第290号【パウロのカステラ ~400年の時を超えて里帰り~】

 ポルトガルの首都リスボンは、大航海時代、冒険家や船乗りたちが新世界をめざして命がけの航海に出た街。世界の大海原を渡ったポルトガル船は、やがて日本にもたどり着き、1570年には長崎開港。まもなくこの街には、ポルトガル人が自由に居住するようになりました。当時の様子は西洋風の建物がたち、街角ではパンを焼く匂いが漂うなど、まさに異国のようであったと伝えられています。この時代、ポルトガル船はコップ、ボタンなどの日用品から、カステラ、テンプラなどの食、そして天文学や西洋美術など幅広い分野の文物、いわゆる南蛮文化を日本にもたらしたのでした。


 観光でリスボンを訪れた長崎の人たちは、石畳の坂道をゴトゴトと音を立てて走る路面電車やオレンジ色の屋根が連なる景観の美しさについて語りながら、「どこか、長崎に似ている」、「なぜか、懐かしい感じがする」と、口々にそう言います。はるか400年以上も前の交流のなごりなのでしょうか、時を超えてつながる不思議なご縁があるようです。そんな思いを強くさせるお店が、リスボンの街にありました。ヨーロッパで唯一カステラを製造・販売している、「Castella do Paulo(パウロのカステラ)」というティーサロンです。




 このお店を経営しているのは、ポルトガルの菓子職人であるパウロ・ドゥアルテさんと、京都出身の智子さんご夫妻です。「ありがたいことにパウロのカステラは、ヨーロッパ各地からわざわざ買いに来てくれる方がいらっしゃるほど評判がいいんです」と智子さんは、うれしそう。場所は、ポルトガルの歴史的保存地区にもなっている『バイシャ』の、観光客などで賑わうコメルシオ広場の一角です。「ポルトガル人はとにかくコーヒーが好き。一日に何度もいらっしゃる方も多いですよ」。



 智子さんは島根大学在学中に長崎を旅し、異国情緒あふれる食文化にふれて、そのルーツのひとつであるポルトガルのお菓子や料理に興味を持ちました。そして大学を卒業後、単身ポルトガルに渡り、パウロさんと出会い、結婚。その間、ポルトガルのお菓子づくりを学び、また、ポルトガルの各地方の伝統のお菓子を訪ね、『ポルトガルのお菓子工房』という一冊の本も出しています。「素朴で奥深いポルトガルのお菓子を、日本に伝えたいという一心でやってきました」。




 パウロさんは、12才からポルトガルの菓子職人の道へ入り、その実力は39才の若さにして、すでに熟練の域です。若い頃からより高度な技術をパリに学びに行くなど仕事への情熱は人一倍。結婚してからは、ポルトガルのお菓子や南蛮菓子を紹介するイベントを日本各地で行ったこともあります。そんな折、かつてポルトガル人が長崎に伝えたカステラと出会い、そのおいしさに感動。‘96年に長崎のカステラの老舗、『松翁軒』さんでカステラづくりの修行をし、母国に帰ってカステラ工房をオープンしました。それから10年余り。「おそらく、今も日本人以外のカステラ職人は、パウロだけではないでしょうか」と智子さんはおっしゃいます。




 16世紀、ポルトガル人によって長崎にその製造方法が伝えられたカステラ。そのカステラのルーツは、ポルトガルの各地で現在も焼かれている『パォン・デ・ロー』というお菓子だといわれています。しかし智子さんによると、意外なことにカステラはポルトガルでは、ほとんど知られていないそうです。


 カステラのルーツ、『パォン・デ・ロー』は、地域によって形や焼き具合が異なり、生地がパサパサになるほどしっかり火をとおしたタイプ、逆に生地がクリーム状になった部分を残した生焼けタイプなどいろいろあるそうです。「現在、ポルトガルのスーパーマーケットや街のカフェで売られているパォン・デ・ローはお世辞にもおいしいとは言えません。ポルトガル人はつくる側も食べる側も、まあまあで良しとして、おいしくつくる努力をしなかったようです。でも、日本人は長い時間をかけておいしいく進化させ、今のカステラを生み出しました」という智子さんの話から、両国の国民性の違いが垣間見れるようです。




 カステラ職人が、材料を見極め、技を駆使し、丁寧に焼き上げるカステラ。きめこまやかで、しっとりとしたおいしさはまさに日本人ならではのもの。その技と精神を受け継いだ「パウロのカステラ」は、ポルトガル産の材料を吟味して丁寧に焼き上げられています。400年以上の時を超えて、再び海を渡り里帰りしたカステラ。そのダイナミックな時空のうねりの中で、パウロさんと智子さんの小さなお店は、ポルトガルで新しいカステラの歴史を地道に刻んでいます。 

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