ブログ

  • 第428号【幕末・明治期の長崎~草野丈吉ほか~】

     こんにちは!長崎はいま、紫陽花の季節。長崎市の花ということもあり、まちのいたるところに咲いています。この時期、紫陽花ほどではありませんが、長崎の家々の庭先でよく見かけるのがザクロの花です。6月1日の「小屋入り」(長崎くんちの今年の踊町が諏訪神社、八坂神社で無事達成を祈願し、稽古に入る日のこと)の頃に咲きはじめる橙色をした小ぶりの花で、秋のくんちの頃に実を付けます。その実はくんちのときの装飾やくんち料理のひとつ「ザクロなます」に使います。地元ではザクロの花が咲くと、秋のくんちへの期待感が密かに高まるという人も少なくないよう。ザクロもまた長崎の歳時記を彩る植物のひとつなのでした。  秋の大祭・長崎くんちを行う諏訪神社。江戸時代は、近くに長崎奉行所もあり、参道下の隣接する界隈は要人らが行き交ったところでもあります。幕末から明治にかけては、長崎港に面した居留地とともに、にわかに欧米化していく時代の影響を大きく受けたところのひとつといえるかもしれません。  日本初の商業写真家、上野彦馬が1862年(文久2)に開いた「上野撮影局」もこの界隈を流れる中島川沿いの一角にありました。彦馬は、龍馬など当時長崎を訪れた幕末の志士らの写真を撮ったことでも知られています。この撮影局から10分ほど歩いて南側の高台に登ったところに、亀山社中の跡(長崎市伊良林)があります。  新時代を画策する若者たちが、日々往来したこの界隈。亀山社中が結成される2年前の1863年(文久3年)には、草野丈吉なる人物が、伊良林の若宮神社そばに日本初の西洋料理店「良林亭」を開店しています。  草野丈吉は伊良林の農家の生まれ。利発でまじめな人物だったそうで、若い頃、出島に出入りする商人の使用人として雇われると、その働きぶりが認められ、オランダ公使の使用人となり、その後、オランダ船の調理師見習いになって西洋料理人としての腕を磨いたそうです。  丈吉が開いた「良林亭」は、自らの生家でわらぶきの家。六畳一間の部屋で客は6人までとし、料金は現在でいうと1万3千円ほど。要人など良い客筋に恵まれ、おおいに繁盛したとか。その後、店を諏訪神社近くの平坦地に移し、「自由亭」と改称。そのときに建てた洋風建築は、現在グラバー園内に移築されています。  まもなく丈吉は店の客で交流のあった薩摩藩の五代友厚の助言もあって、明治元年に大阪にも進出し、洋食屋を開業。ちょうどその頃は、大阪遷都論が唱えられた頃で、長崎から大勢の政財界関係者が大阪に移ったといわれる時期と重なります。丈吉は、五代などとのつながりもあってか、大阪の居留地に外国人止宿所ができたとき、その司長に任命されたり、政府の要人が出席する大阪・神戸間の鉄道開通式の宴会を担当するなどしています。また、明治14年には、中之島に進出しホテル兼西洋料理店を開き、さらには京都にも支店を出すなど活躍しました。  丈吉は明治19年、47才の若さで亡くなっています。江戸時代の身分制度の気風が残るなか、一料理人の名が表に出ることはあまりなかったようで、史料も少なく、あいまいな点も多いのですが、丈吉は関西のホテル業界の創始期に刻まれる重要な業績を残したようです。  ●参考/『明治西洋料理起源』(南坊洋/岩波書店)、『近代日本食文化年表』(小菅桂子/雄山閣)、京都ホテルグループ公式ウェヴサイト「京都ホテル100年ものがたり」、みろくやHP「長崎の食文化/長崎開港物語」

    もっと読む
  • 第427号【家庭で焼くカステラ】

     長崎のまちを歩いていると、修学旅行生らしき中高生のグループによく出会います。先日、路面電車内で遭遇した女子高生たちは、お昼にちゃんぽん、皿うどんを食べたそうで、その腕にはカステラ入りの紙袋を下げていました。スマホ時代の若者も、長崎の旅の定番は固定電話時代とまったく変わっておりません。よくよく振り返ってみればカステラは、星々と羅針盤を頼りに海を渡った大航海時代に日本に伝わって以来、GPSで誰もが手軽に地球上での位置を確認できる現代まで、ずっと長崎名物として食べ継がれてきました。本当にすごいことだなあと思います。  現在、長崎では、冠婚葬祭をはじめ、ちょっとしたお礼や手土産など、日常的にカステラをさしあげたり、いただいたりすることが多いのですが、戦後から東京オリンピック(1964年)の頃までは、そうした機会は今よりもうんと少なく、自家用に買うなんて、とても贅沢なことでした。  長崎に生まれ育った熟年世代の女性たちに聞いてみると、子どもの頃、母親が焼いてくれたとか、自分自身も家族のためにカステラを手作りしたことがあるという方がけっこういらっしゃいます。それは、卵の風味が強くて、何となく食パンのような口当たり。当時の自家用カステラは、生地を膨らますのに本来のカステラでは使わないイーストを使うことがあったそうです。もちろん、見た目も味もお店のものにはかないませんが、それなりにおいしく、焼いているときのあの甘い香りは忘れることができない、という方もいました。  卵、砂糖、小麦粉、ザラメ、水飴を使って作るカステラは、甘くてもっちり、しっとりとしています。カステラが長く愛されているのは、この材料のシンプルさにあるような気がします。カステラの老舗では、そこに材料を見極める目や技など、長い年月によって磨かれたものが加わるわけです。  自分で焼くカステラは、同じ材料を使っても作るたびに見た目や食感が微妙に変わります。気温や湿度に加え、卵の泡立て加減や材料の混ぜ方に、出来具合が大きく左右されるよう。本当にデリケートなお菓子です。  各材料の分量は、他のレシピサイトにゆずるとして、諸先輩方から聞いた作るときのポイントは、卵白の泡立て加減だそうで、泡をもちあげたときツノが出きるくらい泡立てます。すると生地がふんわりするそうです。また、生地を焼き型に流し込んだ後、表面にできた空気の泡をヘラで切るように消していく「泡切り」という作業も重要です。表面が均一に焼き上がります。   自分で手作りするカステラは、何だかほのぼのとした味。市販のバニラアイスをはさめばカステラアイス、生地であんこを巻けばカス巻きになり、バリエーションも楽しめます。…でも、やっぱり、買ったほうが早くて、おいしい…ですね。

