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  • 第458号【長崎くんちや中秋節のこと】

     長崎の秋の大祭、「長崎くんち」を一カ月後に控え、今年の踊町(八幡町、麹屋町、銀屋町、西濵町、興善町、万才町、五嶋町)は、10月7、8、9日の本番に向け日々の稽古に余念がありません。夕方頃長崎の中心市街地にいると、踊町の人々が神社や公園などの稽古場へ向かって練り歩いている姿をよく目にします。総仕上げも近いこの時期、諏訪神社では本番さながらのお稽古も行われていました。龍踊を奉納する五嶋町は、従来の青龍と、この夏完成したばかりの新しい龍が迫力あふれる演技を見せ、見物客たちの拍手喝采を浴びていました。  この日の稽古では、外国人の姿が目立ちました。朝から長崎港に客船「ダイヤモンド・プリンセス」(116,000トン)が入港していて、乗客の一部が見物に来ていたようです。彼らは、五嶋町の子供達がドラやラッパで奏でる龍踊りの音色にも興味を示していました。  9月も2週目に入り、お天気もようやく秋らしい晴れ間が続くようになりました。本格的な祭りやイベントの季節の到来に、週末は予定がいっぱいという方も多いことでしょう。長崎新地中華街では昨日まで「中秋節」(9/5~9/9)の催しが行われていました。「中秋節」とは、旧暦8月15日の満月をはさむ期間をいい、月を愛でて収穫を祝う行事です。中国ではとくに一家団欒の行事としてとらえられ、家族で手作りの月餅(げっぺい)を食べる風習があるそうです。日本ではいわゆる「中秋の名月」を見上げながらお団子を食べたりしますが、中国由来の風習であることは言うまでもありません。  「月餅」は、木の実やあずきココナッツなどで作った餡に、松の実、クルミ、ナツメ、レーズン、ナッツ、クリなどの実が入った栄養価の高いお菓子です。今回、月餅を作ってみようと思いましたが、成形のときに使う模様が彫られた木型が手に入らず、断念。以前、長崎の古道具屋さんで見かけたことがあったのですが…。香港などでは手に入れやすいそうです。  目にもあたたかな黄色のランタンが頭上を埋め尽くし、アットホームな雰囲気が漂う「中秋節」。期間中、長崎新地中華街では龍踊りや中国獅子舞なども登場し、来場者を楽しませてくれます。会場にいると中国語や韓国語など、あちらこちらでアジアの言葉が飛び交い、「ああ、長崎らしいな」とあらためて感じたりします。冬場に開催する「長崎ランタンフェスティバル」ももちろん素敵ですが、「中秋節」の方が小規模な分、より親しみが感じられるという人もいます。   家族や友人たちと秋の夜長のひとときを楽しめる「中秋節」。長崎の秋のもうひとつの祭典として、今後さらに注目を浴びそうです。

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  • 第457号【夏におすすめの冬瓜のスープ】

     大雨による河川の氾濫や土砂災害が起き、各地で心配が続いています。被害にあわれた方々には心からお見舞い申し上げます。  全国的に天候不順が続いたこの夏。長崎も雨や曇天の日が多く、まぶしい青空が広がる日がなかなかありませんでした。お盆前から秋めいた風が吹き抜けることもあり、「今年は、夏は無かったね」なんて言う人も。ただ、梅雨のような蒸し暑さが続いたせいもあって、8月も終わろうとしているこの時期、ちょっとバテ気味という人も多いようです。  そんな体におすすめの食材が、とうがん(冬瓜)です。夏の薬膳料理にも使われる食材のひとつで、体の中の余分な水分を排出させるはたらきがあり、むくみを改善します。さらに、のどの渇きを癒したり、熱中症を予防するはたらきもあるとされています。  とうがんは長崎では、「とうが」と呼ばれていて、お盆の前あたりから店頭で切り売りされているのを見かけるようになります。旬の野菜だということもありますが、長崎には8月15日に精霊流しを終えた翌日、精進落ちとして鶏肉と冬瓜を炊いたスープをいただく風習があるのです。それは、夏の疲れがでる時期にも重なり、本当に利にかなった風習なのでありました。   熱帯アジア原産のとうがんは、冬まで保存がきくことからその名がついたといわれていて、平安時代にはすでに食べられていたそうです。味も香りも淡白なので、出汁を十分に吸わせて炊くとおいしい。鶏肉との相性が良く、中国には中央の種の部分をくりぬいて鶏のスープを詰めて蒸した定番料理があります。長崎の「鶏肉と冬瓜のスープ」は、もしかしたら中国ゆかりの料理なのかもしれません。  「鶏肉と冬瓜のスープ」は材料も作り方もとてもシンプルです。角切りにした冬瓜、食べやすい大きさに切った鶏肉、キクラゲを水から煮て、具材が煮立ったら、淡口しょうしゅやコショウなどで調味し、刻んだ小ネギをチラシして出来上がりです。炊いてる途中、こまめにアクをとるのが、おいしいスープのコツです。炊いた冬瓜は口当たりもトロリとやさしく、冷やしてもおいしくいただけます。  具材のひとつ、キクラゲは「ちゃんぽん」にもかかせない食材です。豊富な食物繊維と鉄分で、貧血の改善にも役立つなど女性にうれしいはたらきがあります。鶏肉は、胃腸が弱って食欲や気力が無いときにおすすめの食材です。  「鶏肉と冬瓜のスープ」にもっとボリュームがほしければ、緑豆春雨を加えるといいでしょう。原料の緑豆は、体にこもった熱をとり、老廃物の排出を助けるはたらきがあります。   ひとの体に良い作用をもたらすといわれる旬の食材。今夜あたり、「冬瓜と鶏肉のスープ」でお試しになってみませんか。体がホッとしますよ。

