第303号【どうして、ピントコ坂?】

 「オランダ坂」「ドンドン坂」「ヘイフリ坂」「勅使(ちょくし)坂」「地獄坂」…。長崎にあるいろいろな坂道の名前です。“オランダさん”と呼ばれた外国人たちが通っていたから「オランダ坂」、急な斜面を雨水がドンドン早く流れ落ちたから「ドンドン坂」、天皇の使い(勅使)が参詣するために整備されたから「勅使坂」…。名前の由来を知ると、坂のまち長崎の歴史や風土が垣間見えてきます。


 そこで今回は、ちょっとユニークな名前の「ピントコ坂」についてご紹介します。この坂は、思案橋・丸山の背後に続く斜面地の住宅街(上小島地区)にあります。江戸時代の茂木街道(茂木~田上~長崎を結ぶ街道)の道筋にあたり、正覚寺下にある茂木街道の入り口から、高島秋帆旧宅跡(国指定史跡)前を通り、さらに少し登ったところの石段から「ピントコ坂」がはじまります。坂のゴールは、うんと高台にある県立長崎南高校(上小島4丁目)の校門前。最初から最後まで急な勾配が続き、休み休み登っても30分ほどかかりました。生活道として地元の方は利用しているようですが、坂道に慣れない方には結構しんどいかもしれません。






 「ピントコ坂」からは周囲の山を見渡せ、市街地も見下ろせますが、民家やビルであちらこちらの景色がさえぎられています。でも、江戸時代には市中が眼下に広がり、きっといい眺めだったと思われます。ふと思ったのは、幕末の頃、長崎にきて倒幕のために奔走した薩摩の志士たちのことです。茂木の港は、薩摩へもつながる海路の重要ポイントで、早朝に長崎を発てば、風次第でその日の内に薩摩に着くことも可能でした。ですから、その頃何度もこの街道を往来した薩摩の人もいたでしょうし、「ピントコ坂」から見渡す長崎の街を特別な思いで眺めたものもいたのではないかと想像するのです。






 さて、「ピントコ坂」の名の由来については次のような言い伝えがあります。『元禄の頃、唐の商人で何旻徳(カ・ピントク)という人物がいて、偽の貨幣を造った疑いで処刑された。馴染みの丸山の遊女・阿登倭(おとわ)がこの坂のあたりに亡きがらを葬り、自らも後を追い命を絶った』。この話に登場する旻徳さんの名前にちなんで、「ピントコ坂」と呼ばれるようになったといわれています。坂の途中には、のちに二人を哀れに思った地元の人々によって傾城塚と呼ばれる碑も建てられています。



 しかし、旻徳さんと阿登倭さんの悲恋ストーリーは、まことしやかに語り継がれてきながら、同時に作り話であるとも言われています。当時、唐人さんと遊女との間の悲恋話はいろいろあり、そういった状況を語り継ぐものとして、旻徳さんと阿登倭さんの話が生まれたのではと推測されます。長崎の郷土史家のお話によると、この坂の辺りには、丸山の遊女たちの無縁墓も多くあったといいます。傾城塚もそういった遊女たちの慰霊の意味があるのかもしれません。ちなみにその昔、唐人さんは、丸山遊女を「ピャウツウ」(嫖子)と称していたそうです。「ピャウツウ」の発音が「ピントク」に変化したのかもしれないという郷土史家もいらっしゃいます。




 ところで、「ピントコ」については他にも、石ころのデコボコという意味だとか、「ピントコ、ドッコイ」という囃子言葉と何か関係があるかもしれないという人もいます。歌舞伎では、細かい役柄の区別の中で、少しキリッとした男役を「ぴんとこな」というとか。また歌舞伎衣装のひとつで、唐人に扮装するときに使う「襟袈裟」(えりけさ)のことを「ぴんとこ」というそうです。ということは、もしや、あの「ピントコ」と、この「ぴんとこ」は、何か関係があるような気がしませんか?


 言葉の語源や歴史の事実など、真相がわからなくなるものがたくさんある一方で、真実ではないけれど語り継がれるものもある。歴史って、本当に不思議なものですね。


◎ 参考にした本/長崎市史~風俗編~、長崎の文学(長崎県高校国語部会 編)、長崎の史跡~南部編(長崎市立博物館)、NHK日本の伝統芸能(日本放送協会、日本放送出版協会 編)


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