    もっと読む
  • 第426号【長崎開港時のお殿さま、長崎甚左衛門】

     仙台でようやく桜が見頃を迎えた先週、長崎では早くも庭木のサクランボや青梅がたわわに実っていました。風に運ばれてくるのは、新緑や花々の甘い匂い。まちへ出て、ぶらぶらと歴史散策するのにはもってこいの季節です。  緑に包まれた諏訪神社に隣接する長崎公園に出かけると、遠く長崎港を見つめる男性の銅像が目に留りました。胸には十字架を下げています。400年余前、長崎が南蛮貿易港として開港した当時の領主、「長崎純景(すみかげ)」こと、通称「甚左衛門(じんざえもん)」です。  甚左衛門(1548?-1621)は、鎌倉時代以来、長崎を治めていた長崎氏の14代目。その砦は、春徳寺(長崎市夫婦川町)の裏山で、「城の古址」と呼ばれる丘にあり、ふもとに館を構えていました(現在の桜馬場中学校あたり)。当時、館の周囲には、たいへん素朴な集落が形成されていました。それが、開港前の長崎の姿。中央では、その地名を知るものもないような九州の一寒村でありました。  そんな土地の領主だった甚左衛門。群雄割拠の戦国時代にあって、領地拡大を狙う周囲の豪族に、たびたび攻撃を受けていました。甚左衛門は、大村の領主であった大村純忠の家臣となり、その支援を得て領地を守ったといわれています。純忠といえば、日本初のキリシタン大名として知られていますが、甚左衛門も1563年純忠とともに横瀬浦(当時、純忠が南蛮貿易港として開いたところ)で、洗礼を受けたと伝えられています。その後、純忠の娘「とら」を妻としたことからも、純忠との親密さがうかがえます。  キリスト教の普及に熱心だった甚左衛門は、館の近くにあった寺社をイエズス会の神父に提供。そこには、トードス・オス・サントス教会という長崎最初の教会が建てられました。まもなく純忠と甚左衛門は、長崎を南蛮貿易港として開くことをはかります。彼らは、貿易による大きな利益に加え、キリスト教による精神的な喜びと、教会の勢力とを背景に、領民を守り、戦乱の世を生き抜こうと考えたようです。  1570年、長崎開港が決定すると、純忠の意向で、港に突き出した岬の先端に6つの町がつくられました。甚左衛門はこの町建てを直接指揮することはなかったそうですが、その間、近隣豪族の攻撃から、長崎を守り続けたといわれています。   開港から十数年後の1587年、秀吉は禁教令を出し、長崎を没収。同年、純忠も亡くなります。まもなく徳川の世となり、あらためて長崎は幕府直轄の地に。大村藩主・喜前は、その代償として時津の700石を領地として与えようとしましたが、甚左衛門はそれを受けず、長崎を去りました。筑後の田中吉政(キリシタンだったと言われる)、横瀬浦などを転々とし、最晩年には時津に移り住み、70余年の生涯を閉じたと伝えられています。  長崎市中心部から車で30分。西彼杵郡時津町の山あいの小島田という地域に長崎甚左衛門のお墓があります。昔から甚左衛門の墓守をしているという家の方によると、毎年、命日の12月12日近くの土曜日に、近所の法妙寺(日蓮宗)のお坊さんにお経をあげてもらっているそうです。この日は、ご近所の方々がそれぞれ農作物を持ち寄り、地域の公民館で炊きまかないをし、子ども相撲(33番の取り組み)を行うなど、地域の絆を育む行事として定着しているとか。領民思いだった甚左衛門の影響力は、時空を超えて生き続けているようです。  ◎参考にした本/長崎県大百科事典(長崎新聞社)、時津町郷土史(時津町)

    もっと読む
  • 第425号【おいしい野菜の事始め】

     江戸時代、出島を擁した土地柄もあり、何かにつけ「日本初」とか「発祥の地」といったものが多い長崎。地元にいても未だに知らないことも多く、先日も長崎の料理研究家の方から、ふだん店頭に並んでいるイチゴ(もともと日本にあった野生種とは別のもの)も、長崎に最初に伝わったのだと教えていただきました。  江戸時代末期の1840年頃、オランダ船で渡ってきたというイチゴ。当時の人は、野生種よりも一段と大きいその実に恐れをなし、「毒があるかも」と思ってもっぱら観賞用として育てたそうです。その頃は「オランダイチゴ」と呼んでいました。  イチゴが食用として栽培されるようになったのは明治になってから。現在では、すっかり一般的な果菜のひとつになっています。最近ではクリスマスシーズンに目立って出回るので、旬は冬だと思っている方もいらっしゃるのでは?実際は露地物の旬は5月頃。ハウス栽培などの技術や品種の改良が進み、出回る時期が早くなっているそうです。  料理研究家の方によると、イチゴは10粒で1日に必要なビタミンC(85mg)を摂取できるとか。ちなみに、いちごの生産量は、栃木県がダントツ1位ですが、2位福岡、3位熊本、そして4位に長崎と九州勢が続きます(平成23年度農林水産省の統計)。長崎は甘くてビタミンCの含有量も高い「さちのか」が多く栽培されているようです。  イチゴと同じような伝来のエピソードを持つのが、トマトとキャベツです。いずれも江戸時代にオランダ船で長崎に運び込まれたといわれ、はじめは観賞用植物、明治以降になって食用として栽培されるようになりました。  17世紀に渡ってきたとされるトマトは、「唐柿」また「オランダナスビ」などと呼ばれていました。その真っ赤な色が、江戸時代の人には血のようで不気味だったらしく、食べるに至らなかったとも伝えられています。  また、キャベツは、18世紀の文献に「オランダナ」と記されているそうですが、これはキャベツと同じ種類で観賞用の「ハボタン」(葉が結球しない種類)のことだとか。食用の結球性のキャベツは幕末に伝わったといわれています。  慶長年間の頃、オランダ船によって、まずは平戸のちに長崎にも運ばれたのが「ジャガイモ」です。オランダ船にゆかりがあるので、当時は「オランダイモ」とも呼ばれたとか。ジャガイモは、ヨーロッパから東南アジアのジャカトラ(現在のジャカルタ)を経て、日本へ伝来したことから、「ジャガタライモ」と呼ばれ、それが転じて「ジャガイモ」になったそうです。長崎県はジャガイモの生産が北海道に次いで全国第2位。この時期、地元では収穫されたばかりの「デジマ」という品種が出回っています。肉じゃがや味噌汁の具などにすると特においしいタイプです。長崎ゆかりの野菜をぜひ、お召し上がりください。   ◎参考にした本/からだによく効く食べ物事典(監修 三浦理代/池田書店)、野菜と豆カラー百科(主婦の友百科シリーズ)

