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  • 第398号【南蛮渡来の武士の内職】

     3月に入り雨の日が多い九州地方。菜の花が咲きはじめる頃の長雨だから、菜種梅雨(なたねづゆ)と言われます。東北地方の天気予報を見るとまだ雪のマークがちらほら。でも、じきに春は北上。温かな日差しを浴びる日ももうすぐです。  今回は南蛮貿易時代に長崎に伝えられ、その後、武士の内職となったある技術をご紹介します。それは「莫大小」というものなのですが、この漢字、何と読めばいいのでしょう。「ボダイショウ?」イエ、イエ。ヒント1、毛糸を使う手工芸。ヒント2、ポルトガル語のmeias、またはスペイン語のmediasが語源といわれ、その発音に漢字を当てて「目利安」「女里弥寿」などと表記されました。そうです。答えは「メリヤス」。  「莫大小」とは、「大も小も莫(な)い」という意味です。毛糸を複数の細い棒を使って編み上げる「メリヤス」は、それまで日本にあった麻や木綿織りの布地と比べ伸縮性が高く、身に付ける人やものの大小を問わず合わせることができました。そこから「莫大小」という表意語が生まれたといわれています。  前述のmeias、mediasは、「靴下」を意味しました。当然ながら長崎に伝えられた当初の「メリヤス」も編んでつくる靴下のことでした。江戸時代の長崎の景観、風俗、工芸など写生風に描いたものを集めた「長崎古今集覧名勝図絵」のなかにも、「メリヤス」の項目があり、編み物をしている女性が描かれています。縁側そばで日中の明かりをとりながら編む姿、かたわらでネコがくつろぐ様子など、いまも変わらぬ編み物のシーンがそこにありました。  南蛮渡来の技法を教わり長崎の女性らが編んだ「メリヤス」は、江戸時代中期以降になると、内職として武士の間に広がり、家計を助けました。「目利安」「女里弥寿」が、「莫大小」と表記されるようになったは、この頃だといわれています。武士たちが、3本の鉄串を使い絹糸や綿糸で編みあげていたのは、靴下、肘おおい、手袋、鍔袋(つばぶくろ)、じゅばん、股ひきなど。この内職で知られたのは、松前藩や仙台藩竜ケ崎など。さらに徳川御三卿として知られる田安家、一ツ橋家などでも行われ、メリヤスの名手いわれる武士もいたと伝えられています。  ところで一般に編み物をするのは女性というイメージが強いようですが、たとえばフィッシャーマンニットを代表するアランセーター(アラン島発祥のセーター)などは、漁の合間に男たちも編んだと言われています。また現在も仕事や趣味で編み物をする男性は、意外に多いようです。  手先で同じ動作を繰り返す編み物は、気持ちが落ち着く効果があるといわれています。武士たちは家計のために懸命に編む一方で、ときに無心になり、小さなやすらぎを感じることがあったかもしれません。  ◎参考にした本など/「長崎古今集覧名勝図絵」(註釈/越中哲也、発行/長崎文献社)の「靴下の歴史」(内外編物株式会社)、世界の伝統の編み物図鑑(主婦と生活社)  ◎協力/長崎歴史文化協会、ニットワーク長崎

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  • 第397号【ノスタルジックな赤レンガの風景】

     「長崎ランタンフェスティバル」の期間中、大勢の人出で賑わった新地中華街や唐人屋敷周辺。ランタンの装飾が取り払われたとたん、あの幻想的な雰囲気はまぼろしのように消えてしまいました。また来年が楽しみです。  いつものまちの風景にもどったとはいえ、唐人屋敷(館内町)や隣接する東山手、そして南山手は、やはり独特で個性的なエリアです。石畳の坂道や赤レンガ塀、御堂や洋館など、中国や西洋の文化に影響を受けた時代の名残りがあちらこちらに見られます。そうした景色は初めて長崎を訪れた人でも、なぜかしら郷愁を誘うから不思議。なかでも赤レンガのある風景はノスタルジックです。  唐人屋敷から東山手に続く斜面地の住宅街に足を踏み入れると、年期の入った赤レンガ塀の通りがあります(ピエル・ロチ寓居跡近く)。積まれたのはいつ頃でしょうか。年期の入ったレンガ色の眺めは、何の変哲もない生活道を味わい深くしています。  明治期、近代化という大きな時代の流れのなかで、全国に広がったレンガの建造物。いまも各地に当時のものが残されているようですが、長崎市小菅町には日本最古ともいわれる赤レンガ建築があります。修船場のウインチ小屋の外壁で、明治元年につくられたものです。その修船場は、船台がそろばんに似ているところから「そろばんドック」と呼ばれています。   この日本最古の外壁は、幕末にオランダ人技師が伝えた厚さ4センチほどの「こんにゃく煉瓦」です(本コラム393号で紹介。)ちなみにレンガというと赤色と思いがちですが、白レンガと呼ばれるタイプもあります。それは耐火レンガで古い洋館などにいくと暖炉などで見ることができます。  東山手や、南山手のグラバー園そばでも石畳の通りに沿って赤レンガ塀が見られます。当時の職人さんたちが一つひとつ規則的に積んだ赤レンガをよく見ると、積み方に違いがあることがわかります。小口(もっとも面積の小さい面)を手前にして積み上げる「小口積み」、長手(レンガの横側の長い面)だけで積み上げる「長手積み」、小口を並べた段の上に長手を並べる「イギリス積み」、同じ段に小口と長手など幅の違う面が並ぶ「フランス積み」など。この界隈で見かける多くは、「イギリス積み」のよう。なかにはアーティスティックな表情もあって面白いです。  ところで石畳の坂道を上ったり下ったりしていると、道の真ん中で寝そべっている路地ネコたちとよく遭遇します。このあたりのネコたちは、気のせいか毛の長さや色、表情など、どこか異国風が目立ちます。奈良時代(もしくはそれ以前)に日本に渡ってきたといわれる唐ネコの多くは短尾だったそうですが、長崎でも、ボンボンのように丸まった短尾種を多く見かけます。江戸時代に唐船が運んできた唐猫の子孫なのでしょうか。個性的な尻尾を見て回るのも、長崎のまちを散策する楽しみのひとつでもあります。  ◎参考にした本など/赤レンガ近代建築」(佐藤啓子/青幻社)

