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  • 第353号【松島の桜坂(西海市)】

     桜前線はいま、本州の最北端あたりでしょうか。宮城、岩手、秋田、青森などの東北地方では、ゴールデンウィーク中に見頃を迎えるところも多いのでしょう。毎年全国ニュースで満開が伝えられる青森の弘前公園の桜や秋田の武家屋敷の枝垂れ桜。ぜひ、いつか訪れてみたいものです。 すでにツツジやサツキの季節に移った長崎。桜の満開は1カ月ほど前の3月末頃でした。今回は、ちょうどその時分に訪れた松島(長崎県西海市大瀬戸町)の桜の名所「桜坂」をご紹介します。 長崎駅から、路線バスや船を乗り継いで約2時間ちょっとで行ける松島は、瀬戸港(大瀬戸町)の沖合いに浮かぶ離れ島です。瀬戸港からの所要時間は、市営交通船でわずか10分。周囲16km、面積6.36㎡の小さな島で、約680人が暮らしています。松島を擁する西海市は、美しい海岸線と島々で知られる風光明媚な地域として知られ、西海国立公園、大村湾県立公園、西彼杵半島県立公園の3つの自然公園にも指定されています。そうした景観の一部を成す松島は、小さいながらもダイナミックで、気持ちのいい自然を楽しめる島なのです。 さて、「桜坂」ですが、とてもシンプルなこの名称で呼ばれる桜の名所は、全国各地にあると思われます。その中で、ここ松島の「桜坂」がほかと一線を画する理由は、現在、大河ドラマなどで活躍中の福山雅治さんゆかりの場所とされているところにあります。それは、20数年前、長崎市出身の福山さんが上京する前のこと。高校卒業後に勤務した電気会社関係の仕事で松島を訪れたとき、島の「桜坂」を見たかもしれないといわれ、のちのヒット曲「桜坂」のイメージにもつながっているのではないかと地元ではいわれているのです。 そうしたことから、ここ数年福山さんのファンを中心に注目を浴びて地元でも盛り上がり、今年は3月下旬に「第1回桜坂まつり」も開催されました。松島の「桜坂」は、島の基幹産業である「松島火力発電所」の社宅区域へ通じる坂道のことで、約600m続く道の両脇には、170本ほどのソメイヨシノが植えられています。島の方の話によると、ここは地元では30年くらい前から桜の名所として知られていたとか。「福山さんをきっかけに、多くの人に見てもらえるようになり、桜も喜んでいるはず」とおっしゃっていました。「桜坂」そばのバス停は、この3月から、「遠見寮下(とおみりょうした)」という名から「桜坂」に名称に変わりました。島の新名所になったことがうかがえます。 桜坂の満開の桜を見上げながらそぞろ歩けば、ウグイスの鳴き声が聞こえてきました。やさしい薄紅色の花びらと、向こう側に見渡す海の色のコントラスの美しいこと。街の喧噪をすっかり忘れてしまいます。「桜坂まつり」の出店では、島内産の小麦粉で作ったという「島うどん」をいただきました。コシのある太い麺と潮の香りのする出汁がおいしかったです。 松島は、古く港町として繁栄。幕末には長州藩士の木戸孝允(桂小五郎)が訪れ、船着き場近くにあった三国屋に宿泊し、地元・大村藩の重役らに密かに倒幕の話をしたというエピソードもあります。大正から昭和初期にかけては炭坑の島として栄え、全盛期の人口は1万人を越えたそうです。島の北側にはめずらしい「赤い砂浜」、西側には五島灘を見渡す「日本一小さい公園」など、まだまだ見どころ満載です。また、別の季節にご紹介します。

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  • 第352号【世界を巡ったかたち ケンディ】

     皆さんは、「ケンディ(KENDI)」をご存知ですか。外国の男性の名前のようでもありますが、実はマレーシア・インドネシア地方の言葉で、持ち手のない水差しのことをいいます。片手でひょいと持てるくらいの大きさで、水を注ぎ入れる口、注ぎ出す口の2つの口が付いているのが特徴です。インドネシアでは、いまでも水飲み容器として日常的に利用されているもので、その歴史は紀元前2世紀頃までさかのぼるとか。今回は、アジア各国のケンディを集めた企画展をご紹介します。 「世界を巡ったかたち ケンディ ~アジアから世界へ 異文化交流の器~」と題した企画展(長崎市主催/平成22年3月20日~6月27日まで)が行われているのは、長崎市の出島(旧出島神学校1階)です。展示されている全70数点のケンディは、すべて古陶磁器研究家のアリスティア・シートン氏(神戸市在住)が所蔵するコレクションです。このようにケンディをテーマにした展覧会は、日本で初めてのことらしく、開催初日に会場でご挨拶をされたシートン氏は、たいへんうれしそうでした。  ケニア生まれのスコットランド人であるシートン氏は、「物を集めるという行為が好きで、他人が見向きもしない物になぜか魅力を感じてしまう」という方。これまで海外協力隊や収集家として、世界55カ国を訪れたそうです。そんなシートン氏がケンディを集めはじめたのは、1980年のこと。「注ぎ口がおっぱいのような形をした風変わりな器」に出会ったのがきっかけでした。それは、中国の景徳鎮で17世紀につくられた青花のケンディだったそうです。 さて、紀元前までさかのぼるケンディのルーツは、インドで祝いの行事に用いられていた「クンデイ(KUNDI)」という、水を冷たく保つ容器だといわれています。神聖な容器だったクンディは、2~3世紀になると貿易でインドネシアなどへ運ばれていきました。そうしたなか、ケンディと呼ばれるようになり、神聖な器としてだけでなく、庶民の水飲み容器としても広く使用されるようになっていきました。また同時に、東南アジア(タイ、ベトナム)や西アジア(イラン)などにも伝わり、各地で製作されるようになっていきました。 17世紀頃になると、オランダ東インド会社の要望に応じて、中国(景徳鎮など)、日本(有田)で、磁器製のケンディが盛んにつくられ、遠くヨーロッパまで輸出されています。出島のオランダ商館の積荷目録には、有田製のケンディが輸出されていたことを示す記録が残されているそうです。 ひとつ不思議に思ったのが、中国や日本では、ケンディを使う習慣は根付かず、もっぱら輸出のための商品としてつくられていたということです。その理由について、企画展担当の出島復元整備室の方は、「熱帯の気候の地域で、水飲み容器として庶民に浸透したケンディは、通気性の良い土器製などが適していて、衛生的に回し飲みができる(人々は注ぎ口から口を付けずに飲んでいた)ことが利点でした。しかし、中国や日本では風土や習慣が異なるため、そうしたことが定着しなかったと考えられます」と教えてくれました。また、当時の日本には、提瓶(さげべ)や竹筒など水を携帯するための道具がすでにあったことも理由のひとつだったかもしれないそうです。 水を入れて、注ぐというシンプルな用途を形にしたケンディ。かつてアジア、ヨーロッパと世界を巡ったそのかたちは多様で、趣向を凝らした文様に彩られ見応えがありました。また、その素材も陶器、磁器、木材、金属などいろいろで、産地の個性が伺えます。ぜひケンディゆかりの地・出島で、その魅力を味わってください。取材協力・写真提供/長崎市文化観光部 出島復元整備室       https://nagasakidejima.jp/