    もっと読む
  • 第424号【春を告げる長崎の魚介類】

     春は海草や貝類がおいしい季節。採取が解禁になり、各地の海辺がにわかに賑わいはじめているようです。3月中旬、平戸島の「薄香」という地域を訪れたときは、港でヒジキが天日干しされている風景に出会いました。また、3月下旬には、五島の知り合いから刈り採ったばかりのワカメをいただき、あらためて春の到来を実感したものです。  潮の干満の差が大きい春は、潮干狩りのシーズンでもあります。自分で採ったアサリやハマグリで潮汁(うしおじる)を作ったことのある方も多いのではないでしょうか。貝から滲み出す潮の香とうま味。これも春を告げる味ですね。  長崎の市場をのぞくと、アサリやハマグリなど旬の貝類が最前列に並べられていました。酒蒸し、バター焼き、煮付け、酢の物、スパゲティ…あれこれメニューを思い浮かべながら買い求める量を見計らっていると、店の女将さんが、アサリの殻を割って見せてくれました。現れたのは、しっとりとしたプリプリの身。殻からはみ出しそうなほど肉厚です。有明海に面した小長井産(諫早市)のものだそうで、「近頃こんなに身の詰まったものは、なかなか無いんですよ」と女将さん。関西など遠方の知人にも送ってあげているそうです。  アサリの隣には、アゲマキ貝が並んでいました。殻の長さ7~8cmほどの二枚貝で、身には角のようなもの(水管)が2つ付いています。その姿が、古代の少年が頭髪を左右に分け、頭上に角のように巻き上げた「総角(あげまき)」という髪型に似ていることから、この名で呼ばれるようになったとか。長崎では有明海の貝としてよく知られていますが、残念なことに昔に比べずいぶん減ってきたと聞きました。洗ってゆでるだけという簡単な調理でいただくことが多く、独特の甘みがあります。ひと昔前の地元では、春から初夏にかけての定番おかずのひとつだったようです。ゆで汁は、あっさりとしたうま味があります。その汁で素麺をゆで、アゲマキ貝の身をのせていただく「アゲマキ素麺」が郷土の味として残っています。  アゲマキ貝と同時期に出回りはじめるのがマテ貝です。先日、大村湾の出入り口に位置する佐世保の針生(はりお)というところで採れたマテ貝を手に入れました。10cm前後の細長い貝で、干潮時には、砂の奥深いところに潜っています。採り方を聞いたところ、マテ貝がいる砂の表面には穴ができるので、そこに塩をふりかけ、飛び出してきたところを捕まえるとか。さっとボイルして、酢みそなどでいただくことが多く、アゲマキ貝とは微妙に違う甘みとうま味があります   波静かな大村湾に面した長崎市琴海町では、ノコギリ貝が春の海の幸のひとつです。殻の表面が「のこぎり」のようにギザギザしているので、地元では昔からそう呼んでいますが、正式な名前ではないとか。味はアサリに似ているそうです。ノコギリ貝の本当の名前はさておき、今年も、そしてこれからも、春を告げる魚介類を、おいしくいただくことができますように。

    もっと読む
  • 第423号【長崎サクラ便り】

     3月中旬、九州地方のほとんどの地域で桜(ソメイヨシノ)が開花しました。今年は早めの開花となったところが多かったようですが、長崎も平年より8日も早い3月16日に開花。観測史上2番目の早さだったそうで、花見の予定を急きょ繰り上げた人もいました。この分だと4月初めの入学式は、新緑がすがすがしい葉桜が新入生を迎えることになりそうです。気象庁の発表によると、東北地方の開花日は平年より早いか平年並み。こちらはいつもの年のように、はじまったばかりの新学期を満開の桜が彩ってくれそうですね。  長崎では開花直後に、春の嵐、晴天、雨天と短い周期で天候が変わり、気温も大きく上下しました。この荒れ模様に咲きかけた花が散ってしまうのではと思われましたが、心配は無用でした。中島川の枝垂桜も、春休みの校庭やご近所の庭の桜も、そして人知れず咲く山中の1本桜も、いま満開のとき迎えています。  桜の開花のニュースを聞いた翌日、長崎から平戸へ小旅行。車で西彼杵半島を北上する途中、「西海橋」を通りました。日本三大急潮のひとつである伊ノ浦(針尾)瀬戸に架かる「西海橋」は、全長316メートル、海面からの高さ43メートル。1955(昭和30)年建造された頃は東洋一のアーチ橋として注目されました。  そして、2006年には「新西海橋」が西海橋と並ぶように架けられました。それぞれ新旧の味わいがある両橋の姿。東京タワーと東京スカイツリーを見比べるときの感慨にも似ています。この橋のたもとは公園になっていて、毎年1千本ともいわれる桜が咲き誇ります。大きなうず潮が見られる春の大潮の時期にも重なるので、花見客も大勢訪れます。今年は3月25日~4月1日、4月8日~4月14日がうず潮の見頃だそうです。  西海橋を後にして、平戸に到着。高倉健さん主演の映画「あなたへ」のロケ地となった「薄香(うすか)」という地域を訪ねました。平戸市街地から少し離れた小さな漁港のある集落です。港を囲むように木造の家々が建ち並ぶ光景は、どこか昭和を思わせる雰囲気。そのひなびた佇まいがロケ地に選ばれた理由だったとか。ちなみに「薄香」という地名は、その昔、大陸から持ち込んだ梅の木を植えたところ、花が咲き、梅の香がほのかに漂ってきたことに由来するそうです。  平戸市街地にもどり、「平戸オランダ商館」へ。長崎より前にオランダとの貿易港として栄えた平戸。1641年、オランダ商館が長崎移転を命じられるまでの33年間の様子がうかがえる展示内容です。建物は、1639年に築造された日本初の洋風建築の倉庫を復元したもの。のちの出島貿易の時代とはまた違った往時が偲ばれました。   平戸は、平安時代末に禅宗や製茶・喫茶を大陸から学び伝えた栄西ゆかりの地でもあります。駆け足でめぐるには、あまりにも奥深い平戸路。この日、桜の名所の亀岡公園(平戸城そば)の桜はまだ固いつぼみ。次は満開の頃にゆっくり訪れたいと思いました。