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  • 第396号【トルコライスをさかのぼる】

     ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ。かつてオスマン帝国として栄えたこの国に親日的な人が多いのは、120年前のエルトゥールル号遭難事件の影響だといわれています。この事件は、明治23年(1890)9月、来日していたオスマン帝国の特使らを乗せた軍艦エルトゥールル号が、帰路、台風で和歌山県串本町の沖で遭難し、乗組員581人が死亡するという大惨事となったもの。そんな中、69人が救出され、地元住民の救護と日本政府の尽力などにより無事生還することができました。このときの日本人の献身的な救護活動に、オスマン帝国の人々は大いに心を動かされたのでした。  それから3年が経った明治26年(1893)。10月21日付けの「時事新報」(福沢諭吉創設の新聞社発行)の晩の献立を紹介するコーナーに、「土耳其(とるこ)めし」の作り方が掲載されました。この料理は、鶏肉(または牛肉)のスープで炊いたごはんにバターを混ぜ合わせた、いわゆるバターライスのことで、現代のわたしたちがピラフ(Pilaf)とも呼ぶものです。ちなみにピラフは、トルコではごく一般的な料理だそうで、「ピラヴ(Pilav)」と呼ばれます。実はこれがピラフの語源なのだそうです。  さて、この「土耳其(とるこ)めし」が、エルトゥールル号遭難事件で救助された乗組員が伝えたかもしれないと想像するのは、飛躍が過ぎるでしょうか。いや、それ以前にヨーロッパ各国を訪ねた当時の政府関係者によって伝えられたかもしれませんが…。そうでなくとも、エルトゥールル号遭難事件を機にトルコと日本の友好の気運が高まっていた時代であることは確かのよう。史実は別にして、歴史の点と点を突拍子もない想像力で結ぶのは楽しいものです。  さて、ここまでのお話は長崎名物「トルコライス」のルーツ探しの途中で出てきたものです。「トルコライス」とは、ピラフ、パスタ(主にナポリタン)、トンカツの三種類がひとつのお皿に盛られた料理で、昭和の時代におおいに流行ったローカルフードです。それにしてもなぜ、「トルコライス」というのか。いわれには諸説あります。地元でよく聞くのは、チャーハン(ここではピラフのこと)は中国。ナポリタンはイタリア、その中間にトルコがあるから「トルコライス」という説。また、ピラフ、パスタ、トンカツの三種類は三色旗を意味する「トリコロール」という言葉にも通じ、転じて「トルコライス」になったなど。  「トルコライス」は長崎のローカルフードとして愛されながら、その作り方が郷土料理の本で紹介されることはほとんどありません。なぜなら、トルコライスは家庭の料理というより、洋食屋さんの料理だから。その店独自の趣向を凝らしたトルコライスがあるのです。  自分で作れば、いろんなバージョンが楽しめるトルコライス。バターライスとナポリタン、そしてトンカツはお肉を薄く伸ばしてサクサクに仕上げたミラノ風に。また、カロリー制限などを無視するならば、オムレツ風カレーピラフ、ペペロンチーノ、そしてトンカツにはカレーソースをかけて、という組み合わせも。けれど、やっぱり街角の洋食屋さんでいただくのがいちばんおいしいようです。   ◎参考にした本など/「福沢諭吉の何にしようか~100年目の晩ごはん[レシピ集]~」、外務省ホームページ「各国・地域情勢」

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  • 第395号【2012長崎ランタンフェスティバル】

     ふくふくと極彩色のぬくもりがまち中を包んでいます。旧正月を祝う「長崎ランタンフェスティバル」がはじまりました。今年は1月23日(月)から2月6(月)までの15日間開催されます。この期間は、中国で「春節(しゅんせつ)」と呼ばれる旧暦1月1日から、元宵節(げんしょうせつ)の1月15日にあたり、中国では大勢の人が正月休みで故郷へ帰省し、新年を祝います。  ランタン(中国提灯)の幻想的な明かりに導かれて歩く冬の長崎。いにしえの中国の偉人や霊獣たちのオブジェが行き先々で出迎えてくれます。何だか中国絵巻の中に迷い込んだような気分に。古くから中国とのゆかりの深い長崎の歴史をあらためて実感します。  毎年、開催前から話題になるのが湊公園(新地中華街となり)に設置される干支の巨大オブジェ(高さ約8メートル)です。今年は3体の龍が「珠(たま)」と戯れる姿がダイナミックに表現されています。平和や希望を象徴するという龍。東日本大震災の復興への願いが込められています。  「長崎ランタンフェスティバル」の舞台となる長崎市中心部には、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場など複数の会場が設けられ、連日夕刻からさまざまな催しが繰り広げられています。昨年から会場のひとつとなった孔子廟では、中国の古い建築様式を堪能できます。孔子廟を訪れたら、ぜひ隣接する中国歴代博物館へも足を運んでみてください。日本ではここでしか見る事ができない貴重な史料の数々が展示されています。  龍踊り、中国獅子舞、中国雑技、二胡の演奏、太極拳など中国色豊かな催しを楽しめる「長崎ランタンフェスティバル」。特にステージを設けた新地中華街会場と中央公園会場には大勢の観客が集まり、真冬の夜とは思えない熱気に包まれています。また、今年から新地中華街の北側の入り口付近を流れる銅座川一帯には桃色のランタンが飾られています。黄色いランタンで彩られる中島川とはまた違った新しい景色です。  中国ゆかりのこのお祭りで毎年感じるのは、人々の幸せを求める思いの強さです。龍や麒麟などの聖獣をはじめ縁結びの神様「月下老人」や民間信仰の「福の神」などのオブジェ、文字を逆さに飾ることで幸せを呼ぶという「逆さ福」、幸福を願って食べる「元宵団子」など、飾るもの、口にするもののあれこれが幸福につながる縁起を担いでいます。ほほえましく、いじらしささえ感じるそうしたものに、どんなときも希望を失わずに生きようとする人間の底力、たくましさを感じて、元気が出ます。   「長崎ランタンフェスティバル」の舞台は、江戸時代に出島や新地周辺に築かれた「長崎」のまちだったところと重なります。当時もいまも、オランダとの貿易以上に、中国との貿易が長崎の人々の暮らしに多大な影響を及ぼしたことをあらためて感じるのでした。

