第281号【もやしが流行った!?長崎】

 お値段も手頃で、日々の食卓にひんぱんに登場する、もやし。多種多様な食材の中では、地味でさりげない存在ですが、汁ものの具や野菜炒め、和えもの、サラダなど、主役、脇役のどちらもこなす器用な役者です。最近では、太めのタイプから、糸のように細くて小さいアルファルファもやしなど、いろいろな種類を見かけるようになりました。もやしの原料の主流は、かつては大豆や緑豆でしたが、今ではコストの安いブラックマッペにかわっているそうです。




 「もやし」の名は、「萌し(もやし)」、「生やし(おやし)」からきたそうで、名があらわすように、豆類(大豆、小豆、エンドウ豆、緑豆)などを発芽させて作ります。また、小麦や大麦、そばなどの穀類やその他の作物の種からも作られていて、あのカイワレダイコンやブロッコリーの芽なども、もやしの一種です。ちなみに、日本では、もやしは古くからの食べ物だそうで、平安時代の「本草和名(ホンゾウワミョウ)」に「大豆黄巻」という名で記されているそうです。




 ところで、長崎の郷土料理には、ちゃんぽん、皿うどん、そぼろ、パスティなど、もやしの入った料理がいろいろあります。それで、何となく気になっていたところ、江戸時代の出版物の中に、次のような興味深い記述を見つけました。『蘖(もやし)は長崎にて流行(はやる)。ふたなりといふ豆を水にひたし芽を出して。食料にすることなり。ふたなりは緑豆をいふなり。もやしやう。………』




 この本は、「長崎聞見録」というタイトルで、1800年(寛政12)に出版されたもの。著者は広川獬(ひろかわ かい)という京都の人で、医術をはじめ動・植物にも造詣の深い人物だったと伝えられています。寛政年間(1780~1800)に2度、合わせて約6年間、長崎に来遊。江戸時代は、多くの人が新しい西洋の知識を得ようと長崎にやってきましたが、彼もそのひとりだったようです。著者の興味は多岐に渡っており、「長崎聞見録」には、祭りや食べ物など長崎の人々の風俗だけでなく、唐人や阿蘭陀人に関するさまざまな事柄についても「取材」をし、絵付きでまとめています。




 さて、広川獬は、緑豆を水にひたし、朝夕水を入れたり、出したり、藁でおおったりの作業を7日繰り返すと、芽が一寸ほどのびるといった、もやしの作り方まで記していましたが、ここで注目してほしいのが、原料の「ふたなり」こと「緑豆」です。緑豆といえば、中国産の「緑豆はるさめ」が知られています。また、現在も、緑豆を原料にもやしを作る場合、主に中国から輸入しているそうです。ということは、当時、長崎で作られたもやしは、中国産の緑豆で、作り方も中国の人から伝授されたと想像できませんか。


 長崎のある郷土史家の方も、「おそらく、そうでありましょう」ということでした。その方によると、明治・大正時代には、伊勢町の中島川沿いにもやし製造の店が多く点在していたといいます。水はけが良いことと同時に、水が豊富でなければならないもやし作りには、最適な場所だったというわけです。





◎参考にした本:長崎文献叢書 第一集・第五巻 長崎虫眼鏡・長崎聞見録・長崎縁起略(長崎文献社)、豆の本(本谷滋子/文化出版局編)、カラー百科・野菜と豆(主婦の友社)

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