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  • 第293号【浦上へ、キリシタンの史跡を訪ねて】

     北の方では初雪が降るなど早くも冬が足音をたてて近付いています。南国・九州の長崎は、さすがに朝晩は冷えますが、日中はまだ汗ばむほどの暑さ。秋らしさを感じさせる金木犀の芳香も、遅れ気味でようやく漂いはじめたところです。そんな長崎の今はまさに、観光シーズンたけなわ。長崎市内を走る路面電車の電停では、脱いだジャケットを片手に市内観光を楽しむ方々の姿が目立ちます。 そんな人々に混じって路面電車に乗りこみ、平和公園のある浦上地区へ行ってきました。この一帯には、原爆落下中心地公園、長崎原爆資料館、如己堂、永井隆記念館などがあり、いわゆる平和のゾーンとして、国内外からの観光客が絶えないところです。今回は、そういった有名な施設の周辺にありながら、足を止める機会が少なかった史跡をいくつかご紹介したいと思います。 それらは長崎のキリスト教に関する史跡です。まずは、簡単に歴史から。時代は400年以上も前、戦国大名の大村純忠が1570年に長崎を開港。ポルトガル船との貿易港として新しい町づくりがはじまった長崎は急速に発展していきました。それから10年後、純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進。それから4年後の1584年、島原の領主・有馬晴信は、ここ浦上をイエズス会に寄進しました(※戦国末期、浦上は有馬領だった)。 そうして長崎は、当時の日本におけるキリスト教の中心地となりましたが、その黄金時代は長くは続きませんでした。信長の後、政権を掌握した秀吉は、1587年に伴天連追放令を出し、各地で活動していた宣教師を追放したり、教会を破壊しはじめます。そして、翌年にはイエズス会領となっていた長崎、茂木、浦上を没収し直轄地にしたのです。ただ、その頃はまだ、長崎におけるキリスト教弾圧は行われておらず、逆に、長崎の市中には教会が増えていたといいます。江戸時代に入り徳川幕府の天領となった長崎は、1612年に禁教令が出され、2年後には長崎にあった教会がほとんど破壊されるなど、激しい弾圧がはじまったのでした。 長崎駅前から約10分。「大橋」電停で下車。その近くの国道206号線沿いに「サンタ・クララ教会跡」があります。説明版によると、徳川家康が江戸に幕府をひらいた1603年に建てられた教会で、当時としては浦上で唯一の教会だったそうです。幕府の禁教令で破壊された後、神父を失った村人たちは、帳方(ちょうかた)、水方(みなかた)、聞役(ききやく)という潜伏キリシタンの地下組織をつくり、その後250年間、ひそかに信仰を続けました。この場所では、仏教徒を装わざるをえなかった信者たちが、盆踊りと称して集まり、祈りを捧げていたそうです。 「サンタ・クララ教会跡」からサントス通りと呼ばれる道路から脇道に入り浦上川の上流へ数分歩くと、山里小学校にほど近い住宅街の一角に、「ベアトス様の墓」と呼ばれる史跡がありました。信長、秀吉の時代には村人のほとんどがキリシタンであったという浦上地区。江戸初期の弾圧時に捕われ、激しい責め苦にも屈しなかった3人の親子、ジワンノ、ジワンナ、ミギルのお墓です。信仰と愛に生きたというこの一家は、敬けんな生涯をおくった人々を意味する「ベアトス」様と称され、この地のキリシタンの間でずっと語り継がれてきたのでした。 強固な地下組織で信仰を続けた浦上の信徒たち。江戸時代も終わりに近い1865年、大浦天主堂で浦上の信徒らがキリシタンであると神父に申し出たときも、厳しい禁教の下にあったため、信徒たちは密かに秘密教会を設け、神父を迎えました。そのときの教会のひとつが、山里小学校にほど近いところにある、「聖フランシスコ・ザベリオ堂」です。しかし、1867年、ここでの活動が見つかり、信徒が捕らえられます。それが最後の弾圧として知られる「浦上四番崩れ」につながっていくのでした。 あわただしく過ぎて行く現代の日々の中で、ふと立ち止まり、「信仰」とは?「愛」とは?ということを考えさせられる、浦上地区のキリシタンの史跡。時代背景や人々の暮らしぶり、心情など、想像しがたいものが多々ありながらも尚、胸を打ち、語りかけてくるものがありました。◎ 参考にした本/長崎の教会(カトリック長崎大司教区司牧企画室)、旅行の手びき(長崎市観光課)

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  • 第292号【純忠とキリシタンの史跡を訪ねて~大村~】

     シャギリの音色と熱気に包まれた長崎くんちの3日間が昨日で終わりました。長崎の秋は、このくんちが終わってからやってくると言われています。今年は厳しい暑さが長引いたこともあって、本格的な秋の到来が本当にうれしいですね。 さて、今回は先月末に行われた長崎日本ポルトガル協会主催の「大村市史跡見学会」を通して、街の歴史をご紹介します。長崎県の空の玄関口・長崎空港がある大村は、歴史的には日本初のキリシタン大名・大村純忠(すみただ)が治めた地として知られています。今回の見学会では、主に純忠や当時のキリスト教弾圧に関連する史跡を訪ねました。 約450年前、ポルトガル船が来航したとき伝えられたキリスト教。ときは16世紀半ば(室町末期~安土桃山前期)、大村領内(横瀬浦)で南蛮貿易がはじまると、純忠は自らもキリスト教の洗礼を受けました(1563)。純忠がポルトガルとの貿易に期待したのは、貿易でもたらされる莫大な利益と西洋の進んだ利器で、当時、家督争いなどでゴタゴタしていた大村家の安泰をはかり、戦国大名として力をつけることであったといわれています。 純忠がキリスト教を保護したこの頃、大村では家臣や領民などほとんどの人々が信徒であったと伝えられています。その後、純忠はポルトガルとの貿易のために長崎を開港(1570)、さらにイエズス会に長崎と茂木を寄進したり(1580)、有馬氏、大友氏らとローマへ少年たちを派遣(1582)するなどしました。 大村駅から歩いて10分くらいの場所に、純忠が1564年に築城した三城城(さんじょうじょう)跡がありました。そこは平地から30メートルほど高くなった丘で、その地形を利用して周囲には急な崖やいくつもの深い堀が造られていたそうです。発掘調査では、鉄砲の弾や家臣たちが使ったらしい食器も多く出土しています。戦いに明け暮れた戦国の世に生きた純忠の心中を思いました。現在、城跡の敷地内には長崎県忠霊塔や富松神社があります。 純忠の子で初代藩主となる喜前(よしあき)が1599年に築いた「玖島城(くしまじょう)跡」も訪ねました。こちらは時代劇で見るような立派な石垣が残っていました。春はサクラの名所、初夏には花菖蒲が咲き誇る大村公園内にあり、多くの市民に親しまれています。 玖島城の近くには5つの武家屋敷街があります。そのひとつの旧円融寺に通じる「草場小路武家屋敷通り」で大村の郷土史家の方が、たいへん興味深いお話をしてくれました。「この界隈のどこかに、バルトロメオ教会という1601年(または1602年)頃に建てられた教会があったようです」とおっしゃるのです。このことは、宣教師がポルトガルに送った書簡に記されているそうで、当時としては長崎で2番目に大きい教会だったそうです。 純忠の洗礼名は「ドン・バルトロメオ」。まさに、純忠にちなんだ教会だったのでしょう。大村領でキリスト教の禁教がはじまったのは1605年で、「その頃にこの教会は壊されたようです」とのことでした。江戸時代に入ると島原の乱(1637)もあり、キリスト教弾圧は厳しさを増し、大村領でも宣教師や信者たちが激しい迫害を受けました。彼らが捕らえられた「鈴田牢跡」や、多くのキリシタンが亡くなった斬罪所跡の放虎原(ほうこばる)殉教地など、大村市内には殉教の遺跡が数多く残されていました。 江戸時代に入ってまもなく、初代藩主・喜前は、キリスト教から日蓮宗に改宗。大村家の菩提寺として本経寺を建立し、大村家墓所(国指定史跡)を設けました。それまでのキリスト教がらみのさまざまな出来事を思えば、当時の社会ではお家断絶の危機があったかもしれないと想像しますが、大村家は明治維新を迎えるまで絶えることなくこの地を治めました。大村藩にはあまり知られていない事実がまだまだあるのかもしれない、そんな思いにかられた見学会でした。◎ 取材協力/長崎日本ポルトガル協会 095―828―8859  

