶさり、まるで雪のようにも見えます。この白さが海を照らすようでもあることから、別名「ウミテラシ」とも呼ばれているそうです。 対馬は韓国との国境の島。その最北端からわずか49.5キロ先に韓国があります。一万年前まで大陸と陸続きだったといわれる対馬は、ヒトツバタゴのように大陸の流れをくむ植物や希少な生きものも多く、ツシマヤマネコなどが特に有名です。 長崎市内から対馬へのアクセスは、長崎空港(大村市)からの空路や、福岡に出て博多港からの船便で渡る方法などがありますが、なかなか行く機会がなく、実はヒトツバタゴの開花の光景は、地元の新聞やニュースの映像でしか見たことがありません。しかし、長崎市内では庭木として植えているお宅があって、同時期に白い花を見かけることがありました。先日も道すがら、あるお宅の庭先のヒトツバタゴを眺めていると、「この木は昔はめずらしい木だったらしく、何の木?という意味から、ナンジャモンジャとも呼ばれているそうですよ」と家の方が教えてくれましました。ユニークな複数の名前を持つヒトツバタゴ。それだけ人々の目を引く花だったのでしょう。◎参考にした本など/大日本百科事典ジャポニカ4(小学館)、日本大歳時記~夏~(講談社)、長崎事典~歴史編~(長崎文献社)

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  • 第305号【自然と長崎の歴史を楽しむ長崎公園】

     桜の花びらが散って、風薫る新緑の季節がやってきました。街を歩けば、日傘が欲しいほどのまぶしい日射し。長崎港を囲む山々の樹木は、まるでブロッコリーのようにモコモコと葉を茂らせ、早くも初夏の装いです。そんな話を北国の知人にすると、「やっぱり、南国・九州は違うね」と、電話の向こうからまだ肌寒い春を伝えてきました。南北に長い日本をあらためて実感する季節の変わり目です。 さて今回は、春の陽気に包まれた長崎公園を散策。ちょっとユニークな光景や史跡などをご紹介します。長崎公園は、長崎くんちで知られる諏訪神社のすぐ近くにあります(長崎駅から螢茶屋行きの路面電車で約8分、諏訪神社前で下車。そこから徒歩5分ほど)。かつて玉園山と呼ばれた丘陵地で、クスの巨木などの自然林が多く残る緑豊かな公園です。園内には、アナグマ、ウサギ、日本ザル、インドクジャクなどがいる「どうぶつひろば」もあり、子供連れのお母さんたちの姿をよく目にします。 長崎公園は、1873年(明治6)に制定(内務省第6号公布)された長崎でもっとも古い公園です。鯉の泳ぐ庭園風の池があり、その中央に、公園等の装飾用としては日本でもっとも古いとされる噴水(復元)があります。訪れたときはちょうど雨上がりだったこともあり、この池に棲む幾匹ものカメがお揃いで甲羅干し中でした。池のそばには、名物ぼた餅で知られる「月見茶屋」があります。地元では諏訪神社の参拝がてら必ず寄るという人も多いようです。 公園内ではユニークな木、珍しい木もあります。「どうぶつひろば」で見かけたのは、「多羅葉(たらよう)」というモチノキ科の樹木。葉の裏に先のとがったもので字や絵をかくと、くっきりと跡が残ります。昔はハガキの代用とされたことから、別名「ハガキの木」と呼ばれるそうです。また別の場所では、メタボな姿がほほえましい「トックリの木」にも出会いました。説明板によると、オーストラリア原産で、昭和7年に上海から長崎に運ばれてきたものとか。この木は、昭和初期の上海~長崎間の交流の歴史の証人でもあったのです。 園内には「東照宮」も祀られています。「東照宮」とは、徳川家康公を御祭神としてお祀りしている神社のこと。現地の説明板によると、1652年(承応元)、公園の入り口付近に僧・玄澄が安禅寺を建立されており、御神祭は、徳川家康東照公をはじめ徳川歴代将軍。かつては多くの人々の崇敬を集め、現在長崎公園になっている敷地にはさまざまな建物が造られていたそうです。今では、そういった建物は見られませんが、その参道の跡と思われる階段や、葵の門が記された石門が残されています。 長崎公園内には、長崎開港に大きな役割を果たした当時の長崎の領主・長崎甚左衛門、近代印刷技術の発展などに貢献した本木昌造など、長崎を舞台に活躍した人物の顕彰碑や、向井去来句碑、ピエール・ロチ記念碑など長崎ゆかりの文人たちの碑がたくさん点在しています。そういった碑をひとつひとつ見ていくだけで、長崎の歴史や文化の一端が見えてきて面白いものです。のんびりとした時間を過ごせて、気が向けば、歴史もたどることができる長崎公園。ぜひ一度、寄ってみてください。

