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  • 第368号【浦上の信徒弾圧と外交問題と龍馬の策略】

     赤いポインセチアや美しく飾られたツリーを街のあちらこちらで見かけるようになりました。クリスマスの雰囲気って不思議なもので、ふと家族や友達の顔を思い浮かべて、あたたかい気持ちになったりします。クリスマス自体は、キリストの生誕にちなむものですが、いまでは宗教を問わず、多くの人がこの時期をホットに楽しむシーズンイベントとしてすっかり定着しています。 一方で世界には、紛争で人権が侵害されたり、宗教の違いからくる争いごとが絶えない地域もあって、クリスマスどころではない人々もたくさんいます。平和な国に暮らす私たち日本人にとって普段、基本的な人権が尊重されていることや、宗教の自由が約束されていることを意識することはなく、それが当たり前のこととして存在します。しかし、最初からそうした社会だったわけではありません。 ときは、幕末。キリシタン禁制の世にあって、1867年(慶応3)長崎・浦上では、「浦上4番崩れ」というキリシタンの迫害が起こりました。迫害を受けたのは、約250年に渡って密かにキリスト教の信仰を続けてきた浦上の農民たちです。その2年前、大浦の居留地に住む外国人のために建立されたカトリックの教会に、浦上の信徒が先祖代々、信仰を続けていたことをフランス人神父に告げた、「信徒発見」という出来事がありました。その話はヨーロッパに感動を持って報じられましたが、幕府は禁教政策をとりやめることはなく、信徒の取り締まりは続いていたのです。 そうした幕府の態度は、諸外国からの批判の対象となっていました。幕末、長崎に断続的に訪れていた坂本龍馬は、こうした状況を知っていたようです。その頃、進めていた大政奉還の運動がうまくいかなければ、キリスト教迫害の状況を使って、倒幕に結びつける、といった話をしたことが、同じ土佐藩の佐々木高行という人物の日記に残っているそうです。 しかし、間もなく龍馬は暗殺され、江戸幕府も倒れて、明治政府が誕生。キリシタン禁制は新政府にも引き継がれることになります。その後、明治政府は、浦上一村総流罪を決定。浦上村の全農民ともいわれる約3400人が各地に流配されました。流配先での信徒たちの扱いは、藩によって違いはあったものの、多くは改宗を迫られ、さまざまな拷問を受けたと伝えられています。 1871年(明治4)、岩倉具視をはじめとする明治政府の要人たちがメンバーとなった外交使節団は、アメリカに向かい幕末に結んだ通商条約の改正を求める交渉を行いましたが失敗に終わります。敗因は、「浦上四番崩れ」で政府が国民の信仰を迫害したことにあり、アメリカはそういう国を近代国家として認めないというものでした。同使節団は、ヨーロッパに渡っても各国から信仰弾圧を止めるよう求められます。そして、ついに、1873年(明治6)、明治政府はキリシタン禁制を廃止したのです。 あとから振り返れば、「浦上4番崩れ」は、時代が変わろうとする勢いの中で、起こるべくして起きた事件だったのかもしれません。現在の信仰の自由、ひいては人権を尊重する社会を築く大きなきっかけのひとつとして、浦上の信徒たちの多大な犠牲があったことを忘れてはいけないと思うのでした。◎参考にした本/浦上キリシタン流配事件(家近良樹)

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  • 第367号【ことはじめ:キャベツとパセリ】

     冬キャベツが出回りはじめました。長崎県では西彼杵半島の北部に位置する西海市などが主な生産地として知られています。やわらかな春キャベツに比べ、しっかりとした固めの葉が特長で、煮崩れしにくくコトコト煮込むロールキャベツにぴったりです。また、冬場のちゃんぽんも、そのシャキシャキとした歯応えでいっそうおいしさを引き立ててくれます。 ヨーロッパを原産とするキャベツは、17世紀の後半にオランダ船によって長崎に運び込まれたのが最初といわれています。当初は、葉牡丹、つまり観賞用として栽培されたようで、食用としての栽培がはじまったのは幕末から明治初期の頃だそうです。 キャベツには風邪の予防にもなるビタミンC、骨を強くするビタミンK、胃潰瘍の予防になるというビタミンUなどが含まれた身体にうれしい野菜です。トンカツにはキャベツをせん切りしたものが欠かせませんが、キャベツには消化・吸収を助け、消化不良によるむかつきも防ぐミネラルが含まれているので、理にかなった組み合わせだったのです。 さて、オランダ渡りの野菜といえば、パセリも然り。別名オランダゼリとも呼ばれているように、こちらも17世紀頃、オランダ船によって運ばれてきたそうです。ちなみに現在、出回っているパセリには、葉がこまかく縮れているタイプ(ちりめん種)と縮れのないタイプ(平葉種)がありますが、一般に私たちがパセリと呼んでいるのは、ちりめん種の方で、平葉種の方はイタリアンパセリと呼んでいます。 独特の香りと苦みが個性的なパセリ。その香りと小さな森のようなきれいな緑色から、メイン料理に添えられたり、スープにあしらわれたりするなど、主役を引き立てる役割が多いようです。カレーやサラダに添えられたりすると、つい残してしまう人も多いようですが、これは、食材を大切にするという意味はもちろん、優れた栄養価を摂りそびれているという点でも、本当にもったいないことなのです。 パセリにはビタミンCをはじめ、カロテン、ビタミンB1、ビタミンB2など健康づくりに欠かせない栄養素がたっぷり含まれています。鉄分も豊富で、貧血気味の人にはおすすめです。また、独特の香りのもとになっているピネン、アピオールという成分には、食欲増進や疲労回復、保温効果もあるという、良いことづくめの野菜なのです。 油との相性がいいパセリ。天ぷらでいただくのが好きという方も多いのではないでしょうか。小学生のお子さんを持つ友人が、「生のままでは苦手でも、甘い衣をつける長崎独特の天ぷらだと、子供たちはよく食べてくれるのよ」と言っていました。 この冬も、遠い昔に海を渡ってきた長崎ゆかりの野菜たちをたっぷり食べて、健康に過ごしたいものです。◎参考にした本/カラー百科「野菜と豆」(主婦の友社)、                からだによく効く食べ物事典(三浦理代監修/池田書店)