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  • 第394号【初春、諏訪神社と淵神社へ】

     明けましておめでとうございます。長崎市民の総鎮守・諏訪神社の新年は、龍踊りの奉納で幕が開けました。古来、霊獣として知られる龍は、おめでたいことの前兆でもあるとか。長坂をいきおいよく駆け上った龍は、異国情緒あふれる舞を披露。大勢の初詣客に新年のうれしい予感をもたらしてくれました。  今年は稲佐山のふもとにある淵神社(ふちじんじゃ)にも参拝し、久しぶりに長崎ロープウェイに乗車しました。昨年秋、リニューアルしたゴンドラのデザインは、工業デザイナー奥山清行氏によるもので、全面ガラス張り。車内から360度の市街地の眺望を楽しみました。  ところで、長崎ロープウェイのふもと側の駅に隣接する淵神社は、昔ながらの素朴な雰囲気が残る神社です。「何だか落ち着く」と、参拝がてら境内のベンチでほっこりされる方もいらっしゃいます。この神社は長崎ならではの興味深い歴史を数々擁したところでもありました。  江戸時代、出島近くに形成されていた長崎のまちに対し、淵神社はその対岸に位置する浦上村渕(ふち)というところにありました。当時は、「宝珠山・万福寺」(明治維新後、渕神社に改称)と称し、弁財天を勧請したことから稲佐弁天社とも呼ばれました。  現在の神社周辺は埋め立てられ昔の面影はありませんが、江戸時代は海に面した景勝地として知られ、安藤広重の「六十余州名所図会」、また「長崎名勝図絵」にも描かれています。境内にはそれらがパネル展示されており、往時の様子がうかがうことができます。  実は、淵神社にはキリシタンゆかりの歴史があります。万福寺創建は、寛永11年(1634)ですが、それ以前に同地に祀られていた妙見社は、天正年間のキリシタン隆盛の時代にその信徒らによって焼かれたと伝えられています。また、境内の一角に祀られている「桑姫社(くわひめしゃ)」はキリシタン大名として知られる豊後の大友宗麟の二女とも、孫娘ともいわれる姫を祀ったもの。  姫は大友氏が豊臣秀吉に滅亡されたとき、大村公を頼って長崎へ。この地の近くに隠れ住み、桑を植え、蚕を飼い、糸の紡ぎ方を近隣の女性たちに教えたそうです。のちにその徳が讃えられ祀られたといわれています。  掘り起こせば、和洋中が混在するいろんな歴史が出てきそうな淵神社。明治時代には、岩崎弥太郎が三菱の安全祈願のために毎年訪れていたとか。また境内にある宝珠幼稚園は、福山雅治さんが通ったことでも知られています。同神社には万福寺の「福」に由来する「福運御守」がありますが、「福」つながりということもあってか、福山ファンの間で話題になっているそうです。  本殿を裏手にまわると、知る人ぞ知る十二支神社(えとじんじゃ)があります。生まれた干支の守護神で、縁結び、学業成就、安産祈願にご利益があるとか。どうぞ、参拝にお出かけください。   ◎取材協力/淵神社(長崎市淵町8-1)

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  • 第393号【長崎の願掛けスポット】

     きょうは仕事納め。「来年はいい年になりますように」と願いながら職場や家の大掃除にいそしんでいる方も多いことでしょう。一年をふりかえれば、いろいろな思いがこみあげてきます。こうして無事に過ごしていることへの感謝と新しい年への希望。そんな思いを胸に願掛けスポットを巡りました。  シーボルトの鳴滝塾跡のある地域には「高林寺」という小さなお寺があります。ここには長崎でもっとも古いといわれるお地蔵さまが祀られています。観音さまのような優しい表情をしたこのお地蔵さまは、衣が赤く塗られているので「赤地蔵」とも呼ばれています。この赤色は祈願して病気が治ると塗られるそうで、お地蔵さまのパワーが発揮された証しなのでした。  ところで、「高林寺」の入り口付近にはかつて煉瓦造りアーチ型の山門がありました。明治時代のものだったそうですが、いまはその一部と思われる跡があるのみ。使われた煉瓦は長崎で俗に「こんにゃく煉瓦」と呼ばれたタイプのようです。 「こんにゃく煉瓦」は、幕末の安政年間にオランダ人技師ハルデスの指導のもと長崎で焼かれたのがはじまりで、それが日本の一般の建築物に使う赤煉瓦の最初といわれています。4センチほどの薄さが特長で、こんにゃくの形に似ていたこことから、そう呼ばれるようになりました。  煉瓦づくりアーチ型の山門は、大音寺(長崎市鍛冶屋町)の境内でも見られます。こちらは折にふれ修理・修復がなされてきたようできれいなアーチ型を残しています。長崎の郷土史の古老によると、明治時代の長崎では、煉瓦を使った門をつくるのが流行り、それ自体はけして珍しくなかったとか。しかし、時代とともに数が減っていることを思えば、当時の長崎の風物を伝える貴重なものといえるかもしれません。  話を本題にもどしましょう。長崎で初詣の参拝者数がもっとも多い諏訪神社にも、さまざまな悩みをきいてくれる願掛けどころがいくつもあります。そのなかのひとつが、本殿の裏手に祀られている「トゲ抜き狛犬」です。心にトゲのように突き刺さっていることがある方は、この狛犬さんにお願いしてみませんか。  諏訪神社から徒歩5分のところにある松森神社には、願掛けではありませんが、松竹梅の燈籠があります。胴のあたりは松の木肌、上部に竹や梅の花のデザインを組み合わせたおめでた尽くしの燈籠で、思わず手を合わせたくなります。   神社やお寺ではありませんが、観光客を中心に多くの人々の幸せになりたい思いを受け止めたのが眼鏡橋そばの「ハートストーン」です。願掛けされた恋の数だけ、ハートストーンのパワーが増しているような気がしないでもありません。  昔もいまも絆を求め、幸福を願うわたしたち。『幸福は義務である』と語ったのはフランスの哲学者アランでした(『幸福論』)。家族や友人、日々の生活を大切に、きょうも、あしたも、来年も、一歩ずつ前に進んでいきたいものです。  ◎本年も、ご愛読いただきまして誠にありがとうございました。

