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  • 第263号【なつかしの長崎港内交通船展(長崎市歴史民俗資料館)】

     夏休みがはじまりました。これから長崎へ帰省する、旅行されるという方もいらっしゃることでしょう。長崎でいろいろと行ってみたい場所はあると思いますが、『なつかしの長崎港内交通船展』を開催中の「長崎市歴史民俗資料館」(平野町)にも、足を運んでみませんか。 「なつかしの長崎港内交通船展」は、特に50代以上の方々におすすめの小さな企画展です。大正から昭和40年代半ばくらいまでの長崎港や港内交通船の写真パネルを中心とした展示内容で、当時の長崎は知らないという方でも、モノクロの写真がかもす雰囲気に、心ひかれるものがあるかもしれません。 長崎港内交通船とは、かつて長崎市内の陸路がまだ不便だった頃、長崎港内の各地域を結び、人々の生活の足として活躍した船のことです。その歴史は、明治期にまでさかのぼるといいます。当時、出島にほど近い長崎市中心部と、対岸に点在する数カ所の地区を結んだのは「一銭渡し」と呼ばれた6人乗りの小さな舟。船賃がひとり一銭だったから付いた呼び名ですが、これは、中国語で小舟を意味する「サンパン」という舟で、明治18年に長崎を訪れたフランス人ピエル・ロチが書いた小説「お菊さん」の中にも「サンパン」の名は登場します。 この「一銭渡し」は、今のタクシーなどのように、乗り込めばすぐに目的地に運んでくれるものではなく、個々にやってきた乗客が6人になるのを待って、漕ぎ出したとか。のんびりとした時代が感じられる話です。 その後、「一銭渡し」に代わり、民間の蒸気船が出るようになり、さらに長崎港内にあった三菱長崎造船所も従業員の通勤のための会社専属の船を出すようになりました。大正時代に入ると、路面電車の会社である「長崎電気軌道株式会社」も港内交通船業に進出し、電鉄丸」を就航させました。その後、民間の港内交通船の会社から、長崎市がその経営をゆずりうけ、大正13年「市営交通船」の運航がはじまったのです。この頃は、長崎~上海航路の船も行き交っており、長崎港は大小さまざまな船の往来で、たいへん賑わっていたようです。 ところで、港内交通船の形は、人を多く乗せることが目的で、波静かな港内専用ということからか、横波に弱そうな、けしてスマートとは呼べない形をしています。その姿から、「ぞうり虫」とも呼ばれたそうです。 展示会場には、市営交通船や波止場、乗客の様子など約200点に及ぶ写真パネルの他、電鉄丸の模型や長崎三菱造船所の通勤船・諏訪丸の資料なども展示。また、昭和44年に市営交通船が廃止されるにあたって制作されたビデオでは、市営交通船での通勤の様子や、バスガイドさんが同乗した路線バスなど、高度成長期の真只中で変化していく時代の様子を垣間見ることができます。 この『なつかしの長崎港内交通船展』は8月31日まで開催。「長崎市歴史民俗資料館」は入場料無料です。「長崎さるく博」が開催中の今年10月31日までは無休で、9時から17時まで開館しています。常設展として、江戸時代の長崎港や街の様子を描いた南蛮屏風や川原慶賀が描いた江戸時代の年中行事の絵をパネルで紹介したコーナーもあり、長崎初心者の方にもおすすめのスポットです。 ◎取材協力/長崎市歴史民俗資料館◎参考にした本/市制65年史(長崎市)

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  • 第262号【涼を求めて、雪浦へ】

     暑さをしのぐなら、やっぱりクーラーよりも自然の涼しさの方がいいですよね。ということで今回訪れたのは、長崎県西海市雪浦です。雪浦は、西彼杵半島の西側の海岸を行く国道202号沿いにある地域。「つがね落としの滝」や「岩背戸渓谷(いわせとけいこく)など避暑にぴったりのスポットがあることで知られています。 ちなみに国道202号は、通称「サンセットオーシャン202」と呼ばれ、夕日が美しいことで知られる人気のドライブコース。東シナ海、五島灘をのぞむ美しい景色を満喫しながら、雪浦に到着しました(長崎市から車で約1時間)。 雪浦は、青松白砂の海岸、渓谷や滝を擁する山、そして長さ約16キロメートルの大河・雪浦川など、豊かな自然に恵まれた地域です。家々は雪浦川の流域に軒を連ね、海岸近くに小さな集落を形成しています。「つがね落としの滝」は、そこから車で7分ほど山あいへ入ったところにあります。 「つがね落としの滝」の「つがね」とはカニのことで、このあたりで育ったつがねが滝に落ちることからこの名が付いたとか。滝の高さは約20メートル。しぶきをあげて勢い良く落ちる水の爽快さといったらありません。夏場、家族連れが多く訪れ、ソーメン流しなどで賑わうそうです。 「つがね落としの滝」のすぐ上流にある「岩背戸渓谷」も気持ちの良いところでした。木製の吊り橋を渡り、うっそうと茂る森林の合間に降りると、手付かずの渓流がありました。ゴツゴツとした岩場や石ころの上を流れる生まれたての水。その清らかな感触に夢中になっていると、煩雑な日常を忘れ、体中の細胞が目覚めるようです。 雪浦地区を囲むようにしてある山々には、この他、長崎市の水がめ・雪浦ダムもあります。そのダム湖の上流は公園が整備され、夏場はキャンプや水遊びに訪れる人が多いそうです。 雪浦には、その美しい自然をいつくしみながら、野菜づくりをしたり、創作活動をするなど、エコ&スローに生きる人々がいました。毎年、ゴールデンウィークの頃に開催されるイベント「雪浦ウィーク」は、そういった方々との出会いを楽しめる催しで、郷土料理や野菜、陶芸・絵画、環境に優しい製品の製造・販売など、多彩な分野で活動している方々とじかにふれあい交流ができるそうです。 たとえば、「雪浦ウィーク」の事務局で画家のタナカタケシさんは、10年ほど前、この地の自然や温かな人情が気に入り、引っ越して来た方。築100年の民家にアトリエを構えてお住まいです。竹炭工房「雪炭窯」の浅田洋子さんはご主人と共に、繁殖力が強い地元の孟宗竹を伐採し、手間ひまをかけて上質の竹炭や竹酢液などをつくっています。 九州にあって、「雪浦」という涼し気な地名の由来は定かではないようですが、ウミガメが産卵をするという広々とした砂浜は、雪のような白さです。もしや、これが地名の由来では?と思ったのでした。◎取材協力/雪浦ウィーク事務局(タナカタケシ様)、竹炭工房「雪炭窯」◎参考にした本/大瀬戸町郷土誌(大瀬戸町)

