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  • 第278号【伝統の長崎風パイ、パスティ】

     ミートパイやアップルパイなど、パイ生地を使った料理やお菓子はいろいろ。小麦粉にバターを練り込んで焼き上げたそのおいしさは、サクサクとして香ばしく、大好きな方も多いことでしょう。 今でこそ日本人の食生活に馴染んではいるものの、パイは紛れもなく異国の食べもの。では一体、日本で初めてパイ料理が食べられたのはいつ頃だったのでしょう。長崎の歴史書をひもとけば、少なくとも、江戸時代の出島ではオランダ人らが食していたことがわかっています。 当時、出島のオランダ屋敷の食卓に招かれご相伴にあずかったり、見聞する機会のあった日本人もいたようです。その中には、大槻玄沢(おおつきげんたく:江戸中期の蘭学者)のように、詳細なメニューを書き残した人もいて、その中に「パスティ」の名称でパイ料理が記されています。 また、出島には、「オランダくずねり」と呼ばれる日本人の料理人が数名いました。彼らが仕事を終えて家に帰れば、その日どんな食事を作ったか周囲に話して伝えたこともあったでしょう。中には草野丈吉(くさのじょうきち)のように、出島で料理の腕を磨いて、西洋料理店を開いた者もいました。彼らは、西洋料理を日本に広げる大きな役割を果たしたといえます。 ところで、丈吉が幕末の文久3年(1863)に長崎・伊良林で開いた店は、西洋料理店の発祥といわれています。後に諏訪神社前で営んだ「自由亭」は、外国の賓客をもてなす場としておおいに活用されたそうです。みろくやホームページの『長崎の食文化』の中で、著者の越中哲也先生(長崎の郷土史家)は、当時、丈吉が用意した献立について次のようなものであったろうと記しています。『牛のソウバ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒー(カステラやカスドースなどの洋菓子付)』。 その中にある「パステ(肉入りパイ)」は、大ぶりの鉢の中に、鶏の切身や椎茸、木耳(きくらげ)、ねぎ、コショウ、肉豆寇(にくずうく)などが入っていて、麦粉とボートル(※バターのこと)で作ったパイ生地を上に付けて焼いたもの、と別の文献にありました。 現在、パスティは卓袱料理店などで出されるものの、一般家庭ではほとんど作られていないようです。でも、市販のスープの素やパイシートを利用すれば、意外に簡単に作れます。1、適量の水に鶏ガラスープの素を入れて煮立て、食べやすい大きさに切った鶏モモ肉、にんじん、長イモなどを入れて煮ます。2、野菜が煮えたら、さらに銀杏と木耳を加え、塩、コショウ、酒で味を整えれば、鉢の中に入れる野菜スープの出来上がりです。3、冷ました野菜スープと別途スープで下煮したもやしを鉢に盛り、ゆで卵を半分に切ったものを飾るように載せます。4、パイシートを1センチ幅に切り、盛った鉢の上に格子状にのせ、180度から200度のオーブンで15~20分ほど焼きます。パイの香ばしい匂いがキッチンに漂いはじめたら、出来上がりの合図です。ぜひ、チャレンジしてみてください。  ずいぶん前、ある料理屋さんで、お煮しめが入ったパスティが出て、ちょっと驚いたことがありましたが、パスティはそういうものだと聞かされました。それがおいしかったかどうかは別として、どうやらパスティは、時代や状況に応じて変化しながら、長崎の郷土料理のひとつとして生き延びているようです。※ 参考にした本や資料/「長崎卓袱料理」(ナガサキ イン カラー)、みろくやホームページ「長崎の食文化」

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  • 第277号【桃カステラで春を祝おう】

     長崎のおめでたいお菓子といえば、桃カステラ。ほのかにピンク色の愛らしい姿は、桃の節句をはじめ結婚式や出産などのお祝い事に欠かせない存在です。桃カステラと言っても、長崎以外の地域の方にはほとんど馴染みがないと思います。その名を聞いて、桃の味がするカステラ?と思われる方が多いようですが、桃の果実は使っていません。 桃カステラは、ポルトガル伝来のカステラ(スポンジ)の上に、中国で不老長寿の縁起物とされる桃の姿をフォンダン(糖衣)で描いたもの。大人の手のひらいっぱいに乗る大きさで、高さは5~7センチほどあります。長崎では桃の節句が近付く頃、多くの和菓子店や洋菓子店の店頭を飾り、春の訪れを告げるのです。 異国情緒あふれる長崎の歴史の中から生まれた、桃カステラ。カステラとフォンダンで桃をかたどった基本スタイルはどのお店も変わりませんが、味も表情もお店ごとに趣向を凝らし、個性がみられます。各店を食べ比べ、御ひいきの桃カステラを見つけるのも楽しいものです。 さて、長崎の数ある桃カステラの中で、ここ数年、おいしいと評判を集めているのが、和菓子店「穂俵(ほだわら)」です。「穂俵」は、長崎の老舗洋菓子店「梅月堂」の和菓子部門として20年前にオープンしたお店。その桃カステラは、スポンジケーキを思わせるふんわりとした口あたりで、やわらかなフォンダンと絶妙なハーモニーをかもします。その姿も品があり、とてもやさしい表情です。 ところで、「穂俵」を擁する「梅月堂」は、長崎ではめずらしく長い間、桃カステラを作っていませんでした。「梅月堂」は、長崎の中心商店街、浜町アーケード内に本店を構える明治27年(1894)創業のお店。地元では、知らない人はいないお店ですが、創業当時は和菓子専門店であったこことは、あまり知られていません。 本格的に洋菓子専門店として歩みはじめたの昭和30年頃で、実はそれ以前までは、桃カステラを作っていたそうですが、本格的な洋菓子に専念したいという当時の経営者の強い思いから、一切作らなくなりました。とはいえ、お客さまからは、梅月堂の桃カステラを食べたい、作ってほしいという要望がずっと絶えなかったといいます。そうして、ようやく3年前、和菓子部門の「穂俵」から登場することになったのです。 「穂俵」の和菓子職人さんによると、穂俵の桃カステラは、「長年培った洋菓子の技術でつくったスポンジの生地と、和菓子の技を活かしたもの。スポンジもフォンダンもやわらかな口あたりで食べやすい」といいます。桃を描いた上の部分は、「ボカシ」という和菓子の技でほのかな桃色のグラデーションを出し、ひとつひとつ手作業でなめらかなフォンダンを3回くぐらせ、ほどよい厚みと輪郭を整えています。 また、「穂俵」には、桃カステラとは別に、「桃まんじゅう」もあります。こちらは、米からできた上用粉と山芋でつくったきめ細やかな皮で、しっとりとしたこしあんを包んだ上用まんじゅうです。桃カステラとはまた違った愛らしい桃の形と上品なおいしさで、根強いファンがいます。 もうすぐ、桃の節句です。縁起物の桃カステラや桃まんじゅうで、うれしい春を呼びこみませんか?※ 取材協力/「梅月堂」 HPアドレス http://www.baigetsudo.com/