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  • 第392号【ヒカドに似た全国各地の根菜料理】

     あたたかい汁物が恋しい季節です。たとえば、ちゃんぽん。盛りだくさんの具材や麺のほうに気を取られがちですが、そのスープは野菜や魚介類、お肉などの旨味がたっぷり染み込んだ滋味あふれる味わい。具を食べた後、スープも残さず飲み干せば、身も心もポッカポカになります。  あたたまる長崎の郷土料理といえば、「ヒカド」があります。サツマイモ、ダイコン、ニンジンなどの根菜類と、シイタケ、キクラゲ、煮干し、ブリ、鶏モモ肉などの具材を全部さいの目に切って煮込み、すりおろしたサツマイモでとろみをつけた醤油仕立ての料理です。「ヒカド」という名称は、「物をこまかく切る」を意味するポルトガル語のピカド(picado)が語源で、16世紀に南蛮人から伝えられた料理といわれています。ちなみに具材をさいの目に切ると、食べやすくなるだけでなく、調理の際には火が通りやすくなるのでちょっとした燃料の節約にもつながります。  「ヒカド」によく似た郷土料理が福島にありました。「ざくざく汁」です。ニンジン、ダイコン、ゴボウ、サトイモ、コンニャク、シイタケ、鶏モモ肉、焼き豆腐を主な材料とし、あれば煮干し、豆、大豆なども一緒に煮込みます。こちらはヒカドよりも具だくさん。同じ醤油仕立てですが、とろみを付けないすまし汁です。使う材料も「ヒカド」に似ていて、その切り方も一口大のさいの目切り(乱切りやいちょう切りするところもある)なので、お椀に盛ったときの姿はヒカドのようでもあります。  「ざくざく」という名の由来は、材料をざくざくと切るからとか、黄金がざくざく貯まるようになど縁起を担いだ説もあるようです。ちなみにこの料理は汁物と煮物の間のような料理なので「ざく煮」「ざくざく煮」とも呼ばれています。また同じ福島でも奥会津あたりではクルミを煮汁で溶いたものを加えることもあるとか。お国柄が忍ばれます。  ヒカドに似た実だくさんの郷土料理は、全国各地にまだまだたくさんあります。青森県の郷土料理「粥の汁(けのしる)」もそうです。特に津軽地方では冬の料理として親しまれている料理で、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、ワラビ、フキ、コンニャク、凍み豆腐、油揚げなどをさいの目に切り、イワシのだしで煮たます。仕上げに青大豆をすって入れたり、山菜を使うところに土地柄が感じられます。こちらは味噌仕立てですが、さいの目に切った多種類の具材をお椀に盛った様子はやっぱり「ヒカド」似なのです。  このほか、高知の「ぐる煮」、鳥取の「こにもの」なども具材がさいの目に切られているので、見た目が「ヒカド」にそっくりです。だからと言って、こうした料理の発祥が「ヒカド」というわけではないはず。でも、もしかしたら、江戸時代などに長崎から伝わったものもひとつくらいはあるかもしれません。また、さいの目にこだわらなければ、おなじみのけんちん汁、さつま汁、のっぺい汁も仲間と言えるでしょう。  全国津々浦々に伝わる具沢山の根菜類料理。そのルーツをたどると、収穫の祭りやお正月などの行事食だったというものも少なくありません。あなたのお住まいの地域ではどのような料理が食べ継がれていますか。  ◎参考にした本/日本料理由来事典(同朋舎)、聞き書きふるさとの家庭料理(農文協)

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  • 第391号【秋の植物を見て歩く】

     11月の長崎は、修学旅行シーズン。この時期の密かな楽しみは、電車や街角ですれちがう修学旅行生たちの制服です。最近の制服はデザインや色あいなど、ずいぶんお洒落になりました。制服から、校風やお国柄も伝わってくるような気がします。こんな楽しみがあるのも観光地ならではなのでしょう。  さて、木々が色づく秋は植物観察が楽しい季節でもあります。かわいいドングリを見つけたり、石垣を這う植物が絵画のように見えたりなど、何かと発見があります。修学旅行生が必ず訪れる浦上地区(原爆資料館や平和公園、永井隆記念館などがある)へ足を運ぶと、街路樹のナンキンハゼが赤や黄色に染まりはじめていました。ナンキンハゼは中国原産の落葉樹。江戸時代に長崎に渡来したといわれ、1975年に「ながさきの木」に指定されています。今年は11月に入っても温かい日が続いたせいか、紅葉が遅れ気味のようです。  「永井隆記念館」では、永井隆博士が晩年を過ごした小さな木造家屋「如己堂(にょこどう)」の脇に植えられた植物が目を引きました。長くて広さもある葉が特長の「芭蕉」です。戦後まもなく如己堂が造られましたが、それ以前から今の場所に植えられていたと聞いたことがあります。いまでは高さ3メートル近くまで成長しています。「芭蕉」は、中国原産の植物で、日本にはかなり古い時代に渡来。また、松尾芭蕉の名の由来となった植物としても知られています。秋も末頃になると「破芭蕉(やればしょう)」といって、葉が枯れて葉脈に沿って破れてくるのですが、まだ青々と繁っていました。  浦上天主堂のたもとでは、芙蓉(ふよう)が満開でした。芙蓉は、朝咲いて夕方にはしぼむ「一日花」で、この時期、毎日新しい花を咲かせます。浦上天主堂の芙蓉は1本の木に白とピンクの両方の花が咲いていました。はじめに白く咲いて、時間が経つにつれてピンク色に変わるタイプのようです。  浦上地区界隈を流れる浦上川沿いを行くと、四方に大きく枝を広げた樹木がありました。「センダン」というアジア各地に自生する落葉高木です。春には青葉、初夏にはうす紫色の小さな花をつけ、現在は小さな黄色の実をたくさん付けていました。もう少し秋が深まると葉が落ちてしまいます。季節ごとの変化がよくわかるこの木は、ご近所の方々に大切にされているようでした。   さらに上流に向かって歩いていたら、「チッツー」という鳴き声がしました。川面に目をやると、カワセミの姿が…。しかも2羽。「渓流の宝石」と異名を持つこの野鳥はご存知の通り、青緑色をした小鳥です。何だか得した気分になりながら、このあと、写真に撮ろうと再びカワセミを探したり、マガモを追いかけたりして、もうヘトヘトに。のんびり楽しむはずの散策が、いつしか足が棒になるほど歩き回ってしまい、翌日は筋肉痛でイタイ思いをしたのでした。