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  • 第351号【見どころ盛りだくさんの長崎公園】

     大陸から飛来する黄砂は、九州の春の風物詩。長崎では先週、今年初めての黄砂が観測されました。2日後の3月18日には、平年より1週間も早くサクラが開花。いよいよ本格的に春めいてまいりました。 暖かくなると散歩に出かけたくなります。ということで、緑の多い諏訪神社界隈をぶらぶらと散策してきました。諏訪神社の長坂(ながさか)と呼ばれる参道の石段を登って振り返ると、黄砂の影響で少しかすんだ長崎の街が眼下に広がります。参道横では、約360年前の諏訪神社創建当時の絵図にも描かれているクスノキが、元気に若葉を茂らせていました。このクスノキは、薬の神さまである少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。「病魔退散大楠」として、昔から参拝する人が多いそうです。 参拝のため本殿へあがると、白い花がこぼれるように咲いた樹木が目を引きました。参拝客のひとりが、花の匂いをかぎながら「卯の花だわ」とうれしそう。初夏の花として知られる「卯の花」ですが、諏訪神社のそれは、ちょっと早めに咲く種類なのかもしれません。 諏訪神社から地続きの長崎公園へ移動。長崎公園は、明治6年に制定された長崎でもっとも古い公園です。大きなコイがたくさん泳ぐ池があり、その中央に日本で初めてという噴水(復元)が設けられています。すぐ目の前では、おいしいぼた餅で知られる「月見茶屋」が、いつものように営業していました。 長崎公園内の階段を上っていくと、木立の中にひっそりと佇むように、東照宮があります。徳川家康公をはじめ歴代の徳川の将軍を祀ったこのお宮は、正保2年(1645)に安禅寺として創建されました。江戸時代は、幕府の発展を繁栄するかのように周囲に次々と建物が造られたそうです。「当時は、たくさん人々が往来し、賑わったようですよ」と近所の方が教えてくれました。 安禅寺が東照宮と改められたのは、明治元年のこと。周囲には、古びた敷石や、いまでは立ち入ることもできない参道の石段がありました。当時の繁栄の面影はありませんが、参道の石段をまっすぐ下れば、長崎奉行所へ通じるのがわかり、幕府とのつながりがうかがえます。かつての参道途中には、葵の御紋を施した安禅寺の石門(1819建立)が残されていました。 公園内から長崎県立長崎図書館や長崎歴史文化博物館方面へ出る小道の途中には、「えっ!?」と驚くようなユニークな形をした木があります。太り気味の人の体型にも似た、トックリノキです。長崎市指定の天然記念物でもあるこの木は、オーストラリア原産の高木で、昭和初期、上海から長崎へ運ばれたもの。日本に持ち込まれたトックリノキの中で、もっとも古い樹木だそうです。 あらゆるジャンルの見どころが、まだまだたくさんある長崎公園。春の散策にもってこいのスポットです。

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  • 第350号【浦上の秘密教会堂跡をめぐる】

     季節柄、暖かくなったり、寒くなったりを繰り返していますが、例年より気温差が激しいようです。みなさん、体調管理には十分お気を付けください。  さて、先日、キリシタンゆかりの地を訪ねて、浦上天主堂のある長崎市浦上地区へ出かけました。浦上のキリシタンの歴史をひもとけば、織田信長、豊臣秀吉の時代にまでさかのぼります。当時、浦上の村人は、ほとんどがキリスト教の信徒であったと伝えられており、江戸から明治へと時代が移り変わるなかで、密かな信仰と同時に、激しい迫害の歴史をたどりました。今回は、特に幕末・明治にスポットをあててご紹介します。 江戸時代、表向きには寺の檀家となりながら、地下組織をつくってキリスト教の信仰を守り続けた浦上の信徒たち。幕末になると日本は、函館、横浜、長崎を開港。以来、居留地に暮らす外国人の宗教の自由は尊重されましたが、日本人のキリスト教の禁令は続きました。そうしたなか、1865年、居留地に大浦天主堂が完成。浦上の信徒は250年におよぶ沈黙をやぶり、大浦天主堂のプチジャン神父に自分たちが信徒であることを告げたのでした。これが、「信徒発見」といわれる出来事で、遠くヨーロッパへも驚きと感動をもって伝えられたそうです。 しかし、「信徒発見」後も禁令は続き、浦上の信徒たちは密かに4つの秘密教会を設け、大浦天主堂から神父を迎え、洗礼を受けるなどしていました。4つ教会というのは、「聖フランシスコ・ザベリオ堂」(橋口町)、「聖ヨゼフ堂」(辻町)、「聖マリア堂」(辻町)、「サンタ・クララ教会」(大橋町)。それぞれ、なだらかな起伏が続く浦上地区に点在しています。浦上地区は、現在は閑静な住宅街が広がっていますが、当時は農村地帯で田畑の景色が続いていたそうです。 秘密教会のひとつ「サンタ・クララ教会」(建立年不明)の記念碑があるのは、大橋電停そばの国道206号線沿い。ここは、江戸時代初めにポルトガル船の船員たちの寄附によって、大きな教会が建立されたところです。禁教令によって破壊された後も、信徒たちは夏になるとこの場所に集まり、盆踊りと称して祈りを唱えていたというエピソードが残されています。 こうした秘密教会が一斉に摘発されたのが1867年(慶応3)の3月のこと。のちに「4番崩れ」といわれる出来事です。「崩れ」とは、潜伏キリシタンの組織が見つかり、組織が崩れることをいいます。「4番崩れ」でとらえられた信徒たちは、翌年からスタートした明治政府によって、約3,400人もの人々が名古屋以西の22カ所に配流されました。この処分のことを、浦上の信徒たちは「旅」と称したそうです。 信徒たちは、「旅」先で、重労働や拷問を受け、命を落とした人も大勢いました。しかし、時代は大きな変化を迎えていました。近代化をはかろうとする明治政府は、アメリカ、そしてイギリスやベルギーからもこの信仰弾圧を批判されます。そうして1873年(明治6)、長きにわたった禁教が解かれ、「旅」へ出た人々は、ようやく浦上へもどってきました。  辻町の高台には、「十字架山」といわれる公式巡礼地(1950年ローマ教皇指定)があります。ここは、故郷へ帰った信徒たちによって築造された場所です。信仰を貫けたことへの感謝の気持ちと、心ならずも踏み絵を行ったことなどの贖罪をあらわす聖地として、いまも巡礼者が絶えません。