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  • 第456号【思い出の昭和30年代】

     お盆休みで帰省して家族や友人たちと和やかなひとときをおくっている方も多いことでしょう。港や市街地を望む山の斜面にお墓が連なる長崎。夕方近くになるとお墓に一家が揃い、オトビヤ、ヤビヤなどと呼ばれる小型の花火を上げる光景が見られます。  そして、あさって15日は伝統行事の「精霊流し」が行われ、長崎の夜は爆竹の音と煙、そして大勢の人々の熱気に包まれます。小さなまちなので、帰省中の友人、知人と久しぶりに顔を合わせたりするという楽しみもあります。お盆休みは、故人を偲んだり、懐かしい人と出会ったりして、思い出にひたることも多々あります。半世紀前をふりかえってみましょう。  いまからちょうど50年前の昭和39年(1964)は、東京オリンピック開催の年でした。「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子バレーボールチームとソ連との決勝を、モノクロのテレビで観戦したことを憶えている方もいらっしゃるでしょう。ちなみにカラーテレビが一般に普及したのは1960年代後半に入ってから。オリンピック当時は、カラーで放送する番組はとても少なかったそうです。  東京オリンピック開催の9日前には東海道新幹線が営業を開始し、新幹線「ひかり」が東京~新大阪間を4時間で走り抜けました。この「夢の超特急」開通について、現在70代のある男性は、「当時は東京~大阪間を日帰りできることに驚いたけど、まさか、それ以上に速くなるとは思いもしなかった」と言います。現在、東京~大阪間は「のぞみ」で2時間35分です。  高度経済成長期の真っただ中にあった昭和39年は、「みろく屋」が創業した年でもあります。日本中が未来に向かって力強く突き進むなか、長崎もまた観光都市、造船のまちとして活気にあふれていました。一方で、その時代(昭和30年代)は、かすかに戦後復興の空気も残っていたそうです。  昭和20年8月9日の原爆で大きな被害を受けた長崎市。戦後復興対策のひとつとして、観光産業の活性化にも力をそそぎ、昭和25年には「日本観光地百選」で1位に選ばれました。原爆で全焼した長崎県庁は昭和28年に新装され、市内の観光スポットも次第に整えられていきました。昭和30年代に入ると、長崎県立図書館や長崎市公会堂など、市民が集い文化を育む施設も次々に建てられました。そして観光都市長崎は、戦前をしのぐ数の観光客が訪れるようになったといいます。  昭和30年代に発行された長崎の絵はがきを見ると、「浦上天主堂」、「グラバー園」、「眼鏡橋」、「オランダ坂」など、当然ながらいまと同じ観光スポットが描かれていますが、いまよりも情緒があり、懐かしさが感じられます。意外だったのは、現在、10数棟の建物が復元され、大勢の観光客が往時の様子を楽しんでいる「出島」が、昭和30年代は、敷地内外の整備が少しずつ進められている段階で、いまほど観光客に注目されていなかったようだということです。   激動の時代に翻弄されながらも、懸命にくぐりぬけてきた長崎の数々の観光スポット。あらためて見直せば、日本の近世、近代、そして現代の姿があざやかによみがえります。   ◎参考にした本/『日録20世紀~1964~』(講談社)、『長崎市史年表』(長崎市)、『長崎への招待』第2版(長崎文献社)

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  • 第455号【夏、到来!涼を求めて轟の滝ほか】

     梅雨雲におおわれ、雨に煙る長崎の風景は先週まで。いよいよ本格的な夏の到来です。さっそく涼を求めて多良岳(983m)にある轟峡(とどろききょう)へ行ってきました。多良岳は、佐賀県と長崎県の県境に連なる多良山系の中心に位置する山。自然が豊かでモミの原生林やツクシシャクナゲの群落、天然記念物のヤマネ(体長約8cmのヤマネ科の哺乳類)など希少な動植物が生息しています。  大小30余りの滝を有する轟峡は、水量豊富な清流の地としても知られ、『日本名水百選』、『日本水源の森林百選』にも認定されています。もっとも代表的な滝は高さ12メートルの「轟の滝」で、毎年夏になると多くの観光客が訪れます。清流の水しぶきと豊かな緑のおかげで、空気は冷んやりとしておいしい。平地ではすでに咲き終えたアジサイが、ちょうど満開を迎えたところでありました。  シーズンのみ開業する滝近くにある食堂では、名物のそうめん流しのほか、地元、高来町で栽培・製造される「高来そば」も最近、出されるようになったようです。「高来そば」は、香り高くコシがあるそばで、この地域の農家で食べ継がれてきたもの。そばのゆで汁とともに食べるのが昔ながらの食べ方だそうです。訪れた日は、お店は休み。そばは、次の楽しみにして轟峡をあとにしました。  観光スポットが集中する長崎市街地で涼を求めるなら、眼鏡橋がかかる中島川がいいかもしれません。清流とはいえませんが、川の水の流れは見ているだけでも涼しげで気が休まります。ところで先日、眼鏡橋を渡っていたら、近くのビルの屋上にとまっていたトンビがスーッと急降下。川面近くに落ちていたお菓子のかけらをつかんで再び舞い上がって行きました。めざといトンビに妙に感心しながら、ふと思い出したのが、「トンビがタカを生む」ということわざ。広辞苑には「平凡な親が、すぐれた子供を生むことのたとえ」とあります。  昔の人が思うほど、トンビはさえない鳥ではないと思うのですが、「トンビがタカを生む」と同じような意味で、長崎地方で使うのが、「唐墨親子(からすみおやこ)」という言葉です。三大珍味のひとつとされる長崎名物の「唐墨」は、ボラという魚の卵巣を塩漬けにして干したものです。親のボラより、子(卵巣)の方が価値が高くなるからだそうです。   江戸時代、隠元禅師が中国・福建から長崎にやってきたときに伝えたとされる「西瓜(すいか)」にも同じような意味で、「西瓜の蔓に瓜がなる」ということわざがあります。瓜の方が高価という意味なのでしょうが、西瓜は近年、薬効が見直されている食材のひとつなので、このことわざは使いづらくなるかもしれません。薬膳でいうと西瓜は、体にたまった熱、暑さを取り除く作用のある寒性の食材で、多汗、目の充血、喉の渇きや傷みなどに効果があるとされています。とにかく夏におすすめの西瓜ですが、だからと言って、食べ過ぎにはご注意を。体を冷やし過ぎて、お腹をこわしたりしますから。

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  • 第454号【福祉事業の先駆け、ミゼリコルディアの組】