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  • 第276号【もうすぐ開幕!2007長崎ランタンフェスティバル】

     異国情緒あふれる長崎の冬を極彩色の灯りが彩る「2007長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります!今年は2月18日(日)から3月4日(日)まで。毎年、開催時期が変わるのは、旧暦の1月1日(春節)~15日(元宵節)に合わせて開催しているからです。そう、長崎ランタンフェスティバルは中国の旧正月を祝う行事なのです。 訪れる市民や観光客が約86万人にものぼる巨大なお祭り「長崎ランタンフェスティバル」。その魅力は、何といっても圧巻ともいえるランタン(中国提灯)の装飾です。長崎市中心部(湊公園・新地中華街、浜市・観光通りアーケードなど)を、おおうように飾られるその数は約1万5千個にもおよび、見知らぬ異国に来たような幻想的な雰囲気を漂わせます。 ランタンとともに、街ゆく人の目を楽しませてくれるのが、中国伝説の神々や動物、人物を象ったオブジェです。今年は、新しいオブジェが登場!それぞれのオブジェには、由来となった伝説や縁起が説明板に記されており、それを見て歩くだけでも面白いものです。 毎年、干支の大型オブジェが飾られるメイン会場の湊公園には、『諸(猪)事如意』(何ごともうまくいきますようにという意味)というタイトルのかわいらしい「豚」のオブジェが登場します。中国では「猪」は「豚」のこと。豊年収穫、富みのシンボルで、子孫繁栄なの願いが込められています。 中国獅子舞や中国雑技、龍踊り、二胡の演奏など、中国色豊かな催しが行なわれる会場は 1、湊公園会場(新地中華街そば) 2、中央公園会場(浜町アーケードから徒歩3分) 3唐人屋敷会場(湊公園から徒歩3分)など。さらに、興福寺会場(寺町通りの一角。浜町アーケードから徒歩5分)や、各会場を結ぶルートにある浜町アーケード、鍛治市商店街などにも会場が設けられ、各種催しを見ることができます。華やかな中国衣装を身にまとった皇帝パレード(2/24、3/3開催)や媽祖行列(2/25、3/4開催)も見逃せません。 ランタンがかもし出すロマンチックな雰囲気は、若いカップルに好評のようです。片思い中の方や良縁を求める方は、ぜひ、浜町アーケード内に設けられた「月下老人」のオブジェを探してください。「月下老人」は、中国の縁結びの神様。手にした巻き物のには、結ばれる二人の名が記されているという伝説があるとか。「月下老人」のそばでは長崎ランタンフェスティバル特製の「赤い糸のお守り(100円)」も用意されているそうです。 眼鏡橋がかかる中島川にもぜひ、足を運んでください。朱色が中心のランタンですが、ここだけは黄色のランタンが一斉にともり、水面にその色を映して美しい風情をかもします。川沿いのオブジェも去年以上に充実。中島川のいつもと違う表情を楽しめます。 「長崎ランタンフェスティバル」は、15日間におよぶ長丁場のお祭りです。期間中、お天気に恵まれれば何よりですが、実は、雨に濡れそぼるランタンと街の表情も素敵です。水たまりに映ったランタンは、カメラ片手に街に繰り出した人々にとって魅力的な被写体になることでしょう。◎ 取材協力/長崎市観光宣伝課

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  • 第275号【長崎~江戸の歴史街道を歩く~後編~】

     前号に引き続き、長崎~江戸の歴史街道(1,335キロ)を歩いた餅田健さんのお話です。旧長崎街道~山陽道~東海道と歩いた34日間、朝4~5時頃に起きて、6~7時頃には出発。ひたすら歩いて昼食をとり、陽が落ちる前には宿に入り、夕食、風呂、洗濯、ストレッチを終えて就寝という毎日でした。  一日に歩いた距離は平均39.26キロ。全行程の中で通過した宿場町は、155宿。ちなみに長崎~江戸を約40日かけて歩いた天保13年(1842)の役人たちは、その内の78宿に立ち寄っています。「かつての街道筋は、昔ながらの道を行くところもたくさんありましたが、おおむね車道に変わっている道が多く、また宿場町の中には、その歴史さえ全く感じられなくなっているところもありました。そんな中、例えば長崎街道の鈴田峠、冷水峠などは風情があって良かった。そして、木屋瀬という宿場町も古い建物が多く残されていて出会いの感動がありました」。 一番苦労したのは、日々の宿泊を決める作業です。「行く先々の電話帳で宿を探して予約を取るのですが、目的地にホテル・旅館のないところも多く、いろいろたいへんでした」。  山陽道を経て東海道に入ると、広重が描いた風景と所々で出会い、当時へ思いを馳せました。もっとも感動したのは、春の光を浴びて美しくそびえていた富士山との出会いです。「スタートから30日目、静岡のさつた峠から眺めました。空が青く晴れ渡っていたのですが、そこでみかん売りのおばさんから、こんなに天気がいいのはめったにない、あなたは運がいいっていわれました(笑)」。 ところでこの間、体調はどうだったのでしょう。「毎晩ストレッチなどをしましたが、ずっと足腰の痛みに悩まされたものの、歩を止めることはありませんでした。これは効くなと思ったのは、スタート間もない頃に友人夫妻にいただいたショウガの砂糖漬けです。血行をよくしてくれ、思いのほか体調を整えてくれました」。 そして最終日(34日目)、川崎から多摩川へ出て江戸へ入ると、昔ながらの宿路の感をところどころに残す品川宿を探訪。高輪、銀座を経て、日本橋に向かいました。銀座の人通りの中を縫うように歩く赤いシャツの餅田さん。普段は、全く着るものに頓着しないのですが、この日だけは赤いシャツと決めていたそうです。日本橋では、大学時代の同窓生たちが大勢出迎えてくれました。日焼けした顔に笑みをこぼす餅田さん。心も身体も達成感で満ちあふれました。 今回のチャレンジで、餅田さんがもっとも思いをめぐらしたのは車社会についてでした。「どこも一昼夜ひっきりなしに車が走っている。これだけ石油を使っていたら、当然やがて枯渇するでしょう。また、大気汚染や地球の温暖化といった問題もあります。人間のごう慢さを感じましたね。車社会を否定するわけではありませんが、便利さの一方で失っているものは大きいと思います」。 歩くことで、人や風景との出会いなど、プロセスを楽しめるという餅田さん。長崎~江戸を歩いた感動は2年経った今でも続いているそうです。今後は、芭蕉の奥の細道や日本の背中(鹿児島から北上し、日本海沿岸を北海道までたどる)などの計画もあります。餅田さんのチャレンジはまだまだこれからも続くのです。