    もっと読む
  • 第422号【キビナゴづくし】

     長崎ではほぼ1年中出回るキビナゴ。体長10センチ前後の小さくて細長い青魚です。頭から尾にかけて濃い青色の線と、銀色の帯状の線が入っているのが特長です。キビナゴは、大きな群れをつくって温かな海を回遊します。水族館でその様子を見たことがありますが、群れはまるで巨大な魚のようでした。  きれいな海でしか生息できないといわれるキビナゴ。長崎県内ではイワシやサバ、アジなどと同じ大衆魚のひとつとして昔から親しまれてきました。特に五島列島近海のものが鮮度の良さ、味の良さで知られています。旬は夏といわれていますが、冬場も身が引き締まっておいしいです。  キビナゴは脂肪が多くて、身が柔らかいのが特長です。刺身やしょうが煮、南蛮漬けなどいろいろな料理がありますが、郷土料理として特に知られているのは、「いり焼き」と呼ばれる鍋料理です。醤油味の出し汁で煮た野菜鍋に、キビナゴを箸でつまんで入れ、身が白くなる程度にさっと火を通していただきます。食べる時は、頭から尾に向かうと身離れがよいです。普段から食べ慣れている漁師さんなどは、歯で軽くしごくようにしてきれいに中骨を抜き取ります。  五島列島では食べ物が現在のように豊富でなかった時代から、サツマイモと並ぶ主要な食材のひとつとしてキビナゴを食べてきました。煮干し、素干し、塩漬け、湯引き、塩ゆで、刺身、酢もみ、味噌田楽など伝えられる調理法はシンプルながら多彩です。キビナゴはその小さい身体に青魚独特の旨味がつまっています。かつて昭和天皇が福江島へいらしたときに、キビナゴの味噌田楽をたいへん喜んで召し上がれたというエピソードが伝えられています。  刺身などにするときは、手開きで内蔵を取り出します。ちなみに長崎では、「手開きする」ことを「おびく」と言います。頭を取り、親指を使って腹側から中骨に沿って開いていきます。中骨は尾の方から取るときれいに除けます。皿に盛り付けるときは、銀の帯模様を表にするときれいです。刺身醤油や酢みそなどでいただきます。  漁を営む家庭などでは、まとまった量が手に入ると骨ごとすり身にして、さつま揚げやつみれなどにしているようです。長崎の惣菜屋などで目にするのは、キビナゴの天ぷらです。鮮度のいいキビナゴを丸ごと使います。長崎天ぷらの特長である甘い衣が、キビナゴのおいしさを引き立てます。  魚は、必須アミノ酸をバランス良く含んだ良質のタンパク質として知られていますが、なかでも青魚は、血流を良くするといわれるEPA、脳を活性化するといわれるDHAが含まれています。キビナゴは青魚ですから、そうした栄養価が期待できそうです。      ◎日本の食生活全集42『聞き書き 長崎の食事』(発行 農山漁村文化協会)

    もっと読む
  • 第421号【フェートン号と松平図書頭康平】

     長崎市民の総鎮守、諏訪神社。多くの市民が訪れる拝殿から、裏手に回り登ったところに、いくつかの祠(ほこら)があります。そのひとつは、先祖の神霊を祀った「祖霊社(それいしゃ)」と呼ばれるもの。文化5年(1808)の「フェートン号事件」に深く関わったある人物も祀られています。  歴史の教科書にも載る「フェートン号事件」。当時、オランダ船と唐船とだけ交易を行っていた長崎に、イギリス船フェートン号が、オランダ船と偽って侵入。食料や薪水などを要求し奪い取って行ったという出来事です。  通常、交易を行うオランダ船は夏に長崎へ入港。2カ月ほど滞在して秋に出航しました。フェートン号は時期外れの10月(新暦)にやって来て長崎港の沖合に停泊。入港手続きのために近付いたオランダ商館員を人質にするや、船上のオランダ国旗を降ろし、イギリス国旗を掲げ、食料などを要求したのです。  まさに不敵ともいえるフェートン号側の態度。その背景には、フランス革命が起きた当時のヨーロッパ情勢がありました。オランダ本国は、フランス軍の侵入を受けて支配されており、イギリスとは敵対する関係にあったのです。その頃のイギリスは、アジア各地に進出し勢いを強めており、ときにオランダ船を襲うこともあったとか。フェートン号も、日本へ通商を求めるために来たのではなく、オランダ船の捕獲が目的だったと言われています。  フェートン号が長崎に現れてから、出航するまでわずか3日。その間、長崎のまちはたいへんな騒ぎだったことでしょう。ましてや、この騒動をおさめなければならない長崎奉行の松平図書頭康平(まつだいらづしょのかみやすひら)、そして人質をとられたオランダ商館長ドゥーフの動揺は計り知れません。  このとき松平図書頭康平は、フェートン号を焼き討ちにしたいと考えたようです。しかし、このとき長崎警備の当番だった佐賀鍋島藩の兵たちは、オランダ船は来ないと判断して7月のうちに引き上げていたのです。兵力不足のうえ、人質の身の安全のこともあり、結果的には相手の要求を全て飲むかたちとなりました。  フェートン号が長崎を去ったその日。松平図書頭康平は、いつものように夕食をとると、月見の酒宴をひととき催しました。その後、みんなを帰したあと、ひとり武士としての責任をとり自刃。41才でした。遺書には、人質をとられたことなどで国を辱めたことを謝り、佐賀鍋島藩の兵がいなかったことが無念だったことなど、ことの顛末と思いがしたためられていたそうです。    松平図書頭康平のお墓は大音寺(長崎市寺町)に設けられました。一方、長崎の人々は、人柄の良い長崎奉行の死を深く悲しみ、翌年、諏訪神社に図書明神霊社(康平社)を勧請。長谷川権六郎(江戸初期の長崎奉行)や氏子先霊とも合祀され、その後、「祖霊社」と改称して現在に至っています。          ◎参考にした本/長崎事典~歴史編~(長崎文献社 刊)、出島(片桐一男 著/集英社新書)