     7月に入り中島川にかかる桃渓橋(ももたにばし)の下では、小規模ながら群生したオレンジ色のカンナが満開を迎えました。カンナの原産地は、中南米や熱帯アジア。赤、黄、オレンジなどの鮮やかなカラーと、フリルのようなおおぶりの花びらがいかにも南国出身らしいエキゾチックな表情です。コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰った植物のひとつともいわれていて、日本へは江戸時代初期に渡来したそうです。最初に入って来た地が長崎だったのかは不明。大陸から琉球を経て薩摩へ渡ったルートなども考えられます。 カンナの話から打って変って、いまから400年以上も前の戦国時代、長崎を舞台に実践された社会福祉事業の話です。南蛮貿易港のまちであり、キリシタンのまちでもあった当時の長崎。周囲に石畳が敷かれた教会がいくつも建ち並び、教会の祭日ともなると司祭やキリシタンによる祝いの行列が見られました。外国人が自由に歩いていた街角では、白パンを焼く匂いが漂っていたと伝えられています。そうしたまちの様子は「小ローマ」と呼ばれるほどでありました。 一方で、ポルトガル船が入港するたびに、日本各地から商人やキリシタンをはじめ、さまざまな人々が押し寄せるようにやって来た長崎は、浮浪者なども増え治安が悪化したといいます。そうしたなか、1583年(天正11)年に創設されたのが「ミゼリコルディアの組」という福祉団体でした。 「ミゼリコルディア」とは、ポルトガル語で「慈悲」という意味です。創設者はキリシタンで、堺の金細工師だったジュスティーノ山田という人物とその妻。創設や運営に全財産を投じたと伝えられています。キリシタンたちによって運営された「ミゼリコルディアの組」は、病院と困窮した高齢者や孤児のための施設も設け、病気やケガの人の手当をし、困窮者に食べものや衣服を与え、行き倒れの人を助け最後をみとって埋葬まで行いました。戦国時代にあってのそうした行為は、周囲の人々に驚きと感動を与えたようです。「ミゼリコルディアの組」の病人や死者に対する献身的な態度は、キリスト教の教えにもとづく「慈悲の所作」、すなわち隣人愛の実践でありました。 現在、長崎地方法務局(長崎市万才町)の場所に、「ミゼリコルディアの組」の施設は設けられていました。その墓地は長崎市役所がある桜町付近で、当時はその一角に大きな十字架が掲げられていたことから、「くるす町」と呼ばれていたと伝えられています。彼らの活動にかかる費用は、キリシタンによる献金や長崎のまちの有力者らの寄付によって賄われたそうです。  周囲から「慈悲屋」と呼ばれていた「ミゼリコルディアの組」。文字通り慈悲にあふれたその活動は、宗教を超えて人々の心に届いていたことがうかがえるエピソードがあります。1614年(慶長16)、幕府の命で厳しいキリシタン弾圧が行われ、宣教師らは国外に追放、長崎のまちのほとんどの教会が破壊されましたが、「ミゼリコルディアの組」の施設には弾圧の手は下せなかったそうです。 しかし、その後キリシタン弾圧はさらに強まり、1620年(元和6)に施設は破壊され、跡地には大音寺が建造されました(大音寺はのち移転)。長崎地方法務局脇に建つ「ミゼリコルディアの組」の碑には、『最初の民間社会福祉事業が、ここで行われた』と記されています。  ◎参考にした本/『四季の花色大図鑑』(講談社 編)、『長崎 東西文化交渉史の舞台 ~ポルトガル時代 オランダ時代~』…「教会のある町長崎」(片岡千鶴子)、『長崎県大百科事典』(長崎新聞社)

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  • 第453号【旅と学問の人、ケンペル】

     アジサイの見頃が過ぎた長崎。石橋群で知られる中島川の近くで、ノウゼンカズラが橙色の花を咲かせていました。日照りに強いこの植物は、真夏の花として知られています。長崎が日本の西に位置することもあってか、植物図鑑に記された時期より半月~1カ月ほど早い開花。たぶん九州のほかの地域でも咲きはじめていることでしょう。  前回はシーボルトとアジサイにまつわる話でしたが、今回はシーボルトと同じオランダ商館医だったエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)についてのよもやま話です。ケンペルはその突出した功績でのちにシーボルト、ツュンベリーとともに、出島の三学者のひとりに数えられる人物です。彼らの功績とは、来日中に日本の自然や文化などを熱心に研究し、医学をはじめとする西洋の知識を伝えたこと。そして帰国後、日本での研究を書籍にしてヨーロッパ諸国に広く紹介したことなどがあげられます。  オランダの東インド会社から出島に派遣された三学者たちの来日時期は、早い順にケンペル1690年(元禄3)、ツュンベリー1775年(安永4)、シーボルト1823年(文政6)です。ケンペルから133年後のシーボルトは、ケンペルやツュンベリーが日本について記した本に大いに学んで来日。彼らの研究をもとに日本での成果をあげました。出島にはシーボルトが建立したケンペルやツュンベリーの偉業を讃える記念碑がいまも残されています。  ケンペルは、ヨーロッパのレムゴ(現在のドイツ・レムゴ市)生まれ。父は牧師で教育熱心な家庭に育ちました。法学者で政治家、ヘブライ語学者で牧師となった兄弟がいて、ケンペル自身も哲学や歴史、ヨーロッパの言語、医学などさまざまな分野の学問を複数の大学で学んでいます。  ケンペルを語るときのキーワードは「旅」と「学問」といえるほど、その人生は未知なるものを知りたがる情熱と行動力にあふれていました。日本に来る前にはスウェーデン、ロシア、イランなどの各都市を訪れながら、測量や風物スケッチの腕を上げたといわれています。  好奇心の果てに、縁あって日本を訪れたケンペル。滞在は2年余りで、江戸参府も2度経験。帰国後ケンペルが著した『日本誌』には、動植物から社会、政治、風俗など元禄時代の日本が驚くほど詳細に記されていて、当時を知る貴重な史料になっているそうです。ちなみに江戸参府行列のケンペルのスケッチに残された小さな横顔の自画像から、顔は面長、鼻の下にちょび髭らしきものがあり、髪は軽くウエーブのかかったセミロングであることがわかります。  『日本誌』には将軍綱吉への拝礼のあと、さまざまな質問を浴びせられ、あげくケンペルが歌ったり、踊ったりしたことが記されていて、このときの部屋の様子や人物も細かなスケッチで残されています。また、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉する国であることなども指摘していて、この文面をのちに志筑忠雄が「鎖国」と訳したことは有名な話です。  ケンペルが当時の日本について記したものから感じられるのは、その視野の広さと細かさ、そして洞察力です。しかし、彼のまなざしは多岐多様にわたるがゆえにとらえようがなく、それで印象が薄くなっているのか、シーボルトよりも一般には知られていない気がします。一方でケンペルは、『ガリバー旅行記』のガリバーのモデルのひとりともいわれ、また日本の名著、島崎藤村の『夜明け前』にも登場しています。実はケンペルに関する研究では、近年になってオランダ通詞今村源右衛門がケンペルの弟子であったことがわかるなど、まだまだ知られていないことがたくさんあるようです。今後のケンペルに関する研究に期待したいところです。   ◎参考にした本/『~礼節の国に来りたりて~ケンペル』(B・M=ベイリー著)、『ケンペルやシーボルトが見た九州、そしてニッポン』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編)、『ケンペルとシーボルト』(松井洋子著)、『江戸参府旅行日記』(ケンペル著・斎藤信訳)