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  • 第291号【平成19年長崎くんちの見どころなど】

     日中はまだ真夏の日射し。とても暑いですが、吹く風は意外に涼しく、大気も秋らしく澄んでいます。高台から長崎港をのぞめば、視界くっきり、気持ちのいい眺めです。 さて、長崎の秋といえば諏訪神社の大祭「長崎くんち」です。10月7、8、9日の3日間行われます。今年の奉納踊を受け持つ「踊町(おどりちょう)」は、興善町(こうぜんまち)、八幡町(やはたまち)、西濱町(にしはままち)、万才町(まんざいまち)、銀屋町(ぎんやまち)、五嶋町(ごとうまち)、麹屋町(こうじやまち)の7ケ町。各町の「傘鉾(かさぼこ)」や、奉納踊の見どころなどをご紹介します。 興善町の傘鉾の飾(だし/傘鉾上部の飾り)は、烏帽子と神楽鈴、そして鮮やかな紅葉が配されています。垂れ幕には五彩の雲と、金糸で三社の紋がほどこされ格調の高さが感じられます。奉納踊は「石橋(しゃっきょう)」。能に由来した舞で、獅子が長い毛を振りまわす様は圧巻です。 八幡町は、傘鉾も奉納踊も「弓矢八幡」に因んだものです。長い弓と矢立てがスマートに配された傘鉾の飾は、江戸時代、この町に住んでいた長崎三大文人のひとり、木下逸雲(きのしたいつうん)のアイデアだとか。奉納踊の「弓矢八幡祝い船」では、勇ましい引きまわしが見られます 華やかさで特に目をひくのが西濱町です。中国姑蘇十八景図と詩文を長崎刺繍で施した贅沢な傘鉾の垂れ幕。黒い輪の部分には、明治12年に来日したスウェーデンの北極探検隊長による英字の町名が記されています。奉納踊は豪華な龍船。2階部分は本踊りの舞台にもなっています。ときに煙りも吐く龍船。その勇壮な引きまわしは必見です。 万才町の傘鉾は、深紅の大きな盃が目印です。盃の「萬歳」の金文字は、長崎平和記念像の作者・故北村西望氏百歳の時のもの。奉納踊は長崎のわらべ歌や民謡などを組み合わせたノリのいい曲で「本踊(ほんおどり)」を披露。三味線の演奏や踊子さんたちのあでやかな舞いなど伝統とモダンを感じる出しものです。 銀屋町は、今年初め念願の旧町名が復活。そんな記念すべき年ということもあり、くんちにかける思いもひとしおのよう。傘鉾の飾は、金の鯱(しゃち)。奉納踊りは、鯱を台座に載せた太鼓山を、屈強な男たちが力一杯宙へ舞い上げます。 五嶋町の傘鉾の飾は、虫籠を中心に、芒と白い菊が配され風雅な趣です。奉納踊は、前回(7年前)から出している「龍踊」です。龍を翻弄する玉使いの動きや龍の尻尾の扱いなど、のびのびとして楽しく、五嶋町「龍踊」の個性が感じられます。  麹屋町の町名は、かつて大きな泉や井戸があり、水が豊富で麹屋さんが多かったことに由来するとか。傘鉾の飾には、麹屋町の名を記した麹ぶたが付けられています。奉納踊では大きな川船が登場。根曳衆がゴロゴロと大きな地響きをたてて引きまわす様は感動的です。 さて、長崎くんちと同時に楽しんでいただきたいのが、シーボルト記念館(長崎市鳴滝2―7―40)で開催中の『シーボルトと長崎くんち展』(平成19年10月14日迄)です。「諏訪神社と神事の歴史」をはじめ、シーボルトやケンペルなど江戸時代に、長崎くんちを西洋に紹介した外国人の記述など、貴重な資料を展示しています。興味深いのが、初公開資料の鎧と兜(黒漆塗紺糸威二枚道具足)です。長崎奉行所の御貸具足で、明治元年の長崎くんちでお神輿の行列に使用されたと伝えられています。 また、各町の傘鉾を描いた絵はがき(画:野田照雄氏/7枚1組1,000円・税込)や各町の出しものに因んだ図案が描かれた「長崎くんち手拭いセット」(7本・化粧箱入り/2,500円・税込)など、今年の長崎くんちグッズも販売されています。中でも「長崎くんち手拭いセット」は人気商品。数に限りがありますので、お早めにお求めください。◎ 取材協力/長崎歴史文化協会  シーボルト記念館 TEL095―823―0707長崎伝統芸能振興会(長崎商工会議所内)https://nagasaki-kunchi.com/#about

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  • 第290号【パウロのカステラ ~400年の時を超えて里帰り~】