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  • 第349号【行事食~桃の節句~】

     いま、長崎の街はうれしい春の陽気に包まれて、ランタンフェスティバルを好評開催中です。中島川では新しくお目見えした川に浮かぶオブジェや龍馬とお龍さんのオブジェが注目の的。ぜひ、お出かけください(~2/28まで)。 うれしい春といえば、先日、おまんじゅう屋さんで、大きなザルに積み上げられた、よもぎの束を見かけました。春先、まっさきに萌え出すよもぎの若葉。それを摘んで作るよもぎ餅は、雛あられや菱餅など、桃の節句に出される雛菓子のひとつとして知られています。雛菓子は、材料や色合いなどに子供が健やかに育ってほしいという意味や願いが込められていますが、よもぎ餅も、エネルギーのつまった若葉を食すことで、元気を養い邪気を払うと考えられているそうです。 長崎では、よもぎ餅を「ふつ餅」と呼ぶ人が多いようです。というのも、九州・沖縄地方では、よもぎは「ふつ」とも呼ばれているからです。長崎歴史文化協会の古老はその言葉の由来について、「蓬(よもぎ)を中国語で発音したときの言葉が訛ったものでしょう」とおっしゃっていました。ちなみに「蓬」は中国語で「フーチン」と発音するらしいのです。 さて、江戸時代の長崎では、3月1日になると各家庭で「ふつ餅」をこしらえて親戚などに配っていたそうです。「おらが世やそこらの草も餅になる」。よく知られる一茶のよもぎ餅の句ですが、かつては、とても身近に生えていたよもぎも、街の中ではなかなか見かけなくなりました。今回、よもぎの写真を撮るために、足を棒にして探し回りました。 桃の節句の食卓について、周囲の主婦の方々にリサーチしてみると、ちらし寿司、貝類でつくる潮汁(うしおじる/吸い物)、そして白和えというメニューが多く聞かれました。では、江戸時代の長崎では、桃の節句に何を食していたのでしょう。「長崎事典~風俗文化編~」によると、「小豆飯、なます、鯨の炒殻の味噌あえ、たにしの醤油煮、菱形のよもぎ餅を食べた」とありました。 前述の古老は、大正生まれ。長崎で生まれ育った方ですが、若い頃、たにしの醤油煮を食べていた記憶があるそうです。また、「桃の節句のとき、よそではハマグリの潮汁を出すようだが、食べたことがなかった。長崎は、ハマグリは手に入りにくかったんじゃないかな」ともおっしゃっていました。この話は、興味深いものがあります。全国的には、桃の節句の料理としては、ハマグリの潮汁がよく知られているのですが、長崎では、主婦の方々の声からも、ハマグリより、アサリの潮汁の方が多く作られていたような感じを受けました。 ハマグリのような二枚貝は、互いの貝殻以外とはぴったりと合わないことから、古来、貞節や夫婦和合のシンボルとして用いられてきました。ハマグリは、栄養的にも、貧血によいビタミン12や鉄、銅などが含まれ、骨を丈夫にするカルシウムや亜鉛、マグネシウムなどもバランスよく含まれた女性の体にうれしい食材です。アサリも貧血やむくみ、動脈硬化の予防に役立つ薬効成分がたっぷり含まれています。桃の節句の料理もまた、遠い昔から受け継いできた、理にかなった「食」でありました。これからも大切にしていきたいものです。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎参考にした本など/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、食材図典Ⅲ(小学館)、からだに効く食材調理図典(小学館)

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  • 第348号【龍馬ファンも必見、2010長崎ランタンフェスティバル】