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  • 第274号【長崎~江戸の歴史街道を歩く 前編】

     あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、今年こそ何かにチャレンジしたい、生活を変えたいという方もいらっしゃることでしょう。2007年最初のちゃんぽんコラムは、長崎~江戸の歴史街道(1,335キロ)を34日間かけて歩いた餅田健さんのお話です。歩くことが好きなごく普通の70才男性のチャレンジは、あなたの前向きな思いを後押ししてくれるかもしれんません。 餅田さんは長いサラリーマン時代を経て、現在は観光ボランティアガイドをしたり、郷土の歴史を学ぶなどしています。趣味は長距離ウォーキングで、若い頃からあちらこちらの野山や街を歩いてきました。「私にとって歩くことは、幼少時代に獲得したDNAみたいなものです。長崎市郊外で過ごした子ども時代、木炭バスこそあるものの、多くの人が隣の村や街へは山を越え、谷を越え歩いていくことが普通でした。わら草履を履きつぶしては足裏にあかぎれをつくり、時には出血を伴いながら歩いていましたね」。 現在、餅田さんは1時間を6.5キロの速さで歩きます。身長160センチ、体重55キロの身体は、特別なトレーニングをするわけでもなく、ひたすら歩くことでしなやかに鍛えられているのです。「私の歩きはウォーキング用ではなくジョギング用の靴が合います。長崎~江戸もジョギングシューズでした」。 実は、この長崎~江戸を歩くという計画は当初、餅田さんの頭にはなく、お伊勢参り(三重県伊勢市)を考えていました。というのも、その前年の秋、四国八十八ケ所の遍路旅をかなえた後、江戸時代に長崎の町衆が大挙してお伊勢参りをしていたという史実を知り、当時と同じ道をたどりたいと思っていたのです。 そこで、かねてより師と仰ぎ学んでいた長崎の郷土史家、越中哲也先生に江戸時代の参考資料を提供していただいたところ、なぜか目の前に出されたのは、長崎~江戸(長崎街道~山陽道~東海道)の宿場街道のもので、天保13年(1842)に、長崎奉行所が囚人を江戸まで護送した際、担当者2名が記した「江府江御差下囚人差添一件留(こうふえおさしくだししゅうじんさしぞえいっけんとどめ)」という業務日誌だったのです。この思いがけない展開に最初は驚いた餅田さんも、約160年前、宿泊と昼食に立ち寄った宿場がもれなく記載されたその道中記録を読み終わった時には、すっかりお伊勢参りが江戸参府へと変わっていたそうです。 長老・越中先生は、人と、ものごとの先を見抜く鋭い方。餅田さんなら可能であると見込んでのことだったのでしょう。餅田さんは一気に江戸行きの準備にかかり、そして出立の日を迎えました。平成16年2月27日、餅田さんの古稀の誕生日です。朝7時、出島が目と鼻の先にある長崎県庁前(長崎奉行所西役所跡)からスタートしました。早朝から見送りにきた人々の中には、愛犬を連れた越中先生の姿もありました。 この時、餅田さんは前年に亡くなった妹さんの卒塔婆を背に負い、2ヶ月前に亡くなった親友を心の同行者と決めていました。近しいふたりの死は、このチャレンジを大きく後押しするものだったのです。 さて、天保13年の役人は長崎~江戸を約40日かけて行きました。餅田さんの目的は、当時の川止めや各関所での事務手続きを考慮して、それよりも一週間ほど早く着くことです。長崎市街地を抜け、旧長崎街道へ入った餅田さん。道中のエピソードやチャレンジ後の感想などは次回、ご紹介します。どうぞ、お楽しみに。

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  • 第273号【長崎弁の魅力】

     帰省シーズンがはじまりました。長崎駅に行くと、故郷へのお土産をつめた大きな旅行鞄を下げた若者や家族連れの姿が目立ちます。長崎駅に降り立つと感じる、少しゆったりとした空気、そして聴こえてくる「長崎の言葉」、それが故郷に帰ってきたことを実感する瞬間だと、帰省した友人は言っていました。 「ああた」(あなた)、「おとろしか」(おそろしい)、「…、そいばってん…」(…それはそうだけど…)、「はらかくな」(腹を立てるな)など。また、50代以上の長崎人にしか使われなくなりましたが、赤ちゃんのかわいさを表現して、「ベンタロさんのごたっ」(ベンタロウさんみたい)という言葉があります。ベンタロウとは桃の節句に飾れる京都方面の人形のことで、明治以降、赤ちゃんのほめ言葉として使われるようになった長崎独特の言葉だそうです。こんなふうに、長崎弁はどこかやさしく、おかしみのある響きです。標準語の中で、ふいに耳にすると、心がほっこりとします。 「長崎弁を使うことで、にわかに心の隔たりがせばまり、打ち解けあえる。長崎に限らず各地の方言には、そうした大きな効果があると思います」と話すのは、「長崎弁研究塾」の塾長・田川文夫さんです。高校生から70代までの市民、約20名のメンバーがいるこの塾では、長崎弁をいろいろな視点から追求し、使われなくなりつつある言葉や地元の民話を掘り起したり、史実をもとに長崎弁を使った「長崎俄(にわか)」や創作劇を制作・発表するといった活動をしています。 長崎には、古くから親しまれている『彦山の山から出る月はよか こんげん月はえっとなかばい』(長崎の彦山から出る月は良い。こんな良い月はそうありはしない)という狂歌があります。江戸時代の有名な文芸家で、長崎奉行支配勘定役としてこの地で過ごしたこともある蜀山人(しょくさんじん:大田南畝)が詠んだものと伝えられています。「それにならって狂句や狂歌もつくるなど、幅広いジャンルから長崎弁を表現しているのです」。 長崎弁は、地域的には肥筑方言圏(筑前、筑後、肥後、肥前)に属し、長崎が開港した16世紀初めから、上方(大阪あたり)からの商人の出入りが多かったため、その地域の言葉の影響を受けながら、江戸時代中期頃にほぼ完成されたようだと言われています。そんな長崎弁が醸す独特の味わいは、一体どこからきているのでしょう。 「長崎の風土・気風は、外国人や他県からやってきた方をおおらかに受け入れる寛容さがあるといわれています。それは、唯一の海外貿易港として栄えていた時代、天領(幕府の直接の支配地)ということで、庶民は税金を取られませんでした。しかも、その上、箇所銀(かしょぎん)・かまど銀と呼ばれる分配金までもらっていたのです。その金額はけして大きくはありませんでしたが、他の地域にくらべれば生活する上で人々の心にゆとりがありました。そこから長崎独特の気風が生まれ、長崎の方言にもいろいろな形で表れているのではないでしょうか」。 長い間、教員として務め、退職後は、観光ボランティアガイドとしても活躍している田川さん。「教師時代は、悩みを持つ子どもに長崎弁で話しかけることで、心を開かせることができました。また、観光ボランティアガイドでは適宜、長崎弁を使ってお客さまに説明をすると、にわかに親しく接してくれます。お客さまにとっては、長崎の真髄に触れたような気持ちになるのだと思います」。 イントネーションや間合いなど、字面だけではわからない長崎弁の魅力。ぜひ、長崎の街へお出かけになって、味わってください。