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  • 第366号【立石さんのくんちミニチュア】

     長崎市の中心繁華街・浜の町のとなりに位置する築町(つきまち)。地元の海の幸、山の幸が揃った市場があることでも知られる庶民的で活気にあふれたまちです。そんなまちの一角で理容店を営む立石侃(たていし あきら)さん。「くんちミニチュア」をつくって注目を浴びているベテランの理容師さんです。 万才町のオフィス街から下ってすぐの通りに面した場所にある「理容たていし」。そのディスプレイに買い物客が足を止め、しばらく見入っています。そこには、「御座船」(築町)をはじめ、「宝船」(鍛冶屋町)、「コッコデショ」(樺島町)、「唐船祭」(元船町)といったくんちの踊り町の演し物や傘ぼこのミニチュアが飾られているのです。「小さなお子さんと一緒に楽しそうに見ている方や、長時間立ち止まって細かいところまで見ている方もいらっしゃる。ときには年配の方がくんちの思い出話をしてくれたりして、こちらもうれしくなります」と笑顔で話す立石さん。 くんちの演し物の豪華な飾り付けや優雅な傘ぼこの文様まで、細かい部分も丁寧に再現された立石さんのミニチュア。見応えのあるつくりに、きっと長い製作のキャリアがあるのだろうと思って尋ねると、「理容店を営む傍らでつくりはじめたのは、平成15年(2003)のこと。この年は築町が踊り町で何か記念になるものをと、こしらえたのがきっかけです」。 わずか7年前。60代に入ってからの新しい挑戦だった「くんちミニチュア」づくり。よくよくお話をうかがうと、そこには40数年前に亡くなった立石さんのお父様の影響が見え隠れします。「父はべっ甲職人で、子供の頃は父の作業する姿を見て育ちました。ある日、父が留守のとき、自分もやってみようと思って高価な材料とも知らずに、べっ甲をバリバリ切ったことがあるんです。でも父は、怒りもせずにね、『こうするとばい』って教えてくれたんです」。ものづくりの遺伝子は、そうした親子のやりとりの中でしっかり立石さんの心に宿っていきました。 ミニチュアづくりは店内の片隅で、手が空いたときなどにコツコツと行うため、ひとつの作品に3カ月から半年ほどかかります。材料は、樹脂粘土やお菓子の化粧箱、和紙、布切れ、マッチ棒、割り箸など、ほとんど身近にあるものを用います。「ミニチュアづくりには、自分で創造して、いろいろ工夫する面白さがあります。完成したときの喜びがあり、それが人にほめられたら一層うれしいものです」。立石さんは、こうした体験ができるミニチュアづくりを子供たちに伝えたいという密かな夢を持っています。「何でもお金を出せば買える世の中にあって、子供たちには、自分にしかつくれないものがあることを知ってほしいのです」。 立石さんがミニチュアづくりをはじめてから7年がめぐり、今年また築町は踊り町のひとつとして勇壮で豪華な御座船を奉納しました。築町自治会の副会長を務める立石さんも町内の人とともに、踊り町の役割を無事に果たそうと紋付を着てがんばりました。「長崎くんちは、江戸時代から親から子へ、子から孫へと受け継がれた大切な行事。これからもしっかり繋いでいきたい」。 理容店のスタッフに恵まれ、町内会の人々にも信望が厚い立石さんは、「自分が人にされていやなことはしない」。「お客様のために一生懸命にがんばる」がモットー。くんちミニチュアがどこかほのぼのとして温かいのは、そんな立石さんの実直で優しい人柄が映し出されているからなのでしょう。

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  • 第365号【幕末に活躍した人物のお墓めぐり】

     10月初旬の新聞に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の収録が全て終わったという記事が出ていました。ドラマはいよいよ佳境に入り、それと同調するように長崎の龍馬ゆかりのスポットもさらに熱を帯びて、多くの人々で賑わっています。 龍馬が活躍した幕末は、いわずと知れた激動の時代。当時、「新しい知」の発信地であった長崎の街には龍馬をはじめ、さまざまな分野の人々が往来し、それぞれの思いを実現すべく日々を過ごしていました。今回は、龍馬と志を共にした者、芸術家、通訳などのお墓をめぐり、当時の彼らの活躍に思いを馳せます。 長崎駅の近くにある本蓮寺(ほんれんじ)。ここは、勝海舟が長崎海軍伝習所の伝習生頭役として航海術を学んでいた頃に住んでいたお寺として知られています。実は海舟や龍馬とつながりのある人物が、このお寺の墓地に眠っていることは、まだそれほど知られていません。それは、龍馬とともに土佐藩を脱藩し、海舟の門下生として学んだ沢村惣之丞です。 日本初の貿易商社、亀山社中(のちの海援隊)のメンバーとして活躍した惣之丞。当時、亀山社中の元気な若者たちは長崎の人々から「亀山ん(の)白袴」と呼ばれていましたが、惣之丞もそのひとりとして、血気盛んに過ごしていたに違いありません。そんな惣之丞が亡くなったのは、龍馬暗殺から2ヶ月後のことでした。慶応4年(1868)1月14日夜、海援隊が長崎奉行所を占領していたとき、惣之丞は誤って薩摩藩士を射殺。その責任をとって自決したのです。辞世の歌は『生きて世に残るとしても生きて世に有らん限りの齢なるらめ』。 惣之丞のお墓は、長崎市街地や港を一望する高台にありました。墓石の正面に刻まれているのは「村木氏他 土佐住民諸氏之墓」。実は長い間、惣之丞のお墓は確認できずにいたそうで、それが判明したのは平成2年のこと。墓石の側面にある「関雄之助延世」という名が惣之丞のことだそうです。 さて、惣之丞のお墓のすぐそばには、三浦梧門(1808-1860:みうらごもん)という画家のお墓があります。梧門は、鉄翁、木下逸雲と並ぶ長崎三大南画家のひとり。おだやかな人柄でお酒が大好きな先生だったそうです。 長崎ではどこでも見られる長くて、狭くて、とっても急な墓地内の階段をさらに下ると、代々オランダ通詞を務めたの森山家のお墓がありました。森山家は、幕末、プチャーチン来航やペリー来航の際、通訳として活躍した森山多吉郎(1820-1871)の実家です。実は多吉郎自身は明治4年に東京で亡くなっていて、巣鴨の本妙寺にお墓があります。余談ですが、本妙寺には長崎奉行も務めた遠山金四郎のお父さん、遠山左衛門尉景元のお墓もあります。  さて、ラストは本蓮寺から東へ車で10分。風頭山の山頂へ。ここには長崎港沖を見つめる龍馬像が建っています。その像のすぐそばには上野彦馬のお墓があります。彦馬は、日本の写真技術の始祖で、報道カメラマンの草分けともいわれる人物で、龍馬をはじめ当時の多くの著名人を撮影しています。風頭山では、龍馬の像を仰いだあと彦馬のお墓を参る人も少なくありません。この日、カメラマンをめざしているという若者が、墓前で手を合わせている姿に出会いました。