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  • 第304号【変わりゆく長崎港界隈】

     「長崎は、いい感じに発展してますね」。十数年ぶりに長崎に帰省した関東在住の友人が、長崎港界隈の散策をひとりで楽しんだ後、開口一番に発した言葉です。友人の記憶では、この辺りは古い建物などで視界がさえぎられ、もっと雑然としていたといいます。それが今や、のびやかな視界で港の景色が楽しめ、芝生でのんびりできる公園やモダンな美術館もあって、人々が楽しそうに行き交っている。友人は、故郷のうれしい変貌ぶりに心を動かされたようでした。 長崎港周辺はここ15年ほどで大きく変わりました。埋め立てによる新しい土地、新しい商業施設、新しい道路などが次々に誕生。こうして日々、新しい港町・長崎の表情が築かれていく一方で、ちゃんと古き良き長崎港界隈の魅力も残されています。今回は、そんな場所をいくつかご紹介します。 長崎駅から、稲佐山を右手に長崎港へ向かうとすぐに、波止場の方へまっすぐに伸びる「元船遊歩道」があります。この遊歩道は、昭和5年に長崎駅から出島岸壁まで延長された鉄道(臨港線)の跡を利用したもので、長崎上海航路(大正12年~昭和18年まで日華連絡船が就航)を利用する大勢の旅客を運んだ歴史を今に伝えています。この歩道のそばには新しい道路(都市計画道路浦上川線。この3月末に一部開通)ができ、これまでとは違った港湾の景色が広がっています。その景観を楽しむなら、巨大なオレンジの玉が目印の「ドラゴンプロムナード」がおすすめです。 「ドラゴンプロムナード」のそばには、地元の人々が「鉄砲玉(てっぽんたま)」と呼んでいる大きな鉄玉(全周約175センチ、直径約55.7センチ)があります。島原の乱のとき造られたという説がありますが、由来は定かではありません。この界隈を転々としながら、現在の場所に落ち着いています。小さい頃、鉄砲玉の上によじのぼって遊んだという70代の女性によると、鉄砲玉は見た目より軽く、中は空洞かもしれないとか。しかも江戸時代から存在しながら、長崎市指定有形文化財になったのは昨年のことだといいます。興味深い話がまだまだありそうなこの鉄砲玉については、いずれあらためてご紹介したいと思います。 「鉄砲玉」から徒歩3分のところに「長崎港ターミナル」があります。高島、伊王島、五島などへの定期航路のほか、長崎港遊覧船や軍艦島周遊の船もここから出ています。船着き場には、本来の役目を終えた大きな赤いアンカー(錨)が設置されています。これは大正時代、大型船をつなぐ係船ブイを固定するため港内に投入されていたもの。当時の長崎港には、日華連絡船をはじめオーストラリアやフィリピン、北米方面等の連絡船も寄港しており、このアンカーも名立たる大型船舶を係船したことでしょう。現在は陸上で、船舶の安全を見守っています。 さらに港湾沿いを進むと、かつての臨港線の「長崎港駅」があった中島川河口付近に出ます。そこには臨港線を記念する「レールと車輪」があり、そばには長崎港の歴史が書かれた本型の説明板があります。同型の説明板が他2ケ所、この界隈にありますので探して読んでみませんか。ちょっとした長崎港通になれるかもしれません。 出島岸壁沿いに出ると、飲食店が軒を連ね「出島ワーフ」があり、港の景色を楽しみながら食事ができます。そばには平成17年にオープンした「長崎県美術館」、そして運河が流れる「長崎水辺の森公園」があり、広々とした芝生の上や波打ち際で人々が思い思いに楽しんでいる姿がありました。1571年の開港以来、長崎港は西洋との唯一の窓口や海路の重要ポイントといった特別な役割を担った時代を経て、ようやく今、すべての人々に開かれ、その日常とともにある親しい存在になれたのかもしれません。◎ 参考にした資料など/ながさきの空~「大波止の鉄玉」の紹介~(十八銀行)、各所の案内板

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  • 第303号【どうして、ピントコ坂?】

     「オランダ坂」「ドンドン坂」「ヘイフリ坂」「勅使(ちょくし)坂」「地獄坂」…。長崎にあるいろいろな坂道の名前です。“オランダさん”と呼ばれた外国人たちが通っていたから「オランダ坂」、急な斜面を雨水がドンドン早く流れ落ちたから「ドンドン坂」、天皇の使い(勅使)が参詣するために整備されたから「勅使坂」…。名前の由来を知ると、坂のまち長崎の歴史や風土が垣間見えてきます。 そこで今回は、ちょっとユニークな名前の「ピントコ坂」についてご紹介します。この坂は、思案橋・丸山の背後に続く斜面地の住宅街(上小島地区)にあります。江戸時代の茂木街道(茂木~田上~長崎を結ぶ街道)の道筋にあたり、正覚寺下にある茂木街道の入り口から、高島秋帆旧宅跡(国指定史跡)前を通り、さらに少し登ったところの石段から「ピントコ坂」がはじまります。坂のゴールは、うんと高台にある県立長崎南高校(上小島4丁目)の校門前。最初から最後まで急な勾配が続き、休み休み登っても30分ほどかかりました。生活道として地元の方は利用しているようですが、坂道に慣れない方には結構しんどいかもしれません。 「ピントコ坂」からは周囲の山を見渡せ、市街地も見下ろせますが、民家やビルであちらこちらの景色がさえぎられています。でも、江戸時代には市中が眼下に広がり、きっといい眺めだったと思われます。ふと思ったのは、幕末の頃、長崎にきて倒幕のために奔走した薩摩の志士たちのことです。茂木の港は、薩摩へもつながる海路の重要ポイントで、早朝に長崎を発てば、風次第でその日の内に薩摩に着くことも可能でした。ですから、その頃何度もこの街道を往来した薩摩の人もいたでしょうし、「ピントコ坂」から見渡す長崎の街を特別な思いで眺めたものもいたのではないかと想像するのです。 さて、「ピントコ坂」の名の由来については次のような言い伝えがあります。『元禄の頃、唐の商人で何旻徳(カ・ピントク)という人物がいて、偽の貨幣を造った疑いで処刑された。馴染みの丸山の遊女・阿登倭(おとわ)がこの坂のあたりに亡きがらを葬り、自らも後を追い命を絶った』。この話に登場する旻徳さんの名前にちなんで、「ピントコ坂」と呼ばれるようになったといわれています。坂の途中には、のちに二人を哀れに思った地元の人々によって傾城塚と呼ばれる碑も建てられています。 しかし、旻徳さんと阿登倭さんの悲恋ストーリーは、まことしやかに語り継がれてきながら、同時に作り話であるとも言われています。当時、唐人さんと遊女との間の悲恋話はいろいろあり、そういった状況を語り継ぐものとして、旻徳さんと阿登倭さんの話が生まれたのではと推測されます。長崎の郷土史家のお話によると、この坂の辺りには、丸山の遊女たちの無縁墓も多くあったといいます。傾城塚もそういった遊女たちの慰霊の意味があるのかもしれません。ちなみにその昔、唐人さんは、丸山遊女を「ピャウツウ」(嫖子)と称していたそうです。「ピャウツウ」の発音が「ピントク」に変化したのかもしれないという郷土史家もいらっしゃいます。 ところで、「ピントコ」については他にも、石ころのデコボコという意味だとか、「ピントコ、ドッコイ」という囃子言葉と何か関係があるかもしれないという人もいます。歌舞伎では、細かい役柄の区別の中で、少しキリッとした男役を「ぴんとこな」というとか。また歌舞伎衣装のひとつで、唐人に扮装するときに使う「襟袈裟」(えりけさ)のことを「ぴんとこ」というそうです。ということは、もしや、あの「ピントコ」と、この「ぴんとこ」は、何か関係があるような気がしませんか? 言葉の語源や歴史の事実など、真相がわからなくなるものがたくさんある一方で、真実ではないけれど語り継がれるものもある。歴史って、本当に不思議なものですね。◎ 参考にした本/長崎市史~風俗編~、長崎の文学(長崎県高校国語部会 編)、長崎の史跡~南部編(長崎市立博物館)、NHK日本の伝統芸能(日本放送協会、日本放送出版協会 編)