     冬のお祭りといえば、「さっぽろ雪まつり」が有名ですが、「長崎ランタンフェスティバル」もすっかり全国的に知られるようになりました。旧暦のお正月(春節)を祝う「長崎ランタンフェスティバル」は、今年は2月14日(日)から2月28日(日)までの15日間行われます。真っ白な雪に包まれた「さっぽろ雪まつり」、朱色を中心とした幻想的な中国色に埋め尽くされる「長崎ランタンフェスティバル」。その対照的な表情は、日本の風土の豊かさを表わすかのようです。  1万5千個にも及ぶランタン(中国提灯)が灯される「長崎ランタンフェスティバル」 は、長崎新地中華街、浜市・観光通りアーケードなど、長崎市中心部を舞台に繰り広げられます。湊公園(メイン会場)、中央公園、唐人屋敷、興福寺、鍛冶市、浜んまちの6つの会場があり、龍踊り、中国獅子舞、中国雑技、二胡演奏などが連日催されます。新年を寿ぐ本場の演技は、迫力満点。今年も会場はどよめきと拍手、歓声に包まれることでしょ う。週末の皇帝パレード(2/20,2/27)媽祖行列(2/21,2/28)も見逃せません。  今年は虎(寅)年。中国では古来、虎は風を操り、従えているという言い伝えがあるとか。湊公園に設けられる恒例の干支の巨大オブジェは、「虎嘯生風(フーシャオ シェンフォン)」というタイトル。その意味は「虎が空に向かって吼えれば、激しい風が起こる」というもので、才能や技能のある人がチャンスを得て奮起、活躍するといったことを表わすそうです。 ここ数年、ほかの会場とはひと味違った黄色いランタンの装飾で注目されている中島川の眼鏡橋周辺。今年は水際の生きものたちをかたどった川に浮かべるタイプの新しいオブジェが登場。子供たちが喜びそうです。また、この界隈には「龍馬とお龍さん」のオブジェもお目見え。龍馬ファンは必見です。  実は、龍馬ファンにとって、今年の「長崎ランタンフェスティバル」は一段と楽しみの多いものになるはずです。というのも、大河ドラマ「龍馬伝」にちなんで、「長崎ランタンフェスティバル」の舞台とも重なる市中心部に、龍馬関連の新しいスポットや催しがいろいろあるからです。 ひとつは、この冬誕生した「長崎龍馬の道」。諏訪神社近くからグラバー園付近まで、街の中心部をつらぬく約3kmの1本道で、沿道は龍馬ゆかりのスポットや観光名所など見所がいっぱいです。道筋には番号を記した案内プレートが辻々に設けられているので、観光の際の道標にも利用できます。また、街歩きの際に携帯するなら、長崎市公式ガイドマップの「長崎龍馬の道」(600円/一部の観光施設で販売)がおすすめです。  さて、「長崎龍馬の道」の道筋には今年初め、観光通りアーケードの一角にオープンした〈長崎まちなか龍馬館〉があります。幕末の歴史や人物を紹介するほか、清風亭(龍馬と後藤象二郎が大政奉還へのきっかけとなった会談を行った料亭)の調度品も展示されるなど、たいへん見応えがあります。龍馬をモチーフにしたグッズやお土産品を集めたショップも好評です。また、亀山社中を復元した〈長崎市亀山社中記念館〉(長崎市伊良林)、大河ドラマ関連の展示物を楽しめる〈長崎奉行所・龍馬伝館〉(長崎歴史文化博物館内/長崎市立山)、亀山社中と交流のあったグラバーゆかりの〈グラバー園〉(長崎市南山手)も、はずせない龍馬スポットです。これら〈4つの施設〉へは、「長崎龍馬パスポート」を利用するとたいへんお得です。今年の「長崎ランタンフェステバル」は「龍馬」もいっしょに、存分にお楽しみください。 ◎取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会(長崎市さるく観光課内)  長崎ランタンフェスティバルの情報はこちらでチェック! ●ホームページアドレス https://www.at-nagasaki.jp/

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  • 第347号【地名、町名に秘められた歴史(外町ほか編)】

     前回に引き続き、長崎の地名、町名にまつわるお話です。江戸時代、人口の増加にともなってどんどん拡大していった長崎の町。今回は、全部で54カ町あったという外町から、いくつかの町名の由来をご紹介します。 内町を囲むように外町がつくりはじめられたのは、慶長2年(1597)の頃。最初は、中島川に架かる賑橋から上流の眼鏡橋あたりまでの川沿い(西側)に、材木町、本紺屋(もとこうや)町、袋町、酒屋町といった町が並ぶようにできたそうです。これらの町名は、現在は残っていませんが、材木町は町建てに欠かせない材木が集められた場所といわれ、本紺屋町は、紺屋(染物屋のこと)が集まった町、袋町は足袋屋など小間物類(袋物)商があった町、酒屋町も酒屋があったことに由来するといわれています。いずれも商売に関連する町名だというのが注目すべきところ。当時の長崎には、町の発展を見込んで全国から商人たちが集まって来たいたのです。  外町には、職人名にちなんだ町名も多くみられます。現在も残る町名でいうと、桶職人が住んでいたことに由来するという桶屋町、銀細工職人が住んだという銀屋町、鍛冶屋さんが集まった鍛冶屋町、大工さんが多く住んだという新大工町など。また、昭和41年までは、鏡や刀などを磨く職人がいたという磨屋(とぎや)町、紙すきが行われていたという本紙屋町などの町名も残っていました。こうした職人名にちなんだ町名からも、江戸時代の長崎の賑わいがうかがえます。  ところで、坂本龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」の「亀山」の由来をご存知ですか?「亀山社中」は、長崎の市中にほど近い、長崎村伊良林の亀山(現在の長崎市伊良林2丁目)と呼ばれた小高い丘にありました。その家屋は、江戸期の長崎の名窯のひとつ「亀山焼」の作業場だったところです。それで、その組織は「亀山社中」とか「亀山隊」などと呼ばれたといわれています。  では、そもそも「亀山」の由来とは?三重県の亀山市の場合は諸説あり、ひとつは地形が亀の甲羅に似ていたからというものだそうです。長崎の「亀山」も周囲の山の形がそう見えなくはないのですが、実際はどうだったのでしょう。 この地で、亀山焼がはじまったのは文化4年(1807)のこと。窯の歴史は約60年と短いのですが、名陶として知られ、安政年間には御用陶器所にもなるほどでした。ちなみに龍馬が愛用したという白磁に龍の染付の飯碗も亀山焼です。また、亀山社中が設立されたのは、亀山焼が廃窯となった翌年の1866年のことでした。 実は窯が設けられる前、この地は垣根山(かきねやま)と呼ばれていました。開窯当初は、白磁の器などではなく、オランダ船に輸出するための水瓶を製作していたそうです。そこから「水瓶」の「かめ」が、「亀」に転じ「亀山」と呼ばれるようになったともいわれています。長崎歴史文化協会の越中哲也氏は、「当時、この地を亀山と呼びはじめたのは、木下逸雲ではないかと思っています」とおっしゃっていました。木下逸雲は、石崎融思らと並ぶ長崎三筆のひとりで、一時衰退した亀山焼の復興に尽力した人物です。逸雲が絵付けを施した亀山焼の茶碗も残されています。  「亀山」という地名の由来をたずねただけで、いろいろなエピソードがとめどもなく出てくる長崎。本当にユニークで奥の深い町です。 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)

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  • 第346号【長崎の町名をひもとけば…(内町編)】