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  • 第261号【世界でも珍しい南有馬リソサニウム礁】

     島原半島の南東部に位置する南島原市南有馬町。ここに、世界でも三ケ所しか確認されていないという珍しい白州(しらす)があります。今回は、島原半島の活性化をめざす民間団体「NPO法人がまだすネット」主催のイベント、『白州への上陸』に参加。自然の不思議にふれる体験をしてきました。 南有馬町は、「島原の乱」の舞台となった原城跡がある町として知られています。原城跡は有明海に面した小高い丘の上にあり、白州はその丘の海岸から300メートルほど沖合いに見られるといいます。  5月の大潮の日に行なわれた『白州への上陸』。あいにくの雨天にもかかわらず、長崎県内各地から8名の参加者が集まり、南有馬の漁港から、船で沖へ向かいました。ふりしきる雨の中、慣れない船にしがみつく参加者は、さながらネイチャーアドベンチャー。港を出ると右手には緑におおわれた原城跡の丘が見え、左手には海原が広がっています。この海上のどこかに白州があるなんて誰も想像ができません。 船はどんどん沖合いへ。7~8分ほど経ったでしょうか、目をこらして周囲を眺めると、うっすらと土色をした海面が見えてきました。「まさか!」「ここは、海の上よ!」などと参加者が驚いているうちに、船はおもむろにエンジンを止め、案内役の船頭さんが下船。足首くらいまで海水に浸かっていますが、そこには確かに白い砂浜のような景色が広がっているのです! 日本をはじめ世界各地に、干潮時になると潮が引いて島などへ歩いて渡れる場所があると聞いたことがありますが、この白州もそんな場所のひとつ。陸とは続いていませんが、干潮時に突如として海上に現れるのです。特に毎年5月頃にあたる旧暦3月の大潮の時は、干満の差が激しく上陸もしやすいといいます。かつて最干潮時には長さ800メートル、幅100メートルほどのひょうたんのような形の白州が現れていたとか。その形は海流の変化に応じて年々変化しているそうです。 世界でも珍しいと言われるのは、その白州の正体です。白やうす紫色をした小さな物体がたくさん集まって浅瀬を形成していたのですが、これは、リソサニウムという珊瑚によく似た水中植物で、ふつうは海底に見られるものだとか。大きいもので卓球ボールくらいでしょうか。この浅瀬(リソサニウム礁)を地元では古くから「白州の真砂(まさご)」と呼んでいるそうです。 リソサニウムをひとつひとつ見ると、形状は、まいたけ、しめじ、ブロッコリーを思わせます。地元の漁師さんでもある船頭さんによると、白いのは乾燥して死んでいるもの。うす紫色のはまだ生きているとか。海底から波の力で打ち寄せられているとおっしゃっていました。ちなみに、この一帯は、アラカブ(カサゴ)をはじめおいしい魚が豊富にとれるのですが、漁師さんの間では、この白州が安全な産卵場所になっているおかげだと、古くから言われているそうです。 白州に上陸した参加者はしばらく浅瀬を歩き回りました。小魚や小さなウニ、ヒトデ、ウミウシを確認。波が、陸側と沖側から打ち寄せているのもわかりました。わずか1時間ほどのネイチャーアドベンチャーでしたが、地球の息吹きを感じる楽しいひとときでした。◎取材協力 NPO法人がまだすネット事務局

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  • 第260号【アジサイの季節は、シーボルト記念館へ】

     雨の季節を代表する花、アジサイ。 TVニュースでは、見頃を迎えた各地のアジサイ園の様子が流れています。東北の方では、6月下旬から7月にかけて見頃を迎えると聞きましたが、長崎の見頃はそれよりも一ヶ月くらい早く、アジサイの季節はそろそろ終わりに近づいています。  それにしても、雨にぬれるアジサイの美しさといったらありません。思わず立ち止まり、見入ってしまいます。ブルー系のアジサイを見ていると気分がスッキリとして落ち着き、ピンク系なら不思議と明るい気分に。そんなふうに日本人の琴線にふれるのは、アジサイが日本原産であることに関係しているのかもしれません。 そして、この季節になると必ず思い出し、訪れたくなる場所があります。長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」です。ここは、出島のオランダ商館医師、フランツ・フォン・シーボルトに関する資料を展示した施設。シーボルトは、かつてアジサイに魅せられ、その苗を西洋に持ち帰り、広めた人物です。 シーボルトは1823年27才の時、来日。それから1829年までの約6年間、日本に滞在しました。医学はもちろん動物学、植物学、地理学、民俗学にも精通し、奉行所の許可を得て、長崎・鳴滝に「鳴滝塾」を開きました。そこで、全国から集まった塾生に西洋医学を教える一方、彼らの力を借りて密かに日本の植物や風景、風俗、習慣などあらゆる分野の調査を行いました。そして、いよいよ帰国という時、国外持ち出し禁止の品々が発覚。世に有名なシーボルト事件が起き、彼は国外追放となったのでした。 シーボルトが帰国後に著した「日本植物誌」には、川原慶賀など日本人絵師らによる美しく精密なボタニカルアート(植物画)が収められ、多くの日本の植物が紹介されています。そこにはアジサイが数種類あり、その中のブルーの色合いが美しい玉のようなアジサイに、シーボルトは、「Hydrager otakusa(ヒドランゲア・オタクサ)」と命名しました。Otakusaとは、シーボルトが愛した女性で、「おタキさん」と呼ばれた楠本滝さんのことです。 愛する女性の名を美しいアジサイに託したシーボルト。彼の思いは、とても深かったようです。それは、国外追放から約30年後、ふたたび来日し再会を果たしたことからもうかがえます。この時、シーボルトは、かつておタキさんから贈られた、オタキさんと娘のイネの姿を描いた螺鈿(らでん)細工のタバコ入れを持参していたそうです。 シーボルトとおタキさんとのロマンスは、長崎では有名な話です。それに由来して、アジサイは長崎の市花としても親しまれています。そして、「シーボルト記念館」では、この季節に合わせて「シーボルトとオタクサ展」を開催しています(~6/30迄)。日本植物誌に残された当時の日本のアジサイや「Otaxa」の文字が記されたシーボルト自筆の論文原稿など、アジサイとシーボルトにまつわる計50点の資料が展示されています。 西洋の広範な知識を通じて、日本の近代化に大きな貢献をしたシーボルト。シーボルト記念館に隣接する鳴滝塾跡には、数種類のアジサイが、シーボルトの胸像を囲んで咲き誇っています。その鮮明な美しさは、おタキさんをこよなく愛した若き日のシーボルトの思いと重なるかのようです。◎取材協力 シーボルト記念館 長崎市鳴滝2-7-40               TEL095-823-0707◎参考にした資料/「シーボルトのみたニッポン」(シーボルト記念館)、「日本植物誌」(八坂書房)