    もっと読む
  • 第420号【長崎に残る外来語(中国語)】

     3月中旬のような温かい日があったかと思えば、急激に気温が下がって真冬にもどったり。春へ向かう合図、三寒四温。そんな季節のなか、長崎では旧正月を祝う「長崎ランタンフェスティバル」がはじまりました。長崎市の中心部に約1万5千個にも及ぶランタンが飾られ、まちは幻想的な雰囲気に包まれています。防寒着に身を包んで歩く人々も、赤、黄、桃色のランタンを見上げれば、思わず表情がゆるみます。中国雜技、龍踊り、胡弓演奏など、毎日のイベントも盛りだくさん。今年は2月24日(日)まで開催中です。どうぞ、お出かけください。  日本の中でとくに中国の影響を大きく受けた長崎のまち。地理的な近さもあって古くから交流があり、鎖国下の江戸時代にはオランダ船そして唐船との貿易港として栄えました。長崎に居留する中国人が増え、市中には唐寺が建設されるなど、中国文化が長崎に根付くようになります。そうしたなかで、中国の言葉がそのまま長崎の言葉となったものもありました。  たとえば、中華料理のときに使う陶製の匙、「チリレンゲ」。長崎では「トンスイ」とも呼びます。これは中国語でスープを飲むための匙を意味する「湯匙(トンスイ)」から来たものです。ちなみに「匙(サジ)」という発音も、中国語の「茶匙(サジ)」の発音がそのまま使われたものとか。また、戸口などにかける「暖簾(ノレン)」も中国語の発音がそのまま日本語になったものだそうです。  長崎の特産品「枇杷(ビワ)」も、中国語では「枇杷(ピィハァ)」と発音。これもまた外来語といえるでしょう。また、長崎では落花生のことを「ドウハッセン」ともいうのですが、これも中国語の「落花生(ロウハッセン)」から。和菓子の定番のひとつ「饅頭(マンジュウ)」は、中国語で「饅頭(マントウ)」と発音。長崎のお年寄りのなかには、いまも「マントウ」と呼ぶ人がいます。尚、「マンジュウ」というと日本では餡が入ったものをイメージしますが、中国では入っていないものをいうそうです。また「羊羹(ようかん)」も中国語の発音が日本語として定着した言葉のようです。  江戸時代、中国のいろいろなものをもたらしてくれたのが隠元禅師です。1654年、招かれて長崎最古の唐寺・興福寺へ。このとき中国から持って来たいんげん豆は、その後の飢饉時に多いに助けとなりました。そのほか、たけのこ、れんこん、すいか、普茶料理、煎茶なども持ち込み伝えています。また、現代の日本人になじみのある書体のひとつ「明朝体」(明の時代の木版印刷の文字)や原稿用紙(20字×10行)なども、隠元禅師とともに海を渡ってきたものです。   その昔に伝わった中国文化が残る長崎。「長崎ランタンフェスティバル」では、古き良き中国を感じることができるはず。新地中華街に隣接する湊公園会場では、「トンスイ」など中国の食器類を積み重ねてつくったオブジェが飾られています。興味のある方は、探してみてくださいね。

    もっと読む
  • 第419号【五島でいただく冬の魚】

     旧知の五島の漁師さんのお宅で食事をいただく機会がありました。急におじゃましたのにも関わらず、刺身や煮付け、吸い物などいろいろな魚料理でもてなしてくれました。長崎県はほとんどの地域で新鮮な魚が手に入りやすいのですが、自然に恵まれた島の魚というのは、おいしさも格別です。脂ののった冬魚をお腹いっぱいいただきました。  いつも気さくな漁師さんご夫妻。「特別なものは何もなかけど、よかね」と言いつつ奥さんが最初に出してくれたのは、クロとカレイのお刺身です。いずれもご主人が数日前に釣り上げたもので、漁船のいけすで活かしていたとか。ちなみにクロというのは五島や長崎での呼び名で、メジナのことです。クロダイに似た白身魚で、独特の磯の香りがします。カレイは、身が柔らかく淡白で上品な味わい。五島では、ヒラメほどは獲れないらしく、ご主人や奥さんも「ちょっとめずらしかったね」といいながら、その味に目を細めました。  この日、早朝に漁に出たものの一匹も釣れず、地元の市場でカツオ、小アジ、エソを手に入れて来たというご主人。箱いっぱいの魚を、奥さんが慣れた手つきでウロコやゼイゴ、エラ、ワタをとり、下ごしらえをしていきます。漁師の妻の包丁さばきは、年季が入った腕前で見応えたっぷり。そうこうするうちに、カツオはたたき、小アジは刺身や南蛮漬けになり、エソは小アジと合わせてかまぼこへと変身したのでした。  奥さんが調理をしている合間に、港に停泊するご主人の漁船へ行ってみると、いけすからイサキを取り出したところでした。タイなどにも匹敵する味ともいわれるイサキ。よく出回るのは夏ですが、もちろん冬もおいしい。こちらも刺身でいただきました。  漁師歴60年以上のご主人によると、海の環境の変化で、昔に比べてまったく魚が獲れなくなったそうです。五島の美しい海もまた地球レベルの環境の変化の影響を受けているのでしょう。あらためて日常生活のなかで環境のためにできることをやっていこうと思ったのでした。  帰り際、お土産にいただいたのが水イカ(アオリイカ)です。肉厚で甘みのある水イカは、イカの王様なんていわれるほどのおいしさです。昨年末に獲って冷凍していたもので(冷凍すると甘みが増すそうです)、お刺身と湯びきでいただきました。   折々においしい五島の味を届けてくださるご夫妻。毎年、年末になると育てたサツマイモでかんころもちも作ります。漁や野菜作りの生活は、止めどなくやることがあって、思いのほか多忙のよう。軒先にはいま、切り干し大根が干されていました。新年早々、にこやかに迎えてくれたおふたりのご好意にしみじみと感謝。健康と幸せを願いながら帰路に着いたのでありました。