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  • 第302号【長崎のメインロードだった眼鏡橋】

     長崎の代表的な観光スポット、眼鏡橋。ここ数年の間に片側の川沿いに軒を連ねていた家々がなくなり、かわって遊歩道ができるなど、まわりの景色に大きな変化がありました。しかし眼鏡橋はそんな周囲のことなど、どこ吹く風といった感じで、370年余りも変わらぬ佇まいで、2連のアーチをくっきりと川面に映し出しています。 眼鏡橋は、長崎の中心市街地を流れる中島川に架かる石橋です。中島川には、ほかにも「ふくろ橋」や「桃谷橋」など江戸時代に何本もの石橋が架けられていますが、そういった石橋群の中でいちばん最初に造られたのが眼鏡橋です。日本に取り入れられた最初のアーチ式の橋ということで国の重要文化財にも指定されています。 眼鏡橋からほど近い寺町通りの一角に唐寺「興福寺」があります。眼鏡橋は、その寺の二代目住職で唐僧の黙子如定(もくす にょじょう:1597~1657)が1634年(寛永11)に架けたと伝えられています。長崎歴史文化協会の越中哲也先生によると、「如定禅師は、神仏に通じる不思議な力を持つ人物だったようです。そういうこともあり多くの信者を得ることができた。だから眼鏡橋を造る資金としての浄財もたくさん集めることができたのかもしれません」とのこと。橋の建設にたずさわった石工たちも、興福寺の諸堂をつくるために如定禅師が中国から呼び寄せていた工人技師の中にいた人たちだったと推察されるそうです。 ところで、中島川では石橋が造られる以前は、何本もの木橋が架けられていました。しかし、どの木橋も軟弱で洪水のたびに流出しては架け直していたそうです。そこで、丈夫な石橋をかけるにあたり、酒屋町と磨屋町の間に架かっていた木橋を最初の石橋(眼鏡橋)に造りかえることになりました。では、なぜ、その場所が選ばれたのでしょうか。その理由をひもとくにあたり、越中先生は「江戸時代の眼鏡橋は長崎では最も重要な道路でありました」と、ヒントをくれました。 「眼鏡橋のあった酒屋町は、筑後柳川方面より酒樽を運び込んでいた場所です。この両隣りの町は、魚市場があった魚町、小間物問屋があった袋町。その対岸は、細工職人らが居住した磨屋町、銀屋町、そして麹づくりを営むものが多かった麹屋町など、中島川から物資を運び入れ、生活に欠かせないものをつくる町が並んでいたのです」と越中先生。どうやら、江戸時代の眼鏡橋界隈は長崎の町の中心であり、庶民の活気と賑わいに満ちていたようです。 つづいて越中先生は、「当時のメインロードは天草や島原、そして薩摩にもつながる海路のポイントである茂木港から茂木街道を通り、長崎の市中(思案橋―寺町通り―眼鏡橋―小川町ー上町)に入り、さらにそこから、浦上街道(時津や大村の城下につながる街道)へ続くルートだと考えられる」とおっしゃいます。つまり眼鏡橋の位置は、茂木港~長崎市中~浦上街道を結ぶそのルートを念頭において選ばれた場所だというのです。メインロードならばいろいろな人や多くの物が往来するのですから、丈夫な石橋が必要なのもうなづけます。長い時を経た平成の今も変わらず多くの人が往来している眼鏡橋。建造当初からそういう特別な運命を背負った橋だったのですね。 さて、越中先生からは、眼鏡橋について記した古い資料として、1715年に著された『長崎図誌』を教えていただきました。「これは長崎における最初の史跡名勝を主にした地理・歴史の記述書です」。そこには、眼鏡橋はあくまでも俗称で、奉行所などが扱う正式な名称は「第十橋」であったことが記されています。当時は、中島川に架かる橋を上流から順番に「第一橋」、「第二橋」などとしていて、正式に眼鏡橋となったのは明治15年になってからでした。 最後に、眼鏡橋の両側面の中央付近にはめこまれた石版について。そこには文字が刻まれていたようですが、風雪にさらされわからなくなっています。「眼鏡橋の架設にまつわる確かなことが刻まれていたはずなのですがね」と越中先生も残念そうです。江戸時代の長崎の風俗や景色を描いた「長崎古今集覧名勝図絵」の中にある眼鏡橋には、この石版の姿も描かれています。*取材協力/長崎歴史文化協会

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  • 第301号【シーボルトも往来した、鳴滝界隈を歩く】