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  • 第259号【キビナゴ料理を作りませんか】

     ひと昔前までは、よく食卓にあがっていたのに、そういえば、最近あまり作らないなあと思う料理はありませんか?今回ご紹介するキビナゴ料理などは、そんなひとつではないでしょうか。 ウルメイワシ科のキビナゴは、体長約7~9センチの小さな青魚。細く透きとおった身体に銀色の縞が入っているのが特長です。水産県・長崎では、一年を通して店頭で見かける大衆魚ですが、あたたかな海域に分布する魚なので、寒い地方では、馴染みがうすいかもしれません。旬は春から夏にかけて。産卵期を迎えたキビナゴが、外洋から大群で海岸の方へやってくる時期です。 キビナゴの大群は、まるで全員が申し合わせたかのように隙間なく群れ、もうスピードで泳ぎながら一匹の巨大魚のような影をつくります。銀色の縞もいっせいにギラリと光って迫力満点。そうすることで、外敵から身を守っているのだという話を聞いたことがあります。 五島列島の漁師さんによると、キビナゴは主に、海中に目のこまかい網を張って固定する「刺し網(さしあみ)」という漁法で捕るとか。キビナゴは、泳いできた勢いで網に刺さったり、からんだりして捕らえられます。 長崎市内の魚屋さんをめぐってみると、長崎県内でも特にキビナゴの産地として有名な五島列島・福江島産を多く見かけます。お値段は、もちろんその日の漁獲量に応じてまちまち。旬のこの時期は、割合安く手に入ります。先日、買い求めた時は100グラム(15~20匹程度)70円でした。 キビナゴは傷みやすいので新鮮なうちに調理して食べるのが原則です。刺身などは、淡白でクセのないおいしさ。最近では料理屋さんなどでしか食べる機会がありません。でも、家でも簡単に作れます。包丁は使わず、手で頭をとり、指で腹を開きます。中骨も尾から頭に向かって引くときれいにとれます。銀の縞を表にして身をくるりとまるめてお皿へ。さしみ醤油や酢みそなどでいただきます。 以前、おばあちゃんの家でよく食べていた、キビナゴの煮付けを作ってみました。1.キビナゴ(200~300グラム:2~3人前)を洗って水気をきる。ショウガ(適量)をせん切りに。2.砂糖、醤油、酒(各適量)で味付けした煮汁を作り、キビナゴとショウガを入れて煮ます。キビナゴは小さいので、火が通るのも味が染みるのも早いです。シンプルで懐かしい一品のできあがりです。 おばあちゃんの家では、冬場、地元で「いりやき」と呼ばれるキビナゴ鍋もいただきました。材料は、キビナゴ、豆腐、白菜、大根、ネギなどを適宜。鍋に、醤油でうすく味付けした煮汁を沸騰させ、野菜を適量いれて煮る中、キビナゴを数匹づつ入れながらいただきます。ちょっと火がとおって色が少し変わった程度ですくうのがおいしい。骨もきれいにはずれます。 他にはキビナゴの南蛮漬や、地元のお惣菜屋などでよく見かける長崎天ぷらもおすすめです。食卓を懐かしい空気で包むキビナゴ料理。新鮮なキビナゴが手に入ったら、作ってみませんか?◎参考にした資料/「大日本百科事典5」(小学館)

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  • 第258号【移転オープン、長崎市歴史民俗資料館!】

     歴史好きの人々が、初めての町や村に出かけた時、まず訪れるのがその土地の風俗・歴史資料がぎゅっとつまった資料館です。遠い昔の黄ばんだ資料がかもす、簡素でひなびた雰囲気はどこも似ていますが、その土地にしかない文化の匂いが感じとられ、面白いものです。 長崎市には、「長崎市歴史民俗資料館」というところがあります。昭和53年(1978年)に長崎港そばの松が枝町に開設して以来、数カ所の移転を経て、この春、「長崎原爆資料館」(平野町)隣の平和会館内へ引っ越してきました。これまでよりもわかりやすく、交通の便が良くなったため、市民や観光客の方々にも好評のようです。 同資料館では今、移転記念と長崎さるく博の特別展として、「崎陽亀山焼展(きようかめやまやきてん)」と「若杉家と茶道展」を開催中です。「崎陽亀山焼展」は、焼き物に興味のある方なら、見逃せません。タイトルの「崎陽」とは「長崎」のこと。「亀山焼」は、幕末の長崎に生まれ、約60年で途絶えた窯です。 「亀山焼」は、文化元年(1804年)頃、オランダ船に売るための水甕(みずがめ)をつくるために、長崎の伊良林というところに窯が設けられました。「亀山焼」の名称は、この水甕の「かめ」に由来しているといわれているそうです。窯の経営は、長崎の裕福な町人、大神甚五平ら4人によって行われましたが、ちょうどその頃、ヨーロッパのナポレオン戦争の影響で、オランダ船の来航が長く途絶え、経営は失敗。その後、大神甚五平ひとりが経営に乗り出し、製品を陶器から白磁や青磁に切り替えたことが成功。数々の名品を世に送り出しました。 今回、展示されている作品は、経営再建後につくられた白磁が中心です。ケーキをかたどった器やオランダ船の絵が入ったティーポットなど海外向けと思われる製品もありました。染付の絵柄は、山水や亀などをモチーフにした中国風や、貝殻などをデザインした西洋風、そして長崎の木下逸雲(きのしたいつうん)や大分の田能村竹田(たのむらちくでん)など、当時の著名な文人や南画家たちが描いたものなど、とにかく多彩です。絵付けをした人々のいきいきとした筆使いや魅力的なものをつくろうとするチャレンジ精神が伝わってくるようです。 白磁の陶土は天草から取り寄せ、美しい青を生み出す染付の呉須(ごす)は中国の上質のものを使用。また中国の蘇州の土で青磁をつくるなど、素材を海外に求めているところなどに、貿易港・長崎ならでは感性がうかがえます。 その後、「亀山焼」は幕末の混乱の中で衰退。慶応元年(1865年)に廃窯になりました。余談ですが、この翌年、亀山焼の窯跡の近くに、坂本龍馬は貿易商社の亀山社中を結成しています。 「若杉家と茶道展」は、長崎の地役人で茶人でもあった若杉家と裏千家の交流を物語る企画展です。「利休之像」や由緒ある茶道具など、貴重な資料が14点展示されています。やはり、会場には茶道をたしなむ方々が絶えないそうです。  「崎陽亀山焼展」と「若杉家と茶道展」は、2006年5月末まで開催中です。ぜひ、足をお運びください。◎参考にした資料/「崎陽亀山焼展」(長崎市歴史民俗資料館)◎取材協力/長崎市歴史民俗資料館