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  • 第452号【アジサイのまち、ナガサキ】

     ペラペラヨメナ。ピンクと白の二色の小さな花を咲かせるキク科の植物で、長崎では湿気の多い石垣などで見かけます。中央アメリカ原産の帰化植物で、かつてはゲンペイコギクの名で園芸店などで販売されていたそうですが、いまではすっかり野生化し、温暖な地域の街角に咲く花となっているようです。  ペラペラヨメナのように、ときどき名前を聞いて「クスッ」と笑ってしまう植物があります。葉が細くペラペラしていて、花もヨメナに似ているから、そう付けたのでしょうか。名付け親は、キク科植物研究の第一人者であった北村四郎博士(1906-2002)だそうです。昭和天皇の植物学研究の相談役もつとめられた北村博士。「ペラペラ」と軽やかな名の付け方に人柄までも想像し、またまた「クスッ」としてしまいます。  一方で、植物に名前を付けるとき、特別な思いを託すケースも少なくありません。1823年(文政2)に来日した出島の商館医シーボルト(1796-1866)は、日本で初めて出会った美しい花に、愛する人の名を付けました。「Hydrangea Otakusa」(ヒトランゲア オタクサ)。それは薄紫色がかったブルー系のアジサイ。「Hydrangea」はラテン語でアジサイ属を意味し、「Otakusa」がその女性の名です。  シーボルトが思いを寄せた長崎の女性は「楠本たき」といい、周囲の日本人は「おたきさん」、シーボルトは「オタクサ」と呼んでいました。当時、シーボルトは出島で診療したり、鳴滝塾で指導などを行うなか、日本のアジサイも研究。「Hydrangea Otakusa」を含む十数種類のアジサイを、帰国後に著した『日本植物誌』で紹介しています。その中に、「Hydrangea Otakusa」は、長崎の中国系のお寺で見つけたと記されているそうです。ちなみに現在、「Hydrangea Otakusa」の学名は使われていません。  今年もアジサイが見頃を迎えるのを待って、「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝)へ出かけました。江戸時代、西洋の新しい知識を得ようと日本各地から若者が集まった鳴滝塾の跡にあるこの記念館は、アジサイの季節に合わせて「Hydrangea Otakusa」のエピソードにちなんだ小さな企画展が開かれています。今年は「シーボルトとオタクサ」と題した企画展で6月15日(日)まで開催。シーボルトの先駆けとして日本の植物を研究したケンペルとツュンベリーのこと、またシーボルトの日本での研究を支えた伊藤圭介や、シーボルトがおおいに引用し、参考にした日本の本草学者・水谷豊文の『物品識名』などを紹介しています。  さて、この時季まちを歩けば、あちらこちらでアジサイを目にする長崎。眼鏡橋がかかる中島川界隈でも、「ながさき紫陽花(おたくさ)まつり」が行われていて(6月15日まで)、約10種類のアジサイが川沿いを彩り、行き交う人の目を楽しませています。  ところでアジサイは、酸性土壌だとブルー系、アルカリ性土壌だとピンク系になる言われています。それで日本はブルー系が多く、ヨーロッパあたりではピンク系ばかりだとか。長崎市南山手にある長崎地方気象台の庭に咲くアジサイは、同じ場所に咲きながら白、ピンク、紫、青と色々な色がありました。こうした七変化は、日本ではめずらしくありませんが、どうして色が一定しないのでしょうか?  ま、そういう疑問はさておき、雨の季節だからこそ、その美しさが際立つ、アジサイのまちナガサキへ、どうぞ、お越しくださいませ。   ◎参考にした本/『スキマの植物図鑑』(塚谷裕一)

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  • 第451号【もっと知りたい、オランダ通詞のこと】