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  • 第364号【秋、懐かしい味が恋しい季節です】

     賑やかな「長崎くんち」が終わって、長崎のまちはほっとひと息。祭りの間、我が家では小豆ごはんや煮しめ、ざくろなますといったおくんちの定番メニューが食卓に並び、お祭り気分を味わいました。この季節、そうした伝統的な料理を食べる機会が多いせいもあってか、昔ながらの味に何となく気持ちが向かいます。たとえば、祖母や母親が手作りでこしらえてくれた素朴なお菓子。今回は、そんな懐かしいおやつをいくつかご紹介します。 60~70代以上の方々にとって、子供時代のおやつといったら、「はったい粉」ではないでしょうか。30代以下では知らない方も多いようですが、「はったい粉」は大麦を炒ってこがし、ひいて粉にしたもので、関東方面では「麦こがし」と呼ばれているそうです。五島列島で子供時代を過ごした70代の女性は、「砂糖を混ぜ、お湯で練って食べるんだけれど、食べるものが少ない時代、これでお腹をふくらませていたのよ」と話してくれました。関西出身の60代の男性も、「当時のおやつといえば、やはり、はったい粉でしょう」。また、長崎の60代の男性は、「お腹の調子が悪いとき、はったい粉を食べさせられた」と、薬の役割も果たしていたことを教えてくれました。 さて、昔懐かしいおやつといえば、やはり、やせた土地でもたくましく育つサツマイモを材料としたものが多いようです。たとえば、「石垣まんじゅう」。ゴロゴロと混ざったサツマイモが石垣のようにみえるから「石垣まんじゅう」というらしく、いまでは、大分県の郷土料理のひとつとして紹介されているようですが、長崎でも昔はよく作って食べていたようです。いまも長崎のおまんじゅう屋さんなどでよく見かけます。 主な材料はサツマイモと小麦粉。作り方はとても簡単で、1、サツマイモを1センチほどの角切りにする。2、小麦粉(サツマイモと同量)に塩少々と水(小麦粉の約2/3量)を加えてサックリと混ぜ生地を作る。3、2の生地に1のサツマイモを加えて混ぜる。4、適当な大きさに分けて丸め、15分ほど蒸して出来上がりです。生地とサツマイモの甘みが塩で引き立てられて、おいしい。とても素朴な味わいです。 軍艦島(端島)を沖合い望む長崎市の高浜地区にもサツマイモを使った「イモヨセ」というお菓子が伝えられています。小麦粉や白玉粉などを加えて作る、しょうが風味のお菓子で、見た目はイモヨウカンのようですが、そんなに甘くありません。また、もっちりとしていますが、五島名産のかんころもちとも少し違った食感です。いまのように食材が豊富ではなかった時代、手に入る材料で、少しでも腹持ちよく、おいしく家族に食べてもらおうとした母親の工夫と愛情が感じられます。 昔懐かしいおやつに共通しているのは、手作りで、材料も作り方もシンプルだということ。当時の子供たちは、お腹いっぱい食べられないというつらい経験を通して、食べ物の大切さや素材そのもののおいしさ、作る人の気持ちなど、とても大事なことを身を持って学ばれたのだと思います。

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  • 第363号【平成22年・長崎くんちの踊り町】

     朝夕、涼しくなってきました。今年は特に秋の訪れが待ち遠しかったですね。これからは、祭りなどいろいろな催しのシーズンです。長崎では、来月7、8、9日に、諏訪神社の大祭「長崎くんち」が行われます。今年の踊り町は、馬町、築町、東濱町、八坂町、銅座町と、特別参加の籠町の計6カ町。9月に入り、仕上げの段階を迎えた各踊り町の練習を見学してきました。 馬町が奉納するのは「本踊り」です。夕刻、八坂神社へ行くと、花柳流の師匠のもと、若い女性たちが真剣な表情で稽古に励んでいました。本番さながらのあでやかな踊りは見応えたっぷり。途中から、町内の子どもたちも登場して、ほほえましい踊りを披露しました。ところで、馬町は諏訪神社の参道の入り口付近に位置し、その町名は長崎奉行所御用の馬を用意したことに由来するとか。それで、傘ぼこのダシには、馬具一式を飾り付けているそうです。 長崎で初期の頃に開かれた「内町」に属していた築町は、「御座船(ござぶね)」を奉納します。江戸時代、長崎港の警備にあたっていた肥後・細川藩の警備船を模した船だそうで、その豪華さは見どころのひとつです。20数名の根曵き衆が、重さ4トンもあるこの船を、息を合わせて引き回す姿は感動的。また、藤間流の師匠により伝えられた優雅な舞も素敵です。 長崎浜市アーケード界隈に位置する東濱町が奉納するのは、「竜宮船」です。練習時は、竜の部分は布で覆われ、見ることができませんでしたが、「竜宮船」は、優雅なふくらみを持つ紅白の胴体が特長です。この船のデザインは、長崎市出身の漫画家、故清水崑氏によるもの。重厚で品格があります。傘ぼこには、この町がかつて浜辺だった土地柄にちなんで、大きな蛤があしらわれています。 八坂町は、「川船」を奉納します。船体が小ぶりな分、川船を引き回す際のスピード感には圧倒されます。勢いよく回転するなかで、へさきにいる男性が宙を舞う姿を見たときは、もうハラハラドキドキ。本番でのどよめきや歓声が聞こえてきそうでした。また、「川船」は網を打つかわいい船頭さんの姿も見どころです。 町名は江戸時代、銅を製造していたことに由来する銅座町。奉納するのは「南蛮船」です。この演し物は、当時製造した銅を海外へ運んだのが、南蛮船(ポルトガル船)だったことに因んでいるそうです。朱塗りの南蛮船は、とても華やかです。根引き衆が「フォルサ」というかけ声とともに、船を前進させる姿が、とても勇ましくてかっこいいのです。ちなみに「フォルサ!」とは、ポルトガル語で、「がんばる」を意味するとか。もしかしたら、私たちが無意識に使う「ホイサ!」の語源なのかもしれないなあと思いました。 今年は、特別参加として籠町が「龍踊り」を奉納します。江戸時代、籠町のとなりにあった唐人屋敷の中国人から演技を習ったことにはじまる、本流の龍踊りです。どこかジャズのようでもあるラッパやドラの音色とともに、今年のくんちを盛り上げてくれるに違いありません。 本番を前に、10月3日(日)の踊り町の「庭見せ」も、相当賑わいそうです。築町の「理容たていし」では、お店を臨時休業して、店内いっぱいにご主人が作ったくんちのミニチュアを飾り、披露するそうです。どうぞ、お楽しみに。