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  • 第257号【出島の暮らしが見えて来た!】

     この春の長崎は、観光面での話題がとっても豊富です。3月には、長崎の歴史や文化など多彩なジャンルの知識に挑戦する、「長崎検定(長崎歴史文化観光検定)」が行われ、市民をおおいにまきこんで故郷・長崎への関心が高まりました。また、この4月1日から、日本ではじめてのまち歩き博覧会「長崎さるく博‘06」がスタート。10月29日までの7ケ月間の催しで、長崎の各所を楽しく歩き回れるメニューがたくさん用意されています。観光スポットをめぐるだけでは気が付かない普段着の長崎に出会えるとあって、参加者にも好評のようです。 そして、さらに、長崎観光の中心的存在のひとつである、出島にもうれしいニュースがありました。出島ではかねてより19世紀初頭の姿をめざして復元事業が進められ、すでに「ヘトル部屋」(※ヘトルとは、オランダ商館長次席のこと)や「料理部屋」など5棟が復元されていましたが、この4月1日、あらたに「カピタン部屋」、「乙名(おとな)部屋」、「拝礼筆者蘭人(はいれいひっしゃらんじん)部屋」。「三番蔵」、「水門」の5棟が完成し、一般公開されたのです。 復元された建物が並ぶ通りを歩けば、そこからオランダ商館員やチョンマゲの地役人がひょいと出てきそうで、ちょっとドキドキします。今まで、あまり知る機会のなかった出島での日本人の姿をはじめ、オランダ商館員たちの暮らしぶりも具体的に見えて来て、とても面白いのです。展示物も充実しており、その歴史の奥深さと魅力にふれていると、何度でも通いたくなってきます。  さて、パワーアップした出島で、今回特にご紹介するのは、「カピタン部屋」です。建物の正面に設けられた鮮やかなライトグリーンの階段が目印です。ここは、カピタンと呼ばれたオランダ商館長の事務所や住居とされたところで、出島の中でもっとも大きな建物です。1階は、出島の歴史や生活に関する資料を展示したガイダンス的な場所。出島に行ったら最初に訪れるといいと思います。 「カピタン部屋」の2階は、当時の生活空間が復元されています。商館員らが事務を行い、地役人と商談などをしたと思われる部屋や、朝夕の2回、商館員らが集まって食事をしたり、大名などが接待を受けたという35畳の大広間などがあります。細部まで気を配った和洋折衷の部屋の造りやオランダで買い付けたという絨毯、食器、家具などの調度品。当時さながらの臨場感あふれる空間に、出島の住人の表情までもが見えて来るようです。また、カピタン部屋は特にバリアフリーの工夫が施されており、車椅子の方もスムーズに見学ができるのはうれしいところです。  「カピタン部屋」の裏手の狭い通りを隔てたところに建つ「乙名部屋」も興味深い建物です。乙名は、出島を監視する地役人で、出島に出入りする人や壊れたものをチェックすることなどが仕事でした。彼らが拠点としたこの建物は、長崎の町屋を参考にしたもので、純和風。まさに、時代劇で十手持ちなどが出入りする番所で、それらしき帳面や書類棚が設けられています。突然、そこに地役人が現れても、「ご苦労さまです」などと何の違和感もなく挨拶を交わせてしまいそうなほど、どっぷりと空間にひたれます。 「乙名部屋」の2階の格子戸からは、カピタン部屋をのぞくこともできそうです。この近さなら、いろいろと通じ合うことも多かったのではないかとも思え、当時の出島の情景が、生身の人間を感じられるくらいに想像できます。ぜひ、お出かけください。

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  • 第256号【風光明美な大村湾を渡る】

     先日、高速船で大村湾をクルージング。大村湾は、県外の方々には「長崎空港」があることで知られています。まるで湖のように、穏やかな波をたたえるこの湾の広さは320キロ平方メートル。琵琶湖の半分くらいといわれています。湾内では、ナマコ漁や牡蠣の養殖が盛ん。温暖な気候にも恵まれ、周囲の地域は伊木力みかんなど、おいしい農作物の産地にもなっています。 大村湾は、長崎県本土のほぼ中央に位置し、5市4町(長崎市、佐世保市、大村市、諫早市、西海市、川棚町、東彼杵町、長与町、時津町)に面しています。地図で見ると、袋状をした湾の北部に佐世保港に通じる細い湾口があり、外洋へは直接通じていない閉鎖的な地形であることが、よくわかります。 長崎県環境政策課の方によると、大村湾のように閉鎖性が強い海域は、海水の交換が十分でないため、水質がいったん悪化すると改善するのが容易ではないとのこと。そのため大村湾流域では、生活排水対策重点地域として、環境保全に特に力を入れているそうです。  さて、今回のクルージングは、湾奥の時津港を出で、いっきに北上し湾口の針尾瀬戸を抜けて外洋へ出るというルート。ちなみに、時津港は400年以上も昔、西坂の丘で殉教した26聖人が、京都や大坂で捕らえられ、長崎へ護送される際、大村湾を渡って上陸した港として知られています。 今回の大村湾でいちばん楽しみにしていたのは、スナメリとの出会いです。スナメリはクジラやイルカの仲間で、体長は約1.5メートル。絶滅の恐れがある生物として近年注目され、地元のニュースでもたびたび話題に上がっています。以前、水族館で見たことがあるのですが、ずんどう気味の体形と丸い顔がかわいらしく、子どもたちの人気者でした。 高速船のスタッフに話を聞いてみると、大村湾にはイルカもいて、航行中に数頭のスナメリやイルカの群れを見かけることがあるそうです。スナメリにはイルカのような背ビレがないので、すぐに見分けがつくとか。この日は、残念ながらスナメリの姿は確認できませんでした。  もうひとつの楽しみが針尾瀬戸に架かる「新西海橋(しんさいかいばし)」です。佐世保市と西海市をつなぐこの橋は、先月5日に開通したばかり。日本初の有料橋として1955年に開通した「西海橋」の約300メートル隣に並んで架かっています。約半世紀前、東洋一とまでいわれ注目を浴びた「西海橋」。当時の開通の賑わいを知る方々の中には、新たな橋の登場に特別な思いを寄せる方もいらっしゃるのではないでしょうか。 爽やかな空色をした「新西海橋」は、周囲の町の観光面での活性化に大きな期待が寄せられているとか。この日、名物のうず潮は、ゆるやかな流れ。新旧の橋の下を、減速した船でゆっくりくぐりながら、時の流れに思いを馳せたのでありました。◎参考にした本や資料/「大村湾環境学習プログラム」(長崎県環境政策課)