    もっと読む
  • 第418号【長崎よもやま話でコーヒーブレーク】

     皆さま、よい新年を迎えられたことと思います。七草がゆでお腹を休めたら、次はコーヒーブレーク。長崎にまつわるよもやま話にお付き合いください。  コーヒーといえば、日本では長崎・出島に伝わったのが最初と言われています。出島のオランダ商館員らは日常的に飲んでいて、彼らと接する機会のあった阿蘭陀通詞や出島に出入りする遊女などもその味を知っていたようです。前号でご紹介した大田南畝(1749-1823)は、長崎滞在中(1804-1805)のことをまとめた『瓊浦又綴』にコーヒーについても記しています。勘定方の仕事でオランダ船に乗り込んだとき「カウヒイ」を勧められたけれど、焦げくさくて味わえなかったとか。南畝は、コーヒーを飲んだ経験を初めて記した日本人でもあるようです。  お江戸の文化人・南畝の交友関係のひとりに平賀源内(1729-1779)がいます。風変わりな奇才として知られる源内は、長崎を2度訪れました。最初は1752年、高松藩の薬園掛足軽だった頃に遊学。このとき阿蘭陀大通詞の吉雄耕牛のもとでオランダ語と本草学を学んだそうです。2回目は16年後の1768年。幕府からオランダ語の翻訳御用を命じられて来ました。このとき手に入れた摩擦起電器を復原したものが、あの「エレキテル」です。源内は長崎で出会った新しい知識や技術に、独自の発想と工夫を加え、多方面でその才能を発揮したのでした。  南畝が幕府の命で長崎へ来たのは、源内が亡くなってから5年後のことです。(源内は誤って人を殺傷し獄中で亡くなった)。南畝より30~50年も前に源内は長崎を訪れているのですが、それぞれの足跡をたどると、二人に通じるものがありました。唐通事の彭城(さかき)家です。彭城家は長崎の鳴滝に別宅がありました。当時の鳴滝は、川が流れる田園で風光明媚な地でありました。源内は彭城家別宅の食客、つまり居候の身であったとも伝えられています。  一方、南畝も彭城家と交友があったようで、別宅を訪れ、酒を飲んだと思われる漢詩を残しています。詠まれた内容は、残暑厳しいなか、鳴滝で涼しげな水音を聞き、彦山の上にある月に見送られながら、酒に酔い帰路に着いたというようなもの。南畝にとって20才も年上であった源内は、師でもありました。ほろ酔いの鳴滝からの帰り道、時代の先を見つめながらも不遇の死をとげた師に思いを馳せることもあったのではないでしょうか。  さて、コーヒーに話をもどすと、日本で初めてのコーヒーに関する記述は、蘭学者の志筑忠雄が1786年に著した訳書『萬国管窺』のなかにあり、「阿蘭陀の常に服するコッヒィというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」と書かれているそうです。その後、コーヒーには薬効があるなどと記した書物も出ましたが、江戸時代は日本人の嗜好品として広まることはありませんでした。  1823年に来日したオランダ商館医シーボルトは、のちに長寿をもたらす良薬であるとして日本人にコーヒー勧める一文を書いています。彼は、長きに渡ってオランダ人と交流がありながら、まだ日本にコーヒーを飲む習慣がないことに驚いていたそうです。そういえば、長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」の常設展示品のなかにはシーボルトが愛用したというコーヒカップがありました。シーボルトはコーヒー好きだったのかもしれませんね。  ◎参考/大田南畝(浜田義一郎/吉川弘文館)、江戸時代館(小学館)     UCCホームページ「コーヒーの歴史」

