第378号【孫文の足跡in 長崎】

 「中国革命の父」として歴史の教科書にも登場する「孫文」(1866-1925)。今年は辛亥革命(1911-1912:中国初の共和国「中華民国」樹立を導いた革命)から100年目の節目だからでしょうか、最近いろいろなメディアで孫文にちなんだ話を見聞きします。日本を革命活動の基地のひとつとして飛び回り、中国との間を何度も行き来した孫文。今回はここ長崎での足跡をたどります。



 

 孫文は1897年(明治30)~1924年(大正13)の間に9回ほど長崎を訪れています。孫文31才頃から58才で亡くなる前年までの期間です。この時代の長崎は、長い鎖国の後に迎えた居留地時代(幕末~明治後期)から続く諸外国との交易で、港に面した大浦界隈には英国や中華民国(清国)、米国など各国の領事館や洋館が建ち並び、鎖国時代とは違った自由な雰囲気の港町として賑わっていました。




 明治・大正というと、欧米の文化に影響を受けたハイカラなイメージで語られがちですが、実は明治以降の長崎の貿易は、中国や朝鮮との関係のなかで発展したといわれています。なかでも上海との距離は東京より近いこともあって、人や物の往来が活発でした。また、横浜・神戸発長崎経由の香港・上海行きの航路のほか、1923年(大正12)には長崎と上海の間に日華連絡船の定期航路が開設。当時は、「長崎県上海」と呼ばれるほど両都市の結びつきは強く、散歩がてらに下駄履きで上海に出かけたという長崎人のエピソードも語り継がれています。




 孫文は、そんな長崎ならではの地の利もあって、上海や香港へ向かうとき、また東京へ向かうときに長崎を経由したようです。よく利用したのは当時、長崎でも屈指の宿として知られた「福島旅館」。長崎県庁近くにありました。その場所から徒歩20分圏内に孫文の足跡があちらこちらに残されています。




 長崎市の中心繁華街、浜町アーケードを抜け油屋町の通りに入ると、「孫文先生故縁之地」と記した碑が建っています。ここは1902年(明治35)に鈴木天眼(すずきてんがん)が創立した「東洋日の出新聞社」があったところ。論説や報道内容が他の地元紙とはひと味違い人気があったそうです。天眼は、孫文の盟友として知られる宮崎滔天(みやざきとうてん)らと交流を深め、孫文の活動を支援。東洋日の出新聞でも孫文の活動をたびたび報道しました。



 

 孫文は辛亥革命後に誕生した中華民国の初代臨時大統領に就きました。その地位は3カ月で退いていますが、その後、長崎を訪れたときには、それまでの亡命革命家ではなく、公式訪問として盛大に迎えられています。かつて唐人屋敷があった館内町の福建会館では、在長崎華僑の人々や留学生たちと盛大な午餐会が開かれました。袋町(現・栄町)にあった青年会館(YMCA)では講演を行い、その後、天眼宅(古川町:東洋日の出新聞社近く)を訪れ、孫文、天眼、滔天、そして姿三四郎のモデルとして有名な西郷四郎(東洋日の出新聞社で報道記者などとして活躍)などと一緒に記念写真を撮っています。余談ですが、天眼も西郷四郎も福島出身者。長崎との福島はまだまだ意外なつながりがありそうです。

 



 さて、当時の時代背景、人間関係はとても複雑で孫文ついて語るのは難しいものがあります。でも、どこかつかみどころのない歴史上の人物も、その足跡を訪ねると生身の姿が垣間見え、ぐっと身近に感じられるのでした。

 

 

◎参考にした本など/孫文と長崎~辛亥革命100周年~(長崎文献社)、旅行の手びき(長崎市)、長崎事典~産業社会編~(長崎文献社)


検索