     ポルトガルの首都リスボンは、大航海時代、冒険家や船乗りたちが新世界をめざして命がけの航海に出た街。世界の大海原を渡ったポルトガル船は、やがて日本にもたどり着き、1570年には長崎開港。まもなくこの街には、ポルトガル人が自由に居住するようになりました。当時の様子は西洋風の建物がたち、街角ではパンを焼く匂いが漂うなど、まさに異国のようであったと伝えられています。この時代、ポルトガル船はコップ、ボタンなどの日用品から、カステラ、テンプラなどの食、そして天文学や西洋美術など幅広い分野の文物、いわゆる南蛮文化を日本にもたらしたのでした。 観光でリスボンを訪れた長崎の人たちは、石畳の坂道をゴトゴトと音を立てて走る路面電車やオレンジ色の屋根が連なる景観の美しさについて語りながら、「どこか、長崎に似ている」、「なぜか、懐かしい感じがする」と、口々にそう言います。はるか400年以上も前の交流のなごりなのでしょうか、時を超えてつながる不思議なご縁があるようです。そんな思いを強くさせるお店が、リスボンの街にありました。ヨーロッパで唯一カステラを製造・販売している、「Castella do Paulo(パウロのカステラ)」というティーサロンです。 このお店を経営しているのは、ポルトガルの菓子職人であるパウロ・ドゥアルテさんと、京都出身の智子さんご夫妻です。「ありがたいことにパウロのカステラは、ヨーロッパ各地からわざわざ買いに来てくれる方がいらっしゃるほど評判がいいんです」と智子さんは、うれしそう。場所は、ポルトガルの歴史的保存地区にもなっている『バイシャ』の、観光客などで賑わうコメルシオ広場の一角です。「ポルトガル人はとにかくコーヒーが好き。一日に何度もいらっしゃる方も多いですよ」。 智子さんは島根大学在学中に長崎を旅し、異国情緒あふれる食文化にふれて、そのルーツのひとつであるポルトガルのお菓子や料理に興味を持ちました。そして大学を卒業後、単身ポルトガルに渡り、パウロさんと出会い、結婚。その間、ポルトガルのお菓子づくりを学び、また、ポルトガルの各地方の伝統のお菓子を訪ね、『ポルトガルのお菓子工房』という一冊の本も出しています。「素朴で奥深いポルトガルのお菓子を、日本に伝えたいという一心でやってきました」。 パウロさんは、12才からポルトガルの菓子職人の道へ入り、その実力は39才の若さにして、すでに熟練の域です。若い頃からより高度な技術をパリに学びに行くなど仕事への情熱は人一倍。結婚してからは、ポルトガルのお菓子や南蛮菓子を紹介するイベントを日本各地で行ったこともあります。そんな折、かつてポルトガル人が長崎に伝えたカステラと出会い、そのおいしさに感動。‘96年に長崎のカステラの老舗、『松翁軒』さんでカステラづくりの修行をし、母国に帰ってカステラ工房をオープンしました。それから10年余り。「おそらく、今も日本人以外のカステラ職人は、パウロだけではないでしょうか」と智子さんはおっしゃいます。 16世紀、ポルトガル人によって長崎にその製造方法が伝えられたカステラ。そのカステラのルーツは、ポルトガルの各地で現在も焼かれている『パォン・デ・ロー』というお菓子だといわれています。しかし智子さんによると、意外なことにカステラはポルトガルでは、ほとんど知られていないそうです。 カステラのルーツ、『パォン・デ・ロー』は、地域によって形や焼き具合が異なり、生地がパサパサになるほどしっかり火をとおしたタイプ、逆に生地がクリーム状になった部分を残した生焼けタイプなどいろいろあるそうです。「現在、ポルトガルのスーパーマーケットや街のカフェで売られているパォン・デ・ローはお世辞にもおいしいとは言えません。ポルトガル人はつくる側も食べる側も、まあまあで良しとして、おいしくつくる努力をしなかったようです。でも、日本人は長い時間をかけておいしいく進化させ、今のカステラを生み出しました」という智子さんの話から、両国の国民性の違いが垣間見れるようです。 カステラ職人が、材料を見極め、技を駆使し、丁寧に焼き上げるカステラ。きめこまやかで、しっとりとしたおいしさはまさに日本人ならではのもの。その技と精神を受け継いだ「パウロのカステラ」は、ポルトガル産の材料を吟味して丁寧に焼き上げられています。400年以上の時を超えて、再び海を渡り里帰りしたカステラ。そのダイナミックな時空のうねりの中で、パウロさんと智子さんの小さなお店は、ポルトガルで新しいカステラの歴史を地道に刻んでいます。 

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  • 第289号【クスノキと長崎】

     日傘や帽子、サングラス…、日射し対策万全で出かけても、この暑さをしのぐのはむずかしく、ついつい日陰を探しながら歩いてしまいます。そんな時、葉をいっぱい茂らせた樹木の下は、かっこうのオアシスです。汗をふきふき木陰の涼に浸りながら、ふと頭上を見上げ、「この木、何の木?」などと思ったりするのもこんな時。毎日見てるのに、意外に知らなかったりします。 長崎市街地では、夏の緑をたくわえたイチョウやプラタナス、ケヤキなどの街路樹をはじめ、いろいろな樹木が心地よい木陰を提供しています。その中で、ひときわ大きな木陰をつくっているのが、クスノキの巨木です。モリモリ、のびのびと伸ばした太い枝に、たっぷりと緑を茂らせた姿は、その1本がまるでひとつの森のようでもあります。 常緑高木のクスノキは、長崎ではたいへん馴染みのある樹木。神社やお寺、公園や校庭などの広場でもよく見かけます。そういった所のクスノキは、幹周りを3~4人の大人が手をつないでもまだ足りないくらいの巨木も珍しくありません。実際、日本の樹木のうち、樹齢ではスギにかなうものはないけれど、幹回りの太さではクスノキに及ぶものはないと言われるほど大きく育つそうです。また、てっきり、日本全国で見られる樹木だと思っていましたが、温かい地域の植物で、西日本に広く見られ、特に九州や沖縄に多く、海外では台湾や中国南部に自生しているそうです。 長崎市内には、長崎県一の大きなクスノキがあります。「大徳寺の大クス」(だいとくじのおおくす/県指定天然記念物)です。推定樹齢は800年。太い枝がうねるようにグングンと伸び、雄々しい表情をしています。この近くの公園や神社にも大きなクスノキが何本もあり、あたりを涼しい木陰で包んでいました。ここは、花街・丸山からほど近く、大クスのたもとでは名物の梅ケ枝焼餅のお店もあります。クスノキの木陰で一服するのにおすすめです。 長崎くんちで知られる諏訪神社と、その周辺にも多くのクスノキが見られます。民家や建物などが少なかったであろうその昔、玉園山と呼ばれたこの一帯を、当時、この地を訪れた外国人らが「マウント・オブ・キャンファ」と呼んだそうです。クスノキは英語でキャンファ・ツリー(Camphor tree)。彼らが、そうした名称で呼びたくなるほど、鮮やかな緑をたたえたクスノキの風景は美しく、長崎を代表するほどの景観であったようです。 ところで「キャンファ」とは、「樟脳」のこと。ご存知の方も多いと思いますがクスノキは、昔ながらの防虫剤、「樟脳(しょうのう)」の原料です。葉を切るとあの独特の匂いがします。樟脳は、南蛮時代から江戸時代にかけて重要な日本の輸出品のひとつでした。ポルトガルも、唐も、オランダも競うように買い付けたそうです。その樟脳は、ヒンズー教徒のお祭りやペルシャなどの毛織物の防虫剤として利用されたとか。オランダ船はこれでおおいに利益をあげたといいます。 当時、長崎から海外へ渡った樟脳は薩摩産でした。南国・薩摩には原料のクスノキが豊富だったのでしょう。薩摩藩はその利益でのちに西洋式の軍備を整えることができたといわれているそうです。ちなみに日本一大きいクスノキは、鹿児島県にある「蒲生のクス」(かもうのくす/国指定特別天然記念物)で、推定樹齢は1500年、高さ30メートル、幹周り約24センチだそうです。 大きくなっても、威圧感はなく、さりげなくていいなあと思うクスノキ。余談ですが、月桂樹(ローリエ)、シナモンも同じクスノキ科。いずれも独特の香りと効能で、人類になくてはなならない存在です。◎ 参考資料/長崎県の天然記念物(外山三郎)、小学館の図鑑 NEO 植物、長崎事典・産業社会編(長崎文献社)

