第447号【マルコ・マリ・ド・ロ神父のこと】

  フランス北西部に位置するノルマンディー地方。世界遺産の『モン・サン=ミシェルとその湾』があることで知られています。サン・マロ湾に浮かぶこの孤島の聖地から、そう遠くないところにヴォスロールという農業や酪農の盛んな村があります。そこは、今回ご紹介するマルコ・マリ・ド・ロ神父の故郷。自然豊かな風景のなかに石造りの教会や古城などが点在する美しい村です。



 

 ド・ロ神父(1840-1914)は、明治時代、長崎のキリシタンゆかりの地である外海(そとめ)という地域で、私財を投じて、教会堂の建設や医療・福祉活動、土木・農業分野での技術指導、さらにはソーメンやパン、マカロニなどの製造と販売、イワシ網工場の設計・施工などを行い、貧困にあえいでいたこの地域の人々の暮らしの支援に生涯を捧げた人物です。現在、活動の中心地となった外海の「出津(しつ)」というところには、ドロ神父が手掛けた出津教会、旧出津救助院などがあり、イワシ網工場だったところは、「ド・ロ神父記念館」として、活動の足跡を紹介する施設になっています。

 







 ド・ロ神父の人類愛に満ちあふれた偉業を知るにつれ、気になったのが、その生い立ちや人柄でした。これまで幾度か外海に足を運んだ際に出会ったシスターや地元の方の話、そして、ド・ロ神父について書かれた本などから伝わってきた人物像は、「日だまりのような人」。明るくユーモアがあり、外海の人々にたいへん慕われていたそうです。ド・ロ神父のもとには、子どもたちがよく集まり、そのなかには黒い司祭服を握りしめて離さない子もいました。そのためド・ロ神父の衣服の腰あたりは、かわいい手の仕業でいつもテカテカしていたとか。「ド・ロ神父記念館」の前に建つ銅像を見るたびに、このエピソードを思い出します。

 

 ド・ロ神父は、ノルマンディーの貴族の出身。広大な農場を持つ家は、たいへん裕福だったそうです。『神父ド・ロの冒険』(森禮子 著)によると、両親は堅実で、子育てもしっかりしていました。三人の息子(ド・ロ神父は次男)には、あえて牧場や農場で働かせ、牧畜や農業、大工、石工、鍛冶などの仕事を覚えさせたといいます。末の一人娘にも、裁縫、刺繍など手仕事を身に付けさせました。こうした教育方針は、当時のフランス社会が不安定だったことから、子どもたちがどんな時代でも生きていけるようにという親心からだったようです。その頃のド・ロ神父は、冒険を好み、ときにはいたずらもする活発な子だったと伝えられ、厳しくも温かな両親のもと、幸せな日々を過ごしたようです。

 

 この両親は、のちに息子が殉教もいとわぬ覚悟で日本へ向かうことになったとき、日本での活動資金として多額のお金を持たせました。また、教会の炊事をしていた年老いた女性もコツコツと貯めた老後の資金をド・ロ神父に託しました。当時、フランスのカトリックの人々は、幕末の動乱期にあった日本で激しいキリシタンの迫害が起きていることを知っていて、彼らが渡した多額のお金には、ド・ロ神父の身を案じると同時に、日本のキリシタンに対する同情もあったのだろうと、森氏は同書に記しています。

 

 偶然にも、きょう326日はド・ロ神父の誕生日。28歳で日本に渡り、一度も帰郷することなく、74歳で長崎で没しました。それから100年以上経った現在もこうして語り継がれるとは、ご本人も想像していなかったはず。現在、ド・ロ神父は、自ら建設にあたった出津の野道共同墓地に静かに眠っています。墓地内にはどこか西洋の古城を思わせる石積みがあり、ノルマンディーの村を彷彿させます。





 

◎参考にした本/「神父ド・ロの冒険」(森禮子 著)「外海~キリシタンの里~」(外海町役場)、












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