第315号【街道を歩く~矢上宿~】
日中は蒸し暑いのですが、朝晩はけっこう冷んやり。油断してると鼻風邪をひくなど体調を崩しがちです。どうぞ、お気を付けください。今回は、陽射しが柔らかくなったので、ウォーキングをかねて長崎市矢上地区にある長崎街道・矢上宿の歴史散策を楽しんできました。
矢上地区は、長崎駅から東へ車で15分ほど。江戸時代でいえば、長崎から日見(ひみ)の次に来る2番目の宿場町です。ここ「矢上宿」は、長崎街道と島原街道との合流点で交通の要所でもありました。また、日見までは長崎奉行の支配下でしたが、矢上は佐賀藩(鍋島)の支配下にあった諫早氏の領地でした。つまり矢上宿は、長崎の東の玄関口で国境に位置する重要な宿だったのです。
散策は「矢上番所跡」からスタート。「矢上番所跡」は、橘湾の河口にほど近い中尾川にかかる番所橋のそばにありました。往時の矢上番所は、平屋瓦葺きの建物で、頑丈な門があったとか。説明板には、『頭役以下の役人が警備。長崎に向かう武士、留学生、商人など旅人の往来を厳重に監視した』と記されてました。
ちなみに番所橋は、現在はコンクリート造りですが、以前は石造りのアーチ橋で、1838年(天保9)に佐賀藩によって架設されたそうです。かつての諫早領で佐賀藩ゆかりの石橋といえば、本明川にかかる眼鏡橋が有名です。こちらは番所橋の翌年1839年(天保10)に架けられています。諫早の眼鏡橋の屈強さはよく知られており、一説には、日本が諸外国に開国を迫られていたその時代、軍備を整えはじめた佐賀藩の思惑が関係しているといわれていますが、この番所橋もその一連であったのでは?と想像してしまいます。
さて、「矢上宿」の街道は、国道34号線と平行してあり、宿場町らしくほぼまっすぐにのびています。番所橋から矢上宿のゴール地点と定めた教宗寺まで、早足で歩けば、わずか15分足らずの距離。そんな小さな宿場町も、近くの名所旧跡に寄り道しながら歩けば、1時間以上はかかるようです。
「矢上番所跡」から徒歩3分のところにある「諫早領役屋敷跡」。瓦のついた小さな門と木塀に囲まれた趣のある古い民家です。説明板によると、ここは長崎開港によって、近隣の佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との間で、頻繁に報告事項や紛争、願書の処理が生じたため、その執務にあたるために設けられたそうです。
宿場街道から少しそれたところには、大名や幕府関係者が宿泊したり、休憩したという「本陣跡」(現在の長崎自動車学校のところ)がありました。さらに、県下有数のクスの巨木(矢上八幡神社)とも出会いました。
「矢上宿跡」の碑が設けられた矢上神社を経て、いよいよゴールの教宗寺へ。長崎街道に面したこのお寺は、往来者の休憩所として利用されたそうで、1729年(享保14)に象と象使いが宿泊。1826年(文政9)にはシーボルトが休憩・昼食をとったそうです。
橘湾がすぐそばに広がる矢上宿は、中尾川、八郎川、現川川の3本の川にも囲まれています。街道沿いにはいくつもの恵比寿様が祀られていて、この地の人々が古くから川や海と深く関わっていたことを物語っていました。長崎への往来で賑わった江戸時代以前の歴史にも興味がわいた歴史散歩でした。