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  • 第362号【くじらのまち長崎の食卓】

     9月に入っても猛暑が続いています。ヘルシーでスタミナのつくものを探して市場を歩いていたら、「くじらあります」の小さなのれんが目に止まりました。あまり知られていませんが、鯨肉(赤身)は牛、豚、鶏などの食肉よりも高タンパクで、低脂肪、低カロリー。コレステロールの含有量も比較的少なく、血栓を予防するといわれるEPA(エイコサペンタエン酸)や頭の働きを良くするDHA(ドコサヘキサエン酸)、貧血を予防するミオグロビン鉄も含まれるなど、とても身体にうれしい食材です。 長崎の60代以上の人に聞いてみると、子供の頃、鯨肉は豚肉や鶏肉よりも安く、よく食べていたといいます。いまは、昔に比べ高価になってしまいましたが、長崎の人にとってはまだまだ身近な食材です。まちには、鯨肉専門店があり、市場でも普通に売られています。他県出身で、鯨肉が大好きな知人に言わせると、大都会ならまだしも、長崎のような小さなまちの規模で、鯨肉専門店が何軒か見られるのはたいへん珍しく、ほかの地域にはない光景だといいます。 長崎が鯨肉に親しむようになったのは、江戸時代から明治、大正、昭和にかけて行われた西海捕鯨(九州西北部~山口県の西海地方の捕鯨)がきっかけです。もっとも繁栄したのは江戸後期といわれ、浦々には鯨組と呼ばれた捕鯨基地が設けられました。なかでも、長崎県生月島の益冨組(ますとみぐみ)は、日本一の鯨組として全国的に名を馳せています。 江戸時代、捕獲された鯨肉は、大村湾を望む「彼杵」(そのぎ:現・東彼杵町)という長崎街道の宿場町に集められ、そこから各地に運ばれました。東彼杵町の知人宅では、いまもお雑煮の具材に鯨肉を使っています。長崎市内では、鯨肉の中でも珍味として知られる百尋(ひゃくひろ:小腸の塩漬けを茹でたもの)をお正月の縁起物として食す家庭もまだまだ残っています。 鯨肉専門店の方にうかがうと、普段、鯨肉をよく買われるのは、やはり、お年寄りの方々が多いとか。小さい頃から慣れ親しんだ味として、「尾羽鯨」(おばくじら:尾ひれの部分をスライスしたもの)や、「本皮」(鯨の背中の部分の塩漬け)、そして「畝須」(うねす:下あごから腹部にかけての脂身)を塩漬けした、いわゆる「塩鯨」などがよく出るそうです。また、最近では若い人で「さえずり(舌)」を購入する人も意外に多いとか。ベーコンに似た食感の「さえずり」は、居酒屋のメニューに並ぶことが多く、そこで味を知るみたいだとおっしゃっていました。  さて、今夜のメニューにと市場で購入したのは、「生鯨」(なまくじら:畝須に近い部位)と、「さらし鯨」(畝須を塩漬けしたものを茹でたもの)です。「生鯨」では、「肉じゃが」ならぬ、「鯨じゃが」を作りました。鯨肉は独特の臭みがニガテという方もいますが、調理前にすったタマネギに10分くらい漬け込むと、臭みが抜けます。煮込むとトロリとしておいしいです。一方、「さらし鯨」は、そのまま酢みそかポン酢でいただきます。レタスやきゅうりなどと一緒に盛り、「鯨サラダ」にしてもいいですね。 鯨肉専門店の方によると、長崎以外にも鯨肉を売っているところはありますが、長崎の場合は、塩加減、湯で加減など、加工処理がほかと違っていて、それがおいしさにつながっているそうです。長崎のまちでは鯨肉料理を出しているお店も多いので、ぜひ、一度、食べてみてください。

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  • 第361号【龍馬を探してまち歩き(浜市アーケード周辺)】

     この猛暑にも関わらず、長崎のまちでは、子供たちからご年配の方まで、龍馬ゆかりのスポットをめぐる姿が後を絶ちません。龍馬ブームの熱さも、相当なもののようです。 これまでも何度かご紹介しましたが、龍馬ゆかりのスポットは、長崎市の中心部に多く点在しています。その中から今回は、暑い中でも無理なく散策でき、いつでも最寄りの喫茶店で一息入れることができる、浜市アーケード(長崎市浜町)を中心に徒歩10分圏内のスポットをいくつかご紹介します。 浜市アーケードの真ん中には、「長崎まちなか龍馬館」という、来年2月末までオープンしている期間限定のスポットがあります。龍馬が活躍した時代を貴重な資料とともに展示。さらに、お土産のセレクトショップや、観光インフォメーションもあります。この場所からスタートです。 徒歩2分。アーケードからちょっとそれた場所に「清風亭跡」があります。慶応3年(1867)1月、この料亭で、仇敵だった後藤象二郎と龍馬が会談し、意気投合。その後、力を合わせていくことになり、同年10月の大政奉還の実現へとつながります。幕末史上、重要な出来事のひとつとされる、この「清風亭会談」には、龍馬なじみの芸奴、お元さんも同席したと伝えられています。現在この場所は、当時の面影は全くありませんが、その会談を想像すると、ゾクゾクッとするものがあります。 アーケードを東側へ抜け、鍛冶屋町にある崇福寺をめざします。途中には、「大浦けい居宅跡」の碑(油屋町)ありました。日本茶を外国に輸出して、大きな利益を上げた人物です。幕末の志士らを支援したとも伝えられています。 4~5分ほど歩くと、「崇福寺」です。唐寺らしい赤い門に出迎えられました。1629年(寛永6)に長崎在住の福建省の人々によって建立され、国宝をはじめ多くの文化財を有する由緒あるお寺です。大河ドラマ「龍馬伝」では、その境内を舞台に長崎らしい異国情緒を感じるシーンが撮られていました。 「崇福寺」から南へ下り、電車通りを横切ると、思案橋・丸山界隈へ出ます。龍馬とお元さんが出合った場所ともいわれています。江戸時代の丸山遊郭の建物として唯一残る、史跡料亭「花月」には、多くの幕末の志士らが訪れました。「花月」前の丸山公園には龍馬像が建立されています。 飲食店が軒を連ねる本石灰町や船大工町を通り抜けて7~8分、銅座町の一角に「薩摩藩蔵屋敷跡」があります。薩摩藩の長崎における拠点です。ここから、徒歩3分の浜市アーケード西側出口付近には、「土佐商会」跡があります。ここに、のちに三菱財閥を築いた岩崎弥太郎が駐在し、海援隊の金庫番の役割も果たしました。もちろん龍馬もたびたび出入りしていたに違いありません。 中島川沿いにある「土佐商会」跡から、上流へ5分ほど歩くと眼鏡橋があります。当時の長崎のメインロードでもあったこの橋を、龍馬もきっと渡ったに違いありません。橋のたもとで長崎名物チリンチリンアイス(100円)を頬張りながら、ブーツを履いたハイカラな龍馬さんが、この味を知らないことを残念に思ったのでした。

