第437号【各藩の蔵屋敷跡をめぐる】
江戸時代に長崎に設けられていた諸藩の蔵屋敷跡をめぐりました。蔵屋敷とは、米やその他の物産を貯蔵する倉庫の役割と、販売するための事務所を兼ねた屋敷のこと。江戸や大坂、大津など、商業都市や交通の要所などに設置されました。長崎には、熊本・佐賀・福岡・対馬・小倉・平戸・薩摩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島・長州の14藩の蔵屋敷がありましたが、他の地域にある蔵屋敷とは少し様子が違いました。そこで、もっとも重要とされた役割は情報収集と伝達だったのです。それには理由がありました。
寛永16年(1639)に海禁政策(鎖国)が完成。ポルトガル船の来航が禁止されてから数年が経った正保4年(1647)夏のこと。長崎港に突如、ポルトガル船が2隻やって来ました。通商の再開を求める目的を持った使節だったのですが、このとき幕府は過剰反応とも思えるような対応に出ます。西日本の諸藩に出兵を命じ、総勢約48,000人の動員を得て長崎港内外の警備を固めたのです。
結果、ポルトガル船は攻撃を加えられることはなく、米や水を与えられて長崎港を出ていきました。この事件以降、西日本の諸藩は長崎に蔵屋敷を設けて、「聞役(ききやく)」という、長崎での情報を速やかに入手して伝える役目を置き、いざというときの出陣に備えるようになりました。もともと長崎警備の任務があった福岡・佐賀をはじめ、熊本・対馬・平戸・小倉の6つの藩は、「聞役」を一年中滞在させる、「定詰」に。柳川藩や唐津藩など他の8藩は、5月中旬から9月下旬までの「夏詰」で派遣したそうです。
諸藩の蔵屋敷は、長崎奉行所(西役所・立山役所)跡からいずれも徒歩圏内に点在しています。長崎駅前の商店街の一角(大黒町)に熊本藩蔵屋敷跡、道を隔てて佐賀藩蔵屋敷跡も隣接していました。大黒町の隣に位置する五島町界隈には、柳川藩、鹿島藩、佐賀藩深堀鍋島家屋敷、そして福岡藩の蔵屋敷跡があります。いずれも運搬などに便利な海際に設けられていました。
興善町には、坂道を挟んで小倉藩と長州藩の蔵屋敷がありました。その坂は、いつの頃からか「巌流坂」と呼ばれるように。両藩の間にある鳴門海峡には、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島があり、そこからきた名称だそうです。
「巌流坂」の近くには、佐賀藩深堀鍋島家屋敷の家臣と町年寄高木家の若者が起こした事件、『深堀騒動』の現場である「大音寺坂」と呼ばれる坂段があります。身分が上のはずの武士がささいなことでコケにされてしまい、それが大きな事件を引き起こしたというもの。事件の顛末は、赤穂浪士討ち入りの参考にされたともいわれています。
正式な蔵屋敷ではないものの、長崎に拠点を置いた藩は、松前藩、会津藩、加賀藩、尾張藩、紀州藩、伊代松山藩、宇和島藩など十数あったそうです。また、水戸藩は、医者に密偵の役目を与えて長崎に送り込み、情報を得ていたそうです。
いまとなっては、どの蔵屋敷跡も当時のなごりが見られず、とても残念。しかし、その場所に行くと長崎警備のことだけでなく、海外貿易の水面下で、諸藩が少しでも有利な情報を得ようと、画策したり、右往左往していたことが、何となく想像できて楽しい。きっと、こうしたところに長崎の歴史にさらなる深みと面白みを与えてくれるストーリーが埋もれているのでしょう。