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  • 第255号【トマトってこんなにおいしい!高島フルーティトマト】

     長崎港沖に浮かぶ高島(長崎市高島町)は、かつて炭鉱の町として栄えたところ。周囲6、4kmほどのこの小さな島は、現在、釣り公園や海水浴場、キャンプ場、温浴施設など美しい海を活かした施設が設けられ、リゾートの島に生まれ変わっています。 そんな高島の特産品として、注目を浴びているのが、「高島フルーティトマト」です。糖度が高く、香りもいい。まるでフルーツのような味わいなのです。お尻がツンととがった形が愛らしく、手にとるとズッシリとした重量感があります。「果肉がきっしり詰まっているんです。だから、水の中に入れると底へ沈みますよ」と、高島トマト事業部の元田矯(もとだ つよし)さん。高島でこの事業がはじまった17年前から、この土地に合うおいしいトマト栽培の研究を続けている方です。 「高島トマトは、永田農法で知られる永田照喜治(ながた てるきち)さんの指導の下ではじめられました。永田農法はスパルタ農法ともいわれ、植物が本来持つ力を最大限に引き出すために、最小限の水と肥料で育てます。この方法だと、栄養価の高い本当においしいトマトができるのです」。そこに元田さんの研究に基づく工夫や改良が加わり、よりおいしいトマトができるようになりました。 「トマト本来の味を引き出すために、ハウス内は、昼と夜の寒暖の差が激しいトマトの原産地、ペルーのアンデス高原の環境に近付けています」という元田さん。おいしいトマトを栽培するためには、この他、水やりや施肥など、細やかな配慮が必要です。 冬でも温暖で、日照の多い高島。トマトの収穫時期は、毎年1月から5月です。糖度は、冬場に収穫する初もので、9度を示すものもあります。通常のトマトの糖度が、4~5度ですから、だんぜん甘いことがわかります。そして、温かくなるにつれ、糖度はさらに増してメロン並みになるそうです。 高島のトマト栽培は、1989年度、第三セクターの事業として取り組まれたのが最初です。そして、昨年の高島町と長崎市との合併後には、市がこの事業を引き継ぎ、まもなく民間会社、「崎永海運株式会社」の「高島トマト事業部」が、市から農地と施設を借り受けて事業を引き継ぎ、現在に至っています。 さまざまな状況を乗越えて存続してきた高島トマト。やはり、それだけの価値と魅力があったということなのでしょう。これまでは、県外の企業経由の流通だったため、地元長崎の店頭で見かけることは少なかったのですが、今シーズンからは、地元の百貨店やスーパーにもお目見え。地産地消で、地域の活性化もめざしているそうです。 収穫のこの時期、高島の直売所では、毎週火、木、土曜日の朝に販売していますが、すぐに売り切れてしまうとか。今年は寒さが厳しかったため例年より一ヶ月半ほど収穫が遅れているそうですが、すでに事務所には、全国各地から寄せられた注文伝票が山積みで、収穫を待っている状態です。  全31棟のビニールハウス(約3、100坪)で、元田さんそして8名の従業員の皆さんが手間ひまをかけて育てた「高島フルーティトマト」。選果作業場で収穫したばかりの完熟のトマトを、ひとつひとつ丁寧に扱っている姿が印象的でした。◎取材協力/たかしま農園

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  • 第254号【福江島の福江城】

     一時的に寒さがもどる日はあるものの、長崎はメキメキと温かくなっています。まだ雪が残る豪雪地帯の方々にとって、春の到来は本当に待ち遠しいことでしょう。九州の温かさは、じきに北上。本格的な雪解けの日も、近いはずです。 さて今回は、長崎港から春光にきらめく海を渡り、九州の最西端に位置する五島列島の福江島へ行ってきました。福江島は、古くは遣唐使船の最終寄港地として知られ、昔からこの地方の文化や交通の拠点として栄えたところです。現在も五島市(福江島、奈留島、久賀島など11の有人島と52の無人島により構成)の中心地です。 この日は、高速船が発着する福江港周辺の市街地を中心に散策しました。この辺りは、かつて五島藩の城下町として栄えたところです。港から徒歩5~6分のところに、自然石を絶妙のバランスで積み上げた高い城壁が続いていました。日本で数少ない海城として知られる「福江城(石田城)」の跡です。  「福江城」は、五島藩主の居城として、幕末に築かれたものです。その背景には江戸から明治にかけての時代の変革期に、揺れ動く幕府の思惑がからんでいました。 五島藩の藩主、五島氏は、もともと江川城というお城に住んでいましたが、江戸時代初め(1614年)に焼失。その後、数回にわたり幕府に築城を嘆願しましたが、約1万2千石という小藩だったこともあり、築城は許されませんでした。 そこで、五島藩のお殿さまは、陣屋を築いて藩政の拠点とし、長い間そこを住まいとしてましたが、幕末になって情勢は大きく変化。異国船が五島灘にたびたび出没するようになり、幕府は海防を目的に、ようやく五島藩の築城を許可したのです。 そして、「福江城」は、1849年(嘉永2)の着工から、約15年の歳月をかけて完成。五島藩のお殿様は、約230年にも及んだ陣屋住まいから、ようやくお城の中の御殿へ移り住むことになりました。城郭は東西291メートル、周囲は2、246メートルで、城壁の三方が海に面していました。「福江城」が、海城と呼ばれる由縁です。 築城にかかった15年という歳月について、ある城郭史研究家の方が、「通常、この規模のお城を築くのに、これほど長い期間はかかりません。遅延の理由として、築城のための石材が豊富に採れるのに、石垣技術に巧みな人材に恵まれなかったなどの理由があるようですが、実は五島藩は当時の日本の情勢から、幕府はいずれ倒れ、築城してもその役割を果たさないだろうと、先を読んでいたのではないでしょうか」というお話をしてくださいました。 実際、完成した5年後には、明治維新を迎え、海防という使命を果たすことなくお城は解体されています。「五島藩士の中には幕府に対して、長い間、築城を許されなかったことへの反感や不快感もあったはずです」。そういう思いもからんで、築城は遅々として進まなかったのでしょうか。 いろいろなことを想像させる福江城の跡。その敷地には現在、天守閣風の建物の「五島観光歴史資料館」があり、五島の歴史、文化、自然についてさまざまな資料を展示・紹介しています。五島の観光の際には、はずせない施設です。 さらに近くには、江戸時代の武家屋敷通りがあり、当時の面影を残す石垣が約400メートルも続いています。石垣の上には「こぼれ石」と呼ばれる丸い石が積み上げられ、その両端は、かまぼこのような形の石で止められていました。このような石垣は全国的にもあまり例のないものだそうです。 武家屋敷通りの一角には、民芸品の展示をはじめお土産や喫茶コーナーなどが設けられた「ふるさと館」があります。のどかな城下町の散策の途中、ひと息入れるのにちょうどいいスポットでした。 ◎参考にした本/長崎県~ビジュアル版にっぽん再発見42~(同朋舎) 

