第288号【銅にまつわる長崎の町名】

 今日8月8日は、立秋。暑い盛りの中でも、朝、夕の風の音に早くも秋の気配を感じている方もいらっしゃることでしょう。お天気の長期予報によると、今年は残暑が長引くとのこと。具沢山のちゃんぽんでスタミナをつけて、この夏を元気に乗りきってください!


 前回の「銀」にまつわる長崎の町名のお話に続いて、今回は、「銅」のつく町名、「銅座町」についてご紹介します。江戸時代、花街・丸山の門前橋で、行こうか、もどろうか思案したという「思案橋」の近くにある町で、札幌のすすきの、京都の先斗町、大阪の北新地などと同じく、夜の歓楽街・飲み屋街。誰かと飲みたい気分の日は、「今日、銅座に行かん?」といって誘います。




 町名は、江戸時代に「銅座」と呼ばれていたことに由来しています。「銅座」とは、江戸中期以降、各地で産出された銅の精錬とその専売をおこなった役所のことです。はじめ大坂に設けられ、その出張所として、享保10年(1725)に長崎に設けられました。ここには貿易用の棹銅(直径2センチ、長さ70センチ位)を鋳造する銅吹所があったそうです。




 ところで、前回、江戸時代前期頃まで石見銀が盛んに輸出されたことをご紹介しましたが、その後は、次第に産出量が減少し、寛文8年(1668)には日本からの銀の輸出が禁止されました。その後、金の小判(元禄小判)も輸出されたようですが品質はよくなく、当時の貿易相手であったオランダは、もともと日本の良質の銀が目当てだったので、あまり喜ばなかったそうです。


 長崎の歴史に詳しい方によると、「元禄年間(1688~1704)の頃、銀や金に代わって輸出されるようになったのが、銅だった」といいます。さらに「17世紀末期のこの時期、中国との貿易では銀に代わって、煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)などの俵物(干した海産物を俵に詰めたもの)が、長崎から盛んに輸出されました」。


 のちに俵物を収集したり、加工した役所ができますが、それは、「出島」や「新地」にほど近い、現在の「築町」電停のそばにありました。貿易のための荷物の出入りを考えたら当然といえる場所です。そこには今、「俵物役所(ひょうもつやくしょ)跡」の石碑が立っています。




 さて、銅座町にかつてあった「銅座」は、わずか13年ほどで廃止されています。それ以後は「銅座跡」と称されていたそうで、正式に町名となったは、明治元年のことです。現在、「銅座跡」の碑が飲み屋さんなどがひしめく町の一角に建っています。


 ところで、長崎の「銅座」のあった土地は、その「銅座」を設けるために、海中を埋め立てて造られました。さらに、「俵物役所」のあった辺りも、「新地」も「出島」も、江戸時代に造成されました。現在、商業ビルやマンションなどが多く建ち並ぶその一帯を歩けば、かつて海だったとは想像しづらいのがとても残念なことです。しかし、当時の埋め立ての技術のすごさは何だか想像でき、その工事に名もない大勢の人々がたずさわったことを思ったのでした。







◎取材協力/長崎歴史文化協会

◎ 参考資料/長崎の史跡・南部編(長崎市立博物館)、図説長崎県の歴史(外山幹夫/河出書房新社)、長崎歴史散歩(原田博二/河出書房新社)長崎町尽し~総町編(長崎文献社)

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