第292号【純忠とキリシタンの史跡を訪ねて~大村~】
シャギリの音色と熱気に包まれた長崎くんちの3日間が昨日で終わりました。長崎の秋は、このくんちが終わってからやってくると言われています。今年は厳しい暑さが長引いたこともあって、本格的な秋の到来が本当にうれしいですね。
さて、今回は先月末に行われた長崎日本ポルトガル協会主催の「大村市史跡見学会」を通して、街の歴史をご紹介します。長崎県の空の玄関口・長崎空港がある大村は、歴史的には日本初のキリシタン大名・大村純忠(すみただ)が治めた地として知られています。今回の見学会では、主に純忠や当時のキリスト教弾圧に関連する史跡を訪ねました。
約450年前、ポルトガル船が来航したとき伝えられたキリスト教。ときは16世紀半ば(室町末期~安土桃山前期)、大村領内(横瀬浦)で南蛮貿易がはじまると、純忠は自らもキリスト教の洗礼を受けました(1563)。純忠がポルトガルとの貿易に期待したのは、貿易でもたらされる莫大な利益と西洋の進んだ利器で、当時、家督争いなどでゴタゴタしていた大村家の安泰をはかり、戦国大名として力をつけることであったといわれています。
純忠がキリスト教を保護したこの頃、大村では家臣や領民などほとんどの人々が信徒であったと伝えられています。その後、純忠はポルトガルとの貿易のために長崎を開港(1570)、さらにイエズス会に長崎と茂木を寄進したり(1580)、有馬氏、大友氏らとローマへ少年たちを派遣(1582)するなどしました。
大村駅から歩いて10分くらいの場所に、純忠が1564年に築城した三城城(さんじょうじょう)跡がありました。そこは平地から30メートルほど高くなった丘で、その地形を利用して周囲には急な崖やいくつもの深い堀が造られていたそうです。発掘調査では、鉄砲の弾や家臣たちが使ったらしい食器も多く出土しています。戦いに明け暮れた戦国の世に生きた純忠の心中を思いました。現在、城跡の敷地内には長崎県忠霊塔や富松神社があります。
純忠の子で初代藩主となる喜前(よしあき)が1599年に築いた「玖島城(くしまじょう)跡」も訪ねました。こちらは時代劇で見るような立派な石垣が残っていました。春はサクラの名所、初夏には花菖蒲が咲き誇る大村公園内にあり、多くの市民に親しまれています。
玖島城の近くには5つの武家屋敷街があります。そのひとつの旧円融寺に通じる「草場小路武家屋敷通り」で大村の郷土史家の方が、たいへん興味深いお話をしてくれました。「この界隈のどこかに、バルトロメオ教会という1601年(または1602年)頃に建てられた教会があったようです」とおっしゃるのです。このことは、宣教師がポルトガルに送った書簡に記されているそうで、当時としては長崎で2番目に大きい教会だったそうです。
純忠の洗礼名は「ドン・バルトロメオ」。まさに、純忠にちなんだ教会だったのでしょう。大村領でキリスト教の禁教がはじまったのは1605年で、「その頃にこの教会は壊されたようです」とのことでした。江戸時代に入ると島原の乱(1637)もあり、キリスト教弾圧は厳しさを増し、大村領でも宣教師や信者たちが激しい迫害を受けました。彼らが捕らえられた「鈴田牢跡」や、多くのキリシタンが亡くなった斬罪所跡の放虎原(ほうこばる)殉教地など、大村市内には殉教の遺跡が数多く残されていました。
江戸時代に入ってまもなく、初代藩主・喜前は、キリスト教から日蓮宗に改宗。大村家の菩提寺として本経寺を建立し、大村家墓所(国指定史跡)を設けました。それまでのキリスト教がらみのさまざまな出来事を思えば、当時の社会ではお家断絶の危機があったかもしれないと想像しますが、大村家は明治維新を迎えるまで絶えることなくこの地を治めました。大村藩にはあまり知られていない事実がまだまだあるのかもしれない、そんな思いにかられた見学会でした。
◎ 取材協力/長崎日本ポルトガル協会 095―828―8859