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  • 第288号【銅にまつわる長崎の町名】

     今日8月8日は、立秋。暑い盛りの中でも、朝、夕の風の音に早くも秋の気配を感じている方もいらっしゃることでしょう。お天気の長期予報によると、今年は残暑が長引くとのこと。具沢山のちゃんぽんでスタミナをつけて、この夏を元気に乗りきってください! 前回の「銀」にまつわる長崎の町名のお話に続いて、今回は、「銅」のつく町名、「銅座町」についてご紹介します。江戸時代、花街・丸山の門前橋で、行こうか、もどろうか思案したという「思案橋」の近くにある町で、札幌のすすきの、京都の先斗町、大阪の北新地などと同じく、夜の歓楽街・飲み屋街。誰かと飲みたい気分の日は、「今日、銅座に行かん?」といって誘います。 町名は、江戸時代に「銅座」と呼ばれていたことに由来しています。「銅座」とは、江戸中期以降、各地で産出された銅の精錬とその専売をおこなった役所のことです。はじめ大坂に設けられ、その出張所として、享保10年(1725)に長崎に設けられました。ここには貿易用の棹銅(直径2センチ、長さ70センチ位)を鋳造する銅吹所があったそうです。 ところで、前回、江戸時代前期頃まで石見銀が盛んに輸出されたことをご紹介しましたが、その後は、次第に産出量が減少し、寛文8年(1668)には日本からの銀の輸出が禁止されました。その後、金の小判(元禄小判)も輸出されたようですが品質はよくなく、当時の貿易相手であったオランダは、もともと日本の良質の銀が目当てだったので、あまり喜ばなかったそうです。 長崎の歴史に詳しい方によると、「元禄年間(1688~1704)の頃、銀や金に代わって輸出されるようになったのが、銅だった」といいます。さらに「17世紀末期のこの時期、中国との貿易では銀に代わって、煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)などの俵物(干した海産物を俵に詰めたもの)が、長崎から盛んに輸出されました」。 のちに俵物を収集したり、加工した役所ができますが、それは、「出島」や「新地」にほど近い、現在の「築町」電停のそばにありました。貿易のための荷物の出入りを考えたら当然といえる場所です。そこには今、「俵物役所(ひょうもつやくしょ)跡」の石碑が立っています。 さて、銅座町にかつてあった「銅座」は、わずか13年ほどで廃止されています。それ以後は「銅座跡」と称されていたそうで、正式に町名となったは、明治元年のことです。現在、「銅座跡」の碑が飲み屋さんなどがひしめく町の一角に建っています。 ところで、長崎の「銅座」のあった土地は、その「銅座」を設けるために、海中を埋め立てて造られました。さらに、「俵物役所」のあった辺りも、「新地」も「出島」も、江戸時代に造成されました。現在、商業ビルやマンションなどが多く建ち並ぶその一帯を歩けば、かつて海だったとは想像しづらいのがとても残念なことです。しかし、当時の埋め立ての技術のすごさは何だか想像でき、その工事に名もない大勢の人々がたずさわったことを思ったのでした。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考資料/長崎の史跡・南部編(長崎市立博物館)、図説長崎県の歴史(外山幹夫/河出書房新社)、長崎歴史散歩(原田博二/河出書房新社)長崎町尽し~総町編(長崎文献社)

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  • 第287号【銀にまつわる長崎の町名】

     先ごろ、晴れてユネスコの世界遺産に登録された島根県の「石見銀山」。16世紀から約400年にわたって採掘された日本有数の銀鉱山です。ここでは灰吹法(はいふきほう)といわれる精錬技術で、良質の銀を大量に生産していました。最盛期の16世紀から17世紀にかけては、日本から輸出される銀の大部分がこの「石見銀」で、その量は世界の産出量の3分の1を占めるほどだったといわれています。 石見銀山最盛期は、長崎がポルトガルとの南蛮貿易で栄えた時代から、オランダや中国との貿易が盛んに行われた時代(江戸前期)にあたります。当時の長崎港からの主な輸出品は、銀でした。長崎の郷土史家の方によると、その頃、石見銀山で生産された銀は、上方に集められ、堺の港から船で瀬戸内海を渡って長崎へと運ばれてきたそうです。国内には他にも銀の産地はありましたが、当時、長崎から海外へ渡った銀は、やはりほとんどが石見銀だろうというお話でした。 同時代を世界史で見ると、スペインやポルトガルといった強国が世界の大海原をかけめぐった大航海時代(15世紀~17世紀前半)とも重なります。ポルトガル船は、日本で手に入れた銀をもとに、東南アジアで大いに利益を上げたそうです。オランダや中国の船も、最大のお目当ては日本の銀だったといいますし、当時のジパングは、「黄金の国」ならぬ「銀の国」として世界の注目を浴びていたようです。 ちなみに、当時、銀と交換する形で日本が輸入した主なものは東南アジア産の生糸(きいと)や絹織物などでした。当時の長崎の繁栄を支え、日本に海外の文物をもたらした石見銀。そう思うと、ますます世界遺産・石見銀山への興味がわいてきませんか。 さて、上方から長崎に集まるようになった銀は、まもなく市中にも出回りはじめ、武具の飾りやかんざし、帯留めなどの銀細工にたずさわる職人たちが出てきました。そうした人たちが多く集まって住んだところが中島川沿いにあり、白銀町(しろがねまち)と称したそうです。この町は寺町方面へとさらに広がって新白銀町が生まれ、江戸初期(寛永時代)にはそれらの町が合わさって銀屋町となったそうです。 その銀屋町は、40年ほど前の町界町名変更で、他の町に組み込まれ町名が消えていましたが、うれしいことに地元住民の熱心な運動で、今年1月に復活しました。故郷の歴史や文化を語りつぐ町名は、長崎に限らず、残していきたいものですね。 長崎には、他にも銀にちなんだ町名があります。「炉粕(ろかす)」という町です。くんちで知られる諏訪神社の参道そばにある小さな町で、古くは「ルカス町」と呼ばれていたと伝えられています。ルカスとは「留加須(るかす)」のことで、灰吹法で銀を精錬する際に炉の底にたまったものをいうそうです。当時、銀細工に使う銀などには、精錬を必要とするものもあり、その精錬所があったことにちなんだ町名のようなのです。場所も、入港した本船の荷物を、小舟が運び降ろした小川町(現在の桜町)にほど近いことから、銀の運搬にも都合が良かったと推察されます。 他説として、南蛮貿易時代、長崎の町にはいくつも教会が建ちましたが、そのキリスト教に関連して、「クルス」が転じて「ルカス」になったという説や、セントルカス教会があったことにちなんだという説もあるようです(実際にそういう名の教会はなかった)が、どうやら銀にまつわる「留加須(るかす)」説が有力のようです。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考資料島根県ホームページhttps://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/越中哲也の長崎ひとりあるき(越中哲也/長崎文献社)大日本百科事典6巻(小学館)

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  • 第286号【絶滅危惧種と出会う、黒崎永田湿地自然公園】

