第287号【銀にまつわる長崎の町名】

 先ごろ、晴れてユネスコの世界遺産に登録された島根県の「石見銀山」。16世紀から約400年にわたって採掘された日本有数の銀鉱山です。ここでは灰吹法(はいふきほう)といわれる精錬技術で、良質の銀を大量に生産していました。最盛期の16世紀から17世紀にかけては、日本から輸出される銀の大部分がこの「石見銀」で、その量は世界の産出量の3分の1を占めるほどだったといわれています。


 石見銀山最盛期は、長崎がポルトガルとの南蛮貿易で栄えた時代から、オランダや中国との貿易が盛んに行われた時代(江戸前期)にあたります。当時の長崎港からの主な輸出品は、銀でした。長崎の郷土史家の方によると、その頃、石見銀山で生産された銀は、上方に集められ、堺の港から船で瀬戸内海を渡って長崎へと運ばれてきたそうです。国内には他にも銀の産地はありましたが、当時、長崎から海外へ渡った銀は、やはりほとんどが石見銀だろうというお話でした。




 同時代を世界史で見ると、スペインやポルトガルといった強国が世界の大海原をかけめぐった大航海時代(15世紀~17世紀前半)とも重なります。ポルトガル船は、日本で手に入れた銀をもとに、東南アジアで大いに利益を上げたそうです。オランダや中国の船も、最大のお目当ては日本の銀だったといいますし、当時のジパングは、「黄金の国」ならぬ「銀の国」として世界の注目を浴びていたようです。


 ちなみに、当時、銀と交換する形で日本が輸入した主なものは東南アジア産の生糸(きいと)や絹織物などでした。当時の長崎の繁栄を支え、日本に海外の文物をもたらした石見銀。そう思うと、ますます世界遺産・石見銀山への興味がわいてきませんか。


 さて、上方から長崎に集まるようになった銀は、まもなく市中にも出回りはじめ、武具の飾りやかんざし、帯留めなどの銀細工にたずさわる職人たちが出てきました。そうした人たちが多く集まって住んだところが中島川沿いにあり、白銀町(しろがねまち)と称したそうです。この町は寺町方面へとさらに広がって新白銀町が生まれ、江戸初期(寛永時代)にはそれらの町が合わさって銀屋町となったそうです。




 その銀屋町は、40年ほど前の町界町名変更で、他の町に組み込まれ町名が消えていましたが、うれしいことに地元住民の熱心な運動で、今年1月に復活しました。故郷の歴史や文化を語りつぐ町名は、長崎に限らず、残していきたいものですね。


 長崎には、他にも銀にちなんだ町名があります。「炉粕(ろかす)」という町です。くんちで知られる諏訪神社の参道そばにある小さな町で、古くは「ルカス町」と呼ばれていたと伝えられています。ルカスとは「留加須(るかす)」のことで、灰吹法で銀を精錬する際に炉の底にたまったものをいうそうです。当時、銀細工に使う銀などには、精錬を必要とするものもあり、その精錬所があったことにちなんだ町名のようなのです。場所も、入港した本船の荷物を、小舟が運び降ろした小川町(現在の桜町)にほど近いことから、銀の運搬にも都合が良かったと推察されます。








 他説として、南蛮貿易時代、長崎の町にはいくつも教会が建ちましたが、そのキリスト教に関連して、「クルス」が転じて「ルカス」になったという説や、セントルカス教会があったことにちなんだという説もあるようです(実際にそういう名の教会はなかった)が、どうやら銀にまつわる「留加須(るかす)」説が有力のようです。



◎取材協力/長崎歴史文化協会


◎ 参考資料

島根県ホームページhttps://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/

越中哲也の長崎ひとりあるき(越中哲也/長崎文献社)

大日本百科事典6巻(小学館)

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