     江戸時代、出島でオランダ語の通訳や貿易業務などに従事したオランダ通詞。基本的に世襲で職務が継承されていく長崎の地役人のひとつで、オランダ通詞の家は幕末までに30数家あったとか。主な家として、西、吉雄、石橋、楢林、中山、本木などが知られています。  年に一度、長崎港にオランダ船が入ったときに商品の荷揚げに立ち合い、通商の書類をつくるなどの貿易事務と、その船に乗ってきた新しい商館長や船長から提出される世界情勢を記した「風説書」の和解(翻訳)がオランダ通詞の重要な職務でした。1820年に川原慶賀が描いたとされる「長崎出島の図」を見ると、西側の荷揚げ場近くに「通詞部屋」があります。オランダ通詞たちは出島の最前線にいて、西洋の文物を受け入れる仕事をしていたのです。 大音寺(長崎市寺町)の後山にあるオランダ通詞・中山家の墓地をたずねました。樹木に囲まれたその墓地は、とても静かで眺望もよく、お墓でこんなにくつろいでいいのかと思うほど、気持ちの良いところでありました。  中山氏は江戸時代、8代に渡ってオランダ通詞を勤めた家です。6代目の作三郎武徳は、御用和蘭字書翻訳認掛を命じられ、当時のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの指導により蘭日対訳辞典『ドゥーフ・ハルマ』の編纂に携わりました。幕末期にもっとも使用されたといわれる『ドゥーフ・ハルマ』。明治期に活躍する人物を多く輩出した大坂の緒方洪庵の塾では、「ドゥーフ部屋」を設けてこの辞書を置き、塾生らの蘭学の勉強におおいに役立てたといわれています。 ところで、オランダ語に秀でた作三郎武徳の門弟には、シーボルトの鳴滝塾の初代塾頭として知られる美馬順三がいました。鳴滝塾でシーボルトに学ぶために集まった各地の俊才たちは、同時にオランダ通詞らにも学んだといわれ、美馬も作三郎武徳に学びながら、シーボルトへ提出するレポートを仕上げたりしていたのでしょう。そうした師弟の縁があってか、25基の墓碑が並ぶ中山家の墓地の端には、31歳で亡くなった美馬のお墓もありました。  江戸時代を通じて、もっとも著名なオランダ通詞をあげるならば、やはり吉雄耕牛(1724-1800)でしょう。53年間もオランダ通詞を勤めた大御所で、門人は1000人に及び、また『解体新書』の序文を寄せたことでも知られています。屋敷は、出島や長崎奉行所西役所にほど近い平戸町(現・万才町)にありました。その2階には望遠鏡や天球儀など西洋の文物が豪華に置かれた「オランダ座敷」があり、三浦梅園をはじめ各地の長崎遊学者らが大勢たずねたといわれています。  吉雄耕牛の息子の権之助もまた優秀なオランダ通詞でした。父そして「鎖国」という言葉(訳語)を生んだ志筑忠雄(天文学者/わずかな期間だが、オランダ通詞だった時期もある)に学び、開国うんぬんで揺れ動く幕末に活躍しています。中山作三郎武徳が携わった『ドゥーフ・ハルマ』の編纂においては、この権之助が中心的存在でした。  吉雄家の墓地は、禅林寺(長崎市寺町)にあります。訪れる人が意外に少ないようで、お墓は雑草に覆われていました。江戸で活躍した蘭学者たちが後世に名を残す一方で、彼らの知の源となったオランダ通詞たちのことは、あまり知られていません。あらためてオランダ通詞の活躍を見直す必要があるように思われます。  ◎参考にした本/『長崎通詞ものがたり』(杉本つとむ)、若木太一監修『長崎東西文化交渉史の舞台』…「長崎遊学者その後」(本馬貞夫)、『貿易都市長崎の研究』(本馬貞夫)、『長崎百科事典』(長崎新聞社)、『長崎地役人総覧』(簱先好紀)

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  • 第450号【クスノキと長崎】

     沖縄地方は一足先に梅雨入り。一方、九州北部の長崎はさわやかな日差しを浴びながら風香る季節を満喫中です。先週日曜の朝、長崎港の「長崎水辺の森公園」へ散歩に出ると、クルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス」(115,875トン)が、松が枝岸壁に停泊していました。「ダイヤモンド・プリンセス」は、10年前、三菱長崎造船所で建造されたもの。ときどき国内外の観光客を乗せて長崎港へ里帰りしています。その白い船体を背景に、公園では太極拳を楽しむ人々の姿がありました。長崎とゆかりの深い中国がルーツの太極拳。平和な五月の空の下、のどかで美しい光景でありました。  余談ですが、この日、長崎港(出島岸壁)には、「ロゴス・ホープ」という船も停泊中でした。新聞報道によると、世界で最大級ともいわれる書店船(125,000トン)だそうで、ドイツのキリスト教系団体の慈善事業のひとつだとか。50万冊もの書籍を積んで世界中を巡っていて、日本へは今回が初寄港だったそうです。  いろいろな船が行き交う港から周囲の山々を眺めると、緑色の濃淡も鮮やかに、まるでブロッコリーのように樹木が生い茂っています。なかでも、明るい黄緑色をしたクスノキの姿が目立ちます。もともと長崎はクスノキの多いまちで、樹齢数百年と思われる自生の大木も少なくありません。秋冬は緑色の葉も、この時期は新緑と小花で、黄緑色に輝くのです。  クスノキは、葉や枝に樟脳を含み、ちぎるとスッとした香りがしますが、開花の時期にはさわやかさに甘さの加わったいい香りを漂わせます。南蛮貿易港として長崎が歴史の表舞台に躍り出るずっと以前から、季節が巡るとその香りを放ち、山々を黄緑色に輝かせていたクスノキ。自然の営みは、長崎港で起きていることなど、どこ吹く風だったのかもしれません。  眼鏡橋より少し上流にある光永寺。そのお寺の前にかかる一覧橋のたもとにも、老齢と思われるクスノキがあります。光永寺は、幕末、若き日の福沢諭吉が蘭学を学ぶために長崎で過ごしたとき、一時寄宿したお寺です。お酒もあまり飲まずまじめに勉強していたという諭吉の長崎での様子は「福翁自伝」にも記されています。   当時の長崎には、のちに明治政府の要人となる人物たちが多数訪れていて、諭吉はこのときの長崎滞在で、のちの活躍に通じる人脈を築いたといわれています。長崎でつながった人の縁は、水面下で複雑にからみあい、間もなく訪れる新しい時代を大きく動かす力になったことでしょう。諭吉も目にしたはずのクスノキを眺めていると、そうした歴史の光と陰をあれこれ想像して、このまちの歴史風土の特異さをあらためて思うのでした。