     もうすぐ3月。卒業式のシーズンです。街角で花束を手にした卒業生を見かけたり、卒業式のシーンがニュースで流れるたびに、学校が懐かしくなる方も多いのではないでしょうか。当時は嫌いだった授業や先生も、時が経つほどにクスッと笑える思い出になるから不思議ですね。 「卒業」は人生の大きな節目。春休みを利用して、友達やご家族と思い出づくりの旅行を楽しむ方も多いようです。長崎でも毎年そのような旅行者の姿をよく見かけます。長崎はのどかな自然や異国情緒を楽しむと同時に、この街が近代日本の発展に大きな役割を果たしたことや平和の大切さについて学べるところです。進学や就職で新しい生活がはじまる前に、見たり、触れたり、聞いたりしてほしいことが山ほどあります。春の旅行はぜひ、長崎へお越しくださいませ。 長崎市中心部の観光は、路面電車を利用してめぐるのが定番です。今回、ご紹介する鳴滝地区へは、長崎駅から「螢茶屋」行きの路面電車に乗って、「新中川町電停」で下車します。この電停は観光スポットのひとつ「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝2丁目7―40)をめざす旅行者がよく利用するところです。どなたも電車を降りると脇目もふらずに「シーボルト記念館」へ向かうようですが、せっかくですから、その道すがらちょっと寄り道をして、閑静な鳴滝界隈を味わってもらえたらなあと思うのです。 「新中川町電停」の陸橋を北側へ降りると「丸川公園」があります。ここには「長崎港開先覚者之碑」があり、大村純忠の時代までさかのぼる港町長崎の創成期の歴史が刻まれています。その当時、長崎の中心地だったのがこの一帯でした。公園近くにある桜馬場中学校は、かつて長崎を治めた長崎氏の館の跡地です。 「丸川公園」から川筋に沿って少し歩くと、小ぶりのアーチを描いた石橋、「古橋」が見えてきます。中島川の支流に架かるこの橋は、承応3年(1654)に架けられた文字通り、古~い橋。長崎街道筋にあり、当時の旅人の姿を想像させる風情ある佇まいです。 古橋を後にして、石畳の「シーボルト通り」を抜けると、大きな自然岩があらわになった「鳴滝川」に出ます。ふだんは水量が少ないのですが、雨の後など、ザーザーと滝のような迫力のある流れが見られます。一説にはそんな景色から、第23代長崎奉行の牛込忠左衛門(うしごめ ちゅうざえもん)が「鳴滝」と命名したと伝えられています。鳴滝川の岩のひとつには、「鳴瀧」の文字が刻まれていて、これは文学を好んだ牛込忠左衛門と交流のあった林道栄(りん どうえい:大通事・書家)の書だと言われています。ちなみに「鳴滝」は、その昔、「平堰(ひらいで)」と呼ばれる田園地帯で、川の水はたいそう清く、その両岸には桃の木が並び、江戸時代には長崎を代表する景色のひとつだったとか。のちに長崎にやってくるシーボルトもその美しい光景を愛でたに違いありません。 鳴滝川の自然岩から徒歩3分で、「シーボルト記念館」に到着です。現在、開催中の「シーボルトと中国文化展」(~平成20年3月9日まで)では、清時代の煎茶道具や色絵皿などの他、シーボルト妻子像螺鈿合子(国重要文化財)が展示されています。平成20年3月19日から4月下旬までは、ミニ企画展「長崎今昔展」が開催されます。鳴滝周辺の史跡や江戸時代の長崎の市民生活を紹介する絵図などが展示される予定です。どうぞ、お見逃しなく。 「シーボルト記念館」を出たあとは、背後の裏山に登る石段を上がってみましょう。竹林や畑の脇を抜け、ほんの数分がんばれば「鳴滝」を見渡す高台に出ることができます。山の傾斜に家々がびっしりと建ち並ぶ長崎らしい光景が楽しめます。 かつてシーボルトやその門下生らが往来した「鳴滝」。この地区には他にも、石の表面に琴の線のような筋が入った「琴石」や長崎でもっとも古いといわれる赤地蔵(高林寺)もあります。「シーボルト記念館」とともに界隈の散策もお楽しみ下さい。◎ 参考にした本/長崎事典~風俗・文化編~、長崎事典~歴史編~(長崎文献社)◎取材協力/シーボルト記念館 TEL 095-823-0707

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  • 第300号【大切にしたい年中行事~長崎の節分編~】

     約2週間にわたる長丁場のお祭り「2008長崎ランタンフェスティバル」も半ばに入りました(~2/21迄)。連日、ランタンのあたたかな灯りを求めて、大勢の人々が街へ繰り出しています。まだお出かけでない方は、ぜひ、足を運んでみてください。 前回コラムでもご紹介しましたが、「長崎ランタンフェスティバル」は旧暦の新年で春の到来を祝うお祭りです。2月は、ほかにも「節分」(3日)、「立春」(4日)と、春がはじまる時期ならではの行事や節気が続きます。「節分」のように季節ごとに行われる古くからの年中行事は、もともと自然を畏れ、その恵みに感謝して生活していた昔の人々が行ってきたもので、現代まで脈々と受け継がれてきました。そこには、自然の移り変わりに注意深くあった、いにしえの人々の生活のリズムが刻まれています。 たとえば、春の「節分」の場合、旧暦でいうと「大晦日」に当たるということで、その年の厄をはらって新年を迎えるための行事が行われます。その代表的なものが「豆撒き」です。私たちはついつい豆を食べることに夢中になりがちですが、悪い鬼をはらって一年の無病息災を祈ることを忘れてはなりません。ちなみに「節分の豆撒き」のルーツは奈良時代に中国から日本の宮中に伝わった「追儺(ついな)」という行事で、鬼(禍い)を払う大晦日の儀式だそうです。 ときは現代、「節分」の日に寺社で行われる「豆撒き」や「火焼神事(ほやきしんじ)」は、昭和の時代とあまり変わらな光景で、懐かしさや安らぎを感じる方も多いのではないでしょうか。江戸時代、長崎街道へ出る人たちが旅の安全を祈願したという桜馬場天満宮では、夕刻になると小さな境内にご近所の方々が次々にやってきて、参拝。神札や正月飾りなどが次々に焚き上げられる炎で暖をとる人や、お神酒をうれしそうに飲み干すお年寄りや会社帰りのサラリーマン、境内ではしゃぐ子供たちと、何だかほのぼのとした人々の様子が印象的でした。 長崎市民の総鎮守・諏訪神社は、さすがにたいへんな人出で大賑わいでした。ここでは、「豆撒き」をする年男・年女の参加者数が例年より増えたという話を小耳にはさみました。厄払いや、定年後の契機づけにと団塊世代の参加者が増えたのでしょうか?それとも、伝統行事が見直されているから?いろいろ理由が想像されます。 唐寺・興福寺(こうふくじ)では、「長崎ランタンフェスティバル」の装飾がほどこされた本堂・大雄宝殿の前で、「豆撒き」が行われていました。おおらかでのびやかな雰囲気は、やはり唐寺ならでは。長崎でしか見られない光景です。 ところで、節分の行事食ですが、以前は見られなかった「恵方巻(えほうまき)」が、ここ数年、長崎でも出回るようになりました。これは、もともと大阪の商人が商売繁昌を願ってはじめたものだとか。長崎の節分料理で代表的なのは、お金にあやかるとした「金頭(かながしら)の煮付け」、赤大根をたくましい鬼の腕に見立てたという「赤大根のなます」があります。他にも「尺八イカの煮付け」(お腹にお米などをつめて煮たもので、蓄えを意味する)や「鯨の百尋(ひゃくひろ)」(鯨は海の魔をはらうとされたこと、また鯨のように大きくという意味で)の酢のものや和えものなどがあります。 節分の行事や食を通して、人が明日の健康や幸せを願う気持ちはいつの時代も変わらないものだとあらためて思い知らされます。こうした年中行事には、人の根っこにつながるとても大切なものが秘められているようです◎ 参考にした本/日本大歳時記~冬~(講談社)、家族で楽しむ歳時記・にほんの行事(池田書店)、長崎事典~風俗・文化編~(長崎文献社)