     爽やかな自然の空気に触れて、たまった疲れやストレスを解消しませんか。今回、ご紹介するのは、気分がリフレッシュするネイチャー・スポット「黒崎永田湿地自然公園」です。ここは、のどかな湿地の自然に親しみながら、植物、昆虫、野鳥をウオッチングできる公園で、トンボに関しては日本有数の生息地と評価されています。また、ミズカマキリ、ニホンアカガエル、デンジソウなど長崎県で絶滅のおそれの高いいろんな生物に出会えるのも魅力です。 長崎駅から路線バスで約1時間。「黒崎永田湿地自然公園」は、西彼杵半島の西海岸側に位置する長崎市外海地区にあります。地元サーファーが集う黒崎海岸そばの「永田浜(ながたはま)バス停」で下車。そこからわずか3分ほど歩けば、海辺の景色が、緑豊かな里の風景に変わり、9.8ヘクタールの「黒崎永田湿地自然公園」が姿を現します。 梅雨の真只中ということもあり、公園には青葉が生い茂り、生気がみなぎっていました。目立ったのは、ガマやヒメガマなど背丈のある植物です。また、白く小さい花が涼し気なセリの群生やミズオオバコの花も満開。湿地の植物たちはすっかり盛夏の装いでした。 公園の入り口には、木造の「休憩所」があり、公園の成り立ちや生息する生物について写真付きの説明板が掲げてありました。うれしいことに、公共施設にありがちな施設案内のAV機器やジュース類の自動販売機などは一切ありません。近くの車道も交通量が少なく、おおむね静か。自然の音に耳を澄ますことができました。 園内には木道が通され、敷地全体をめぐりながら、植物や生物を間近に見たり、触れたりすることができます。木道に足を踏み入れると、いきなり、草むらからバサバサッとキジが現れ、「ケーン、ケーン」と鳴きながら飛び去っていきました。ここでは、モズ、ヒクイナ、サギ類、ツグミ、オオジュリンなどの野鳥とも出会えるとか。さらに、足を進めると、草むらの陰から「モー、モ」というウシガエルの鳴き声も聴こえてきました。 平成15年の春に開園した「黒崎永田湿地自然公園」は、湿地の生物や生態系を保全する目的で、荒れ地となっていた水田の跡地を整備したものです。今、全国各地で荒れた休耕地を再生・活用させようという動きがあるようですが、ここも、そのような時代の流れで生まれたようです。 日本の原風景でもある水田。人との関わりを強く受けたそのような土地、自然は、その後も人による適度な管理が必要になるそうで、放置していると、乾燥化が進みどんどん荒れていくといいます。ここも、整備する際には、なるだけ人工的にならないように配慮する中で、数カ所に池を設けてトンボ類の生息に適した環境をつくり、またいろいろな植物が生えるように、池の深さに変化を持たせるなどの工夫をしたそうです。そうした試みが功を奏し、当初はヨシやガマ類など少ない種類の植物で大部分が占められていたのが、今では、いろいろな生物が入り込み、多様性のある自然に変化し続けています。 この公園内を毎日ウオーキングしているという近所のご婦人は、「公園の表情が季節ごとに大きく変わるので、面白いですよ」とおっしゃっていました。人が、心ある手を加え、緑豊かな里の風景に溶け込んだこの公園。本当は、手つかずの自然というのが理想なのかもしれませんが、こんなふうに、人間が自然と仲良くなるために働きかけて、いい関係を生み出すというやり方も「あり」なのかもしれません。◎黒崎永田湿地自然公園/開園時間9:00~17:00(入園無料)◎取材協力/外海町行政センター(建設課)0959-24-0211

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  • 第285号【長崎とジャガイモ】

     おふくろの味を代表する肉ジャガをはじめ、揚げ物、汁もの、サラダなど、日々の献立に欠かせないジャガイモ。育てやすくて栄養があり、味もクセがなく、いろいろな味付けや調理方法が可能なので、アジアではスパイスを効かせた料理、アフリカでは塩やトマトのシンプルな味付けで煮込んだもの、欧米ではオーブンで焼いたり、チーズを加えたものなど、世界各国にその土地ならではジャガイモ料理があります。ドイツやポーランドなどでは主食的な存在ですし、小麦などと並ぶ世界の四大主要作物のひとつという地位も、うなずけますね。 ジャガイモの原産は、南米アンデス高地。先住民(インディオ)によって古くから栽培されていたそうです。ヨーロッパへ伝わったのは16世紀半ば頃で、アンデスを支配していたインカ帝国をスペインが征服したときだといわれています。この時、大航海時代という追い風にのって、ジャガイモは大海原を渡り各地に伝えられました。日本へは、同世紀後半の1570年代~90年代に南蛮船が長崎にもたらしたのが最初だといわれています。 ジャガイモという名の由来をご存知ですか?一説によるとその昔、ジャガイモを運び込んだオランダの船が、東洋貿易の拠点のひとつ、ジャワ島のジャガタラ(現在のジャカルタの古称)から長崎へ来ていたので、当時の人々は、「ジャガタライモ」と呼んでいたそうで、それが、いつしか「ジャガイモ」になったというわけです。ちなみに、現在、ジャガイモと同じくらいよく使われる「馬鈴薯(ばれいしょ)」という名は、その形が、馬に付ける鈴に似ていることに由来するそうで、江戸時代の学者が中国の文献をもとに名付けたと言われています。こちらは「ジャガタライモ」よりも後の話です。 ところで長崎は、歴史だけでなく、今もジャガイモと深く関わり続けています。というのも、現在の日本でジャガイモの産地といえば北海道が有名ですが、実は長崎県は、北海道に継ぐ全国第2位の産地で、島原半島や諫早市、五島などが主な産地として知られています。北の大地では気候上、春に植え、秋から冬にかけて収穫するという年に1回の栽培ですが、温暖な気候の九州などでは2期作が行われ、長崎も春~初夏、そして秋~冬には、穫れたてのジャガイモを楽しむことができます。 ちょうど今は新ジャガの季節で、長崎の八百屋では新鮮なジャガイモが最前列に並べられています。品種では、「男爵イモ」、「メークイン」、そして近年、長崎県総合農林試験場愛野馬鈴薯支場で育種された「デジマ」や「アイノアカ」などが見られます。「デジマ」は、火が通りやすく、いろいろな料理に合う品種で、適度なホクホク感があり、特に肉ジャガにするとおいしいです。「アイノアカ」は、皮が赤いのでサツマイモと間違えそうですが、味はもちろんジャガイモです。煮崩れしにくいので、カレーなど煮込み料理によく合います。八百屋の女将さんによると、「私らは、赤ジャガって呼んでる。他の品種より出回る量が少なくて、いつもあるわけじゃないよ。これが、おいしくってね。見かけたら必ず買っていくファンもいるよ」。 知り合いの女性(60代)は、新ジャガの季節には、必ず作って食べるという料理がありました。ジャガイモの団子汁です。ジャガイモを擦りおろしてしぼったものを団子にし、吸い物や味噌汁の具にしていただきます。「長崎では昔からある料理だけど、今頃の人はあまり作らないみたいね」。素朴で懐かしい口あたりのジャガイモの団子汁。その一椀に至るまでの壮大なジャガイモの歴史を思うと、ありがたくて、しょうがなくなります。◎参考にした本/ビジュアル ワールドアトラス(同朋社出版)、長崎県文化百選~事始め編~(長崎新聞社)

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  • 第284号【涼感あふれる雲仙深井戸天然水・水まんじゅう】