    もっと読む
  • 第417号【狂歌師大田南畝と長崎】

     『長崎の山からいづる月はよか こんげん月はえっとなかばい』。江戸後期の狂歌師、蜀山人(しょくさんじん)こと大田南畝(1749-1823)が作ったと伝えられている狂歌です。長崎の方言をたくみに操ったこの歌、現代語訳だと「長崎の山から出る月は本当に美しい。このような月にはなかなかお目にかかれないものだ」といった感じでしょうか。冒頭の「長崎の山」が「彦山の上」に変わったものがあるなど変形したタイプの歌もいくつかあり、いまも長崎市民に親しまれています。  幕臣として働く一方で、狂歌や漢詩文、洒落本などで才能を発揮し、お江戸の粋な文化人として知られる大田南畝。本名は覃(ふかし)。通称は直次郎。大田南畝というのは号で、別号の四方赤良、四方山人、蜀山人などでも全国的に名を馳せた人物です。  生まれは江戸の牛込。父は幕臣で、将軍の乗り物の周囲を警護したりする御徒(おかち)という役目だったそうです。南畝は子供の頃から知識欲が旺盛で、たいへんな記憶力の持ち主であったとか。文人としては10代半ば過ぎから頭角あらわし、19才のときの狂詩集「寝惚先生文集」が評判に。江戸文壇の中心人物のひとりになっていきました。  しかし、幕臣であった南畝が多いにその文才を発揮したのは田沼時代(1767~1786)まで。松平定信が寛政の改革を行う頃になると文壇とは縁を切り、幕臣として再起をはかるために猛勉強します。そして、40代半ばで人材登用試験を受け首席合格。ちなみに、この試験をあの遠山の金さんの父、遠山金四郎景晋も受けていました。彼も優秀で目見得(将軍に直接お目通りが許される身分。旗本)以上での首席合格者だったそうです。(南畝は目見得以下の身分の中での首席)。  試験合格後、勘定所の役人として出世した南畝。数年後の文化元年(1804)、56才のとき長崎へ支配勘定として赴任を命じられます。当時、長崎は輸出入に関連して何かと懐が暖まる機会が多く、誰もが赴任したがったとか。それなのに南畝は、自分はけしてそんな小器用なマネはしない、といった心構えを歌に詠むほどバカ正直な面がありました。滑稽で、気の利いた言葉を使った狂歌などからは、のんきな人、風変わりな人と思われがちですが、実は常識人で、身分を超えて交流を持てる円満な人柄であったとも伝えられています。  長崎滞在は9月から翌年の10月までの約1年間。勤務先となる長崎奉行所立山役所そばにある岩原屋敷に宿泊しました。主な仕事は長崎会所の監察です。オランダ屋敷、唐人屋敷、倉庫などの巡視、積み荷の検査立ち会いなど、仕事内容は激務だったとか。南畝は勤勉な役人として職務にあたったようです。折しも南畝が長崎に来た頃にロシア使節も来航。長崎奉行らとともにレザーノフにも会っています。余談ですが、このとき遠山金四郎景晋も応接係目付として長崎に送り込まれています(景晋はのちに長崎奉行として再来訪)。  長崎で多くの珍しい人やモノと出会った南畝。狂歌師としての名声はむろん長崎にも届いていて、地元の文化人らとも交流を深めたようです。当時、親しく交流のあった中村李囿が建てたと伝えられる南畝の漢詩を刻んだ石碑が、現在も烽火山山頂付近と鳴滝(李囿の意志を継いだ有志が建立か?)に残されています。  南畝が江戸へ帰るとき、長崎土産として買い求めたのは主に中国の書物で、身内には反物類を選んだとか。『故郷へ飾る錦は一とせをヘルヘトワンの羽織一枚』。この歌は、帰路に着くときを詠んだもの。ヘルヘトワンとは当時の舶来織物の一種。南畝は異国が香る羽織にどんな思いを託したのでしょう。それから8年後、60代半ばになった南畝は中村李囿宛ての手紙に、「よい時分に在勤いたし」と長崎での日々について記したそうです。 本年もご愛読いただき、誠にありがとうございます。どうぞ、良い年をお迎えください。  ◎参考にした本/大田南畝(浜田義一郎/吉川弘文館)、長崎の文学(長崎県高校国語部会編)、江戸時代館(小学館)

    もっと読む
  • 第416号【地球の不思議発見!島原半島ジオサイト】

     島原半島のジオサイトをめぐる機会がありました。島原半島は2009年、日本国内で初めて世界ジオパークに認定・登録されたところです。ジオパークとは、科学的、文化的に貴重な地質や地形を持った自然公園のこと。ジオパークのなかでとくに観察や体験ができるスポットをジオサイトといいます。火山と人々が共生する島原半島には、太古の噴火の跡や雲仙・普賢岳の噴火災害の爪あと、そして火山がもたらす温泉や湧水などの自然の恵みなど、200カ所近くのジオサイトがあるそうです。  まずは、島原半島の最南端に位置する早崎半島へ。ここの海岸は、島原半島のなかでもっとも古い約430万年前の溶岩が見つかったところで、「島原半島のはじまり」といわれる場所です。早崎漁港近くに、その噴火口跡がありました。周囲には噴火によって飛んできたという青黒い玄武岩がゴロゴロと積み重なっています。目の前に広がるのは急な海流で知られる早崎瀬戸。海岸へ下りると玄武岩の溶岩に、荒波が生み出した模様が刻まれていました。  玄武岩だらけの波打ち際の一角に、赤い石が混じった地層がありました。これはマグマ水蒸気爆発によって焼けた堆積物だそうで、地層の様子から、激しい噴火活動が穏やかになったことが判るのだとか。マグマの通り道だったというところもあり、地球のダイナミックな活動を肌で感じます。同時に、人間の想像をはるかに超える地球時間の壮大さに圧倒されるのでした。ところで、この海岸そばの畑は赤土でした。これは玄武岩が風化してできた土で鉄分を多く含んでいるのだとか。おいしいジャガイモ作りに適した土だそうです。  早崎半島から国道を加津佐方面へ走ると、海沿いに両子岩(ふたごいわ)が見えてきます。この岩の俗称は「岸信介岩」。下唇にあたる部分が今年9月の台風で崩れ落ちてしまったそうですが、よく似ています。この岩は大昔に安山岩の土石流でできたもの。波の浸食で偶然に人面をかたどったのです。近くの海岸に下りると、色とりどりの小石が周囲を敷き詰めていました。その多くはチャート(微生物が沈んでできた岩石)とよばれる石。もともと海底にあった岩石が押し上げられたものだそうで、よく見ると緑や赤などさまざまな色合いの小石がありました。大昔、火山活動などで大きく変動した陸地。この近くの地層からは約150万年前は、島原半島付近は大陸と陸続きだったことの証しとなる脊椎動物の化石がたくさん出土しているそうです。  島原半島をさらに北上して国崎半島の付け根にある漁港へ。恵比寿様が祀られたその先の海沿いの遊歩道をいくと約130万年前の噴火による輝石安山岩の土石流がたまったものだという地層がありました。この安山岩は橘湾をはさみ13km先の北東に位置する有喜(うき)という地域で見られる安山岩と同じだとか。もしかしたら橘湾がなかった頃は、ひとつの大きな火山だったかもしれないと考える学者もいます。また、橘湾沿いの海岸線を走ると、海に面して切り立ったような地形が何カ所か見られますが、これは海底火山の力が加わったことで、絶壁の先にあった地形が海に沈みこんだものと考えられています。  島原半島のジオサイトは、ほかにも平成新山、島原の湧水、小浜温泉、雲仙温泉、そして唐子の湿地帯など見どころは尽きません。太古の地球に触れると、自然の偉大さ、ありがたさを感じずにはいられません。ぜひ、お出かけください。   ◎参考にした本/長崎游学マップ7~島原半島ジオパークをひと筆書きで一周する~