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  • 第272号【フィランドの奥深さに触れる旅】

     FIRAND(フィランド)。どこか遠い国の名を思わせる響き。でも、北欧のフインランドではありません。それは、日本の西の端にある島。島名がすぐにわかった方は、なかなかの長崎県通、歴史通と言えるかもしれません。 答えは「平戸島」です。アジア大陸にも近い、地の利の良さから、戦国時代~江戸初期にかけてはポルトガル、イギリス、オランダなどヨーロッパの国々とのいわゆる南蛮貿易が盛んに行なわれ、「西の都・フィランド」と呼ばれるほどの繁栄ぶりでした。さらに鎌倉・室町時代にはアジア諸国との貿易地として、奈良・平安時代には、遣唐使の寄港地として、大陸と日本を結ぶ中継地という大切な役割を果たしてきました。 この秋、「長崎日本ポルトガル協会」が主催した「ザビエル生誕500年記念・平戸史跡見学会」に参加する機会を得ました。南北に細長いこの島をほぼ端から端まで縦断しながら、教会や神社などをめぐる1泊2日の小さな旅。奥深い平戸島の文化と歴史を垣間見ることができました。 平戸島は、キリスト教の信仰と弾圧の歴史を刻む島です。島内には、明治時代より建立された美しい教会が点在しています。キリスト教は、室町時代の1550年、この島にやってきたフランシスコ・ザビエルによって伝えられました。多くの信者がいましたが、間もなく豊臣秀吉のキリシタン禁教令から江戸時代にかけてきびしい弾圧があり、信者たちは密かに信仰を続けたといいます。 平戸港を囲む市街地から30分ほど南下したところにある宝亀(ほうき)地区では、レンガ色の外観で簡素な美しさをたたえる宝亀教会、平戸島中央の紐差(ひもさし)地区では、ロマネスク洋式の堂々とした外観の紐差教会を訪れました。いずれも、のどかな地域の中にあって、信仰の光のような佇まいでした。紐差教会のすぐそばには、三輪神社の社殿がありました。山自体を神として祭った神社だそうで、古代の信仰を今に伝えています。 平戸島の最南端に位置する志々伎湾(ししきわん)沿いを経て、宮の浦地区へ。ここは、たくさんの小型漁船が停泊する漁港を擁した、どこか懐かしい雰囲気が漂う地域です。屋根にブロックを乗せている家々の様子がめずらしかったので、地元の人に聞いてみると、台風の風当たりがたいへん強いからということでした。 宿泊した宮の浦の旅館には、釣客の魚拓がたくさん飾ってありました。長崎県下はもちろん、福岡、熊本などからの釣り客が絶えません。東シナ海に開かれたこの地域の海はたいへん美しく、マダイやイカ、ブリ、ヒラメなど魚の種類も数も豊富なのです。 宮の浦地区では、志々伎神社という古いお宮を訪ね、平戸神楽を見ることができました。みろくやホームページの『写真で見る最近の長崎』に掲載していますので、ぜひ、ご覧下さい。 平戸島の観光というと平戸城下の市街地に集中しがちですが、そこから、最南端の宮浦地区までは路線バスで1時間30分ほどです。バスにゆられながら、のどかな風景を眺めていると、ダイナミックに海上を往来した、いにしえの人々や、この地で慎ましく生きた人々が、よりリアルに感じられます。歴史好きの方ならば、味わい深い旅になることでしょう。

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  • 第271号【長崎の伝統ハタ再現・小川ハタ店】

     長崎のハタはシンプルなひし形。国旗や家紋のように洗練されたデザインで、色も例外をのぞいて青、赤、白、黒の限られた色しか使いません。その独特の美しさは他の地域では見られないものです。今回は、長崎のハタの伝統紋様120種類を再現した小川ハタ店3代目の小川暁博さんにお話をうかがいました。 「全国各地のハタの会の方々が、長崎のハタの紋様を見て、すごいとおっしゃってくれるんですよ」と話す小川さんは、長崎でただ一人のハタづくり専業の方です。小川さんの仕事場はハタ揚げの名所のひとつ、風頭公園のすぐそばで、一般の人もハタづくりの様子を見ることができる『長崎凧(ハタ)資料館』の中にあります。 「長崎のハタはケンカ凧といわれ、ビードロヨマ(ガラスの粉をヨマにのりで付けた揚げ糸)を使い、空中で相手のハタの糸を切って遊ぶものです。私の自慢は、子供の頃からハタ揚げだけは上手かったこと。勉強はせずにハタ揚げばかりしてましたね(笑)」。とても気さくな人柄の小川さんは、ハタ揚げが好きで、好きで、いつの間にか風を読みながら巧みに操るコツと技を身に付けたのです。 長崎のハタの由来は、17世紀にさかのぼります。中国やオランダなどから伝わったとされ、その種類も中国系、南方系とあります。長崎県内各地にはさまざまな伝統凧がありますが、長崎のハタは「あごばた」と呼ばれる種類で、南方系だと言われています。江戸時代には出島でオランダ人の付き人をしていたインドネシア人と、対岸の市中の人々の間でハタ合戦が行なわれていたそうです。 さまざまな紋様がある長崎のハタ。家紋をはじめ国旗、縞模様、天体、鳥獣、家紋、オランダ文字などをモチーフにしています。中でも代表的なのは、赤、白、青の線が並ぶオランダ国旗のような「丹後縞(たんごしま)」だと小川さんは言います。「私が普段つくるハタの紋様は50種類ほど。今回の120種類の伝統紋様は、長崎の郷土史家として知られる渡邊庫輔(わたなべくらすけ)氏の『長崎のハタ考』(長崎民芸協会発行)に掲載されたものを再現しています。その中には初めて見る紋様もいくつかありました。シンプルだけど凝ったものもあり、昔の職人のセンスの高さを感じましたね」。 昔ながらの作り方にこだわって念入りに再現する中、小川さんはかつてのハタ職人さんたちの仕事ぶりに感心しました。「材料を全くムダにしない作り方をしています。たとえば和紙。長崎のハタの紋様は筆で描かず、染色した和紙に紋様の型をとって裁断し、それを数種類張り合わせて作ります。昔の職人は、その型の取り方にムダを出さないような創意工夫が随所に見られました」。 「伝統紋様のハタの再現に使用した和紙は、30数年間この仕事をした中で、こんなにいい色が出たのは初めてというほど上手く染め上がったものです」という小川さん。再現された120種類の伝統紋様のハタは、「長崎の凧(ハタ)図録」としてまとめられました。 先代に、「とにかく数をつくれ。そうすれば上手になる」と言われたという小川さん。「ハタ作りは、タテ骨、ヨコ骨に使う竹の削り具合が微妙でむずかしいところ。これからも納得できる仕事をしていきたいですね」。◎参考にした本や資料長崎事典~歴史編~(長崎文献社)、長崎の凧(ハタ)図録(長崎ハタ揚げ振興会発行)