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  • 第299号【美しい冬景色・2008長崎ランタンフェスティバル】

     一年でもっとも寒いといわれる大寒の時季、いかがお過ごしですか?ブルブル震えるような寒さの中でも、風や日射しにときおり早春の気配が感じられます。そういえば2週間ほど前、九州では4月のような温かい日がありました。「えっ、もう春?」と驚きましたが、やはり一時的なもの。本物の春は、まだちょっと先の方で待ってくれているようです。  誰もがコタツで丸くなっていたいこの時季ですが、長崎の街は逆にソワソワとして、人々は屋外へ目を向けはじめています。というのも、中心市街地の各所で、「2008長崎ランタンフェスティバル」の準備がはじまっているからです。長崎市民は、ランタン(中国提灯)や中国ゆかりのオブジェの装飾など、日に日に極彩色に彩られていく街の様子を肌で感じながら、「もうすぐ、はじまるぞ」とうれしい期待感に包まれています。 昨年は、全国から約92万人もの人々が訪れた「長崎ランタンフェスティバル」。旧暦の元旦から約2週間行われるこの一大イベントは、もともと長崎在住の華僑の方々が、旧正月(春節)を祝う行事として長崎新地中華街を中心に行っていたもので、平成6年から現在のように官民一体となり街をあげて祝うようになりました。旧暦元旦を初日とする開催期間は、今年は2月7日(木)~2月21日(木)。旧暦元旦は新暦だと1月下旬の年もあれば、2月中旬になる年もあり、開催期間が毎年変わります。ちなみに来年の旧暦元旦は1月26日、再来年の2010年は2月14日バレンタインデーだそうです。 ところで、同時期に中国や韓国などアジアの国々でも「春節」を祝う行事が行われています。ニュースでその様子を見るたび、「長崎ランタンフェスティバル」は、華やかさではどこにも負けてないぞと思ってしまうのです。長崎の中心市街地一帯にぎっしりと飾られる約15,000個のランタンは、夜になると温かくてやわらかな光を放ち、街の表情は一段と幻想的になります。徒歩5~10分圏内でつながる6ケ所の会場(湊公園・中央公園・唐人屋敷・興福寺・浜んまち・鍛冶市)では、中国雑技や龍踊り、中国獅子舞、二胡の演奏、太極拳などが毎日展開され、悠久の歴史を持つ中国の多彩な魅力をたっぷり楽しむことができます。 「2008長崎ランタンフェスティバル」のいくつもある見どころの中で、見逃せないのはメイン会場の湊公園に登場する干支の巨大オブジェです。「老鼠娶親(ラオ・スー・チィー・チィン)」という名前で、正月の3日に「ねずみ」が嫁にいくという中国の言い伝えにちなんだもの。8メートルの高さです。 眼鏡橋がかかる中島川界隈へもぜひ、足をのばしてください。たくさんの黄色いランタンが水面に揺れて、他の会場とはひと味違った美しい光景です。川沿いには、金魚や鴛鴦(おしどり)など、水にちなんだオブジェが並べられています。どこか愛嬌のある縁起のいいオブジェたちが、新年に福を運んでくれそうです。 今年こそ素敵なご縁を願う方は、中国の縁結びの神様「月下老人」にお願いしてみましょう(浜んまちの浜屋デパート前)。白髪、白眉、白髭の素敵な爺様です。特製の「赤い糸のお守り」(100円)も用意されています。 それから、興福寺、崇福寺などの唐寺めぐりや、週末なら江戸時代の唐人屋敷跡で、点心を食べたり、中国茶を飲んだりしながら古き良き中国を訪ねるのもおすすめです。新しい年をアジアらしく祝う「2008長崎ランタンフェスティバル」。新暦で出遅れた方は、長崎で新たな年をスタートさせましょう!◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会

