第302号【長崎のメインロードだった眼鏡橋】
長崎の代表的な観光スポット、眼鏡橋。ここ数年の間に片側の川沿いに軒を連ねていた家々がなくなり、かわって遊歩道ができるなど、まわりの景色に大きな変化がありました。しかし眼鏡橋はそんな周囲のことなど、どこ吹く風といった感じで、370年余りも変わらぬ佇まいで、2連のアーチをくっきりと川面に映し出しています。
眼鏡橋は、長崎の中心市街地を流れる中島川に架かる石橋です。中島川には、ほかにも「ふくろ橋」や「桃谷橋」など江戸時代に何本もの石橋が架けられていますが、そういった石橋群の中でいちばん最初に造られたのが眼鏡橋です。日本に取り入れられた最初のアーチ式の橋ということで国の重要文化財にも指定されています。
眼鏡橋からほど近い寺町通りの一角に唐寺「興福寺」があります。眼鏡橋は、その寺の二代目住職で唐僧の黙子如定(もくす にょじょう:1597~1657)が1634年(寛永11)に架けたと伝えられています。長崎歴史文化協会の越中哲也先生によると、「如定禅師は、神仏に通じる不思議な力を持つ人物だったようです。そういうこともあり多くの信者を得ることができた。だから眼鏡橋を造る資金としての浄財もたくさん集めることができたのかもしれません」とのこと。橋の建設にたずさわった石工たちも、興福寺の諸堂をつくるために如定禅師が中国から呼び寄せていた工人技師の中にいた人たちだったと推察されるそうです。
ところで、中島川では石橋が造られる以前は、何本もの木橋が架けられていました。しかし、どの木橋も軟弱で洪水のたびに流出しては架け直していたそうです。そこで、丈夫な石橋をかけるにあたり、酒屋町と磨屋町の間に架かっていた木橋を最初の石橋(眼鏡橋)に造りかえることになりました。では、なぜ、その場所が選ばれたのでしょうか。その理由をひもとくにあたり、越中先生は「江戸時代の眼鏡橋は長崎では最も重要な道路でありました」と、ヒントをくれました。
「眼鏡橋のあった酒屋町は、筑後柳川方面より酒樽を運び込んでいた場所です。この両隣りの町は、魚市場があった魚町、小間物問屋があった袋町。その対岸は、細工職人らが居住した磨屋町、銀屋町、そして麹づくりを営むものが多かった麹屋町など、中島川から物資を運び入れ、生活に欠かせないものをつくる町が並んでいたのです」と越中先生。どうやら、江戸時代の眼鏡橋界隈は長崎の町の中心であり、庶民の活気と賑わいに満ちていたようです。
つづいて越中先生は、「当時のメインロードは天草や島原、そして薩摩にもつながる海路のポイントである茂木港から茂木街道を通り、長崎の市中(思案橋―寺町通り―眼鏡橋―小川町ー上町)に入り、さらにそこから、浦上街道(時津や大村の城下につながる街道)へ続くルートだと考えられる」とおっしゃいます。つまり眼鏡橋の位置は、茂木港~長崎市中~浦上街道を結ぶそのルートを念頭において選ばれた場所だというのです。メインロードならばいろいろな人や多くの物が往来するのですから、丈夫な石橋が必要なのもうなづけます。長い時を経た平成の今も変わらず多くの人が往来している眼鏡橋。建造当初からそういう特別な運命を背負った橋だったのですね。
さて、越中先生からは、眼鏡橋について記した古い資料として、1715年に著された『長崎図誌』を教えていただきました。「これは長崎における最初の史跡名勝を主にした地理・歴史の記述書です」。そこには、眼鏡橋はあくまでも俗称で、奉行所などが扱う正式な名称は「第十橋」であったことが記されています。当時は、中島川に架かる橋を上流から順番に「第一橋」、「第二橋」などとしていて、正式に眼鏡橋となったのは明治15年になってからでした。
最後に、眼鏡橋の両側面の中央付近にはめこまれた石版について。そこには文字が刻まれていたようですが、風雪にさらされわからなくなっています。「眼鏡橋の架設にまつわる確かなことが刻まれていたはずなのですがね」と越中先生も残念そうです。江戸時代の長崎の風俗や景色を描いた「長崎古今集覧名勝図絵」の中にある眼鏡橋には、この石版の姿も描かれています。
*取材協力/長崎歴史文化協会