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  • 第270号【オランダ人の出立所・桜馬場天満宮】

     長距離ウォーキングを楽しむ人にとって、おそらく興味をそそると思われるのが旧街道の踏破です。江戸時代、西洋の文物を求めて大勢の商人や文人墨客が往来した長崎~江戸を結ぶルート(旧長崎街道、旧山陽道、旧東海道)には、特に魅力を感じるのではないでしょうか。 現在、長崎~東京間は飛行機で一時間ちょっと。日帰りで用事を済ませることもめずらしくありません。しかし、江戸時代はどうだったでしょう。昨年、当時の宿場町をたどりながら長崎~江戸の旧街道ウォーキングに挑戦した方の話によると、毎日約40キロメートルを歩き、33日間かかったそうです。 江戸時代、飛脚や早馬といった急ぎの便は別として、自らの足でたどる旅は、天候の悪化による足止めなども考えると、やはり1ヶ月前後かかったと思われます。そんな長崎~江戸の長旅を毎年の恒例行事として往来した人たちがいました。出島のオランダ商館長の江戸参府です。 彼らが江戸へ旅立った長崎街道のスタート地点は、長崎市の桜馬場と呼ばれるかつて長崎村の庄屋が住んでいた地区です。この界隈は、長崎くんちで知られる諏訪神社の参道を下って、東にまっすぐ延びるゆるやかな登り坂の途中にあります。坂道の一角には「長崎街道ここにはじまる」と記された碑がたっています。 碑から旧街道筋に入るとすぐ左手に、民家に囲まれ静かな佇まいをみせる「桜馬場天満宮」があります。桜馬場天満宮の世話役をつとめている方のお話によると、江戸参府の際には、必ずこの天満宮の境内に一行が勢揃いをして送り出されたので「オランダ人の出立所」と呼ばれていたそうです。そのためか、江戸末期までこの天満宮にはオランダ人からの寄付が続きました。 ちなみに、オランダ商館長の江戸参府は、出発した後、江戸で将軍さまに拝謁するという大事な義務を果たしてもどって来るまで、おおむね3ヶ月を要したと言われています。 桜馬場天満宮を出て街道筋を東に進むと、長崎村の庄屋跡があります。現在は市立桜馬場中学校になっていて、その校門に続く街道筋の古びた石垣は、江戸時代の昔からあったと伝えられています。そこから、さらに少し行くと左手に鳴滝へつながる脇道があります。シーボルトが開いた鳴滝塾跡があるところです。 シーボルトやその門下生たちは、桜馬場天満宮の前を通り、庄屋の石垣の前を闊歩し、鳴滝塾へと通ったのでしょう。一方、長崎をあとにした旅人たちは、最初の難所、日見峠に向かったのでした。当時とまったく変わらぬ場所にある長崎街道はじまりの道筋。当時の名残りをたどりながら歩けば、昔の人の面影が蘇ってくるようです。 ところで先の桜馬場天満宮のはじまりは、1607年(慶長)にさかのぼります。当時は、キリシタンの勢いが強く、長崎の市中には神社仏閣の陰もないほどだったそうです。そんな中、天満宮の尊像が祀られ、最初の社殿は今とは別の場所に建立されました。その社殿もキリシタンに瓦礫を投じられるなどの迫害を受けたといいます。その後、キリスト教が禁制となり、1621年、現在の場所に社殿ができました。桜馬場天満宮は、キリスト教が長崎に渡来して以来、初めて復興された長崎市で最古の神社だったのです。参考にした本や資料長崎事典~歴史編~(長崎文献社)出島かわら版(長崎市教育委員会出島復元整備室)