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  • 第449号【唐あくちまきと長崎港】

     4月の陽気に誘われてまちを歩けば、早くも鯉のぼりを立てているお宅がチラホラ。一緒にいた70代の女性が、「長崎の五月の節句といえば、唐あくちまきと柏餅。我が家でも以前は必ず作って供えていたのよ」。しかし、息子さんたちが進学や就職で親元を離れてからは、作ることもなくなったとか。そんな話の後、急に食べたくなって、おまんじゅう屋さんで「唐あくちまき」を買い求めたのでした。 さらしで作った棒状の袋入りで売られている「唐あくちまき」。端午の節句を前にした時期から特に需要が増えるようで、店頭でよく見かけるようになります。「唐あくちまき」は文字通り、ちゃんぽん麺にも欠かせない「唐あく」を使ったちまきです。「唐あく」を溶かした水を餅米に吸水させ、さらし袋に入れ、2時間ほどゆでて作ります。さらし袋から取り出した棒状のちまきは、糸を使って切り分け、きなこや砂糖などをかけていただきます。「唐あく」独特の風味と、飴色をした餅米のねばり。クセになるおいしさです。 「唐あくちまき」は中国にゆかりの深い長崎で、すでに江戸時代には食されていたことがわかっています。地元の料理研究家の方によると、「唐あく」はアルカリ性なので、肉食などで酸性に偏りがちなときに、唐あくを使った食品を食べると良いとか。また、唐あくは漢方薬のひとつであり、「身体の邪気を払う」ともいわれているそうです。  「唐あくちまき」の入った袋をぶら下げて、「長崎水辺の森公園」へ。長崎港に面したこの公園では、風のいい日にはハタ揚げを楽しむ光景が見られます。この日、大きなクルーズ客船の姿がありました。「セレブリティ・ミレニアム」という約91,000トンの船で、先月長崎に入港した「クイーン・エリザベス」にも匹敵する巨大さです。もうすぐやってくるゴールデンウィーク(4/26~5/6)中には、長崎港に計6隻のクルーズ客船が寄港する予定です。 ゴールデンウィークは、長崎港から目が離せません。この時期恒例の「長崎帆船まつり(4/27~5/1)」も開催され、「日本丸」ほか「パラダ」(ロシア)、「コリアナ」(韓国)などの美しい帆船が港に集い、関連イベントで賑わいます。 長崎港での催しを楽しむために「長崎水辺の森公園」を訪れたら、ぜひ対岸の造船所にも目を向けてみてください。世界遺産に推薦されている『明治日本の産業革命遺産』の構成資産のひとつである「ジャイアント・カンチレバークレーン」の姿が確認できます。これは、いまから100年以上も前に三菱長崎造船所に建設された日本で初めての電動クレーン(高さ61.7m)で、いまでも荷物を積む際に使われているそうです。 440年以上も前に遡る開港前までは、日本の津々浦々で見られるような何の変哲もない入り江のある村だった長崎。その後、中国、ポルトガル、オランダとの貿易が行われ、明治に入ると近代化に突き進む日本を象徴する造船所ができるなど歴史に残るさまざまな光景が繰り広げられてきました。「唐あくちまき」もこうした歴史のなかで、中国から伝わり長崎の食文化として根付いたのです。いまは、人々の笑顔が集うこの港で、潮風に吹かれながらめくるめく歴史を振り返ってみるのもいいかもしれません。 ◎参考にした本/「長崎の菓子~甘味のちゃんぽん文化~」(大坪藤代 著)、「広報ながさき759号」(長崎市)

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  • 第448号【長崎・春便り】

     いま東日本を北上中の桜前線。一方、3週間ほど前に開花した長崎は、4月に入る直前の春の嵐でソメイヨシノはいっきに花びらを落としはじめました。沿道の桜並木から舞い散る花びらのなかを、小さな路面電車がくぐりぬける様子はまるで映画のワンシーンのよう。春、ほんの数日しか出会えない風景です。  一足先に新しい季節がやってくる九州。日中の日差しは、早くも初夏の気配が漂い、長崎港を囲む山々の緑も日々まぶしくなっています。眼鏡橋がかかる中島川では、イソヒヨドリがさえずり、ムクドリが水浴びをするようになりました。ちなみに青色と赤褐色のコントラストが美しいイソヒヨドリは雄で、雌は全身が暗褐色の地味な姿をしています。全国の海岸などに繁殖し、長崎でも港の岸壁あたりだと見つけやすいです。  中島川を上流(片淵方面)に向かって歩くとマガモの姿がありました。黄色いクチバシ、緑色の頭、こげ茶色の胸、白い首輪など色鮮やかな姿をしています。これは雄で、雌は全身が黒褐色をしています。マガモは、以前はもっと下流の眼鏡橋界隈にいましたが、一昨年くらいから姿を見かけなくなっていました。餌のある草地を求めて上流へ移動したのかもしれません。ちなみにマガモは全国的に見られる水鳥ですが、一部の地域では軽度に絶滅の危機が懸念されるとしてレッドリストに載っているとか。これからもマガモを見守っていきたいものです。  まちのあちらこちらで、春のやわらかな野草の生い茂るさまを見ると、ときに雑草と呼ばれる植物のたくましさを思い知らされます。うつむきかげんに紫色の花をつけるスミレ。「山路来て何やらゆかしすみれ草」(芭蕉)、「菫ほど小さき人に生まれたし」(夏目漱石)などの句からもうかがえるように、その姿は日本人の感性をくすぐるのですが、その可憐な姿とはうらはらに、スミレ自身はたいそうしたたかです。あんな小さなカラダでタネを3メートルも飛ばしたり、またアリを利用していろんなところに運んでもらったりして長く生き残ってきました。  ギザギザの葉を持つタンポポは、葉を地面のすぐ上で放射状に伸ばしています。このような付け方をした葉を「ロゼット葉」といいますが、これは、その植物が踏まれる事を前提にした生育の仕方。踏み付けられるからはじめから上に伸ばさないそうです。茎の方は基本、まっすぐに伸びて花を咲かせますが、踏み付けに対する耐性を持っていて、何度が踏まれると、茎を横に伸ばして花をつけるそうです。  踏まれたら立ち上がるという無駄な努力はせず、踏まれながら生きる知恵を働かせるロゼッタ葉の野草。帰り道、路上販売のわらびやタケノコを買い求めながら、自然界の奥深さを思うのでありました。  ◎参考にした本/「野鳥ガイドブック」(志村英雄、山形則男、柚木修 共著)、「雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方」(稲垣栄洋 著)