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  • 第298号【言葉のことはじめ(方言と外来語)】

     あけましておめでとうございます。今年もみろくや「ちゃんぽんコラム」では、いろいろな長崎の魅力を探してお届けいたします。本年もよろしくお願いいたします。さて、今年最初のテーマは「言葉」。方言や長崎由来の言葉などをご紹介します。 さて、お正月、故郷へ帰省された方々は、迎えてくれたご家族や友人たちと、楽しいひとときを過ごされたと思います。ある方は、故郷の方言を思いきり使って会話をしていると、温かい気持ちになり、素にもどるようだとおっしゃっていました。方言はその地域の風土の中で生きる人々が長い間に育んだ言葉。人々の感覚や考え方が言語化されているといいます。端正に整えられた共通語よりも親しみを感じたり、素にもどったりするのは、より人間味のある言葉だからなのでしょう。 ところで、旅先などで土地の人が何を言っているのか全くわからなくて困ったことはありませんか?土地のお年寄りが話す筋金入りの方言は、まるで外国語。カルチャーショックをうけますよね。話が少しそれますが、外国語と言えば、英語、韓国語、中国語などいろいろありますが、そういった国や民族の言語は、世界におよそ6000ないし7000もあるそうです。しかし、今、その内の90~95%が、民族や話し手の減少などによって絶滅寸前あるいは消滅の危機に瀕しているとか。言語にはその国や民族の文化が宿っているだけに、1つの言語が消えることは人類にとって大きな悲劇だと学者さんは言っています。日本でいえば、アイヌ語も消滅の危機が懸念されているそうで、近年アイヌ語を残そうとする活動が展開されているようです。 絶滅危機の問題は、動物や植物の世界だけでなく言語の世界にも起きていたのですね。言語も多様性がある方がいい、専門家でなくても、そう思う人は多いのではないでしょうか。日本語の場合、全国津々浦々、たくさんの方言を擁していますが、方言を大切にすることは、地域の人々や文化を大切にすることにほかならず、最近では、方言が見直されているそうです。「おいしい」は、長崎では「うまか」、青森では「め」、岩手や秋田、山形は「んめぁー」島根は「んまい」、宮崎や鹿児島では「んめ」沖縄は「まーさん」。「大きい」は、長崎や福岡、佐賀、熊本では「ふとか」、同じ九州でも宮崎では「おっこね」、福島は「ずなぇー」、静岡は「いかい」、東京は「でっけー」、福井は「いけー」です。方言は基本的に「話し言葉」。実際に現地で耳にしたいですね。 長崎県・五島では驚いた瞬間に思わず「あっぱよ」といいますが、同じ長崎県でも他の地域にはない言葉です。こんなふうに津々浦々で独特の言葉が見られ、同じ言葉でも微妙にイントネーションやニュアンスが違ったりします。本当に方言って不思議で面白いものですね。 お次は、長崎ゆかりの外来語について。古く中国、ポルトガル、オランダとの貿易港として繁栄した長崎には、さまざまな海外の文物が持ち込まれました。同時にやって来た外国語も長崎人の耳が聞き取り、訳して生活に溶け込んでいったのです。中国ゆかりでいえば、たとえばトンスイ(湯匙)。中華料理で使うチリレンゲのことですが、長崎ではトンスイと呼ぶ人がまだまだいらっしゃいます。他には、サジ(茶匙)、ジタバタ(七転八倒)、ヒョウキン(剽軽)なども中国渡来。すっかり日本語として定着しています。 約400年も前の南蛮貿易時代にもたくさんの言葉が伝わりました。カステラ、カルタ、コーヒー、トタン屋根のトタン、パン、ボタンなど。オランダからは、おてんば娘のオテンバ、苦い薬を飲む時に欠かせないオブラート、ガス、コップ、コルク、ポンプなど。海外との交流で新しい言葉にあふれた当時の長崎は、おおいに人々の心を刺激したはず。こうした言葉の面からも、当時のこの街の豊かさ、華やかさが想像できるようです。◎参考にした本/世界の先住民族10~失われる文化・失われるアイデンティティ(明石書店)、長崎事典~風俗・文化編(長崎文献社)、いろんな方言がわかる本(メイツ出版)

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  • 第297号【長崎の古き良き果実・ゆうこう】

     クリスマスが過ぎていよいよ今年もあとわずか。新年を迎える準備でお忙しい中、当コラムを読んでくださってありがとうございます。さて、今回は、新しい年に向けて、夢と希望のつまった長崎の果実「ゆうこう」をご紹介します。現代人が気にする健康づくりにも役立つ可能性を秘めたうれしい果実です。 「ゆうこう」は、ユズ、カボス、スダチ、レモンといった香酸柑橘類の一種です。見た目はユズや日向夏に似て、冬場の収穫時の色合いはレモンイエローならぬ「ゆうこうイエロー」と表現したくなるような明るくてやさしい黄色です。香りは、ユズよりも甘くまろやか。果肉は瑞々しくやわらかで、苦味がほとんどなく、レモンをかじった時のようなしかめっ面にはなりません。他の香酸柑橘類と同じように、主に肉料理、魚料理、酢の物などの調味料や薬味として使います。 「ゆうこう」は、もともと長崎市の限られた地域に分布していたもので、その独自性から長崎赤カブ、長崎白菜(唐人菜)、辻田白菜などと並んで、長崎の伝統的な農作物のひとつになっています。ところで、その分布地域は、土井ノ首(どいのくび)地区周辺、外海地区という、いずれもかつて深堀・鍋島藩領だった地域です。また、それらの地域の教会周辺などで多く見られたことから、同藩やかくれキリシタンに関係した歴史があるのではと想像したのですが、長崎市ゆうこう振興会会長の中尾順光さんによると、「残念ながら今のところそういった史料は見つかっていません。また、長崎という土地柄、中国、ヨーロッパなど、海外から渡ってきた可能性もありますが、ルーツは定かではないのです。ただ、江戸時代後半にはすでにこういった地域の家々の庭先などに植えられていたというのはわかっています」。 その「ゆうこう」が、専門機関の調査で新種の果実と判明したのは数年前のことです。それまで、地元の人にとってはあまりに身近な果実だったので、わざわざ調べることもなかったのでしょう。また、時代とともに日本の食が多様になる中、他の調味料に押され、「ゆうこう」の木は伐採されるなどして次第にその数は減ってきたのだそうです。 ここにきて、「ゆうこう」があらためて注目を集めているのは、新しい品種だったからだけではありません。長崎県果実試験場や地元大学で主要フラボノイドの量を調べた結果、身体にいい成分がユズ、日向夏などより多いことがわかり、機能性食品としての可能性が見えてきたからです。たとえば、果肉、果皮、種子には、血液中と肝臓の中性脂肪濃度を低下させたり、活性酸素の生成を抑制する働きのある成分が認められています。また、果肉には血液中のコレステロールを下げる効果もありました。中尾さんは、「健康飲料、化粧品、そして薬品など、いろいろな可能性を秘めています」と大きな夢をふくらませています。 現在、「ゆうこう」は、長崎市西山木場地区で栽培している中尾さんをはじめ市内の認定農業者8人による栽培がはじまったばかりです。「本年度の収穫は約1,000個を見込んでいます。まだ、生産量が少ないため、欲しいと思っても手に入らない方もいらっしゃるかもしれません。これから、がんばって生産を拡大していきます」。そんな中、ゆかりの地・外海地区にある「道の駅・夕陽が丘そとめ」では、今月初旬に「ゆうこう」の初売りまつりが行われました。「ゆうこう」をはじめ、パン、クッキー、ママレード、こんにゃく、ちらし寿司など、「ゆうこう」のやわらかな酸味と香りをいかした食品がいろいろ販売されていました。 「ゆうこう」から生まれるおいしい食は、人と人との「友好」のきっかけをつくり、身体にも「有効」と、良いことづくめ。来る新年、長崎ブランドのひとつとしての発展に大きいな期待が寄せられています。◎ 「ゆうこう」など長崎市の伝統的な農作物に関するお問い合わせは、長崎市水産農林部水産農林政策課 ◎参考資料/「ゆうこう」リーフレット(長崎市農林部地産地消推進課・長崎市農林部農林振興課)