     「長崎」という地名は、その地形に由来して「長い岬のあるところ」から「ながさき」となったという説や、戦国時代にすでにこの地に居住していた長崎氏の名前に由来するという説があります。こんなふうに、地名や町名の由来を調べると、その土地の地形や成り立ちなどがわかって面白いものです。 長崎が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の開港からです。それに応じた町づくりは、翌年からはじまっています。まず、最初にキリシタン大名の大村純忠によって、その長い岬の先あたり(現在の長崎県庁周辺)に大村町、島原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、分知町の6町がつくられました。外浦町、分知町以外は、いずれもポルトガル船との貿易港が長崎に至るまでに、キリスト教の布教が行われた地域の名がそのまま町名になっています。つまり、その地域から長崎へ移った人々が住んだ町ということです。外浦町、分知町もキリスト教に関連した人々が居住したといわれ、最初の6町はキリシタンのために拓かれたともいえます。現在、これらの町名は、万才町などに編入され、残念ながら残っていません。  ポルトガルとの貿易を行う中核として誕生した最初の6町。ときは江戸時代へと移り変わる中、6町に隣接してのちに26の町がつくられました。これらの町は、内町(うちまち)と呼ばれ公領として地租を免じられています。現在もこのとき生まれた町が残っていて、興善町(当時は本興善町、後興善町、新興善町)、江戸町、桜町、樺島町、五島町(当時は浦五島町、本五島町)、金屋町、築町などがそうです。内町が整う中、周囲には 外町(そとまち)と呼ばれる地租免除外の町も54カ町つくられていきました(内町・外町の区分は1699年廃止)。内町だけの頃は1万人に満たなかったという長崎の人口は、外町が拡大していった1614年頃には、2万5千人以上になっていたそうです。  内町にあった、本博多町、本興善町、後興善町などは博多商人ゆかりの町です。その位置は現在でいうと、長崎市立図書館(興善町)周辺になるでしょうか。長崎の町の歴史を詳しく且つわかりやすく著した「越中哲也の長崎ひとりあるき」によると、「長崎が貿易港として定期的にポルトガル船が入港するようになったとき、当時の九州の商都として栄えていた博多から商人団の大きい移住があったと考えられる」とあります。興善町は、商いのために博多から進出してきた興善家の人が建てた町だと伝えられています。  内町のひとつで、出島と川をひとつ隔てた位置につくられた江戸町は、名前から想像できるように江戸幕府が生まれてから整備された町です。お江戸の繁栄にあやかって名付けたのでしょうか。町は、現在も当時と変わらぬ位置にあります。江戸時代、その近さから出島のオランダ人とは何かと関わりがあったようで、今も使用される江戸町の町章は出島のオランダ人がデザインして贈ったものと伝えられています。それは「J・D・M」の文字を配したもので、オランダ人が江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来するとか。長崎県庁の裏手にある江戸町公園には、そのカタチから「タコノマクラ」とも称される町章が大きく記されています。  今回は、内町からいくつかの町名の由来をご紹介しました(次回は外町です)。いたってシンプルに付けられた町名ですが、いずれもいろいろなエピソードが秘められていて、「町名=町のプロフィールを凝縮したもの」といった印象でした。あなたがお住まいの町も、由来を調べたら意外なエピソードが出てくるかも。ちょっと調べてみませんか。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)、長崎県の歴史(外山幹夫 編/河出書房新社)

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  • 第345号【龍馬が夢を描いたまち、長崎】

     年賀状はもう書き終えられましたか。大晦日まであと1週間あまり。振り返ると、今年の長崎は来年の大河ドラマ「龍馬伝」の話題で持ちきりでした。オンエアされる2010年は、ますます「龍馬」で明け暮れそうです。そこで、当コラムも来年に希望を託して「龍馬」をテーマに、長崎での足跡をご紹介します。 実は、龍馬の足跡については5年前にも取り上げています(※190号)。今回、同じ場所をいくつか訪れたところ、状況が変わって、以前より、龍馬と長崎のつながりが強く感じられました。たとえば、龍馬ファンが必ず訪れる「亀山社中跡」(長崎市伊良林)。この夏、往時に近い形で復元整備され、「長崎市亀山社中記念館」としてオープンしています。  亀山社中(のちの海援隊)が本拠地としたこの建物は、小さな切妻屋根の平屋で、江戸時代、この辺りで焼かれた亀山焼きにゆかりのある建物と推測されています。畳の部屋は10畳、8畳、3畳の3つ。柱や天井など簡素な木の造りに昔の風情が感じられます。海援隊士らが長崎の港や街を眺めたに違いない縁側や、隠し部屋などもありました。けして広いとは言えない部屋に立つと、龍馬たちがここで夢を語り合ったことがリアルに想像できます。龍馬の人柄がにじみ出た手紙をはじめ紋服、ブーツなどの複製品など、展示物も充実。たいへん見応えがありました。 「亀山社中跡」界隈は、龍馬関連の史跡や見所が集中しています。龍馬をはじめ海援隊士らも参拝したと思われる「若宮稲荷神社」、龍馬が盟友・佐々木三四郎と度々訪れたという西洋料理屋の「藤屋」跡。龍馬の片腕と呼ばれた近藤長次郎のお墓(晧台寺)、そして、地元の龍馬ファンや有志の方々によって設けられた龍馬のぶーつ像、坂本龍馬之像(風頭山)…。いずれの場所へ行くにも坂道、坂段は避けられないところが、また長崎らしいのでありました。 龍馬が長崎の地を初めて訪れたのは、土佐藩脱藩から2年後の元治元年(1864)のこと。このときは勝海舟とともに訪れ、1カ月以上滞在しました。そして、再び長崎を訪れ、慶応元年(1865)、亀山社中を結成。海外への志を胸に、貿易と海運業で実績を築く中、慶応3年(1867)1月、土佐藩参政の後藤象二郎と意気投合し、同年4月、社中は海援隊としてあらたなスタートをきりました。  まもなく、「いろは丸事件」が起きます。海援隊の持ち船「いろは丸」(160t)と御三家のひとつ、紀州徳川の「明光丸」(880t)という蒸気船どうしが起こした瀬戸内海上での衝突事故です。龍馬は、格が違い過ぎる相手に対し、驚くような行動に出ました。当時、長崎を訪れた諸藩の人々の情報交換の場でもあった、花街・丸山で「♪船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という歌を流行らせ、紀州藩のイメージダウンをねらったのです。 緊迫した交渉の舞台は聖福寺(長崎市玉園町)でした。最終的に龍馬たちは、8万3千両(のち7万両に減額)の賠償金を得たといいます。そんな史実を知って、あらためて聖福寺の参道を歩くと、龍馬の計り知れない度量を感じて、思わず立ち止まってしまいました。 龍馬が長崎を初めて訪れてから、京都で亡くなるまでの期間は4年弱。長崎でのさまざまな出会いは、龍馬を大きく成長させ、その想いは新時代の礎となりました。長崎は、短くも濃密に生きた龍馬の熱い想いに触れることができる街。時代が大きく変わろうとしている今、龍馬は再び長崎に大切なメッセージをよこしているのかもしれません。