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  • 第447号【マルコ・マリ・ド・ロ神父のこと】

      フランス北西部に位置するノルマンディー地方。世界遺産の『モン・サン=ミシェルとその湾』があることで知られています。サン・マロ湾に浮かぶこの孤島の聖地から、そう遠くないところにヴォスロールという農業や酪農の盛んな村があります。そこは、今回ご紹介するマルコ・マリ・ド・ロ神父の故郷。自然豊かな風景のなかに石造りの教会や古城などが点在する美しい村です。    ド・ロ神父(1840-1914)は、明治時代、長崎のキリシタンゆかりの地である外海(そとめ)という地域で、私財を投じて、教会堂の建設や医療・福祉活動、土木・農業分野での技術指導、さらにはソーメンやパン、マカロニなどの製造と販売、イワシ網工場の設計・施工などを行い、貧困にあえいでいたこの地域の人々の暮らしの支援に生涯を捧げた人物です。現在、活動の中心地となった外海の「出津(しつ)」というところには、ドロ神父が手掛けた出津教会、旧出津救助院などがあり、イワシ網工場だったところは、「ド・ロ神父記念館」として、活動の足跡を紹介する施設になっています。    ド・ロ神父の人類愛に満ちあふれた偉業を知るにつれ、気になったのが、その生い立ちや人柄でした。これまで幾度か外海に足を運んだ際に出会ったシスターや地元の方の話、そして、ド・ロ神父について書かれた本などから伝わってきた人物像は、「日だまりのような人」。明るくユーモアがあり、外海の人々にたいへん慕われていたそうです。ド・ロ神父のもとには、子どもたちがよく集まり、そのなかには黒い司祭服を握りしめて離さない子もいました。そのためド・ロ神父の衣服の腰あたりは、かわいい手の仕業でいつもテカテカしていたとか。「ド・ロ神父記念館」の前に建つ銅像を見るたびに、このエピソードを思い出します。    ド・ロ神父は、ノルマンディーの貴族の出身。広大な農場を持つ家は、たいへん裕福だったそうです。『神父ド・ロの冒険』(森禮子 著)によると、両親は堅実で、子育てもしっかりしていました。三人の息子(ド・ロ神父は次男)には、あえて牧場や農場で働かせ、牧畜や農業、大工、石工、鍛冶などの仕事を覚えさせたといいます。末の一人娘にも、裁縫、刺繍など手仕事を身に付けさせました。こうした教育方針は、当時のフランス社会が不安定だったことから、子どもたちがどんな時代でも生きていけるようにという親心からだったようです。その頃のド・ロ神父は、冒険を好み、ときにはいたずらもする活発な子だったと伝えられ、厳しくも温かな両親のもと、幸せな日々を過ごしたようです。    この両親は、のちに息子が殉教もいとわぬ覚悟で日本へ向かうことになったとき、日本での活動資金として多額のお金を持たせました。また、教会の炊事をしていた年老いた女性もコツコツと貯めた老後の資金をド・ロ神父に託しました。当時、フランスのカトリックの人々は、幕末の動乱期にあった日本で激しいキリシタンの迫害が起きていることを知っていて、彼らが渡した多額のお金には、ド・ロ神父の身を案じると同時に、日本のキリシタンに対する同情もあったのだろうと、森氏は同書に記しています。    偶然にも、きょう3月26日はド・ロ神父の誕生日。28歳で日本に渡り、一度も帰郷することなく、74歳で長崎で没しました。それから100年以上経った現在もこうして語り継がれるとは、ご本人も想像していなかったはず。現在、ド・ロ神父は、自ら建設にあたった出津の野道共同墓地に静かに眠っています。墓地内にはどこか西洋の古城を思わせる石積みがあり、ノルマンディーの村を彷彿させます。   ◎参考にした本/「神父ド・ロの冒険」(森禮子 著)、「外海~キリシタンの里~」(外海町役場)、

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  • 第446号【春よ、来い】

     3月に入ってからも猛吹雪や積雪など真冬並みの厳しい天候で、たいへんな思いをされている地域の方々へ、心よりお見舞い申し上げます。一日も早く、全国各地に穏やかな春がやってきますように。  こちら九州・長崎は、ずいぶん春めいては来たものの、この時季から多くなる黄砂に見舞われたりしながら、三寒四温の天候が続いています。風はまだまだ冷たく、石橋群で知られる中島川で見かける白サギもどことなく寒そう。しかし一方で、川沿いには菜の花が咲き、暖地を好むハクセイレイやキセキレイの姿も見られます。観光客でにぎわう眼鏡橋のひとつ下流側にある袋橋(ふくろばし)の下では、春先に育つ海髪(うご)が川面をあざやかな緑色に染めていました。このあたりは長崎港の海水と川水が混じるところ。塩分が適度に低くなった場所は、海髪が育ちやすいそうです。  中島川上流の桃渓橋(ももたにばし)のたもとでは、桃の花が満開。家々の庭先ではハクモクレンがおおぶりの花びらを開きはじめました。この調子で季節がすすめば長崎のソメイヨシノの開花日は、平年並みの今月22日頃になるとか。関東や甲信地方では平年より遅くなり、東北・北海道は平年並みか平年より遅れるところもあるそうです(「桜の開花予想」3/5日本気象協会発表より)。  長崎市鳴滝地区の「七面山(しちめんさん)」と呼ばれるところにある「妙光寺( みょうこうじ)」は、地元では一足早く楽しめる桜の名所として知られています。ちょうど今、啓翁桜(けいおうさくら)という、早咲きの桜が満開のときを迎えています。やさしいピンク色をした小ぶりの花で、控えめながらさわやかな香りがします。  ところで「七面山」は、江戸時代から続く長崎の正月の風習のひとつである「七高山巡り(しちこうさんめぐり)」という正月登山で行く山のひとつです。七高山とは、長崎のまちを囲むようにしてある金比羅山(こんぴらさん)、七面山、烽火山(ほうかざん)、秋葉山(あきばやま)、豊前坊(ぶぜんぼう)、彦山、愛宕山(または岩屋山)の7つの山のことで、年のはじめにそれぞれの山に登り一年間の無病息災を祈願します。江戸時代は、正月2日から15日までの間に、「今日は、この山」、「明日は、この山」と決めて、家族や親族が揃ってのんびりと登っていたそうです。現在は、尾根を行く短いルートで、一日でいっきに山々を巡るのが主流のようです。  妙光寺からの帰り道、鳴滝界隈を散策。江戸時代にはシーボルトの鳴滝塾や唐通事の別宅などがあり、風光明媚な田園地帯でした。現在も市中心部の住宅街ながら、段々畑のある緑深い山に囲まれ、のどかな風景が残っています。畑の脇道を行けば、豆の花、木瓜の花、キンセンカ、ペンペン草、モンシロチョウなど、春の植物や昆虫たちと次々に遭遇。日だまりでウトウトするうららかな春は、もうすぐそこまで来ています。   ◎参考にした本/「日本大歳時記~春~」(講談社)

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  • 第445号【長崎でやんちゃした?若き日の西園寺公望】