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  • 第390号【サツマイモを使った伝統食】

     11月の五島列島は、特産品であるかんころもちの主原料「干しイモ(ゆで干しかんころ)」作りの最盛期です。島の畑で収穫したサツマイモの皮をむき、スライスして茹で、数日、天日で乾燥させたものが「干しイモ」です。干されることで甘みが増し、この段階で、すでにおいしいおやつになります。この後もち米と一緒に蒸し、つきあげてかんころもちにします。  五島列島のかんころもちに代表されるように、長崎県はサツマイモを原料にした郷土料理が多彩です。その種類は九州のなかでも特に多いとか。幅広く奥深いサツマイモの世界。今回も「長崎」という窓からのぞいてみました。  カンショ、唐イモ、琉球イモのほか、八ちゃん(島原など)、孝行イモ(対馬)などいろいろな呼び名で親しまれているサツマイモ。やせた土地にも育つ栄養豊富なこのおイモは、江戸時代の飢饉にも、戦中・戦後の食料難の時代にも大きな役割を果たしてきました。現在、世界での生産量は約1億2700万トン(2002年のデータ)。これは、大豆やトマトに次ぐ7番目くらいの多さだとか。世界三大穀物(小麦、米、トウモロコシ)には含まれないものの、堂々たる生産量です。  サツマイモの原産は中央アメリカ。15世紀の終わり頃、コロンブスがヨーロッパへ持ち帰り、日本へは17世紀初め頃に伝えられたといわれています。その経緯は、東南アジアから鹿児島へ、または沖縄(琉球)から平戸へ入ったなど諸説ありますが、いずれにしても九州はサツマイモ栽培の先進地でした。  戦中・戦後に子供時代を過ごした方々によるとサツマイモは主食のほか、「イモ水飴」、「イモ飴」、「イモかりんとう」などのおやつにして食べていたとか。また、正月もちの残りなどを、茹でたサツマイモの中に入れて熱々の状態で練り上げていただく「びょうたれ」(諫早)、米粉の団子とかんころの粉で作った団子を交互に串にさした「かべかべ団子」(五島)、さつまいもにそば粉を加え練ったものに、きな粉をかけていただく「かまほぐり」、蒸したさつまいもに小麦粉または米粉を加えてつくる「どんだへもち」(島原)、さつまいもを発酵させてつくる保存食の「せん」(対馬)など、創意工夫の伝統食が県下各地に残っています。  なかでも島原地方の「ろくべえ」は個性的な料理のひとつかもしれません。サツマイモ粉とすったヤマイモでこねた麺を、カツオ節やイリコ、アゴなどのダシで作ったすまし汁でいただく料理で、黒っぽい麺が特長です。天保の大飢饉のとき、島原の名主の六兵衛さんという人が考案した料理だと伝えられています。また、対馬にも「ろくべえ」があります。前述の「せん」を柔らかくこねなおしてつくる麺は、島原のものより弾力があるともいわれています。季節の貝類や干し椎茸のダシで作ったすまし汁でいただきます。  各地に受け継がれるサツマイモを使った料理。それは、かつての厳しい生活環境を生き抜くために培われた、知恵の味でもありました。  ◎参考にした本/「九州・沖縄 食文化の十字路」(豊田謙二/築地書館)、「聞き書 長崎の食事」(月川雅夫ほか編/農山漁村文化協会)