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  • 第360号【伊王島へGO!】

     みなさん、お元気ですか!立秋が過ぎました。残暑は厳しいですが、いずれ、必ず涼しい秋がやって来ます。こうなったら、暑さを受け入れて、素敵な夏の思い出づくりに励むしかありませんよね。 というわけで、夏のリゾート気分を満喫しようと、伊王島へ行ってきました。長崎港沖に位置する伊王島は、高速船でわずか19分。海水浴場や天然温泉の施設などもある自然豊かなアイランドです。早朝出航する便に乗り込むと、船内はすでに家族連れで満席。短い船旅も、子供たちにとってはうれしい体験。海上からの景色に見入っていました。 車で周囲をめぐるだけなら15分もあれば一周できる伊王島は、正確には伊王島と沖之島で構成され、2つの島は3つの橋で結ばれています。さらに、来年春には長崎市の本土側(香焼町)と橋で結ばれる予定で、離れ島としての伊王島の夏は、今年が最後ということになります。 この島には、史跡やダイナミックな自然景観など見どころがギュッとつまっています。代表的なところでは、島の北端の高台にある「伊王島灯台」です。1866年(慶応2)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と結ばれた江戸条約に基づいて、外国との交易を行う港の安全をはかるために、全国8カ所に設けられた灯台のひとつで、1870年(明治3)に造られました。日本初の鉄造六角形の洋式灯台でしたが、原爆の被害に合い改築。しかし、ドーム型天井だけは、当初のものがいまも使われています。 長崎港の出入り口で、海の安全を見守った「伊王島灯台」。そのすぐ下には、灯台守の宿所があり、現在は「灯台記念館」として当時の道具などが展示されています。貴重な展示物の中には、灯りが38キロメートル先まで届くという「四等閃光レンズ」(1918年フランス製)もあり、管理人の方が灯して見せてくれました。この宿所は、「伊王島灯台」と同じ英国人技師ブラントンによって設計された貴重な明治期の洋風建造物でもあります。暖炉をはじめ、ドアや窓のつくり、照明などのインテリアも見応えがありました。 島の南、沖の島側には馬込教会こと「聖ミカエル天主堂」(国登録有形文化財)が建っています。白亜のゴシック様式の天主堂で、1890(明治23)に建てられました。伊王島は、明治初めの厳しいキリシタン弾圧の中、長崎のどの地区よりも早く仮聖堂を建てたといわれるキリシタンゆかりの島。現在、伊王島の半数以上がカトリックの信徒さんだそうです。 また、伊王島は12世紀、平氏打倒の密議が発覚し、島流しになった俊寛僧都が亡くなった島とも伝えられ、墓碑が建立されています。その隣には、昭和初期に訪れた歌人・北原白秋が、俊寛の悲しい運命を詠んだ歌碑もありました。 伊王島は、16世紀以降、長崎港に出入りしていた唐船が、出港時に風待ちをしていた島でもあります。島内には、唐船岳、唐船江護など、ゆかりの地名も残っています。長崎港沖に浮かぶこの小さな島には、まだまだ興味深い歴史がいっぱいありそうです。

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  • 第359号【「長崎の海と船展」(長崎市歴史民俗資料館)】