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  • 第269号【じげもんに聞くちょっと昔の長崎】

     お生まれが昭和ひとけたの方は、現在70~80才。おじいちゃんやおばあちゃんと同居している家庭が少なくなった今では、この世代の方々と話をする機会も減っていると思います。昔の地域の様子や暮らしを知り、戦争など大きな時代の変化を生き抜いて来た方々のお話は、示唆に富みたいへん興味深いものです。今回は、長崎の昔のことを知りたくて脇口嘉子さん(75才)にお話をうかがいました。  長崎市在住の脇口さんは、生まれも育ちも長崎の「じげもん」(※「じげ」は地元、「もん」は「者(もの)」の意味らしい)です。数年前、主婦業と会社勤めを両立していた日々を卒業し、現在はさまざまなボランティア活動で忙しい日々を送っています。 脇口さんは幼少の頃、長崎くんちで知られる諏訪神社にほど近い「下西山町」で育ちました。長崎くんちで思い出に残っているのが晴れ着の話しです。「昔も今もくんちと聞いただけで気分がワクワクしますね。昔は、皆、晴れ着を着るのが常でした。ある年、紺地に赤い椿の振袖にかわいいお太鼓を付け、顔にもお化粧をしてもらって出かけようとしたら、急な雨で予定が流れたのです。くんちがなければ学校があるので、泣く泣く着替えて登校しましたね」。 「当時のくんちの賑わいは今以上だったかもしれません。戦前までは、見せ物小屋にコグレサーカスも毎年やって来て大賑わいでしたよ」。長崎駅の近くで行なわれていたというサーカス。初耳です。脇口さんがお生まれになった1931年(昭和6)は満州事変が起きた年。その後も中国と日本の間では不穏な空気が流れていましたが、1941年(昭和16)に大平洋戦争がはじまるまでは、生活に支障はなく、物資も豊かだったそうです。 「私が通っていた幼稚園の園長先生が、金髪で青い目をした女性の方で、『サヤモンド先生』と呼んでいたのを憶えています。子供というのは本当に不思議なもので、先生が「スタンド アップ」とおっしゃれば立つし、「シャット ア ウインドウ」だと、誰かが立って窓を閉めに行くのです。特別に英語を教えてもらったわけでもないのに、なぜか、わかるのですね」。英語の歌もごく普通にいろいろ歌っていたとか。当時、外国人の存在がめずらしくなかったいかにも長崎らしさを感じる話です。 しかし、間もなく戦争がはじまると状況は一変します。「6才下の弟も同じ幼稚園でしたが、英語は禁止。先生は日本人に変わり、歌も軍歌に変わりました」。そして、それまで街のケーキ屋さんの店頭に並んでいたショートケーキやシュークリームがあっという間に姿を消したそうです。「海外からの輸入が途絶えて、材量が手に入らなくなったのです。バナナやパイナップルといった果物も見かけなくなりました」。 その後、戦中・戦後と食糧不足をのりきってきた脇口さんたちの世代。平和の大切さをどの世代よりご存知です。戦争がはじまる前までは、春には土井首(どいのくび)の砂浜でアサリ採り、西山高部水源地でお花見、夏には東望ノ浜(とうぼうのはま)でハマグリやミナ採り、秋は妙相寺(みょうそうじ)で紅葉見物など、長崎の人が良く知る海や山、名所を家族で楽しんでいたと懐かしそうに語ります。「四季の行事を楽しみ、季節に応じた暮らし方をすることはとても大切なこと。また、それは平和でなければできないことなのよ」。年長者の重みのある言葉が心に残りました。

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  • 第268号【長崎のくんち料理】

     今年も大勢の人出で賑わった長崎くんち。じげもん(※生まれも育ちも長崎の人)の家庭では、昔から伝わる「くんち料理」が食卓を飾ったようです。こういった行事食は、祭りの気分を高め、季節の移り変わりも感じられて、いいものですね。四季折々に行事食を作る家庭は、ひと昔前に比べるとずいぶん減っているようですが、ぜひ、見直したいものです。 長崎の庶民の間で食べ継がれてきた「くんち料理」とは、「小豆ご飯」、「どじょう汁」、「煮しめ」、「ざくろなます」、そして「甘酒」です。あなたの街の秋祭りの料理と比べて、いかがですか?品揃えが全く違うという地域もあることでしょう。共通しているのは、地元でとれる食材を利用していること、その街の成り立ちの影響を受けていることなどでしょうか。 「くんち料理」の「小豆ご飯」は、おこわではなく、普通のごはんに小豆を入れて炊いたものです。「どじょう汁」は、白味噌仕立てで作りますが、今ではすっかり馴染みが薄くなっています。どじょうで思いだすのは、水郷として知られる福岡県柳川の「柳川なべ」ですが、くんち料理の「どじょう汁」はその柳川に由来があるようです。 長崎の歴史に詳しい方によると、江戸時代初期の頃より、筑後川の川港を擁した柳川からは、長崎にも物資を運んでいて、その方面からの移住者も多かったそうです。くんちの踊り町のひとつに榎津(えのきづ)町がありますが、榎津は柳川の川港の地名です。「どじょう汁」は、そうした移住者たちにより、くんち料理の定番になっていったのかもしれません。 「煮しめ」の材料は、さといも、れんこん、ごぼう、にんじん、こんにゃく、干ししいたけなど。季節の野菜がたっぷり入ります。70代のじげもんさんによると、煮しめに用いるさといもは、「赤さといも」だそうです。赤さといもは各地にあるようですが、長崎でも昔から作られている野菜のひとつだそうです。地元の八百屋さんによると、白さといもより煮くずれがしやすいが、甘くておいしいそうです。今は、地元より京都の料亭などによく出ていると言っていました。 「ざくろなます」はだいこんのなますに、ざくろの実を混ぜたものです。長崎では毎年、ざくろがくんち前から出回りますが、「今年は台風13号の被害で、地元のざくろがほとんどなかった」と果物屋さんは言います。だからか、今年はアメリカ産の大きなざくろを店頭でよく見かけました。その実は、地元産より大きく、赤みも甘味もありますが、ざくろ独特の甘酸っぱさもその分強い感じ。 あるご家庭の伝統で、3日間繰り広げられる長崎くんちの初日は「ざくろなます」、中日は「柿なます」、3日目は「しそなます」と、毎日変えるというところもありました。くんち料理を家庭ごとに調べれば、ユニークなルールやバリエーションが他にもいろいろあるかもしれません。 「甘酒」は、今頃は母親が手作りするか、酒屋や和菓子屋で購入するところが多いようです。ひと昔前、じいちゃん、ばあちゃんと一緒に暮らした時代は、甘酒作りはお年寄りの役目でした。おいしい甘酒を作るには、温度や寝かせ方のあんばいなど、経験が必要だということなのでしょうか。お屠蘇も家長が作るものだそうですが、その習わしと関係があるのかもしれません。いずれにしても、かつて長崎の街では、「今年の甘酒はどがんやった?」「良かったばい」などと家族で、ご近所で会話が弾んでいたようです。そんな和やかな風景のある長崎は、ほんとに素敵だったことでしょう。