    もっと読む
  • 第415号【懐かしい味わいのご飯】

     70代の知り合いの女性から手作りの干し柿をいただきました。実家が農家で、庭に大きな柿の古樹があり、毎年たくさんの実をつけるとか。今年は500個近く実り、お孫さんらと一緒にせっせと皮をむき、紐を結び付けて軒下に吊す作業を繰り返したそうです。その方にとって干し柿作りは秋の恒例行事。素朴で懐かしい味が好まれ、お裾分けを楽しみにしている人が何人もいるようです。たくさんいただいたので、何個かは柿なますにしました。旬の美味に感謝です。  北風が郷愁を誘うのか、いま頃の季節は干し柿のようにどこか懐かしさを感じるご飯が無性に食べたくなります。たとえば、「零余子(むかご)ご飯」。「零余子」とは山イモ(ジネンジョ、長イモ、ツクネイモなど)の葉腋にできる緑褐色の粒のことです。子どもの頃、野山でツルにいっぱいなっている零余子を摘んで帰り、炒ったり、蒸したりして食べた記憶のある方もいらっしゃることでしょう。  零余子が店頭に出回るのは秋のほんの短い期間です。見かけたときに買い求めないと、食べ損ねてしまう年もあります。先日、長崎の市場で青森産の零余子が売られていました。八百屋の女将さんによると「青森産のほうがおいしいと言うお客さんがいるのよ。あちらは山イモの主産地だから、零余子もうまいのかもね」とのこと。  イモ類を炊き込んだご飯も懐かしさを感じます。島原地方の農家では、サツマイモ、アワ、米の三種類を混ぜて炊いた「三品飯(さんちんめし)」を、農作業がひと区切りつくごとに食べていたそうです。また、佐世保の農家に育ったある方は、サトイモを収穫するとゴボウを一緒に炊き込んだご飯を必ず作っていたそうで、秋になると思い出すという方もいらっしゃいました。  かんころもちで知られる五島には、「かんころ飯」というご飯もあります。かんころもちの原料になる干しイモをお米と一緒に炊き込んだもので、お米が貴重な時代にはそうやってご飯の量を増やしたという話です。  さて、長崎あたりでは「ササゲ」も秋の一時期に出回ります。見た目も栄養価も用いられ方もアズキとあまり変わりません。ただ、アズキより皮が破れにくく崩れないので、餡やぜんざいにするより、赤飯などにしていただくほうがいいようです。「ササゲ」好きのある方は、出回る時季は店頭を日々チェックして見逃さないようにしているとか。お米と一緒に炊くと、ご飯がほんのりとピンク色になるところが良く、アズキとは微妙に違う食感を楽しむそうです。   長崎県の北に位置する対馬地方には、アズキを使った「かけならちゃ」というちょっと変わった名前の郷土料理があります。ゆでたアズキをごはんにかけていただくもので、折々のハレの膳に用いられてきました。お椀に盛られた様子はどこか京風な感じ。もしかしたら対馬独自の歴史に由来するのかもしれません。いまでは郷土の味を子どもたちに伝えようと地域の学校給食にも出されているとか。昔懐かしのご飯は、地域の農作物や歴史をあらためて見直すいい機会でもあるようです。

    もっと読む
  • 第414号【まごころで、温まろう】

     急に寒くなりました。街路樹の落ち葉が日に日に増えて、長崎にも初冬の気配。まわりでは気温の変化に付いていけず、風邪をひいたり、ちょっと体調をくずしたりした人がちらほら。あなたは大丈夫ですか?  風邪気味のとき、玉子酒や葛湯などで身体を温める方も多いはず。ある60代の女性は、「子どもの頃は父が玉子酒を作ってくれたの。ふだんは台所に立たないのに、それだけはなぜか、父の役目だったのよね」と言います。よくよく話をうかがうと、お父さまはもともとお酒が好きな方だったよう。女性はいまになって、「ああ、だから父が作っていたのね!」と気付いたのでした。風邪気味の子を心配しながら、ちゃっかりお酒を愉しんだ亡き父。半世紀以上も経って、そのことに気付く娘さん。思わず笑みがこぼれます。  この時季、ちょっと食欲がなくてもムリなく口にできて、身体をやさしく温めてくれる長崎の郷土料理といえば、ヒカドでしょうか。その名は、食材をこまかく切ることを意味するポルトガル語の「Picado」からきたものです。まぐろ(またはぶり)と、だいこん、にんじん、さつまいもなどの野菜を煮た料理で、すべての具材は火が通りやすくて食べやすい、さいの目に切ります。だし汁は具材から出るうま味を、塩、酒、薄口醤油で整えただけのあっさりとしたもの。ほどよいトロミがあって(おろしたさつまいもを加えるため)、のどを通りやすい。和洋風な長崎シチュウです。  玉子酒も、ヒカドも、相手を気遣う作り手のやさしさがしみじみ感じられる料理ですが、この冬みろくやからも、そんな思いで作った商品が新しく登場しました。その名も「まごころちゃんぽん」。野菜や魚介類などの具材がたっぷりで、これまでのちゃんぽんと同じような食べ応えがありながら、カロリーは約半分の247kcal。食物繊維もしっかりとれて、もちろん、おいしいのです。  控えめのカロリーとおいしさの秘密は特製の和風スープにあります。「ちゃんぽんらしい」おいしさをつくるのに不可欠といわれる高カロリーな動物性脂肪(ラードや豚肉など)の材料をギリギリまで押さえつつ、かつおをベースに数種類の魚介類のエキスをあれこれ組み合わせて試作を重ねました。商品開発室の中華鍋は使い込まれ、試行錯誤の跡を残すかのように黒光りが増していきました。そうして、生まれた新しい和風スープ。「ちゃんぽんらしい」おいしさのある、やさしくて滋味あふれる味わいです。  「まごころちゃんぽん」開発のきっかけは、お客さまの声にありました。高齢で食が細くなった方、病気などでカロリー制限のある方、そしてダイエット中の方々などから、「これまでのちゃんぽんを食べたくても食べられない」というような声が多く聞かれ、それに何とか応えたいという思いからはじまったのです。   「まごころちゃんぽん」は調理も容易です。このちゃんぽんに込めたみろくやの思いがみなさまに伝わり、玉子酒やヒカドのように長く愛されますように。どうぞ、お召し上がりください。※まごころちゃんぽんは販売終了いたしました。

    もっと読む

検索