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  • 第296号【長崎の甘く優しい香り~マダム・バタフライ】

     すれちがった人からの香りに、ふと足を止め、思わず振り返る。それは、かつての恋人や気になる人と同じものだったり、懐かしい思い出のシーンの香りだったりして、一瞬にして過ぎ去ったことがよみがえってきます。香りはまるで記憶を呼び覚ます魔法のよう。香りに導かれた思い出にせつなくなったり、やさしい気持ちになったり。この世に香りがなかったら、どんなにつまらないものだったでしょう。 国内外の化粧品メーカーなどからいろいろな種類が出回っている香り。そのタイプも表情も実に多彩です。そんな香水界に、この秋、またひとつ魅力的な香りが誕生しました。その名もオードパルファム『マダム・バタフライ』。長崎を舞台に一途な愛に生きた女性を描いた名作オペラ「マダム・バタフライ」にちなんでつくられた長崎限定の香水です。資生堂と長崎国際観光コンベンション協会の共同開発で、発売から一ヶ月ほどしか経っていませんが、すでにその香りのとりこになってリピータになった女性もいるほど、やさしく素敵な香りです。  長崎港を一望する庭とテラスのある家からストーリーがはじまりまる、オペラ「マダム・バタフライ」は、幕末から明治にかけての物語です。当時の長崎は、開港により多くの外国人がやってきて、街は西洋と東洋がブレンドしたハイカラな空気に包まれていました。そんな時代背景の中、アメリカからやってきた海軍士官ピンカートンと日本人女性の蝶々夫人は出会い、結ばれます。が、やがて夫は本国へ帰ることとなり、彼女は3年以上も待ちわびることに。彼女の心の支えは、夫が別れぎわに残した「バラが咲き、コマドリが巣を作るころ帰ってくる」という約束でした。そして、ようやく長崎にもどってきたピンカートン。しかし、彼は本国で再婚した妻も連れていたのです…。 蝶々夫人の悲恋に多くの人が涙したオペラ「マダム・バタフライ」。そのストーリーの中に、ピンカートンが長崎にくることを知った蝶々夫人が、庭に咲いたバラ、桜、スミレなどたくさんの花々を残らずつんで居間中にまくというシーンがあります。その花々は夫を待つ間、必ず帰ってくると信じて大切に育てていたものでした。ひたむきにひとりの人を思い続けた蝶々夫人。オードパルファム「マダム・バタフライ」は、そんな蝶々夫人の「純愛」をイメージしたのです。 オードパルファム「マダム・バタフライ」の香りは、バラの香りをベースにしたフローラルブーケタイプです。桜や梅などの日本的な香りも配合され、西洋的であり東洋的でもある、まさに長崎らしい香りです。香り立ちは、つけたときから時間の経過によってトップノート(つけてから30分くらい)、ミドルノート(つけてから30分~1時間くらい)、ラストノート(つけてから3時間以上)という3段階に分けられますが、オードパルファム「マダム・バタフライ」の場合、桜・梅・バラの優雅で気品のあるトップノートから、すみれ・ラズベリー・バラのひかえめな甘さに安らぐミドルノート、あやめ・白檀・ホワイトムスクの豊かで温もりのあるラストノートと変化して、つけた人を楽しませてくれます。 ところで、世界中で愛されるバラは、アロマテラピーの世界では、リラクゼーション効果があり、なごやかな気分にしてくれる香りだといわれています。だからなのか、その香りをベースにしたオードパルファム「マダム・バタフライ」をつけると、心地良さに包まれ日常的に愛用したくなります。冬の冷たく乾いた空気の中も、この温かみのある香りがほっと気分をなごませてくれることでしょう。 オードパルファム「マダム・バタフライ」をつけた感想として、「いろんな花の香りが楽しめていい」「どこか懐かしい感じがして好き」「個性が強すぎず、好ましい」「気分が落ち着く」などの声が聞かれました。もうすぐ、クリスマス。バラ好きの女性へ、長崎を懐かしがる方へ、そして自分へ、素敵な香りのプレゼンはいかかですか?記憶に刻まれるロマンチックな香りの思い出が生まれますように。◎参考にした本/ジャコモ・プッチーニ生涯と作品(春秋社)、香水の事典(成美堂出版)