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  • 第267号【2006年の長崎くんち情報】

     長崎の初秋の夜。耳を澄ませば、どこからともなくドラや太鼓、そして威勢のいい男たちのかけ声が聴こえてきます。これは今年の踊り町が「長崎くんち」の練習に励む音。10月7、8、9日の本番に向けていよいよ追い込みの段階です。 寛永11年(1634)にはじまった諏訪神社の秋の大祭・長崎くんちは、今年で372年目を迎えます。今年、奉納踊りを担当する「踊り町」は、桶屋町(おけやまち)、万屋町(よろずやまち)、栄町(さかえまち)、本石灰町(もとしっくいまち)、船大工町(ふなだいくまち)、丸山町(まるやままち)の全部で6ケ町。華麗かつ勇壮な出し物で、7年に1回めぐってきた大役を果たします。 長崎くんちは、知れば知るほど興味深く、見る側の楽しみも増すものです。そこで、ぜひ、訪れてほしいのが「シーボルト記念館」で開催する『シーボルトと長崎くんち展』(9/28~10/15迄)です。長崎くんちを神事として幕府が奨励した証の「御朱印状」や江戸時代にくんちの神事能で使用した能面など諏訪神社の貴重な収蔵品をはじめ、「鯨引き」、「コッコデショ」などシーボルトが描かせた江戸時代の出し物の絵、また、昭和11年や20年代の各踊り町の写真も展示されます。初めて公開される写真もあり、長崎くんちファンには本当に見逃せない内容になっています。 それでは、今年の踊り町の出し物をご紹介します。まず、桶屋町の「本踊り」。歌舞伎の創始者として知られる「出雲の阿国(いずものおくに)」をモチーフにした踊りが披露されます。町内の子供たちや藤間流の美しい踊子さんたちが、お祭りの喜びあふれる演技を見せてくれるそうです。 万屋町は「鯨の潮吹き」。大きな鯨を引き回す様子や鯨の背中から天高く潮が吹き出すさまが見ものです。また、踊り町のシンボルの傘鉾(かさぼこ)のたれは、180年前、伝統の長崎刺繍を施した「魚づくし」と呼ばれる貴重なもの(市有形文化財)。次回、7年後には新調されるそうなので今年が見納め。見逃せません。 栄町の「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」は、花柳流の方の指導によるもので、かわいい唐子に扮した子供たちや阿蘭陀万才を演じる二人のかけあいなどが見どころのようです。三味線など地方(じかた)の粋な演奏も楽しみです。 本石灰町は「御朱印船」。あざやかな朱色の船を、屈強な根曳衆(ねびきしゅう)が、豪快に船を引き回すさまは、まさに大海の荒波を行くようです。この出し物のストーリーは、安土桃山~江戸時代初期に実在した長崎の貿易商「荒木宗太郎」が安南(ベトナム)のお姫さま「アニオーさん」を花嫁として長崎港へ連れて帰ってきた様子を再現したもの。荒木宗太郎役とアニオー役を演じる子供の家では、本番の数カ月前に、ちゃんと結納をかわします。町の人々の思い入れが伝わる徹底ぶりです。 船大工町は「川船」。江戸時代に船大工が住む町として栄えたこの町の歴史にちなんだ出し物です。男の子が演じる船頭の「網打ち」シーンで魚を一網打尽にする姿が見どころのひとつ。波の紋様の衣装に身を包んだ根引き衆の姿も勇ましく、引き回しも見事です。 丸山町は「本踊り」を奉納。41年ぶりに長崎くんちに復活します。踊りは、長崎検番の芸子さんたち。花街の歴史を担って待望の登場です。そして、もちろん傘鉾も41年前と同じもの。当時を知る80代の男性の方は、「丸山の傘鉾のたれが、陽を浴びながら空気をはらんでパーッと広がるとき、何ともいえない美しさ、色っぽさがある」とおっしゃっていました。期待が高まります。 くんちを間近に控えた各踊り町の練習は、くんちを支える町の人々と共に、早くも熱気を帯びていました。練習を見守っていた本石灰町の60代の女性の話が印象に残りました。「とにかく子供たちが練習に行きたがるんです。兄弟が少ない時代にあって、ここに来れば兄ちゃんや姉ちゃんがいるし、根曳き衆の男たちもかわいがってくれるから、うれしいんでしょう。そこには町ぐるみの連帯感や絆があるんですね。これこそが長崎くんちの伝統なんですよ」。◎取材協力/シーボルト記念館(長崎市鳴滝2―7―40)      TEL(095)823―0707

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  • 第266号【長崎を愛した孤高の版画家・田川憲(たがわけん)】

     残暑の中にも、秋の気配が感じられるこの頃。季節は変わっても私たちの日常は、さまざまな用事にあふれ相変わらず気忙しいものですが、だからこそ、食欲の秋や芸術の秋を満喫する時間を大切に過ごしたいものですね。 この秋も各地では「芸術の秋」にふさわしくさまざな展覧会が催されるようです。もちろん長崎でも魅力的な展覧会が目白押しです。その中から今回は、長崎ならではのものとして、長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町)で開催中の「田川憲生誕100周年記念展」(平成18年9月3日~9月27日迄)をご紹介します。 田川憲氏(1906~1967)は、長崎を代表する版画家です。主に1930年代から1960代にかけて、長崎港や南山手の洋館、唐寺をはじめ長崎の各地の風景などを描き残しています。版画家としての技量と作風は当時、「東に棟方志巧、西に田川憲」と評する人もいるほど素晴らしいものでした。その作品は、氏が亡くなって39年経った今でも長崎の公共施設の一室に飾られたり、地元銀行のカレンダーになるなどして、長崎の日常の中に溶け込んでいます。 田川氏が残した作品の中の長崎は、多くの外国人が行き交った居留地時代(幕末~明治期)の面影がまだ色濃く残る昭和初期から高度成長期の頃まで。その作品からは、版画独特の素朴な味わいとともに、作者のある思いが伝わってきます。それは、日本の貴重な歴史を刻む故郷・長崎への愛情で、しだいに風化していく長崎独自の景観を危惧する思いでした。 田川氏と同時代を生き、交流のあった長崎の歌人、秦美穂(はた みほ)氏は、「彼は風化など美しいひびきのある言葉ではなく、まさに滅び去ろうとする長崎を、必死に、すがりつくように、また憑かれたようにして描き、かつ板に刻(ほ)り起こした画家である。」〈~没後十年の田川憲版画展に寄せた一文より~〉と記しています。  10代の頃から金子光晴など長崎に来た作家たちと交流をもち、20才の頃、画家を志して上京。そこで版画にめざめ、恩師や友人など人生に大きな影響を及ぼす人々と出会いました。その時代は、戦争の混乱期とも重なっています。折にふれ長崎に帰郷し、版画家として活動を続ける中、従軍画家も経験(昭和13~15年)。上海にも数年在住し、版画を通じて中国の人と交流を深めています。 この展覧会では、そういった氏の激動の経歴を知ることができます。また、彫刻刀や硯、バレン、下絵、版木など愛用の道具をはじめ、氏に近しい方々が所蔵していた作品など、これまで公にされなかった作品なども多数展示されています。 コンクリートのビルが乱立する直前の「異国情緒・長崎」を作品に残した田川憲氏。そこには、これからの長崎の街づくりへの大きなヒントが秘められているようでもありました。ぜひ、ご覧ください。◎取材協力/長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町7―8)      TEL095―847―9245