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  • 第344号【エコできらめく長崎の夜を歩く】

     お天気の長期予報によると今年も暖冬。長崎では12月に入っても小春日和の過ごしやすい日が多く、師走らしい感じがいまひとつしません。暦をあらためて見ると、雪が降り本格的な冬を迎えるとされる二十四節気の「大雪」は、おとといの12月7日。一年で昼が一番短く、夜が一番長い「冬至」は12月22日です。つまり、寒さの本番はこれからということ。みなさん、年末に向けて、体調管理にはくれぐれもお気を付けください。  そんなわけで、いまのところ長崎は、夜も薄手のコートを1枚はおるだけで十分過ごせる温かさ。ちょうど先月末から、夜の市街地で「長崎ハートフル・イルミネーション」という催しが行われていると聞き、マフラーも、毛糸の帽子も、手袋も付けない軽装で、デジカメを片手に出かけてきました。  「長崎ハートフル・イルミネーション」は、長崎駅をはじめ出島、長崎水辺の森公園、大浦天主堂、グラバー園といった観光スポットをイルミネーションで飾り、クリスマスシーズンらしい演出をほどこした催しです。期間は、先月末から大晦日まで。点灯時間は夕方17時から22時までだそうです。(※出島、大浦天主堂、グラバー園は、開園(場)時間や点灯時間は施設によって異なりますので、チェックしてお出かけください。) ところで、この時期、こうしたライトアップは全国各地の観光スポットや商店街などで行われています。ここ数年、環境への配慮からグリーンエネルギーを利用したり、省電力で耐久性に優れたLEDライトを使用するところが増えています。「長崎ハートフル・イルミネーション」で使用されている電飾もLEDライトを使ったエコな明かりだそうです。LEDライトは、以前の白熱球の明かりと比べると、クールな印象。繊細なガラス細工にも似た美しいきらめきが特長です。  さて、長崎の夜の街歩きは、夕方、帰宅時間のざわめきがはじまった長崎駅からスタートし、出島、出島ワーフ、長崎水辺の森公園、大浦天主堂、グラバー園の順でたどりました。このルートは、単に歩くだけなら小1時間もあれば十分な距離です。今回は、2時間ほどかけゆっくりライトアップを楽しみました。 出島では、オランダ国旗をモチーフにしたクリスタルコーンがかわいらしかった。キリスト教が禁じられた江戸時代、出島のオランダ人たちは、キリスト教に由来するクリスマスパーティーを、阿蘭陀冬至と呼んで祝っていたという話を思い出します。長崎港の出島ワーフへ行くと、停泊したヨットが驚くほど華やかに飾られていました。聞けば、期間中、装飾艇のコンテストが行われているのだそうです。長崎県美術館の中央を流れる運河では、雪の結晶のような光のオブジェが水面の上に揺れ、映画のワンシーンのようなロマンチックな景色でした。 イルミネーションのきらめきは、厳かな聖夜の気分を思い起こさせます。仕事帰りの人々や、夕食を終えた家族連れ、おしゃべりがつきない学生たち…、いろんな人たちが楽しんでいる平和で美しい夜に、あらためて感謝したくなるのでした。

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  • 第343号【キリシタンの里・外海地方をたずねて】

     長崎はいま秋の修学旅行シーズン。紅葉したナンキハゼが舞う石畳の坂道を、見慣れぬ制服姿の学生さんたちが楽しそうに行き交っています。南蛮貿易、出島、外国人居留地、原爆…、長崎という小さな街にギュッとつまった多様で特殊な歴史の数々。修学旅行生たちは、どんなふうに感じているでしょうか。  さて、お出かけシーズンということで先日、長崎日本ポルトガル協会が主催する史跡見学会に参加しました。長崎日本ポルトガル協会は、毎年ポルトガルゆかりの史跡めぐりを行っています。長崎県内各地に点在するキリスト教関連の史跡は、もとをたどれば約450年前、ポルトガル船でやってきたフランシスコ・ザビエルら宣教師たちの布教活動に由来します。そうした動きの中で長崎は南蛮貿易港として歴史の表舞台に登場しました。長崎の歴史はポルトガル抜きには語れないほど、深いつながりのある国なのです。  今回の史跡めぐりは、遠藤周作の「沈黙」の舞台としても知られる長崎市の外海地方です。長崎市街地から車で約40分。夕日の名所として知られる西彼杵半島の海沿いの道路(国道202号)を北上していきます。案内してくださったのは、長崎歴史文化協会の越中哲也先生(88)です。長崎の郷土史家として著名な越中先生は、現在のように道が整備されていない時代から、県内各地を歩き回り、地道に史跡調査を行ってきた方で、当時の状況や調査内容を今もつぶさに記憶していらっしゃいます。今回も、行く先々で観光パンフレットに載っていない貴重な話を聞くことができ、充実した史跡めぐりとなりました。  外海の出津地区では、明治時代にこの地へ主任司祭として赴任してきたド・ロ神父に関連する史跡が数多く残されていました。ド・ロ神父は、出津教会(明治15年築・県指定有形文化財)を設計・施工。当時、外海の人々の困窮した暮らしを救うため、地域の教育や福祉に力をそそぎ、農耕地を開墾したり、イワシ網工場をつくったり、パンやマカロニの製法などを伝えるなどしています。ド・ロ神父記念館では、ド・ロ神父が愛用したというオルガンで、シスターが賛美歌を演奏してくださいました。  出津地区から、さらに北上した山間には、ひっそりと「大野教会」(県指定有形文化財)が建っていました。この教会も明治期にド・ロ神父が設計・施工したもので、現地の自然石を積み重ねてつくられた通称「ド・ロ壁」が見られます。小さくて質素な教会を、マリアさまの白い像がやさしいまなざしで見守っていたのが印象的でした。  このほか炭坑の島として繁栄した池島と結ぶフェリーの発着港がある神浦地区や、外海地方のキリシタンの聖地である枯松神社など10数カ所をめぐりましたが、もっとも印象に残ったのは、樫山(かしやま)地区でした。  この地区には「天福寺(てんぷくじ)」があります。禁教の時代から隠れキリシタンたちと密接なつながりをもったお寺です。その近くの山のふもとには、江戸時代の信者たちが霊木とあがめた椿があると聞き、行ってみましたが、神社の鳥居の向こうに質素なほこらが祀られているだけで、とうとう確認できませんでした。ほこらの裏手に回ると山へ入るせまい道が見えました。「この山に3回登れば、ローマへお参りしたのと同じ功徳があるといわれ、浦上のキリシタンも密かに訪れ、登っていたそうです」と越中先生。お寺や神社の鳥居が違和感なくとけ込む外海地方の隠れキリシタンの足跡は、何とも不思議な空気を醸していました。