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  • 第389号【世知原へ(お茶、炭鉱、石橋群)】

     味にうるさい地元長崎の友人が、「おいしい日本茶を見つけたわよ」というので聞いてみると、「世知原(せちばる)のお茶よ。味や香りがすごくいい」。彼女は午前中の家事を終えたあと、そのお茶で一息つくのが楽しみなのだとか。この話題がきっかけで、まだ一度も足を運んだことのなかった世知原を訪ねることにしました。  長崎県北部の佐賀県との県境に位置する佐世保市世知原町は、海に囲まれた長崎県の中では数少ない、四方を山に囲まれたのどかな山間地域です。お茶の栽培に適したやや涼しい気温と霧の発生する高冷地に恵まれています。世知原町郷土史によると、この地域では古くから自生するお茶を自家用につくって飲んでいたとか。明治期に静岡式の製茶法を学んだことをきっかけに、本格的に茶業が発展したそうです。長崎県内では、かねてより銘茶の産地のひとつとして知られ、その品質の高さには定評があります。新茶の季節になると「じげもん市」が開催され、新茶を求める大勢の人々で賑わっています。  お茶のまちの世知原ですが、大正から昭和40年代半ばまで、炭鉱で栄えたまちのひとつでもありました。最盛期人口は約13,000人を越え、現在の3倍以上の人が暮らしていたそうです。現在、世知原行政センターがあるまちの中心部を歩けば、昭和の時代の木造の店舗が建ち並んでいます。しかし、いくつもの商店がずいぶん前にお店を閉じてしまった様子。掲げられたままの看板を見ると「雑貨」とか「○○百貨店」といった文字が目立ちます。生活雑貨を売るお店がたくさんあったようです。商店街の近くにはかつて松浦炭鉱事務所として建造された石造り洋風建築物(県有形文化財)も残されていました。現在、世知原炭鉱資料館として利用されています。  往時の繁栄を思うと少し寂しい感じもしましたが、周囲の自然は美しく、出合う人々は穏やかで優しい感じの人ばかり。最近では、世知原町のシンボルである国見山(777m)の眺めを楽しみながら温泉を満喫できる国民宿舎「世知原温泉くにみの湯・山暖簾(やまのれん)」が人気です。このお宿は、故・黒川紀章氏がプロデュースしたもので、周囲の自然に溶け込んだモダンな外観が素敵でした。  また、注目を集めつつあるのは、「石橋群めぐり」です。世知原町には、倉渕橋、山口橋、尾崎橋など、まちのほぼ中心を流れる佐々川やその支流に16基もの石橋が点在しています。明治、大正、昭和初期に造られたといわれていますが、建造された時期が定かでないものもあります。石橋のほとんどが一連のアーチ式造り。農道として、炭鉱住宅の通路として建造されたようです。それにしても、なぜ、この地域にこんなにたくさんの石橋があるのでしょうか。江戸時代にはその建築法は伝わっていたともいわれていますが、詳細はわからないそうです。  石橋を散策すると見えて来る、世知原ならではの歴史と風土。まだまだ観光化されていない風景が残る魅力的なところでした。        ◎参考にした本/世知原町郷土史ほか

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  • 第388号【催しいろいろの秋】

     さわやかな晴天が続くこの季節。あちらこちらでさまざまな催しが行われています。土日はもちろん、平日もお出かけの予定がギッシリつまっているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。ときには行きたい催しの日時が重なって、どちらかを諦めなければならなかったり、予定を入れ過ぎて体調を崩してしまったりすることもあります。無理のないようにお楽しみください。  今回は、県外の方にはまだあまり知られていない長崎の秋(9月・10月)の催しをいくつかご紹介します。既に今年の催しとしては終了しておりますが、来年の秋にぜひ、お越しいただければと思います。 ひとつめは、長崎新地中華街を舞台に行われる「中秋節」です。毎年、旧暦8月15日の「十五夜」までの5日間開催されます(今年は9/8~12)。「中秋節」は、中国では三大節句のひとつとされる大切な歳事で、家族や友人が集い、「月餅(げっぺい)」(中国の焼き菓子)を食べながら月見を楽しむのだそうです。日本では「中秋の名月」と称して満月を愛でながらお団子を食べる風習がありますが、これはもともと中国から伝わったものだったのです。  「中秋節」の期間中、長崎新地中華街はお月さまに見立てた黄色いランタンで彩られます。冬に開催される「長崎ランタンフェスティバル」では朱色のランタンで街中が埋めつくされますが、それとはまた違う趣きです。秋の夜の心地よい風に揺れる黄色いランタンはとてもロマンチック。中国獅子舞や龍踊りなども登場してとても賑やかです。  9月中旬の土日には、長崎市の南山手地区、東山手地区で「長崎居留地まつり」(今年は9/17・18)が開催されます。オランダ坂、グラバー園など幕末~明治の居留地時代の歴史的遺産を存分に味わい楽しめるさまざまなイベントが行われています。また、東山手地区にある「孔子廟」では9月の最終土曜日に孔子の生誕を祝う「孔子祭」が行われます。祭りに登場する人々の衣装からお供え物まで、まるで中国の歴史絵巻を見るような豪華絢爛な祭礼です。  最後にご紹介するのは、「長崎郷土芸能大会」です。今年36回目を迎えたたいへんローカルな催しです。毎年10月初旬に長崎市民会館または長崎市公会堂前広場などで行われています。この大会は長崎市内各地に伝わる民俗芸能を披露するもので、輪番で数カ所の地域が一堂に会します。今年は、長崎くんちに欠かせない「長崎しゃぎり」、江戸時代中期から伝えられる長崎半島の「樺島ハイヤ節」、鍋藩諫早領の矢上平野村に伝えられた「矢上平野浮立」などがお目見え。担いだり、踊ったり、奏でたりと、個性的な伝統芸能の数々を大勢の観客が楽しみました。   同じ長崎でありながら、ひと山、ひと浦土地が変わるだけで、風土や人々の暮らしも微妙に変わり、まったく違った郷土芸能が生まれ育まれてきたことがわかります。それらは、素朴、華麗、勇壮、そしてときに奇抜で摩訶不思議なものまであって、実に多種多彩。昔の人の感性やユーモア精神まで伝わってくるようです。こうした民俗芸能には規模の大小を問わず、地域の、日本の、心がつまっているような気がします。あなたのお住まいの地域にもきっとある民俗芸能。この秋、訪ねてみませんか。