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  • 第265号【長崎・夏の食のよもやま話】

     旅に出た時の楽しみのひとつが、商店街やスーパーの食品売り場を見て回ること。その土地ならではの食材やお惣菜に初めて出会うと、「まだまだ知らないものがあるんだなあ」、「日本って広いなあ」と、何だかうれしい気分になります。 長崎のスーパーでは普通に売っているけれど、他ではほとんど見かけないもののひとつに、赤や緑の棒状のはんぺんがあります。それを短冊状に刻んで、ちゃんぽんや皿うどん、野菜炒めなどの具材として使います。このはんぺんを入れるだけで彩り豊かなおいしさに。長崎人の食卓には欠かせないものです。 長崎から横浜へ引っ越した親戚のおばさんは、このかまぼこを探し回ったけど、なかなか見当たらないとボヤきます。ようやく大きなデパートの長崎物産のコーナーで見つけたそうですが、「長崎じゃ、すぐ手に入るのに…」と残念そうです。 他の地域から長崎に移り住んだ方たちも、やはりこのはんぺんをめずらしがります。そしてこの他にも、日常の長崎の食に少なからずカルチャーショックを受けるのです。 子供の頃、東京から引っ越して来た友人は、今でも忘れられない出来事があります。夏、長崎のおばあちゃんちで、おそうめんをいただいた時のこと。大皿に盛られた「そうめん」を各人が適量を取り、つけづゆにつけて食べはじめたのは良かったのですが、そのつけづゆというのが、砂糖で甘辛く仕上げたゴマダレなのです。ほうれん草のおひたしなどで使うアレです。「こんな甘いのをつけるの!?」かつおだしでみりんと醤油で味付けした薄茶色のつけじるしか知らなかった友人は、一瞬唖然としたそうです。 ゴマダレを適宜おそうめんにかけていただく。長崎の全ての家庭がそうだとはいいませんが、「うちはそうやって食べるわよ」という方を何人も知っています。 夏の食卓といえば、長崎は海産物が豊富ですから、県内各地から水揚げされたミナ(貝)やサザエ、アワビも店頭をにぎわします。「本当にいいものは東京の築地に行ってしまう」と聞いたことがありますが、それでも、新鮮でおいしい魚介類は豊富にあり、気軽に手に入ります。ありがたいことです。 先日、お盆休みを利用して実家のある五島列島に帰省した友人に電話を入れたところ「今、サザエ採りに行ってますよ」とおうちの方。近くの海岸の岩場で素潜りで採っているとか。後で聞けば、その日のメニューは、サザエごはん、サザエの刺身、サザエの壺焼きとサザエづくしだったそうです。ああ、うらやましい!  大村湾でとれる「タイワンカザミ」という種類のカニも長崎の夏のおいしいもののひとつです。名前はタイワンですが、もともと日本にいる種類だとか。タラバガニなどに比べれば小ぶりですが、身もミソも上品なおいしさ。ズワイガニやタラバガニよりこっちがおいしいという人もいるほど。お味噌汁でいただくと格別です。 今回は、長崎の夏のおいしいものをいくつかご紹介しましたが、あなたのお住まいの町にも、おいしいものがいろいろあるはず。見慣れた食材が、意外にもその町独特のものだった、ということもあるかもしれません。ちょっと気にして見てみませんか?

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  • 第264号【長崎半島・三和町の貴重な自然】

     暑中お見舞い申し上げます。冷房のきいた部屋で長く過ごすと、体調をくずしがちです。野菜や魚介類がたっぷり入った熱々のちゃんぽんを食べれば、汗をいっぱいかいて、スカッとします!ぜひ、お召し上がりください。  今回は、夏休み中ということで、長崎の路線バスで気軽に行けるネイチャースポットをご紹介します。場所は長崎市三和町川原(かわら)地区。三和町は昨年1月に長崎市と合併したばかりの町です。長崎市の市街地から、南西に伸びた長崎半島の中間くらいに位置しています。 路線バスで、長崎駅から長崎港沿いを行き、女神大橋の巨大な足もとをくぐり抜け、山あいの風景を楽しみながら目的地まで約40分。目の前に天草灘が広がるのどかなロケーションの川原地区に到着。降り立った「川原公園前」のバス停では、潮の香がまじる心地よい風が吹いていました。 バス停から徒歩で2~3分ほどのところに、ひとつめのネイチャースポット、淡水湖「川原大池」があります。広さ13ヘクタール、周囲は約1.9キロメートル、最も水深の深いところは9メートルあり、周囲は樹木におおわれています。湖畔には木の歩道が整備され、美しく静かな風景を眺めながら歩けば、まるで高原の避暑地に来たかのような気分です。 森を思わせるほど豊かな樹木はクス、ハマボウ、そして貴重されるハマナツメなど。「川原大池」一帯は、県指定天然記念物の樹林地帯になっていて、その自然はしっかり守られていました。あたりにはアゲハチョウやトンボが飛び回り、池の中では、数種類の淡水魚たちがのびのび泳いで気持ちよさそうです。 周囲はたいへん静かで、聴こえてくるのは、隣接する海の波の音と、鳥の鳴き声だけ。ここでは、カワセミやマガモ、そして環境庁のレドデータブックにも載っているミサゴなど80余りの野鳥が確認されているそうです。この「川原大池」を含む周囲は公園として整備されていてキャンプも楽しめます。そばには海水浴場もあり、夏のレジャーにはうってつけの場所です。 さて、川原地区ふたつめのネイチャースポットは、「川原大池」からほど近いところにある、「蛇紋岩の円礫浜(じゃもんがんのえんれきはま)」です。何だかとてもむずかしい名前です。蛇紋岩とは「かんらん岩」が水を含んで変質してできた岩だそうで、その礫(石ころ)が、浜辺を形成しているのです。石の大きさは手のひらサイズ。色は緑がかった濃紺で、波にもまれたせいか、だ円形でとてもツヤがあります。このような浜辺は日本で珍しく貴重なものだそうです。 地元の方によると、昔はこの地域の海岸一帯に広がっていたけれど、護岸工事で整備されるうちに、範囲が狭くなったとか。このような浜が、長崎半島の中で、この地域にだけ見られる理由は、全くわからないということでした。また、蛇紋岩の石ころは太陽の熱を吸収して、火傷しそうなほど熱くなるので、泳ぐ時は、みんな石の上を急いで走り抜けて海に入ったものだと、懐かしそうに話をしてくれました。 「蛇紋岩の円礫浜」は、波が引くたびにコロコロととても心地いい音がします。それにしても、なぜ、この地域にだけ、このような石の浜ができたのでしょうか。夏休みの宿題ができたなあと思いながら、帰路に着いたのでありました。

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