     暑中お見舞い申し上げます。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしですか。長崎ではいま、「海の日」にちなんだ催しとして知られる「海フェスタ」(8/1迄)を開催中で、船やマリンスポーツなど海と親しむ多彩な催しで賑わっています。 海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う「海フェスタ」。その関連イベントとして、長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町)では、「長崎の海と船展~海を渡った人・物・情報~」(8/31迄)という特別企画展が行われています。古くから海との関わりの深い長崎の歴史を、多様な視点でひもといているところが、この企画展の魅力です。 展示資料の中で、もっとも時代を遡るのが、深堀遺跡(長崎半島)の貝塚から出土した魚類などの骨です。縄文~弥生時代のものだそうで、サメ、ハモ、カツオ、マグロ、ヘダイ、イシダイ、フグ、ボラなどいろいろな魚を食べていたことがわかります。現代人が食べる種類とほとんど変わらず、縄文人がぐっと身近に感じられました。これらの魚は、別のコーナーで紹介している「グラバー図譜」(明治~昭和初期にグラバーの息子・富三郎が編纂した魚類図鑑。日本四大魚類図鑑のひとつ)でも見ることができます。 豊かな海が身近にあったとはいえ、長い間、寒村だった長崎。歴史の表舞台に登場するのは16世紀になってからで、ポルトガル船との貿易のために開港されたのがきっかけです。そして、間もなく日本で唯一の西洋の窓口となり、出島を中心に怒濤の近世~近代の歴史を刻んでいくことになります。 展示資料には、安土桃山時代の南蛮屏風(レプリカ)や江戸時代の「長崎港図」、「長崎図」など、往時の様子がうかがえる貴重な資料が多数展示されています。また、江戸時代初期の朱印船貿易も紹介されていて、長崎代官、末次平蔵の朱印船を描いた大きな絵馬が展示されていました。これは、当時、東南アジアから無事に帰航した船頭らが、長崎の清水寺に奉納したもの。その大きさや描かれた3本マストの和洋折衷の船の姿から、朱印船貿易の勢いが感じられました。 このほか、龍馬が長崎に来た頃の長崎の風景などが見られる「幕末明治日本写真コレクション」や同じく写真パネルで見る「三菱長崎造船所における主要艦船一覧」なども興味深いところです。また、江戸時代、長崎の町人で南蛮天文航法にも精通した小笠原の探検家、島谷市左衛門や、長崎港に沈んだオランダ船の引き上げに成功した村井喜右衛門も紹介されていて、海にまつわるエピソードの多彩さに、あらためて肥前・長崎が海の国であることを実感させられます。 実は、今回の展示資料の中でもっとも注目したいのが、日本初公開となる「文久遣欧使節団一行」の写真です。1862年8月、サンクト・ペテルブルグにある宮殿(現在のエルミタージュ美術館)の並びにある迎賓館で撮影されたもので、使節団全員(38人)が写ったものは、日本には存在しないそうです。福沢諭吉をはじめ福地源一郎、森山多吉郎など長崎ゆかりの人物も数名確認できました。 8月21日には、「子孫から見た咸臨丸の歴史」と題して、小杉雅之進の曾孫、小杉伸一氏による記念講演が予定されています。小杉雅之進は、長崎海軍伝習所の三期生で、咸臨丸での太平洋横断時には蒸気方見習いとして乗り込んだ人物です。こちらも、どうぞお見逃しなく。取材協力:長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町/長崎原爆資料館となり) TEL(095)847-9245◎記念講演「子孫から見た咸臨丸の歴史」は、平成22年8月21日(土)午後2時~4時(午後1時30分開場)、長崎原爆資料館ホールにて開催(入場無料)。

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  • 第358号【新スポット、長崎港松が枝国際ターミナルへ】

     長い坂段の途中や洋館の庭にさりげなく咲くアジサイ、しっとりと雨に濡れた石畳など、長崎らしい独特の風情をかもした雨の季節も、そろそろ終わりです。一年を通じて多くの国際クルーズ客船が入港する長崎の港では、梅雨の間も、「Seabourn Pride(シーボーン・プライド)」、「ふじ丸」、「Legend of the Seas(レジェンド・オブ・ザ・シーズ)」などが寄港。女神大橋をくぐり、港内に優雅に現われた大きな船体たちは、華のような存在感で、深い霧に包まれた港を明るくしてくれました。 長崎で国際クルーズ客船が着岸するのは、かつて外国人居留地だった南山手エリアの一角にある「松が枝埠頭(まつがえふとう)」と呼ばれるところです。実はこの埠頭に、今年3月「長崎港松が枝国際ターミナル」が完成し、すでに、海から訪れる多くの外国人観光客を快適に迎え入れています。 「長崎港松が枝国際ターミナル」は、モダンで個性的な建物です。海上から見ると、まるでUFOを思わせるユニークな形をしています。1階は、広々とした待ち合いホールで、海側は全面ガラス張り。対岸にそびえる稲佐山や麓の街並み、造船所の景色などを眺めることができます。もちろん、1歩外に出れば、心地よい潮風に吹かれながら、ぐるりと港内を見渡せます。かつて、ご主人が対岸の造船所に勤務していたという女性(60代)は、その景色を感慨深げに眺めていました。 ゆるやかな弧を描くようなデザインの屋上(2階部分)は、芝生に覆われたオープンスペースになっていて、国際クルーズ客船が着岸しているときは、その姿をほどよい高さと近さから、じっくり見ることができます。ときには、偶然目が合った客船側の人と手を振りあったりして、小さな国際交流も楽しめます。  「長崎港松が枝国際ターミナル」は、屋上の緑化だけでなく、太陽光発電の利用や自然光を室内にとりこむ構造など、環境にも考慮してつくられています。また、個性的な外観でありながら、周囲の風景に自然な感じで溶け込んでいるため、地元の人でも建物に気付かずに通り過ぎてしまうことが多いそうです。 このターミナルは、ふだんは午前9時から午後6時まで開館していて、どなたでも自由に出入りすることができます。国際クルーズ客船の寄港時以外は、待ち合いホールを展示会や講演会など各種イベントに利用できるほか、会議などに使える多目的ルームもあります。(※開館時間は、国際客船寄港時や催し等がある場合、変更することがあります)。ちなみに、ホールの利用料金や駐車場の料金は、他よりもちょっとお得なのが、見逃せないところ。今後、長崎らしさを満喫できるこの場所で、魅力的な催しがいろいろ行われていくことでしょう。 この夏、長崎港では美しい帆船が集う「帆船まつり」(7/22~26)、夜1,000発の花火があがる「ながさきみなとまつり」(7/31、8/1)そして、「全国ペーロン選手権大会」(7/31、8/1)などが行われます。「松が枝国際ターミナル」周辺は隣接する「長崎水辺の森公園」と一緒に、そうした催しの舞台となります。この機会に、ぜひ一度、お出かけください。◎取材協力:松が枝ターミナル管理事務所 TEL(095)895-9512●ホールなどの利用についての詳細は、「長崎港松が枝国際ターミナル」のホームページをご覧ください。 http://www.kouenryokuchi.or.jp/crane/matsugae/index.html●アクセス 路面電車:「大浦海岸通」または「大浦天主堂」電停下車、徒歩3分。 お車  :長崎駅から野母崎方面へ走り、「旧香港上海銀行長崎支店記念館」前から右前方に見える「大浦警察署」の方へ入り、道なりにぐるりと回って駐車場に入ってください。