     前回の「長崎アイス」(コラム283号)に引き続き、涼しく健やかに過ごしたいこの季節にぴったりの長崎のおいしいものをご紹介します。その名も「雲仙深井戸天然水・水まんじゅう」。透明のシロップに、ぷるぷるのおまんじゅうを浮かべた涼菓で、10年前の発売以来、味にうるさい甘味ファンの間で支持され続けています。 シロップは、樹木が豊かに生い茂る国立公園・雲仙の麓の深井戸から汲み上げた天然水を使用。ひたひたとシロップごとおまんじゅうをすくって口に入れると、冷んやり、つるりとした心地良い舌触りです。さらりとした甘さで、噛むと、ほどよいもちもち感が楽しめます。おまんじゅうの生地は、身体にうれしい寒天が使用され、生地の中には、これまたヘルシーなこしあん(北海道の小豆・無添加)が入っているのです。 この水まんじゅうを作っている「小浜食糧株式会社」の方においしさの秘密を尋ねると、「やはり、雲仙の深井戸から汲み上げた水の力ではないでしょうか。天然ミネラルが豊富なやわらかな水で、不思議なほど素材のおいしさを引き立てるのです」とのこと。ちなみにこの水は、地元では酒づくりにも使われるほどの名水。「ですから、シロップも残さず召し上がっていただきたいですね」とおっしゃいます。 「雲仙深井戸天然水・水まんじゅう」は、2パック(1パックに水まんじゅう5個入)で525円と、お手頃な価格もうれしい。暑い日の手土産や贈り物としても喜ばれることでしょう。食べ方は、冷蔵庫で普通に冷やしていただきますが、いったん冷凍室で凍らせ、半解凍した状態でいただくのがおいしいという方もいます。お好みの食べ方をぜひ、試してみてください。 ところで、「小浜食糧株式会社」は、主に長崎の観光土産菓子を製造・販売している会社で、創業は、昭和7年(1932)の老舗です。「Bon Patty」(ボン・パティ)の名称で、本社のある雲仙市をはじめ長崎市や大村市など県内各所に店鋪展開しています。長崎を代表する銘菓「クルス」は、つとに有名で、長崎県外の方でも、「シスターのイラストのついたパッケージ」と言えば、「知ってる!」という方も多いことでしょう。他にも、ワッフルやクッキーなどの洋菓子から釜ぶたかぶせ(どら焼き)といった和菓子まで、多彩な品揃えで、お土産品から普段のおやつにと、多くの方々に親しまれています。 本社のある雲仙市小浜町は、島原半島の古くからの湯治場のひとつとして知られる温泉街。この地で、湯治客などを相手に日曜雑貨やお土産品を売る個人商店からスタートしたそうです。その頃、一枚一枚手焼きで売りはじめた「湯せんぺい」は、地元温泉街の名物土産。何と74年のロングセラーなのです。 本社に併設された店鋪には、戦前~戦後の鉄が不足していた時代に、小浜温泉のお土産品として売られていたセルロイドの茶托や、当時、湯せんぺいの缶入りに代わって利用された陶器の容器など、お店の歴史を物語る珍しいものがディスプレイされ、昭和の香りが未だ残る小浜温泉街の見所のひとつになっています。 さて、前述の「クルス」ですが、これも昭和39年(1964)に誕生したロングセラーです。薄く焼いたサクサクの生地にジンジャーのスパイスを配合したホワイトチョコレートをサンドしたお菓子で、その軽い食感は、時代を越えて愛され続けています。実は、長い間、黄色のパッケージで親しまれていましたが、2年ほど前から、白を基調にしたモダンなデザインに変わり、お菓子もより食べやすいサイズになりました。時代に合った衣替えが功を奏し、今、新しい世代のクルスファンも増えているそうです。 地元のおいしい水を活かした「雲仙深井戸天然水・水まんじゅう」をはじめ、南蛮時代に長崎に伝わったキリスト教にちなんで名付けた「クルス」など、おいしい長崎のお菓子を次々に生んできた「小浜食糧株式会社」。「長崎らしさにこだわった商品を通して、お客さまに喜んでいただきたい」という思いが、長く愛される銘菓の誕生につながっているようです。◎ 取材協力:小浜食糧株式会社 長崎県雲仙市小浜町北本町14-15      TEL0957-75-0115

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  • 第283号【懐かしくて誠実な長崎アイス】

     風も日射しも初夏ならではのさわやかさ。長崎では、早咲きのアジサイたちが、街角を彩りはじめました。だんだんと暑くなってくるこれからは、冷たいアイスの季節でもあります。今回は、長崎のとっておきのアイスをご紹介します。それは、半世紀のロングセラーを誇るニューヨーク堂の「長崎アイス」です。モナカの皮に、ほどよい甘さのアイスクリームをはさんだもので、どこか郷愁を誘うシンプルな姿と味わいが魅力です。地元では親子三代のファンもめずらしくありません。 モナカにはさまれたアイスクリームは、生乳100%ならではの風味とコクがあります。最近の市販のアイスクリームは、空気を多く含ませ、軽い食感が多いようですが、「長崎アイス」の方はぎゅっと詰まって食べごたえがあるのが特長です。 ニューヨーク堂の「長崎アイス」は、創業以来、作り手の目が行き届く範囲の製造に徹しています。大手メーカーのように大量生産、全国展開をしておらず、店頭で買い求める場合には、「ニューヨーク堂」本店以外では、長崎市内の一部のスーパーなどでしか手に入りません。遠方の方は、冷凍便でお取り寄せをしているそうです。 ニューヨーク堂は、今年で創業70周年の老舗洋菓子店です。長崎市の中心市街地・浜町のお隣にある「中通り商店街」の一角にあります。ところで、なぜ、長崎のお店なのにニューヨークなの?と思われた方もいらっしゃることでしょう。洋菓子職人歴50年のニューヨーク堂社長・松本豊晴さんに伺ってみました。 「創業者の父(松本兼松氏)が若い頃の話です。冒険心があったのでしょう、大正元年17才の頃に、仲間と長崎から外国へ渡る船に乗り込んでイギリスに渡ったそうです。無事に着いたのは良かったのですが、当時のイギリスは不況で仕事がなかった。一年後、職を求めてアメリカに渡りました。それから約2週間、公園で野宿をしていた所を、日本の大使館員に保護されたそうです。父は運のいい人で、大使館を通じてゼネラル・モーターズ(GM)の会長の自邸でお抱えのコックとして働くことになったのです」。 「ニューヨークでは、一緒にアメリカに渡った仲間たちは、働いたお金をお酒などに費やしていたそうです。酒が飲めず、根が真面目であった父は、ほとんどの給与をニューヨークの東京銀行支店に貯めました。そして仲間の多くが帰国を果たせない中、父だけは昭和10年、39才で帰国し長崎に店を開いたのです。その資金はもちろんニューヨークで貯めたものでした」。お店の名前には修業時代を過ごしたニューヨークへの思いが込められていたのです。言わずと知れた大富豪であるGMの会長のもとで、当時のアメリカ式のマナーやエチケットなどを身に付けた先代は、帰国後も、外出時には夜でもきちんと帽子をかぶり、冬にはトレンチコートをさりげなく着こなすダンディな方だったそうです。 先代のアメリカでの修業時代のお話をはじめ、長崎での開業時のエピソード(創業当時は洋食レストランで、デザートでケーキや夏限定のアイスクリームを作っていた)、そして当時のお客さまや、お店を一時閉めざるを得なかった戦争中のお話など、長崎のひとつの洋菓子店から昭和初期の歴史の流れが垣間見れ、たいへん興味深いものがありました。 名物「長崎アイス」を産んだニューヨーク堂は、今、3代目となる若夫婦が社長の片腕となって大いに奮闘しています。若い力が加わったここ数年の間に、「長崎びわの実アイス」や「カステラアイス」など、新製品を出し、長崎の新しい味として注目されています。 ニューヨーク堂は冷菓だけでなく、焼き菓子の方でも、クリームパイ、アップルパイ、ペッスリーといったロングセラーがあります。時代の流れの中で、昔ながらの味わいを守り続けることは実はむずかしいこと。「レシピはほとんど変わりませんが、よりいい素材を選び、技術面でも工夫をしています。お客さまの舌はどんどん肥えていくので、その声に耳を傾けながら私たちも努力を続けています」と社長はおっしゃいます。ニューヨーク堂は洋菓子職人としての誠実さで、長く愛され続けているのです。◎ 取材協力:ニューヨーク堂 長崎市古川町3―17      TEL095-822-4875