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  • 第295号【長崎の紅葉と帰化植物】

     北の方では大雪、九州では初氷と、急激に冷え込んだ11月中旬過ぎ。いきなりやってきた真冬に、あわてて冬物のをコートをひっぱり出した方もいらっしゃるのではないでしょうか。極端な気候の変化で、風邪をひく方も多いようです。野菜や魚介類がたっぷりのちゃんぽんで、身も心も温かくしてお過ごしください。 気温は徐々に下がってはいるものの例年より温暖に感じられる長崎の初冬。稲佐山など長崎港を囲む山々を見渡せば、今年の紅葉はいまひとつ。地元で昔から、『春は中川カルルスの桜、秋は妙相寺(みょうそうじ)の紅葉』といわれるほど、紅葉の名所として知られる長崎市本河内の妙相寺へも行ってみましたが、例年のような美しい紅葉は見られませんでした。ご近所の方も、「今年は暑い日が長く続いたせいでしょう」と残念がっていました。 1679年に開創された妙相寺は、異国風の立派な石門で知られています。ここは中国ゆかりのお寺で、江戸時代後期は長崎にいる中国人たちの、何か異変が起きた際の避難所とされていたとか。石門はもともとは近くの長崎街道沿いにあったものを現在の場所(境内)に移したのだそうです。手入れをされた石門前の植木を見ると、「おや?」。紫陽花が季節外れの花を咲かせていました。ところで、前述の春は桜とうたわれた「中川カルルス」とは、今の長崎市の中川、新中川地域にあった憩いの場のことです。かつては数千本もの桜が植えられ、温泉場や茶店などがあったそうです。「カルルス」とは、カルルスバート(チェコスロバキア)の鉱泉を結晶させたカルルス水で沸かしていたことに由来しています。 長崎の繁華街にほど近い寺町通りの一角にある大音寺の大イチョウは、きれいな黄色に染まっていました。こちらは例年通りかなと思っていたら、「紅葉はいつもより遅れています。本当ならみごとな黄金色になるけれど、今年は、色づきが足りない。このまま落葉するかもしれません」とお寺の方はおっしゃっていました。 いつもと違う秋を感じながら、今度は足下の植物に注目して、長崎の街を歩いてみました。石を敷いて造った古い溝の石と石の間からはホウライシダといわれる帰化植物がかわいい葉を出していました。世界の熱帯亜熱帯に広く分布している植物で、観葉植物の「アジアンタム」によく似ています。江戸時代には観賞用に栽培されていたそうです。また、電柱や建物のたもとや空き地などでは、ヒメツルソバ(ヒマラヤ原産)がたくさん見られました。直径1センチほどの白やピンクの球状をした花は、本来は夏場に盛るらしいのですが、まだまだねばって咲いています。さらに、ハゼラン(西インド諸島原産)、サフランモドキ(中央アメリカ原産)などもまだ花が見られました。 実は、ホウライシダやヒメツルソバなど、ふだんよく目にしていたのに、長い間、名前は知りませんでしたが、先日、植物の専門家の方と長崎の街の帰化植物をたずね歩く催しに参加した時に教えていただきました。その時、身近にある多くの植物が帰化植物であることを知りました。アサガオ(インド~ヒマラヤ原産)、ハナカタバミ(南アフリカ原産)、コスモス(メキシコ原産)、キバナコスモス(熱帯アメリカ原産)などもそうです。また、クローバーことシロツメクサ(ヨーロッパ原産)は、オランダ船がガラス製品などのわれものを運ぶ時、クッション代わりに詰め込まれ、その種子が広がったというのは、長崎ではよく知られています。専門家の話によると、「古くから中国や出島でオランダとの貿易が行われていた長崎には、特に帰化植物が多い」ということでした。 たんに雑草としてかたずけていた身近な植物も、その名前を知れば、親しみがわいてくるもの。それに、意外な歴史を持っていたりすると、ますます興味がわいてきます。木枯らしに負けないで、植物図鑑を片手にちょっとご近所を歩いてみませんか?◎ 参考にした本/長崎の史跡(長崎市立博物館)、日本帰化植物写真図鑑(全国農村教育協会)、ながさきことはじめ(長崎文献社)

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  • 第294号【世界で認められた長崎・明治屋商店のソーセージ】

     数カ月前、長崎の地元紙にうれしいニュースが掲載されました。長崎のハム・ソーセージ製造販売の老舗、「明治屋商店」のソーセージが、ドイツ・フランクフルトで5月に開かれた国際食肉産業専門見本市「IFFA2007」の『ハム・ソーセージ国際品質コンテスト』ソーセージ部門で金賞と銀賞を受賞したのです。 ドイツといえばビールの本場で知られていますが、同時に「ヴルストラント(ソーセージの国)」と言われるほど、たくさんの種類のソーセージがあることでも知られています。3年に1度開催されているこのコンテストは、本場ドイツで130年の歴史を誇り、安全性、品質、味など何項目も審査され、おいしくて誠実な製品が選ばれるといいます。世界中からその道の職人たちが競って出品する中での今回の受賞。まさに世界に認められた明治屋商店のソーセージなのです。 「明治屋商店」は、大正10年(1921)創業。長崎で生まれ育った会社ですが、業務用の商品が中心だったため、一般消費者にはその名はあまり知られていなかったようです。「長崎市内の方でしたら、学校給食などでうちのハム、ソーセージ、ベーコンなどを食べていただいたと思います。また、地元のホテルやレストラン、福岡など九州各県のコンビニのお弁当にも使っていただいています」と代表取締役の田川俊幸氏。 今回、受賞したのは金賞がリオナソーセージ、ハンターソーセージ、銀賞がビアシンケンの全3品で、いずれもヨーロッパではオーソドックスなタイプです。ハム・ソーセージ作りの職人でもある田川氏がドイツ式の製法にこだわって作りました。「牛肉と豚肉をなめらかな絹びきにしたものをベースにしたソーセージで、増量剤、化学調味料、合成着色料などは添加していません。豚肉は新鮮な長崎県産。牛肉は安全性で信頼できるオーストラリア産のモモ肉。どちらも自然な熟成でソーセージの結着力を高め、肉本来の力で固まらせています」。食べてみると、ほどよい弾力で口当たりがやさしい。デンプンやその他の添加物などを使用したタイプにあるプリプリ感とは違う食感です。 リオナソーセージは、ドイツの香辛料と塩味がほどよく効いた味わい。ハンターソーセージは、なめらかなソーセージに粗びき豚ウデ肉を混ぜ、ピスタチオをちりばめています。ビアシンケンは、角切り豚モモ肉を混ぜ、ビールによくあうスパイスの効いたおいしさです。「日本ではソーセージを焼いて食べる方が多いようですが、まずは、そのままクラッカーやパンなどにのせて食べていただきたいですね」。 風味豊かな香辛料、特殊なケーシング(詰め物)はドイツ製。塩は天草の天日塩を使っています。「ドイツ製の塩は、辛さにカドがあるのです。それで、まろやかな辛さの天草の天日塩にしました」。また、田川氏がドイツ式の製法にこだわったのは、「素材を大切にした作り方をするから」だといいます。手間がかかり大量生産がしにくい製法ですが、製品のひとつひとつに目が行き届くこのやり方を貫いているのです。「食品の仕事に携わるものとして、常にお客様の喜ぶ顔を想像して、おいしく、安全なものをと思っています」。 今回、初めての出品で、めでたく受賞を果たした明治屋商店のソーセージ。しかし、当初は出品する予定はなかったそうです。「同業の方々との研修ツアーで『IFFA2007』を見学することになっていて、せっかくだから出品してみたらとすすめられたのがきっかけです」。長年、手作りにこだわって作り続けてきた職人の技が、こうして世界に認められたのでした。◎取材協力/(有)明治屋商店◎ 参考にした本/FOOD ‘S FOOD 食材事典(小学館)

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