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  • 第342号【シーズン到来!九十九島かき】

     佐世保の九十九島へ行ってきました。お目当ては、いよいよシーズンを迎えた「かき」。そう、九十九島は、長崎でも有数のかきの産地。北海道、宮城、広島など、全国的なブランドに引けを取らないおいしさで、いま食通たちの注目を浴びています。 九十九島は、長崎県の西北部に位置する西海国立公園の一部で、風光明媚な観光地として知られています。展望スポットのひとつ「展海峰(てんかいほう)」から眺めると、全部で200余りはあるという小さな緑の島々が、青い海にポコポコと浮かび、まるで神話の世界のようです。 「九十九島かきがおいしいのは、やはり、この美しい自然のおかげです。この辺りの海域は、緑の島々から養分が海水に流れ込み、エサとなる植物性プランクトンが豊富なんです」と話すのは、「マルモ水産」社長の末竹邦彦さん。「マルモ水産」のかきは、ここ数年、東京・品川のオイスターバーのメニューに並ぶなど全国でも屈指のかきブランドとして急成長しています。 少し小ぶりな殻の中いっぱいに育った乳白色の身。つややかで弾力があり、口にすると海水のしょっぱさのあとに、かき独特の旨味がたっぷりとこぼれ出て、思わず「ああ~、しあわせ」とためいきが出るほどです。「マルモ水産」のかきは、濃厚な旨味とえぐみのないジューシーな味わいが特長。そこには、消費者のおいしいという笑顔を見るために、チャレンジを続ける末竹さんの熱い思いがありました。 末竹さんが、かき養殖に取り組みはじめたのは5年ほど前のこと。「おじいさんの代から細々と営んではいましたが、本格的にはじめたのは自分の代からです」。後を継ぐ前は、真珠の養殖の仕事に携わっていました。「真珠の養殖技術は、かきの50年先を行くほど進んでいます」。その経験とノウハウを活かし、他が真似できない技術やアイデアを取り入れ、安全でおいしいかきの生産を実現したのです。 たとえば、成育中にマイクロバブルをあて、殻の開閉回数を増やして、貝柱の筋力を鍛える。そうすることで、貝柱は太く甘くなるといいます。安全性を高めるために、いったん水揚げしたかきをUV殺菌を施した安全な海水の中に入れ、体内の海水を入れ替えます。さらに出荷前に、超音波で余分なものを落とすという念の入れようです。また、ウイルスの検査も週に1度、専門機関を通して行うなど、とことん安全性の確保に努めています。 美しい九十九島の海を舞台に、完璧ともいえる養殖方法を実践する末竹さん。夢は、「海外の人にも九十九島かきを味わってもらうこと」。すでにこの秋、中国にも出荷し、確かな手応えを感じているそうです。ところで、末竹さんのお話はときに学術的で、まるで生物学者のようでもあります。聞けば、海洋や水産関係の学者などで構成される「世界かき学会」の会員で、そのシンポジウムなどを通していろいろ勉強をしているそうです。日々変わる自然を相手に、かき養殖を極めようとする生産者の真摯な姿が、そこにありました。

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  • 第341号【茂木くんちに、行ってきました】

     秋祭りのシーズンです。長崎では、10月7、8、9の「長崎くんち」が終わると、約1カ月間に渡って、「郷(さと)くんち」とよばれる祭りが市内各地で行われています。たとえば、竹ン芸が奉納される「若宮くんち」、獅子浮立が行われる「矢上くんち」、女相撲で知られる「式見くんち」など、その地域の歴史・風土を物語る伝統が残されていて、その数は確認されているだけでも30数カ所はあるといわれています。  つい先日、長崎市茂木地区の「茂木くんち」へ行ってきました。長崎駅から車で約20分。市街地から緑の山を越えたところにある茂木地区は美しい橘湾に面した地域で、古くから漁業が盛ん。長崎市内でもとくに魚のおいしいところとして知られています。茂木の港は、江戸時代には鹿児島や熊本方面へ通じる交通の要衝でした。また、明治時代には長崎の居留地に住む外国人の避暑地としても栄えるなど、たいへん個性的な歴史を持つ土地柄です。  「茂木くんち」は茂木地区の総鎮守である裳着神社(もぎじんじゃ)の祭礼です。長崎市内でもっとも古い神社といわれ、「裳着」の名は、日本書紀に登場する神功皇后が三韓出兵のときにこの地に立ち寄り、裳(衣装)を着けたことに由来するそうです。  「茂木くんち」は毎年10月中旬の土日(2日間)に行われています。以前は、決まった日にちがあったそうですが、平日だと人の集まりが悪くなるため、いまのように変わったそうです。私たちが訪れたのは2日目で、裳着神社でお参りをした後、沿道にくだって「お上り」の行列を見物しました。  行列の先頭を歩いてきたのは、5メートルほどはありそうな長い鉾(ほこ)を持った男性です。着流しに赤いズボン、草履という、どこか南方系を思わせる個性的な出で立ちです。ときどき立ち止まっては、長い棒をバランス良く持ったまま片足を前に伸ばし、もう片足を深く曲げるという、見るからにしんどそうなポーズをとります。   そのポーズが決まると、沿道の見物客から歓声と拍手がわき起こります。長い鉾の先には金色の鈴のような飾りが付いていて、動くたびに揺れる音がします。かつて、この鉾を持つ役を経験したという男性によると、「鉾の正式な名称は知らないが、揺れるとポロンポロンと鳴るので、僕たちはこの鉾のことを“ポロンポロン”と呼んでいます」とのこと。  長崎の歴史のよもやま話が集まる長崎歴史文化協会によると、「茂木くんち」に関する詳しい史料は、今のところ確認されていないとか。また鉾の長さは、電線などにひっかかるという事情から、近年1メートルほど短くされたそうです。  鉾持ちの男性が過ぎると、お上りの行列は地域の男たちに担がれた神輿、そして、ハッピ姿の子供たちをのせたペーロン船が続きました。時代の事情による変化を受け入れながら、地道に受け継がれてきた「茂木くんち」。子供たちがお小遣いを片手に出店に急ぐ姿や、沿道でお年寄りが神輿にお賽銭を投げ入れて手を合わせる姿に、ホッと和んだ良いお祭りでした。