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  • 第282号【感動の長崎帆船まつり】

     今年のゴールデン・ウィークは、いかがお過ごしでしたか?どこもイベントシーズンならではの多彩な催しで大にぎわいでしたね。初夏の気配を感じる日射しや風も気持ち良く、家の中でじっとしていても、開放的になった世の中の気分が伝わってくるようでした。 長崎港ではすっかりこの時期の風物詩となった「2007長崎帆船まつり」(4/26~30)が華やかに開催されました。毎年、各国の帆船が集うこのおまつりは、帆船の美しさや海のロマンを肌で感じる素敵な催しがいっぱい。今年は5日間の期間中、28万7千人(長崎経済研究所調べ)が長崎港に繰り出しました。 今年の帆船まつりには、「日本丸」、「海王丸」、そしてロシアの「パラダ」という、総トン数2,000t以上、マスト高50mの大型帆船が3隻。さらに韓国の「コレアナ」、大阪の「あこがれ」、佐世保・ハウステンンボスの「観光丸」、そして長崎市所有で、古い中国の木造船を復元した「飛帆(フェイファン)」の全7隻が集いました。 帆船まつりの初日の見どころは、長崎港の入り口にかかる女神大橋の下から次々に姿を現す「入港パレード」です。今年の天気は花曇りで、長崎港も一面厚いもやがかかっていましたが、真っ白なもやの中から姿を現した帆船の姿は、幻想的な雰囲気を漂わせ、晴天の時とは違う表情を楽しめました。 帆船たちは、長崎港の「長崎水辺の森公園」周辺の岸壁に停泊。大勢の市民や観光客が帆船を見上げる中で目立ったのは、年輩の男性たちです。じっと帆船を眺める視線の熱いこと。ご自身も乗組員になって大海原をいく様子などを想像しているのでしょうか。「日本丸」や「海王丸」に関しては、第二次大戦後、海外在留邦人の帰還輸送に携わったという歴史もあり、当時に思いを馳せた方もいらっしゃったに違いありません。 帆船まつりでは、船内一般公開、体験クルーズなど、帆船とその乗組員、市民が交流を図る催しもいろいろありました。「パラダ」の一般公開では、ロシアの海技学校や水産学校の若い実習生たちが船内を案内してくれました。広いデッキは心地良く、各所に巻かれたロープは、太くてとても強靱そう。マストを真下から見上げれば、無数のロープが複雑に渡りあっていて、遠目から見た時のシンプルな帆の姿は細やかなロープの組みや作業で成り立っていることを実感しました。 帆船の乗組員(実習生)たちが力を合わせて白い帆を一斉に広げる「セイルドリル」は、日頃の練習の見せどころです。帆の木組みに軽やかに登ってキビキビと作業するその姿には、海の男としての自覚が感じられ、とても爽やかです。この帆船まつりに長年関わっていらっしゃる湯川武弘氏(帆船海王丸クラブ・東京の元幹事)は、「船上ではチームワークがとても大切です。帆を上げる時、一人でも手を抜けば、上がり具合に現れてすぐにわかるのです。実習生たちは、船上でのさまざまな作業を通じて、自分の力を精一杯発揮することの大切さやチームワークの重要性を学ぶのです」とおっしゃっていました。 帆船まつりでは、毎回参加してくれる帆船との年に一度の再会を待ち望む人も増えています。「出会いを重ねることで、帆船や海への興味が深まってくるはず。そういう方々が増えると私たちもうれしいですね」と話す湯川氏は、市民らの帆船に関する疑問や質問に快く応じていました。  帆船まつりの最終日。出航の際にマストに登り「ごきげんよう」と手をふる実習生の姿や、帆船たちが互いに汽笛を鳴らして別れを告げる光景は、人生の中のさまざまな別れとも重なって思わず涙ぐむほどです。入港から出航まで、感動満載の帆船まつり。今年を見逃した方は、ぜひ、次回お出かけください。◎ 取材協力:長崎帆船まつり実行委員会      TEL095-829-1314

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  • 第281号【もやしが流行った!?長崎】

     お値段も手頃で、日々の食卓にひんぱんに登場する、もやし。多種多様な食材の中では、地味でさりげない存在ですが、汁ものの具や野菜炒め、和えもの、サラダなど、主役、脇役のどちらもこなす器用な役者です。最近では、太めのタイプから、糸のように細くて小さいアルファルファもやしなど、いろいろな種類を見かけるようになりました。もやしの原料の主流は、かつては大豆や緑豆でしたが、今ではコストの安いブラックマッペにかわっているそうです。 「もやし」の名は、「萌し(もやし)」、「生やし(おやし)」からきたそうで、名があらわすように、豆類(大豆、小豆、エンドウ豆、緑豆)などを発芽させて作ります。また、小麦や大麦、そばなどの穀類やその他の作物の種からも作られていて、あのカイワレダイコンやブロッコリーの芽なども、もやしの一種です。ちなみに、日本では、もやしは古くからの食べ物だそうで、平安時代の「本草和名(ホンゾウワミョウ)」に「大豆黄巻」という名で記されているそうです。 ところで、長崎の郷土料理には、ちゃんぽん、皿うどん、そぼろ、パスティなど、もやしの入った料理がいろいろあります。それで、何となく気になっていたところ、江戸時代の出版物の中に、次のような興味深い記述を見つけました。『蘖(もやし)は長崎にて流行(はやる)。ふたなりといふ豆を水にひたし芽を出して。食料にすることなり。ふたなりは緑豆をいふなり。もやしやう。………』 この本は、「長崎聞見録」というタイトルで、1800年(寛政12)に出版されたもの。著者は広川獬(ひろかわ かい)という京都の人で、医術をはじめ動・植物にも造詣の深い人物だったと伝えられています。寛政年間(1780~1800)に2度、合わせて約6年間、長崎に来遊。江戸時代は、多くの人が新しい西洋の知識を得ようと長崎にやってきましたが、彼もそのひとりだったようです。著者の興味は多岐に渡っており、「長崎聞見録」には、祭りや食べ物など長崎の人々の風俗だけでなく、唐人や阿蘭陀人に関するさまざまな事柄についても「取材」をし、絵付きでまとめています。 さて、広川獬は、緑豆を水にひたし、朝夕水を入れたり、出したり、藁でおおったりの作業を7日繰り返すと、芽が一寸ほどのびるといった、もやしの作り方まで記していましたが、ここで注目してほしいのが、原料の「ふたなり」こと「緑豆」です。緑豆といえば、中国産の「緑豆はるさめ」が知られています。また、現在も、緑豆を原料にもやしを作る場合、主に中国から輸入しているそうです。ということは、当時、長崎で作られたもやしは、中国産の緑豆で、作り方も中国の人から伝授されたと想像できませんか。 長崎のある郷土史家の方も、「おそらく、そうでありましょう」ということでした。その方によると、明治・大正時代には、伊勢町の中島川沿いにもやし製造の店が多く点在していたといいます。水はけが良いことと同時に、水が豊富でなければならないもやし作りには、最適な場所だったというわけです。◎参考にした本:長崎文献叢書 第一集・第五巻 長崎虫眼鏡・長崎聞見録・長崎縁起略(長崎文献社)、豆の本(本谷滋子/文化出版局編)、カラー百科・野菜と豆(主婦の友社)