     長崎奉行所立山役所跡(現・長崎歴史文化博物館)から、長崎駅方面へ通じる「玉園町通り」に入っところで、春を告げる甘い香りが漂ってきました。それは紫紅色をした沈丁花の香り。「西園寺公望仮寓居跡(さいおんじきんもちかぐうあと)」の碑のたもとで、はやくも満開のときを迎えていました。  明治から昭和にかけて活躍した貴族政治家で、2度の首相をつとめた西園寺公望(1849-1940)。長崎にやってきたのは明治3年(1870)、目的は仏語を学ぶためでした。このとき20代初めの若者でしたが、すでに戊辰戦争や会津征討で要職に就いて従軍した経験を持ち、その後も官職にありました。しかし、「自分はまだ若く、もっと勉強する必要がある」という思いから仕事を辞し、いっかいの書生という立場で長崎に下ってきたと伝えられています。  幕末~明治期にかけての長崎は、時代の要請もあって語学教育が充実していました。公望が学んだのは、「広運館(こううんかん)」という語学学校で、現在の長崎県庁の地にありました。ここは少し前までは、長崎奉行所西役所だったところ。仮住まいがあった玉園町通りから、徒歩20分ほどの距離です。  ちなみに玉園町通りは、「永昌寺(えいしょうじ)」、「聖福寺(しょうふくじ)」、「福済寺(ふくさいじ)」など由緒あるお寺が点在する通りで、当時からほとんど変わらない道幅は、車一台が通るくらい。江戸時代には奉行所をはじめ役所関連の屋敷や各藩の蔵屋敷などが近隣にあり、諸藩の武士や地役人らがおおいに行き交った界隈です。  全国から有志が集った「広運館」には、国学科、漢学科、英語科、仏語科、算術科、露語科などがありました。公望が学んだ1870年の学生数は349人で、その内もっとも人数が多かったのは英語科の111人、公望が所属した仏語科は48人だったそうです。  「広運館」のはじまりは、安政5(1858)に長崎奉行所立山役所に隣接する岩原屋敷内に設けられた「英語伝習所」にさかのぼります。その後、英語稽古所(片淵)、英語所(片淵)、語学所(万才町)、洋学所(江戸町)、済美館(興善町)と名称と所在地をめまぐるしく変え、明治元年(1868)に広運館として移設されました。その間、外国語の教科を増やしたり、内容を充実させたりなどしたようですが、どんどん変化する開港前後の国際情勢に対応しようとする様子が垣間見えます。   「西園寺公望仮寓居跡」の説明板には、上野彦馬の撮影局で撮った写真が載っていました。公家の公望が刀を差し、浪人のような姿で写っています。その表情たるや颯爽として、ソチオリンピックのスノーボード男子ハーフパイプでメダルを獲得した10代のコンビからも感じられた、どこかやんちゃで飄々としながらも、やるときにはやる、そんな頼もしさが感じられます。写真から察するに、京都と官職を離れ、のびのびとした日々をおくったようにも思えます。  公望が長崎で学んだのはわずか7カ月。仏留学の辞令が下り、その年の12月にフランスに向けて出発。10年近くの留学を経て帰国すると、首相そして最後の元老をつとめるなど重責を果たしたのでした。  ◎参考にした本/「長崎百科事典」(長崎新聞社)、明治百年~長崎県の歩み~(毎日新聞社)

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  • 第444号【中国と長崎の縁を紡いだ唐通事】

    「2014長崎ランタンフェスティバル(春節祭)」もいよいよ明後日(2/14)まで。今年も大勢の人で賑わうなか、春節を祝う風習の残るアジア各地からの観光客の姿もけっこう見受けられました。年々、規模も内容も充実している長崎の春節祭は、国を超えて注目されはじめているようです。 「長崎ランタンフェスティバル」は、中国と長崎のゆかりの深さを象徴する催しのひとつです。では、そもそもいつ頃から中国との交流がはじまったのでしょうか。江戸時代、中国語の通訳や唐船との通商事務などを担当した「唐通事」(とうつうじ)に注目して、たどってみました。  長崎港に唐船が姿を現しはじめたのは、長崎がポルトガルとの貿易港として開港した元亀(1570~1573)の頃であったと言われています。開港前の長崎は九州の一寒村に過ぎず、商売のために外国の船が入ることなどなかったのです。当時、唐船は自由に日本各地の港に入り商売をしていて、九州では薩摩沿岸や平戸などで交易を行っていました。商魂たくましい彼らは長崎の開港を耳にして、すかさずやって来たと考えられます。また当時、明の時代だった中国は内乱が絶えず、清との政権交代も近い不安定な時期でした。その戦乱から逃れて来た人もいたようです。  1603年(慶長8)、江戸幕府が開かれ、長崎奉行が設置されました。初代長崎奉行の小笠原一菴は、唐通事の必要性を強く感じたのか、任命された年に長崎に居住していた山西省出身の馮六(ほう ろく)という人物をその人柄や能力を見込んで初代唐通事(大通事)に抜擢。馮六は二年後には退職したようですが、その子孫は日本人だった母方の「平野」姓を名乗り、代々唐通事を勤めました。  概ね唐通事は、江戸時代初め頃までに在留・帰化した唐人と、その子孫が起用されており、その家系は70ほどあったそうです。なかでも代表的な家系は、潁川(えがわ)、彭城(さかき)、官梅(かんばい)、神代(くましろ)、東海(とうかい)、鉅鹿(おおが)など。これらの姓は日本名で、陳氏は「潁川」姓、劉氏は「彭城」姓、魏氏は、「鉅鹿」姓と、それぞれ中国の出身地名を日本名にしたり、妻が日本人の場合はその姓を名乗ることもありました。  諏訪神社から徒歩15分。長崎市西山本町の小高い斜面地に、鉅鹿家の始祖、魏之琰(ぎ しえん)とその兄が眠る中国式墳墓の形式でつくられたお墓があります。福建省出身の魏之琰は、明朝に仕えた楽人で、貿易商に転じたのち寛文年間(1661~1672)に長崎に居住。日本に明清楽を伝えました。当時の長崎奉行牛込忠左衛門に気に入られたのか、その懇命により帰化し「鉅鹿」の日本名を賜ります。鉅鹿家は五代目のときに唐通事となり幕末・維新まで勤めたそうです。  崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に多大な援助をし、檀越(だんおつ)のひとりでもあった魏之琰の住まいは、酒屋町(現・長崎市栄町)にあり、たいへん裕福であったと伝えられています。私財を投じて中島川に本紺屋町橋(現在の常磐橋付近にあった石橋)を寄進するなど、地域にもその財を還元しました。魏之琰のように寄進をする唐通事や唐商人は少なくなかったようで、彼らは長崎の町づくりにもおおいに貢献したのでした。   ◎参考にした本/「長崎唐人の研究」(李 獻璋)、「長崎 東西文化交渉史の舞台」(若木太一 編)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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