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  • 第253号【諌早の名橋・眼鏡橋を訪ねて】

     風はまだ冷たいですが、あたたかな日射しやツボミをふくらませた植物たちが、「春は、もうすぐそこですよ」と告げています。今回は、爽やかな早春を満喫しようと、散策の足を伸ばして長崎駅から快速電車で約20分のところにある諫早市へ出かけました。  長崎県のほぼ真ん中にある諫早市は、人口約14万5千人。東に、ムツゴロウなどの生息で知られる有明海、西に、長崎空港(大村市)を擁する波静かな大村湾、南に、豊かな漁場で知られる橘湾(たちばなわん)と三方を海に囲まれ、北には、地元の登山家に愛される緑豊かな多良岳が連なっています。  諫早市の中央部を流れているのは、一級河川の本明川です。サギやカワセミなどが生息する美しい川で、諌早市街地を通って有明海に注いでいます。その下流に広がる諌早平野は、長崎県最大の穀倉地帯として知られています。そんな諫早市の近年の大きな出来事といえば、昨年3月に隣接する5つの町(多良見町、森山町、飯盛町、高来町、小長井町)と合併したことでしょう。さらに広く、大きくなった諫早市の発展が期待されています。 長崎市から電車やバスで気軽な距離の諌早市ですが、土地柄はやはり違います。それを大きく感じるのは方言です。たとえば、「こちらへ、来なさい」は、長崎弁だと、「こっちへ、来(こ)んね」、諌早弁だと「こっちへ、来(き)んしゃい」となります。諌早独特の言葉は、「かつて佐賀藩だった影響が大きいのでは?」と諌早在住の友人は言います。 江戸時代、「佐賀藩諌早領」として栄えた諌早は、長崎街道が通るなど、交通の要地だったことで知られています。かつての街道沿いにあった久山茶屋(くやまちゃや)跡(諌早市久山町)には、旅の途中、龍馬やシーボルトなどが使ったといわれる井戸が今も残されています。 諌早ならではの史跡や見所もたくさんありますが、まず、見ていただきたいのが「眼鏡橋」です。眼鏡橋というと、長崎では中島川に架かる石橋群のひとつを思い出しますが、諌早の眼鏡橋は、長崎の眼鏡橋とは違った味わいがあります。 諌早市の石造りのアーチ橋、「眼鏡橋」は、諌早市街地の中心部にある諌早公園内の池に架けられています。しかし、もともとは、そのそばを流れる本明川にありました。水害のたびに橋が流されていた本明川に、けして流されない橋をという、領主・領民の願いから、1839年(天保10)に架けられたそうです。  眼鏡橋のたもとの説明板によると、長さ約45メートル、高さ6メートル、幅5メートル。石材は、近隣の山から切り出された砂岩で、全部で2、800個も使っています。1961年(昭和36)、本明川の幅を広げる工事の際、現在地に移築・復元されたそうです。 石橋としては大ぶりながら、欄干などのデザインも含め、全体的にとても美しい諌早の眼鏡橋。たいへん丈夫な橋だったので、昔は、人柱が立っているのではという噂もあったそうですが、移築の際にわかったのは、アーチの中央部分の基礎石の下に、有明海の潟が1メートルほど入っていて、それがクッションの役割を果たし、地震などの揺れを吸収していたそうです。 眼鏡橋のある諌早公園は、かつてお城があった山を利用したもの。その頂きへ登ると、遠く雲仙の平成新山から、多良岳も一望できます。そこには、樹齢800年ともいわれる大クスもそびえていました。遥かな歳月を生き抜いてきた巨木を見上げ、長崎市とはまた違った歴史の広がりに思いを馳せたひとときでした。

