第293号【浦上へ、キリシタンの史跡を訪ねて】
北の方では初雪が降るなど早くも冬が足音をたてて近付いています。南国・九州の長崎は、さすがに朝晩は冷えますが、日中はまだ汗ばむほどの暑さ。秋らしさを感じさせる金木犀の芳香も、遅れ気味でようやく漂いはじめたところです。そんな長崎の今はまさに、観光シーズンたけなわ。長崎市内を走る路面電車の電停では、脱いだジャケットを片手に市内観光を楽しむ方々の姿が目立ちます。
そんな人々に混じって路面電車に乗りこみ、平和公園のある浦上地区へ行ってきました。この一帯には、原爆落下中心地公園、長崎原爆資料館、如己堂、永井隆記念館などがあり、いわゆる平和のゾーンとして、国内外からの観光客が絶えないところです。今回は、そういった有名な施設の周辺にありながら、足を止める機会が少なかった史跡をいくつかご紹介したいと思います。
それらは長崎のキリスト教に関する史跡です。まずは、簡単に歴史から。時代は400年以上も前、戦国大名の大村純忠が1570年に長崎を開港。ポルトガル船との貿易港として新しい町づくりがはじまった長崎は急速に発展していきました。それから10年後、純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進。それから4年後の1584年、島原の領主・有馬晴信は、ここ浦上をイエズス会に寄進しました(※戦国末期、浦上は有馬領だった)。
そうして長崎は、当時の日本におけるキリスト教の中心地となりましたが、その黄金時代は長くは続きませんでした。信長の後、政権を掌握した秀吉は、1587年に伴天連追放令を出し、各地で活動していた宣教師を追放したり、教会を破壊しはじめます。そして、翌年にはイエズス会領となっていた長崎、茂木、浦上を没収し直轄地にしたのです。ただ、その頃はまだ、長崎におけるキリスト教弾圧は行われておらず、逆に、長崎の市中には教会が増えていたといいます。江戸時代に入り徳川幕府の天領となった長崎は、1612年に禁教令が出され、2年後には長崎にあった教会がほとんど破壊されるなど、激しい弾圧がはじまったのでした。
長崎駅前から約10分。「大橋」電停で下車。その近くの国道206号線沿いに「サンタ・クララ教会跡」があります。説明版によると、徳川家康が江戸に幕府をひらいた1603年に建てられた教会で、当時としては浦上で唯一の教会だったそうです。幕府の禁教令で破壊された後、神父を失った村人たちは、帳方(ちょうかた)、水方(みなかた)、聞役(ききやく)という潜伏キリシタンの地下組織をつくり、その後250年間、ひそかに信仰を続けました。この場所では、仏教徒を装わざるをえなかった信者たちが、盆踊りと称して集まり、祈りを捧げていたそうです。
「サンタ・クララ教会跡」からサントス通りと呼ばれる道路から脇道に入り浦上川の上流へ数分歩くと、山里小学校にほど近い住宅街の一角に、「ベアトス様の墓」と呼ばれる史跡がありました。信長、秀吉の時代には村人のほとんどがキリシタンであったという浦上地区。江戸初期の弾圧時に捕われ、激しい責め苦にも屈しなかった3人の親子、ジワンノ、ジワンナ、ミギルのお墓です。信仰と愛に生きたというこの一家は、敬けんな生涯をおくった人々を意味する「ベアトス」様と称され、この地のキリシタンの間でずっと語り継がれてきたのでした。
強固な地下組織で信仰を続けた浦上の信徒たち。江戸時代も終わりに近い1865年、大浦天主堂で浦上の信徒らがキリシタンであると神父に申し出たときも、厳しい禁教の下にあったため、信徒たちは密かに秘密教会を設け、神父を迎えました。そのときの教会のひとつが、山里小学校にほど近いところにある、「聖フランシスコ・ザベリオ堂」です。しかし、1867年、ここでの活動が見つかり、信徒が捕らえられます。それが最後の弾圧として知られる「浦上四番崩れ」につながっていくのでした。
あわただしく過ぎて行く現代の日々の中で、ふと立ち止まり、「信仰」とは?「愛」とは?ということを考えさせられる、浦上地区のキリシタンの史跡。時代背景や人々の暮らしぶり、心情など、想像しがたいものが多々ありながらも尚、胸を打ち、語りかけてくるものがありました。
◎ 参考にした本/長崎の教会(カトリック長崎大司教区司牧企画室)、旅行の手びき(長崎市観光課)