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  • 第340号【五島に伝わる祝い菓子、じょうよかん】

     商店街へお買い物に出ると、店頭には旬の野菜や果物が盛りだくさん。収穫の秋を感じて幸せな気分になります。いつの季節にも売っているジャガイモ、サツマイモ、サトイモといったイモ類も、いまなら採れたてとあって、一段とおいしい。旬の力ってやっぱりすごいですね。 イモ類で思い出したのが、以前、五島列島の中通島(なかどおりじま)でいただいたことのある「じょうよかん」とよばれる手作りのお菓子です。主原料は、ツクネイモと米粉(上新粉)。「じょうよ饅頭」の皮や「かるかん」に似た真っ白で弾力のある生地が特長で、砂糖の甘さとツクネイモの風味が効いた素朴な味わいです。聞けば、昔からその土地の家々でお祝い事があるたびに作っている、いわばハレの日のお菓子だそうです。  美しい海に囲まれた五島列島は、土地が狭くやせているため、古くからそのような厳しい環境でも育つサツマイモが主に作られて来ました。サツマイモを主原料にしたカンコロモチは五島列島の味としてよく知られています。一方、米や米粉は貴重だったため、昔は祝い事のときにしか食べなかったといいます。「じょうよかん」には、今もそのなごりがあるのです。 ところで、「じょうよかん」や「じょうよ饅頭」の「じょうよ」は、漢字では「薯蕷」と書きます。それは、すなわち山のイモ(ジネンジョ、ツクネイモ、ヤマトイモなど)のことだそうです。また、そういった和菓子は、昔は身分の高い者しか食べることができなかったことから、上に用いるという意味の「上用」から来たともいわれています。 「じょうよかん」作りにチャレンジしてみました。ツクネイモ、上新粉、砂糖、酒、卵白を混ぜたものを型に流し、蒸し上げます。五島列島の知人によると、以前は、すり鉢にそれぞれの材料を加えながら丁寧にすり混ぜていたので、けっこう手間ひまがかかったそうですが、いまでは、フードプロセッサを使うので、あっという間です。気を付けるのは、強火で蒸すときに「す」がたたないように加減すること。小1時間ほどで、五島列島で食べたあの味を再現することができました。 実は今回作った「じょうよかん」は、ツクネイモよりも粘りと甘みがあるヤマトイモを使いました。というのも、ツクネイモが長崎で出回るのは今月中旬からで、手に入らなかったのです。八百屋のおばあさんに、「じょうよかん」を作ると話すと、「ちょっと上等になるけど、おいしく仕上がるよ」と東北産のヤマトイモをすすめてくれたのでした。  素朴でやさしい五島列島の風土に思いを馳せながら作る、「じょうよかん」。そのやさしい味わいは、秋のお茶のひとときにぴったりのおいしさでした。

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  • 第339号【もうすぐ、秋の大祭・長崎くんち】

     澄んだ青空に広がる、いわし雲。日ごとに秋めく中、長崎市民が楽しみにしているのが、諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)です。今年も370余年の歴史をつないで、10月7、8、9の3日間、まちを挙げて開催されます。 「長崎くんち」の主役ともいえるのが奉納踊りを披露する「踊町(おどりちょう)」のみなさんです。7年に1回その役割が巡ってきます。今年の「踊町」は、上町(うわまち)、油屋町(あぶらやまち)、元船町(もとふなまち)、今籠町(いまかごまち)、鍛冶屋町(かじやまち)、筑後町(ちくごまち)の6カ町です。 9月中旬、いよいよ総仕上げのときを迎えたそれぞれの踊町のけいこを見に行ってきました。どこも本番さながらの熱気と迫力でいっぱい。その様子とともに、各踊町のだしものをご紹介します。 上町は、「紅葉花諏訪祭伊達競(もみじばなすわのまつりのだてくらべ)」という長唄とともに長崎検番の芸子さんたちがプロの舞いを披露。踊りのことはよくわかりませんが、思わず見入ってしまう不思議な魅力がありました。 油屋町は、川船を披露。屈強な根曳衆(ねびきしゅう)たちが豪快に川船を曳き回す姿は感動的です。油屋町は江戸時代、長崎で唯一油を販売した町で、今回、町の象徴ともいえる傘ぼこの垂幕は、その昔、油問屋の主人だった大浦お慶という人が寄進したものを復元したそうです。大浦お慶は長崎に集まった幕末の志士らを支援し、坂本龍馬とも親交があったといわれている人物です。 元船町は、唐人船をダイナミックに曳き回します。せまい踊り場で、船を回転させながら前進させる技が見事です。唐人船に乗り込んで中国の楽器を力いっぱい鳴らす子供たちの姿も見逃せません。また月琴や胡琴などを使った明清楽の演奏と踊りも盛り込まれ、異国情緒たっぷりのだしものが楽しめます。 今年の踊町の中で、もっとも注目を浴びているのは今籠町かもしれません。57年ぶりに本踊りを奉納。花柳のお師匠さんによる指導で、「秋祭賑諏訪乃獅子舞(あきまつりにぎわうすわのししまい)」を披露します。また、傘ぼこは実に78年ぶりの奉納だといいます。今籠町の熱心な練習風景から、奇をてらわない、古き良きくんちを彷佛させる味わい深さが感じられました。  鍛冶屋町は、宝船を披露します。正絹の帆布にサンゴなどを飾った宝船は、見るだけでも金運が上がりそうな華やかさと美しさで魅了してくれることでしょう。宝船を力強く曳き回す根曳衆のカッコ良さといったらありません。恵比須天、大黒天など七福神が登場する踊りも楽しみです。 筑後町は、龍踊です。3体の龍(青龍2体、白龍1体)が登場します。ドラや太鼓など中国の楽器で奏でる龍囃子に合わせ、3体の龍が一斉に踊る様子は鳥肌が立つほどドキドキします。どこかジャスを思わせる長ラッパの音色は、龍の鳴き声を表しているとか。秋の空に響き渡る龍の声。ぜひ、聞きに来てください。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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