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  • 第280号【自然と歴史の宝庫、生月島へ】

     生月島(いきつきじま)へ行ってきました。本土の西北端に位置する平戸島のさらに北西部に位置する小さな島です。あいにくの曇天と、春先に多い黄砂のせいで、景色はかすんでいましたが、なかなか味わい深い時間を過ごすことができました。 生月島は、2つの橋で本土と陸路がつながっています。まず本土と平戸島を結ぶ平戸大橋(長さ665m)を経て、さらに平戸島と生月島の間に架かる生月大橋(長さ960m)を渡るのです。生月大橋は、平戸の市街地から車で20~30分ほど。ライトブルーの橋で、眼下に広がる辰ノ瀬戸の青さと島の緑とともに美しい景観を生み出していました。この橋は1991年に開通。建設当初は、「三径間連続トラスト橋」としては世界一の長さだったそうです。 南北に伸びた生月島は、一時間あれば車で一周できるほどの広さです。島の東側(平戸島を望む方角)には、港が点在、民家が集まり町を形成しています。まき網漁業が盛んで、新鮮な魚が豊富です。そして、なだらかな斜面に連なる畑では、アスパラなどが盛んに作られているそうです。島の西側に行くと、民家は途絶え、景色は断崖など雄大な自然へと変わります。この一帯は西海国立公園に指定された景勝地。目の前に玄界灘を望む大海原が広がっています。 「生月」という地名について、『その昔、遣唐使船が唐からの帰路、東シナ海の荒波を乗越えてこの島を目にしたとき、「ほっと一息ついた」ことから「いきつき(生月)」と呼ぶようになったそうですよ』と島の人から聞きました。「いきつき」の名が最初に確認できる歴史的資料の「続日本後記」(869年編纂)には、遣唐使船が帰路、生属島(生月島)に立ち寄ったことが記されているそうです。当時の航海は、まさに命がけ島の人のいう名の由来は、定かではないということでしが、真実味を感じます。 この島で見所としてはずせないのは、生月の博物館、「島の館」でしょう。生月大橋を渡ってすぐのところにあります。江戸時代、日本最大の規模を誇ったという捕鯨組、「益冨組」の本拠地があったこの島の捕鯨の歴史がわかります。また、かくれキリシタンの島としての歴史も知ることができます。信仰を続けた人々のかつての生活の様子を伝える貴重な資料が多数展示されていました。 島の北端にある「大ハエ灯台」も素晴らしいところです。断崖の上に建つ白い無人灯台で、空と大海原を見渡す絶景を楽しめます。灯台の周囲に積まれた石垣の間からのぞくと、真下に断崖に打ち寄せる荒波が見えます。足がすくむ景色です。近くには、捕鯨の歴史にゆかりのある鯨島という小島もありました。 大ハエ灯台の周辺には自然の力を感じる雄大な景観が広がっています。「塩俵の断崖」と呼ばれる天然の奇岩群もそのひとつです。いくつもの石の柱が亀の甲羅を思わせる模様に削られています。これは玄武岩の柱状節理と呼ばれるもの。まさに自然の神秘です。 キリシタン関係では、明治末から大正初めにかけて造られたという天井のアーチが印象的な山田教会、そして生月島の最初の殉教者、ガスパル様の殉教遺跡で、十字架の碑が建つ黒瀬の丘などを訪ねました。かつて大きな迫害を受けた隠れキリシタンの信仰は、今も子孫に脈々と受け継がれ、口伝のオラショ(祈り)が唱えられています。

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  • 第279号【ポンズは、お酒だった!?】

     私たちの食卓に欠かせない調味料のひとつ、ぽん酢。湯豆腐や揚げ物、サラダなど、素材の味を引き立てる名脇役です。柑橘系の果汁と酢、醤油を合わせたぽん酢は、以前は、ダイダイのしぼり汁のことを言っていたそうですが、今では、ユズやカボス、スダチなど他の柑橘類のしぼり汁の総称としても使われているようです。 柑橘の豊かな香りとやさしい酸味。ぽん酢は、まさに日本人好みの調味酢です。しかしその名称のルーツは、何とオランダ語。江戸時代、出島のオランダ商館の食卓に出ていたもので、もともとはアルコール飲料のことだそうです。 長崎歴史文化協会の越中哲也先生によると、「ぽん酢の語源はアルコール度の強いお酒(スピリッツ)に果実酢、砂糖、スパイスなどを加えた飲み物で、英語でPUNCH(パンチ。仏語ではパンシュと読む)、オランダ語ではPONS(ポンズ)と呼ばれていました。それが転訛して、現在のぽん酢になったようです。長崎郷土史の大家でいらした古賀十二郎先生はぽん酢について、『オランダ人が長崎の人達に教えたもので、長崎の人はポンズを橙果汁(ダイダイカジュウ)と訳している』と記していらっしゃいます」。 当時の日本では、なぜかアルコール飲料としては馴染まず、柑橘系の果汁だけを「ポンズ」と呼ぶようになり、現在の「ぽん酢」に至ったようです。そのなごりとして、今も長崎の郷土料理を代表する卓袱料理のテーブルの上には、醤油と並んで必ずぽん酢(単に、酢醤油と呼ぶ人も多い)が置いてあり、揚げ物や湯引きなどにつけて食べます。 さらに、越中先生は、当時のオランダ人は夏の暑さを防ぐためにPONSを飲んでいたようだといいます。「江戸時代の蘭学者、森島中良(1754~1810)が著した『中陵漫録』に、そういう記述あります」。そこには、『哈刺基(アラキ)という酒二合に橙の酢を入れて白糖を加え、煎る事一たぎり、是に水を少し和して飲む。甚だ冷やしてよろし』と、具体的な材料と作り方まで記されていました。 「哈刺基酒とは、主に東南アジア方面で作られるアルコール度数の非常に強いお酒で、椰子、糖蜜、米などを加えて発酵させたものです。オランダ人より早く南蛮貿易時代にポルトガル人によって長崎に持ち込まれたものです。ポルトガル語でaracaと言っていました。(オランダ語ではarak)」。 ところで、少し前までの長崎には「梅ポンス」という飲み物があったと越中先生は言います。これは、現在、私たちが「梅酒」とか「梅焼酎」と呼ぶお酒のことのようです。「梅焼酎を冷たい井戸の水で割り、さらに砂糖を加えたのが、梅ポンスです。夏場の飲みものとして親しまれていたんですよ」と越中先生。いつの間にか、井戸はなくなり、毎年、梅酒を作る家庭も減ってきて、手作りの梅ポンスは、昔懐かしい飲み物になってしまったようです。◎取材協力/長崎歴史文化協会

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