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  • 第252号【奇祭へトマトでヘトヘトになる】

     1月、2月は、新年にちなんだ神事や冬祭りが各地で催されていますが、その中には、まだあまり知られていない珍しい伝統行事も数多くあるようです。今回は長崎県で奇祭のひとつとして知られる「ヘトマト」をご紹介します。 五島列島・福江島の下崎山地区に古くから伝わる「ヘトマト」は、毎年1月16日に行われる小正月の祭りです。「相撲(すもう)」、「羽根つき」、「玉せせり」、「綱引き」、「大草履(おおぞうり)」といった数種類の行事を一度に行う珍しい祭りで、国の重要無形文化財にも指定されていますが、祭りの由来は定かではないそうです。 今年の「ヘトマト」も例年通り、午後1時頃から地元の白浜神社で、相撲の奉納からはじまりました。地元の小学校はこの祭りのため午後から休み。神社の境内には、ふんどしに着替えた子供たちや炊き出し役のお母さん方をはじめ、地域の内外から大勢の見物客が集い賑わいました。  地元の園児から青年団まで、延々と続く相撲の合間をぬって、炊き出しのぜんざいをいただきました。小豆と一緒に煮込まれたお団子の美味しさといったらありません。聞けば、この地域は小麦の産地。新鮮な地粉をこねてつくったお団子でした。 相撲が終わると、人々は神社を出て通りの方へ移動します。すると、身体にススを塗り付けたふんどし姿の男性たちが大勢現れました。手にはススが入ったバケツを持ち、見物客に走りよって相手の顔にススを塗り回っています。逃げる人もいますが、どちらかといえば、誰もが塗ってもらいたそうな様子。どうも、これは縁起もののよう。塗られたススは家に帰るまで落としてはいけないそうです。 一説には、このススを塗る行為が「ヘトマト」の名の由来だといわれています。ススは「ヘグラ」とも呼ばれ、五島では「ヘト」と呼ぶことがあるそうです。そして「マト」を「まとう」と解すれば、「ヘトマト」となるわけですそういうことも知らず、ヘトヘトになるほどきついお祭りだから?などと思っていました。 そうこうする内に、通りの向こうから、紋付袴姿の男性を先頭にした一行が、カーンカーンと「時の鉦(ときのかね)」を鳴らしながら歩いてきました。その後、通りの一角に用意された酒樽に、美しい着物姿の女性が乗り「羽根つき」がはじまりました。ちなみにこの女性は新婚さんに限るとか。羽根の打ち合いが途切れると、「羽根つき」を仕切る男性が、今年の豊作豊漁を占うような言葉を口にします。一見ユニークな形の羽根つきですが、これも神聖な行事なのです。 羽根つきが終わると、ふんどし姿でススまみれの青年たちが、ワラで作った玉の奪い合いをはじめました。「玉せせり」と言われる行事です。激しい動きで身体から湯気が立っています。いつの間にか勝敗が決まると、続いて大きな綱が持ち出され、「綱引き」がはじまりました。ふんどし姿の男性たちは、休む間もなく、身体を張って勝負を続けます。 「綱引き」が終わると、いよいよクライマックスの「大草履(おおぞうり)」の登場です。長さ約3メートルもある大きな草履を担ぎ、奉納する山城神社まで地域を練り歩きます。その道中、娘さんを見つけると、草履の中に放り入みます。これは、未婚の女性に限るそうです。 寒い中、夕方近くまで怒濤のごとく繰り広げられた「ヘトマト」。ひとつひとつの行事には、神様に奉納するための大切な意味があるのでしょう。終わってみると祭りの勢いに押され、ヘトヘトになりましたが、なぜか気分はスッキリ。今年もいい年でありますようにと、あらためて感じる祭りでした。◎ 参考にした資料や本/長崎歳時十二月(深潟久著)

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  • 第251号【長崎カオスひたる、ランタンフェスティバル!】

     長崎の冬の一大風物詩、「長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります!毎年、旧暦の元旦から約2週間に渡って行われるお祭りで、今年は1月29日(日)~2月12(日)まで開催。長崎市内の中心部が、1万5千個にも及ぶランタンの明かりに包まれます。 「長崎ランタンフェスティバル」は、もともと中国の旧正月(春節)を祝う行事として、長崎在住の華僑(かきょう)の人々によって行われていたものが、長崎市全体のお祭りに発展したものです。街いっぱいダイナミックに、華やかに飾られた極彩色の明かりは、訪れる人々を幻想的な世界へ誘います。それは、現在・過去・未来と悠久の時間の中をさまよう不思議な感覚です。東洋と西洋の国々との交流で彩られた長崎独特の混とんとした歴史、「長崎カオス」とも呼びたくなるその渦の中に迷い込んだようでもあります。 年々、全国的に知られていくと同時に、規模が広がり内容も充実している「長崎ランタンフェスティバル」。長崎新地中華街そばにある「湊公園(みなとこうえん)」をはじめ、「中央公園」、「唐人屋敷(とうじんやしき)」、「興福寺(こうふくじ)」、「浜んまち」、「鍛冶市(かじいち)」など市内中心部に設けられた6ケ所の会場では、龍踊りや中国獅子舞、中国雑技など、中国ゆかりの催しが連日行われ、観客を飽きさせません。いずれの会場も、徒歩圏内で結ばれています。会場から会場へ、ランタンの明かりの下を家族や友人たちとそぞろ歩けば、心も身体もポカポカと温まることでしょう。 今年の見どころをいくつかご紹介します。ひとつめは毎年「湊公園会場」に飾られる干支のオブジェです。犬年にちなんだ今回のオブジェのタイトルは、「旺旺・狗来富(ワンワン・ゴーライフー)」。『犬が来ると家業が栄える』という意味だそうで、ぜひ、一目見ておきたいものです。  ランタンと共に人々の目を楽しませてくれるのが、孫悟空(そんごくう)麒麟(きりん)、楊貴妃(ようきひ)など中国伝説の神々や動物、歴史上の人物のオブジェです。今年は、たっぷりの白ヒゲをたくわえ、桃のついた杖を持つ「月下老人(げっかろうじん)」というオブジェが新しく登場します。伝説によると「縁結びの神様」だとか。気になる方は、探してみませんか? そして、今年は眼鏡橋のある中島川沿いにも、足を延ばしましょう。幸せの黄色いランタンが優しい表情で連なっています。川面に映るロマンチックな明かりは必見です! さらに、開催期間限定販売の「ランタンオリジナルグッズ」も要チェックです。「福」の文字を逆さにしたキーホルダー(300円)は、福を逃がさないという意味がある縁起物。手に持って歩きたい小型ランタン(300円)などもお土産に最適です。どこか素朴で愛嬌のある中国のおもちゃなども一緒に湊公園会場などで販売されていますので、この機会にどうぞ。 さて、長崎ランタンフェスティバルと同時に楽しんでいただきたいのが、「長崎歴史文化博物館」(長崎市立山)で開催中の「北京故宮博物院展~清朝末期の宮廷芸術と文化~」(1月21日~3月5日迄)です。中国の歴史の奥深さに触れるすばらしい展覧会です。ランタンフェスティバル会場のひとつである唐寺「興福寺」の「瑠璃燈(るりとう)」も展示されています。これは、長崎市の文化財で、東洋一と呼ばれるランタンだそうです。こちらも、お見逃しなく。 ◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会(長崎市観光宣伝課内)