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  • 第387号【平成23年長崎くんち情報】

     コオロギやスズムシたちの声が涼やかに響く夜。暑かった夏のことなどすっかり忘れてしまいます。そろそろ秋祭りシーズンもはじまったようで、新聞やテレビニュースなどで各地の祭りの様子が伝えられています。ここ長崎でももうすぐ370余年の伝統を持つ「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)がはじまります。  「長崎くんち」は長崎市民の総鎮守である諏訪神社の秋の大祭です。毎年10月7・8・9日の3日間にわたって多彩な演し物(奉納踊り)が繰り広げられます。演し物は、「踊り町」と呼ばれるまちの人々によって奉納されます。「踊り町」は現在全部で40数カ町(江戸時代はもっと多かった)。そのうちだいたい5~7カ町が7年に1回当番になって、それぞれのまちに伝わる演し物を披露します。  今年の「踊り町」は、紺屋町(こうやまち)、出島町(でじままち)、東古川町(ひがしふるかわまち)、小川町(こがわまち)、本古川町(もとふるかわまち)、大黒町(だいこくまち)樺島町(かばしままち)の6カ町です。本番まで1カ月を切った9月下旬ともなれば、どのまちも総仕上げの段階です。各踊り町の練習場へ足を運んでみると、本番さながらの緊張感が漂っていました。  演し物をご紹介します。紺屋町は、眼鏡橋がかかる中島川沿いにあり、江戸時代には唐船が運んで来る白糸や染料で染め物業を営む人が多かったことにちなんだ町名です。当時、同川沿いには本紺屋町、中紺屋町、今紺屋町と3つの町があり、異国風の染め物で「トウジンクウヤ」と称されるほど繁盛していたとか。現在の紺屋町は、江戸時代に隣接していた中紺屋町、今紺屋町を中心に戦後、編成されたものです。奉納される「本踊り」は、江戸時代の染め物職人の暮らしぶりを再現。見どころのひとつは、白く長い布を使った舞い。かつて中島川で行われた布さらしを表現したものだそうです。  出島町は、文字通りかつてオランダとの貿易の窓口だった出島があったことにちなんだ町名です。華やかで重厚感のある阿蘭陀船を中心に、西洋と東洋が出合うドラマチックなストーリー展開で観客を魅了します。阿蘭陀船は通常の曵き回し以外に、「オルゴール回し」と呼ばれる超スローな曵き回しが見どころのひとつです。12人もの子供たちが囃子方として乗船。シンバル、ドラム、そしてベルリラという鉄琴などを使って、無国籍風の音楽や長崎の昔歌を奏でます。はるばる海を渡ってやってくる阿蘭陀船の光景や東洋と西洋が入り交じるイメージと重なる音楽です。  東古川町の演し物は「川船」です。男衆が舟歌をうたう中、子供の船頭が網を打つシーンは、このまちならではの演出です。小川町は華やかでコミカルな動きが魅力の「唐子獅子踊り」。本古川町は豪快な曵き回しが見逃せない「御座船」、大黒町は豪華絢爛な「唐人船」、樺島町は今年唯一の担ぎもので、エネルギッシュで粋な「太鼓山(コッコデショ)」です。「長崎くんち」は、ぜひ、映像ではなく生でご覧下さい。370余年も受け継がれて来た理由と魅力がわかります。   ◎参考にした資料/平成23年版の長崎くんちプログラム(通称:赤本)

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  • 第386号【長崎ゆかりのイチジク】

     先日の台風12号は大きな爪痕を残しました。被害にあわれた皆様に心よりお見舞い申し上げます。台風シーズンはもうしばらく続きます。それぞれのご家庭で、防災の備えをあらためて確認してみませんか。  さて、日中は残暑が厳しいものの、朝夕に心地よい秋風を感じるようになりました。店頭ではナシやブドウなど旬のくだものがおいしそうに並んでいます。そのなかに赤ワイン色に熟したイチジクの姿を見つけました。  イチジク(クワ科の落葉小高木)の原産はアラビア半島。紀元前3000年頃にはすでに栽培されていたといわれ、聖書ではアダムとイブがイチジクの葉を身に付けたことでも知られています。かなり古くから人間と関わりがあったイチジクですが、日本へ持ち込まれたのは寛永年間の頃(1621~1643)。西南アジアからオランダ船によって長崎に運ばれたのが最初なのだそうです。  ところで、イチジクは「無花果」と書きますが、けして花が無いわけではありません。実の内側にたくさんの花を付け、外側から見えないところから、そう名付けられたようです。あの内側につまった赤いツブツブが実は花だったのですね。 それにしても、中国名の「無花果」と書いて、なぜ「イチジク」と呼ぶのか気になるところです。一説には、一カ月かけて熟すところから「一熟」と呼ばれ、その読みを漢字に当てたのではないかといわれています。また、イチジクは「南蛮柿」、「唐柿」などとも呼ばれるそうで、もしかしたらオランダ船だけでなく、唐船も運んで来ていたのかもしれません。  「不老長寿のくだもの」といわれるほど栄養価が高く薬効もあるイチジク。葉や実は、日本に渡ってきたときから薬として用いられていました。たとえば、便秘をはじめ喉の痛みなどの炎症を抑えるなどの効果があり、お酒を飲んだあとに食べると二日酔いの予防にもなるそうです。いまは乾燥させたものが一年中手に入りますが、生のものは日持ちがしないので、多めに手に入ったらジャムにするといいかもしれません。  ところで「不老長寿のくだもの」というと、「ザクロ」もそうです。実の内側にたくさんつまった種子の様子はイチジクにも少し似ています。独特の酸味と甘味がある、ちょっと高価な果実です。長崎くんちの踊り町が10月3日に行う「庭見世」の際、縁起のよい秋の味覚のひとつとして豪華に飾られます。ザクロを使ったナマスもくんち料理のひとつとして親しまれています。  長崎ゆかりのイチジク、そしてザクロ。旬のおいしさを味わってみませんか。   ◎参考にした資料/「生活情報シリーズ⑨くだものの知識」(国際出版研究所 発行)、「からだによく効く食べ物事典」(三浦理代 監修)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社 編) 

