第381号【中島川の石橋の名称】
梅雨半ば。長崎では早くも紫陽花が見頃を過ぎようとしています。ご近所の庭では、ユリやアガパンサスなど梅雨空にやさしく映える花々が満開。通行人の目を楽しませています。日本最古のアーチ式石橋で知られる中島川の眼鏡橋付近には、鮮やかな黄色が印象的な金糸梅(きんしばい)が五弁の花を次から次に咲かせています。金糸梅は紫陽花より先に咲きはじめ、より長く楽しめる花。この季節、気分を明るくしてくれるうれしい存在です。
今回は眼鏡橋をはじめ中島川に架かる石橋群の名称に関するエピソードをご紹介します。眼鏡橋の欄干のいちばん手前には、「めがね橋」と刻んだ親柱(石柱)があります。そして、同橋の反対側(上流に向かって右岸。寺町側)の石柱には、漢字で「眼鏡橋」と記されています。現在、中島川には上流から阿弥陀橋、大井手橋、古町橋、一覧橋、芊原橋、東新橋、眼鏡橋、袋橋などの石橋が架かっていますが、東新橋以外はみな眼鏡橋のように左岸側はひらがな、右岸側は漢字で表記されています。
これは、国の「道路台帳」なるものの規定にのっとった表記だとか。このことに関連して、「えっ、そうだったの?」と思うような史実がありました。というのも、江戸時代から寺町への門前橋として親しまれてきた石橋群ですが、漢字、ひらがなの表記が付けられたのは明治15年のことで、しかも、このとき初めてそれぞれの橋の正式名称が定められたというのです。
明治以前に長崎奉行が定めた正式名称はたいへん味気ないもので、阿弥陀橋は「第一橋」、大井手橋は「第三橋」、眼鏡橋は「第十橋」というように、下流に向かって一、二、三と番号で称したものでした。石橋が壊れると修理にあたるなどの役割を担っていた長崎奉行所にとって番号で呼ぶほうが、都合が良かったのでしょう。
しかし、当時の庶民は番号ではなく、多くは橋のたもとに位置する町名を冠した呼び方をしていたようです。たとえば、「酒屋町橋」(現・眼鏡橋)、「桶屋町橋」(現・一覧橋)などというふうに。中島川をはさむ両側の町の人々がそれぞれ自分たちの町名を付けて呼ぶので、ひとつの橋に複数の名称があるなどしていたそうです。
明治になると、長崎奉行所に代わって明治政府の機関が管理する橋の数が増えたこともあり、番号による名称をいまのように改めることになったとか。このとき、石橋の名称を正式に決めるという大役を担ったのは西道仙(にし どうせん/1836~1913)という人物です。長崎で医師、教育者、政治家などとして活躍した人で、初代長崎県令の澤宣嘉の知恵袋的存在でもあったそうです。西道仙は、地元の人々の意見をよく聞いて名称を決めたと伝えられています。そして、江戸時代の通称をそのまま活かしたり、建造者の名や土地柄にちなむなどして決めた名称は、彼の書でそれぞれの橋の親柱に刻まれたのでした。いまもその親柱が現役で残っているのが、袋橋や眼鏡橋のようです。
毎日何気なく通っている橋の名称の由来をたずねれば、その町の意外な歴史に出合うこともあります。あなたの町の橋でも試してみませんか。
◎ 参考にした資料/平成23年南公民館春の講座「古写真で歩く長崎学」(原田博二)