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  • 第357号【江戸時代・時を告げる鐘】

     「今年も半分過ぎようとしているなあ…」そんなことを思いながら今月のカレンダーを眺めていると、「時の記念日」の文字に目が止まりました。時間を大切にし、生活の改善をはかりましょう、ということで1920年(大正9年)に制定されたこの記念日。日本で初めて時計が使われたという671年4月25日を、太陽暦に直すと6月10日だったことから、この日になったとか。当時の時計は、漏刻(ろうこく)と呼ばれる水時計だったそうです。 1日24時間。現代人は、時計やケータイに表示される時刻を目安に日々を過ごしています。では、一般の家庭に時計がなかった江戸時代の人々は、どうやって時間を知ったのでしょうか。日の出とともに起き、日没とともに寝るという自然のサイクルに合わせた暮らしをしていたという当時の人々。時間のとらえ方も、現代人のそれとは違うはずです。 江戸時代の一日は、十二刻に分けられていました。これは、日の出から日没までを「昼」、日没から日の出までを「夜」として、「昼」と「夜」をそれぞれ六等分したものです。一刻は2時間くらいのようですが、現在の時刻のように1分1秒と正確に刻まれたものではありません。太陽が出ている時間が長い夏と、短い冬では一刻の長さはかなり違っていたそうです。当時の人々は、季節に応じた変化をおおらかに受け止めていたのですね。 一方で、市中には「報時所」というものがありました。「報時所」は「時の鐘」、「時鐘(じしょう)」とも呼ばれ、決まった刻に鐘を撞いて人々に時刻を知らせます。現在の長崎市役所(桜町)のそばには、「報時所跡」があります。そこは江戸時代、町年寄などの屋敷があった長崎の中心部の一角。案内板に付いた写真から、「報時所」は高さのある細長い木造やぐらだったことがわかりました。その説明書きによると、「報時所」は長崎奉行所の管轄。はじめは、長崎開港のとき最初に建てられた6町のうちのひとつの島原町(現・万才町)に1665年に設けられ、のちに今籠町(現・鍛冶屋町)、さらには豊後町(長崎市役所そば)に移転したとあります。 朝と夕方、長崎の市中に鐘の音を響かせたのは、撞役(つきやく)と呼ばれるお役人でした。島原町に設けられた年に、松尾伊右衛門という人がその役を任じられて以来、代々同家がこの役を受け継いだそうです。ところで、「時の鐘」は当然ながら、長崎だけでなくその他の地域にもあった施設です。鐘を鳴らす時刻を計ったのは、「常香盤(じょうこうばん)」という線香の燃えるスピードで計る方法のほか、当時、すでに輸入されていた機械時計を使ったともいわれています。 江戸時代の長崎には、西洋の文物を受け入れた土地柄から、優れた時計職人がいたと伝えられています。当時の長崎土産を記した「長崎夜話草(第5巻)」には、眼鏡細工やビードロなどと並んで、「士圭細工(ごけいざいく)」と記されています。「士圭」とは「時計」のこと。こうした文献からも時計職人たちの活躍が垣間見えるようです。長崎の撞役が時刻を計った方法は定かではありませんが、きっと機械時計ではなかったかと想像も膨らみます。 江戸時代の時計に関してさらに知りたい方は、出島へお出かけください。当時つくられた和時計のレプリカなどが展示されています。出島内で時を知らせた「時鐘」も復元されています。また長崎市内には、明治36年から昭和16年まで、正午の合図として空砲を撃っていた午砲台が、長崎港を一望する東山手の高台に残されています。そこは、空砲の音から、いまも「ドンの山」と呼ばれています。 ◎参考にした本/日本大歳時記(講談社)、長崎叢書・上(長崎市役所編)、江戸の庶民の朝から晩まで(河出書房新社)

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  • 第356号【長崎の津々浦々~浦上川~】

     梅雨入り直前。晴天が続くいまのうちにと、衣更えやカーテン、じゅうたんなどの洗濯、押し入れの片付けなど、家中の整理整頓や掃除にいそしんでいる方も多いことでしょう。風薫るこの季節は、まち歩きにも最適なシーズンです。今回も外へ出て長崎市の浦上川沿いをのんびり歩いてきました。 長崎市の北東部の山を水源とする浦上川は、市街地の中を流れ、長崎港へ注ぐ川。眼鏡橋などの石橋群が架かる中島川とともに、長崎市を代表する河川です。散策のスタートは、浦上地区界隈にある「長崎県営野球場ビッグNスタジアム」前です。浦上川の下流に位置するここから、めざす河口の長崎港まで約3km。この間に架かっている橋は、上流から下大橋(しもおおはし)、簗橋(やなばし)、竹岩橋(たけいわばし)、梁川橋(やながわばし)、稲佐橋(いなさばし)、旭大橋(あさひおおはし)など。河口までは、川の両サイド、もしくは片側に歩道が整備されているので、車両の往来をあまり気にせずズンズン歩いていけます。 スタート地点の少し上流には「大橋(おおはし)」が架かっています。その辺りまではたくさんのコイが泳ぎ、サギ類やマガモなど野鳥の姿もいろいろ見られるのですが、その数十メートル下流で、かすかに潮の香りが漂いはじめる「下大橋」辺りになると、そうした生き物の姿がぐん減るようです。今回、アオサギを数羽確認しただけでした。 浦上地区界隈の流域は、野球場をはじめプール、陸上競技場、ラグビー・サッカー場などがあるスポーツエリアです。高総体を目前に控えた時期ということもあり、日焼けした高校生たちが行き交っていました。彼らのまぶしい姿を見て、あらためて思ったのは平和の尊さです。 65年前の8月9日。浦上地区に投下された原子爆弾で、この界隈は一瞬にして焼け野原と化し、浦上川では、水を求めて集まった大勢の被爆者が息絶えました。その悲惨な光景を目の当たりにした知人(70代)は、「この流域は、私にとって聖地なんです」といいます。それは、原子爆弾の悲惨さを知るみんなの思い。毎年8月9日の夜には、陸上競技場近くに架かる簗橋付近では、犠牲者の霊をなぐさめ、平和を祈る「万灯流し」が行われています。 川沿いを下っていくと、梁川橋のかかる茂里町あたりから浦上川沿いに、都市計画道路の「浦上川線」が建設中(今年度完成予定)でした。梁川橋から稲佐橋まで続く歩道には、関山桜、うこん桜、蘭々桜といったいろいろな種類の桜の木が植えられていました。満開の季節にもぜひ、訪れたいものです。 稲佐橋から河口にかかる旭大橋付近になると、川面はもうすっかり海の色。数羽のミサゴが飛び交い、小さな波がチャプチャプと音を立てていました。右手を見上げればロープウェイのある稲佐山、左手の向こう側には彦山が見えます。旭大橋の下をくぐると、近年の開発で大きく変化した長崎港の景色が広がりました。港では、ゆったりと流れる長崎の時間の中で、羽をのばす修学旅行生の姿がありました。

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  • 第355号【長崎の津々浦々~香焼町(こうやぎちょう)~】