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  • 第250号【おいしいヒカドで、温まろう】

     今日は鏡開き。鏡もちをさげて、雑煮やぜんざいを作ったご家庭も多いことでしょう。お供物の鏡もちを食べることは、お正月の終わりを意味する大切な儀式といわれています。新しい年を佳い年にするためにも、鏡もちをいただいて力をつけたいものですね。 お正月が過ぎると、冬の寒さはさらに厳しくなります。今回は、そんな季節にぴったりの長崎の郷土料理、「ヒカド」をご紹介します。「ヒカド」をご存知の方は、けっこうな長崎通かもしれません。地元でも知らない人が意外に多く、知っていても作ったことはないという方がほとんどのようなのです。 「ヒカド」とは、ちょっと変わった名前です。それもそのはず、ポルトガル語の「picado」に由来する言葉で、その昔、南蛮人(ポルトガル人やスペイン人のこと)が長崎に伝えた料理の一つなのです。それでは一体どんな料理なのか。そのヒントもこの名前にありました。 ポルトガル語の辞書を引くと「picado」には、肉や魚肉のこま切れ料理という意味があると書いています。その通り、「ヒカド」は、1、5cmほどのさいの目切りに揃えた肉や魚肉、冬野菜などを煮込んだものです。味付けはとてもシンプルで、材料を煮込んだ後、酒、薄口醤油、塩で整える程度。調理の最後にサツマイモをすってトロミとコクを出したその味わいは、心身ともに温かくしてくれる素朴なおいしさです。 トロリとした味わいがシチューに似ているので、「長崎シチュー」とも呼びたくなる「ヒカド」。知人から聞いた材料(3~4人分)と作り方をご紹介します。1、マグロまたはブリの切り身1~2枚(約100g)、鶏モモ肉(50g)、サツマイモ(中1個)、ダイコン(1/2本)、ニンジン(1本)を各1、5cmのさいの目切りにします。干ししいたけ(2~3枚)はもどして、4等分に切ります。さいの目に切った魚肉は湯どうししておきます。(※材料はこの他、サツマイモやゴボウ、キクラゲなどを入れてもいい)。2、鍋に、だし汁800~1000cc(したけのもどし汁も加えて)と、サツマイモと魚肉以外の材料を入れて煮込みます。3、材料に火が通ったら、サツマイモと魚肉を入れて煮込み、酒(大1~2)、薄口醤油(小1~2)、塩(小1)で味を整え、サツマイモ(中1/2個)をすりおろして入れトロリとさせて出来上がり。器に盛ったら小ネギを散らします。 「ヒカド」は、けんちん汁や新潟の郷土料理として知られるのっぺい汁に、材料や調理法がよく似ています。大きな違いは、前者が材料をさいの目切りで揃えるのに対し、後者はいちょう切りや輪切りなど特に切り方を揃えていません。 さいの目に揃えたのには、どんな理由があったのでしょう。見た目や食べやすさのため?本当に、伝わった当初からそうだったのかしらん?滋味溢れる「ヒカド」のスープを飲んでいると、いろいろと想像がふくらみ、先人が残してくれた郷土の味を大切にしたいなあと、あらためて思うのでした。◎ 参考にした資料や本/長崎事典(長崎文献社)、ジャポニカ大日本百科事典4巻(小学館)、長崎卓袱料理(ナガサキインカラー)、長崎の郷土料理(長崎出版文化協会)

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  • 第249号【事始め ビール、ジン、ワイン】

     今年もあとわずか。長崎駅では、御用納めのこの日を境に、都会からの帰省客も増えはじめ、年の瀬ならでは混雑が見られるようになります。これから、帰省されるという方は、気を付けてお出かけくださいね。  帰省する方々がいちばん楽しみにしているのは、やはり故郷の味のようです。先日も、数年ぶりに東京から長崎に帰省することになった友人から、「早よ、そっちで、ちゃんぽんば、食べたかー」という電話がありました。「よかばい、作ってやるけん(わかった、作ってあげる)」と返事をすると、友人曰く、「ちゃんぽんは、長崎で食べるのがいちばん旨かもんね!」とうれしいことを言ってくれました。 さて、久しぶりに懐かしい笑顔が集う時、おいしい郷土料理とともに欠かせないのがアルコール飲料です。実は長崎は、いくつかの代表的なアルコール飲料の日本における歴史に深いゆかりがあります。たとえば、ビール。江戸時代にオランダ船によって出島に持ち込まれたのが最初だといわれています。 出島在住のオランダ商館員たちは、相当ビール好きだったようです。オランダ本国がフランス軍に占領されるなどの影響で、オランダ船が出島に長く入港しなかった時期があったのですが、輸入が途絶えたビールをどうしても飲みたくて、出島でビールを醸造したというエピソードもあるそうです。はてさて、出島ビールはおいしくできたのでしょうか? ジンフィズやマティーニなどカクテルづくりに欠かせないジンも、オランダから出島にもたらされたのが最初のようです。百科事典によると、もともとジンは、17世紀にオランダのライデン大学の教授によって発明されたお酒で、蒸留アルコールに、杜松(ねず)の実で香りをつけたもの。アルコール度が強いお酒ですが、オランダ人の口にあったようで、発明後またたくまに普及したそうです。 ワインも長崎ゆかりのお酒です。こちらはビールやジンより早く、16世紀頃、ポルトガル人との南蛮貿易の時代に長崎に伝えられといわれています。当時、赤ぶどう酒(ワイン)のことをポルトガル語に由来して「チンダ酒」(=珍陀酒)と呼んだそうで、その後、オランダ人との出島貿易の時代になっても、その名前が使われたそうです。 当時のオランダ商館員たちはどんなふうにお酒を飲んでいたのでしょう。19世紀初頭の姿を再現すべく現在、復元工事が進められている出島に行くと、すでに復元された「一番船船頭部屋」でその様子を想像することができました。 「一番船船頭部屋」と呼ばれる棟には、オランダ船の一番船船長や商館員たちが過ごした部屋があります。壁紙、椅子や机、小物など、当時の家具調度品がこまかく再現されたその部屋は、今見ても、和洋折衷のモダンなインテリアが洒落ています。部屋を見渡すと、畳の上にはワインやジンが入っていたという複数の瓶、戸棚には携帯用の酒ビンやジンやワインの各グラスが置いてあり、いつでも飲める状態になっていました。せまい出島での暮らしの中で、アルコール類は大切ななぐさめのひとつだったようです。 今年も当コラムを御愛読いただき、誠にありがとうございます。皆様、良い新年をお迎えください。◎ 参考にした資料や本/ながさきことはじめ(長崎文献社)、ジャポニカ大日本百科事典9巻(小学館)、よみがえる出島オランダ商館~19世紀初頭の町並みと暮らし~(長崎市教育委員会)◎撮影にご協力いただいた関係各所/長崎市観光企画課

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