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  • 第385号【長崎の洋風建築を見て歩く】

     カーンと晴れた夏空のもと、冷たい麦茶を入れた水筒を片手に、南山手、東山手、大浦地区へ行ってきました。そう、ここは幕末~明治期に外国人居留地として造成されたところ。長崎港を見下ろす丘陵地から海岸にかけて位置し、数々の洋風の建物や石畳、レンガ塀など、居留地時代の佇まいが残り、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも定められています  安政の開国後、自由貿易港として大いに繁栄した長崎。居留地を中心に洋風の建物がどんどん建てられ、明治時代になるとその数は数百棟に及んだとも言われています。しかし、現在この一帯で確認できる洋風の建物は約50棟(「長崎居留地~東山手・南山手重要伝統的建造物群保存マップ~」)。戦後しばらくは、いまよりも残っていたようですが、老朽化や新しいまちづくりなどのために次々に取り壊されていきました。  現在、東山手には活水学院本館、7棟の洋風住宅群、旧英国領事館などの建物があります。南山手にはグラバー邸など複数の洋風住宅を擁したグラバー園があり、大浦天主堂や複数の私邸なども残っています。かなり減ったとはいえ、長崎は函館、横浜、神戸と比べて数は多く、比較的良好な状態で残っているそうです。  ひとくちに洋風の建物といっても、木造をはじめ、石造り、レンガ造りなどがあり、構造も平屋建て、二階建て、三階建てなどさまざまです。東山手、南山手から下った大浦海岸通りには、明治後期のレンガ造りの建物、「旧長崎英国領事館(国指定重要文化財)」がひっそりと佇んでいます。1908(明治40)に造られたこの建物は、上海の英国技師、ウィリアム・コーワンの設計によるもので、地元大浦町の後藤亀太郎が施工。ヴィクトリアン・ゴシックといわれる様式を基調としたもので重厚な雰囲気が漂っていますが、正面両端に設けられた丸窓は、バッチリと付けまつげを施した女性の目のようで、かわいらしくもあります。  旧長崎英国領事館から徒歩2分。大浦海岸通り沿いには1898年(明治31)完成の「旧長崎税関下り松派出所」(現「長崎市べっ甲工芸館」)があります。こじんまりとした平屋建てで、一見日本家屋のようでもありますが、れっきとしたレンガ造りの洋風建築です。半円アーチを描く出入り口、両端の三角破風(はふ)など、甘くないキリッとした表情が素敵です。 「旧長崎税関下り松派出所」のそばで、ひときわ大きく華やかな表情で建っているのが「旧上海香港銀行長崎支店」(現・旧上海香港銀行長崎支店記念館)です。レンガ造りおよび石造りの三階建て。1904年(明治37)竣工。明治期から昭和初期にかけて活躍した異才の建築家、下田菊次郎が設計した国内唯一の遺構でもあります。正面に見える4本の円柱はコリント式と呼ばれる古代ギリシャ建築の建築様式のひとつで、同じ様式のローマのパンテオンを彷彿させます。  明治期に建造された洋風の建物を見ていると、近代化に突き進んだ時代の勢いと同時に、建築に携わった日本の大工さんたちの心意気を感じます。そうした時代のしずくとしてかろうじて残った洋風の建物たち。何度でも足を運びたくなる魅力にあふれていました。  ◎参考にした資料/「長崎の洋風建築」山口光臣著(長崎市教育委員会)、「長崎居留地~東山手・南山手重要伝統的建造物群保存マップ~」(長崎市教育委員会) 

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  • 第384号【狛犬いろいろ】

     気象台から発表された3カ月予報によると、今月の気温は平年並みですが、9月、10月の気温は平年より高めで、残暑はとても厳しくなりそうだとか。バランスのとれた食事で夏バテ防止を心がけたいものです。いま、はまっているのがいつものちゃんぽんに、白菜キムチをたっぷりトッピングして食べること。白菜キムチの辛味、酸味がちゃんぽんスープに溶け込むと、これまた美味。野菜もたっぷりとれ、気持ちのいいほど汗も出てスカッとします。  さて、この季節、夏祭りやご先祖様の供養などで神社やお寺へ出かける方も多いと思いますが、今回はそんな場所で見かける狛犬の話です。狛犬のルーツは古代インドで、百獣の王であるライオンを模した像を仏さまの守護としてその両脇に置いたのがはじまりだと一説にはいわれています。エジプトのスフィンクスも源流に近いらしく、その姿を微妙に変化させながら世界各地に伝わっていったそうです。  日本へは、中国のいわゆる「唐獅子」が仏教とともに朝鮮半島を経て伝来し、「狛犬」に変化したといわれています。現在では全国各地で見られ、けして珍しくはない狛犬ですが、よく見ると姿はいろいろで、なかにはさまざまな願い事をかなえてくれる霊験あらたかなものもいます。長崎でそんな狛犬の宝庫(!?)とも言えるのが、長崎市民の総鎮守として親しまれている諏訪神社(長崎市上西山町)です。  敷地内をぶらりと散策しただけで8つの狛犬(一対でないものも含む)を確認できました。禁酒禁煙や受験のすべり止めなどを祈願する「止め事成就の狛犬」心に突き刺さっているトゲを抜いてくれるという「トゲ抜き狛犬」などなど。また、カッパの姿をしたものや後ろ足だけ、前足だけで立つ狛犬など、石工さんのユーモア精神を感じられるものもあります。  諏訪神社の参道の途中には大きな狛犬もいます。それは、頭髪もしっぽもクリクリとした大ぶりの巻き毛で、西洋風でもありまた「唐獅子」のようにも見える狛犬です。実は明らかに狛犬ではなく、「唐獅子」を山門の両脇に置いているのが、唐寺のひとつ「崇福寺」(長崎市鍛冶屋町)です。  向かって右側は子供の獅子を抱いたメスの唐獅子、左側は毬と戯れるオスと思われる唐獅子です。いずれも中国獅子舞のような動きのある姿です。また同じ唐寺でも、「聖福寺」(長崎市玉園町)の参道の途中に祀られていたものは小ぶりの狛犬で、しっぽが極端に大きいユニークな姿が特長です。お顔もどこかかわいらしく、アニメのキャラクターのようでもあります。    「八坂神社」(長崎市鍛冶屋町)には、参拝者にお顔を撫でられ過ぎて、人の顔みたいになってしまったという狛犬や、思わず抱き上げたくなるようなコロコロとしてかわいい狛犬も見られます。さてさて、あなたのお近くのお寺や神社には、どんな狛犬が住んでいますか。

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