     外洋から長崎港へ入るとき、長崎半島の緑の山並みを背景に、オレンジと白に塗られた巨大なドッグの一部が見えて来ます。これは三菱重工業(株)長崎造船所香焼工場が、世界最大級の規模を誇る通称「100万トンドッグ」(長さ990m、幅100m)。長崎市香焼町を代表する景観のひとつです。 造船のまちとして知られる香焼町は、長崎駅からバスで30分ほどのところにあります。このまちが、かつては島だったと聞いても、若い世代はなかなかピンときません。香焼町は、もともと長崎港の入口に浮かぶ小さな島で、香焼島と蔭ノ尾島(かげのおじま)の二つの島で構成されていました。昭和17年、海面を埋め立てて一つの島になり、昭和43年に東側対岸の長崎市深堀町との間が埋め立てられ陸続きになったのです。 そうした埋め立て地は、まちの北東部に位置し、主に造船関連の工業用地として利用されているようです。反対側の南西部は山の緑と青い海に囲まれたのどかな人々の暮らしがあり、香焼町独自の歴史が息づいていました。 小さな漁港に面したまちの中心部の高台に登ると「香焼山 円福寺(えんぷくじ)」があります。弘法大師の伝説が語り継がれているお寺です。1200年ほど前、弘法大師が乗っていた遣唐使船が暴風に遭い、香焼島に避難。島の岩窟で弘法大師が香を焚いて祈りを捧げたとき、あたりの岩にその香気が染み込んだそうです。この伝説に由来して、「香焼」という地名が生まれたと一説にはいわれています。それとは別に、遠い昔、この地の人々が焼畑農業をしていたことを物語るという「クワヤキ」という言葉が「コウヤギ」に転訛したという説もあるようです。 江戸時代の香焼島は、鰯漁がとても盛んだったようです。当時は、田畑の肥料として干鰯がよく用いられたとか。香焼島には、現在の佐賀県や山口県、瀬戸内海の各地からも鰯漁や干鰯の商いをする人々がやって来ていたそうです。町内には、そうした人々から寄進された石灯籠(円福寺)や鳥居などが点在。いまはひっそりと島の歴史を物語っていました。 円福寺から山あいの道路を20分ほど歩いたところに、「香焼総合公園」があります。公園内の展望台は、五島灘を見渡す絶景スポットです。北東に女神大橋の向こうに控える長崎市街地を望み、東に深堀町から長崎半島の稜線を眺め、南西沖には高島、西には伊王島がすぐそばに浮かび、建設中の「伊王島大橋」も見えました。香焼町と伊王島を結ぶこの橋は来年、春の完成をめざしているそうです。 まちの南側には、かつて炭坑で栄えたところ(安保地区)やペーロン船を浮かべた小さな入り江(尾上地区)がありました。そうそう、香焼町界隈は昔からペーロンの盛んな地域でもあります。「ペーロンの練習の音が聞こえると、もうワクワクしてね。家のことも手に付かなくなるとよ」と話すのは、漁港そばに住むおばあさん。ペーロンのシーズンがはじまって、とてもうれしそうでした。

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  • 第354号【長崎のまちの新モニュメント】

     先週のゴールデンウィークでは、高知や長崎などの龍馬ゆかりの施設が大盛況だったようです。期間中、長崎市亀山社中記念館(亀山社中跡/長崎市伊良林)に足を運んでみると、入場を待つ人々の長い行列がありました。風頭山の中腹にある同記念館。その界隈は民家の間を縫うように、せまい坂段がくねくねと通じています。龍馬の足跡をたどるたくさんの観光客の方々とすれ違いましたが、みなさん、「フウフウ」言いながら坂段を登っていました。ちょっと街はずれの、ちょっとしんどい場所にある亀山社中跡。時代を変えようと秘策を講じた龍馬たちにとっては、好都合の場所だったのかもしれません。 同館へは連休明けに出直すことにして、少し下ったところにある光源寺の墓地へ向かいました。ここには、幕末、洋式軍艦の買い付けのために長崎を訪れていたという二宮又兵衛(宇和島藩士)のお墓があります。真偽のほどは定かではありませんが、一説には亀山社中の運営に一時期関わった人物ともいわれています。中島川にかかる大井手橋あたりで襲撃にあい亡くなったという二宮又兵衛。小さなお墓のそばには、その死を悼んだ同郷の児島惟謙(こじまいけん/明治期の司法官。大津事件で司法権の独立を守った)が建立した碑がありました。 さて、龍馬ブームに沸く長崎。知人から、「最近、長崎の市街地に新しい観光のモニュメントが4カ所もできたらしいわよ」という話を聞きました。その内3カ所は龍馬にまつわるものだとか。さっそく行ってきました。 一つめは、日本初の営業写真館、「上野撮影局」で撮影された龍馬の写真と同じポーズで記念撮影ができるモニュメントです。同撮影局あった長崎市伊勢町の川筋の一角に、当時の写真機と肘置き台が再現されていました。中島川の上流の阿弥陀橋から徒歩2分の場所にあります。 二つめは、蒸気船「夕顔丸」のモニュメント。慶応3年(1967)に土佐藩がイギリス商人から購入した船です。龍馬は、瀬戸内海航行中、この船内で後藤象二郎に「船中八策」を提案したといわれています。モニュメントは、かつて土佐商会が置かれた、浜町アーケード入り口にあります。 三つ目は、「お龍さんと月琴」の像。龍馬との新婚旅行とあと、半年ほど長崎に滞在したお龍さんは、龍馬の同志、小曽根英四郎の家に身を寄せていました。小曽根家の当主、乾堂は長崎を代表する文人で、中国由来の楽器「月琴」を嗜んでいたとか。異国情緒あふれるその音色にひかれたのか、お龍さんも月琴の練習に励んだそうです。モニュメントは、小曽根邸跡の碑(長崎市興善町長崎地方法務局前)のそばにあります。 四つ目は、近代活版印刷の創始者、本木昌造にちなんだもので、当時の鉛製の活字を用いてデザインされたモダンなモニュメントです。「お龍さんと月琴」の像と同じ興善町(消防局裏)にあります。もともとオランダ通詞だった本木昌造は、幕末から明治にかけて製鉄所の主任も勤め、土佐商会があったすぐ近くに日本初の鉄橋をかけています。龍馬との接点は特にないようですが、長崎でのニアミスはあったかもしれません。

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