第5回 西洋料理編(三)

1.幕末と共に長崎の洋風化は進む

市街地の遊歩を許可された異国人たちが変えた、長崎の町



▲ペトルレゴート社見本皿(長崎市立博物館蔵)


 嘉永六年六月三日(一八五三)ペリー提督アメリカ大統領の国書をたずさえ浦賀に来航。

  その年の七月にはロシアのプチャーチン三隻の軍艦を引きつれて長崎に入港。

  この米国・ロシアの来航に続いてイギリス・フランスの軍艦が来航し幕府に和親条約の締結と開国を求めた。


 安政二年(一八五五)これに対して幕府は遅まきながら国防の充実を計り、長崎の地に洋式兵学を学ぶ施設として外浦町西役所内に「海軍伝習所」を設立、旗本と諸藩のの中より、伝習生を募集し、講師陣にはオランダ海軍の士官、下士官を招いた。


 このため従来は出島の地以外には自由に市中を歩き回ることを許されなかったオランダ人に対して「市街地の遊歩を許可する」という通達がだされ、又これに続いて奉行はイギリス人、アメリカ人の市街地遊歩も許している。


 市街地遊歩を許可された外国人達は店に立ちより東洋の珍しい品々を土産に多く買いこんだ。これに目をつけた長崎の商家の人達は外人専用の土産品を店さきに並べはじめた。


 安政五年(一八五八)十二月にはキリスト教徒の発見のため厳格に実施されてきた「踏絵」の執行が止められることになり町の様子も何か次第に洋風化してきた。


 その頃、長崎の港に来航したイギリス海軍のオズボンは、長崎の町のことについて次のように彼の著書「日本近海航海日記」に中に記している。


 私達は出島に上陸し、それより長崎の地にでて行きました。ある店で我々は顕微鏡、望遠鏡、日時計、定規、物指、時計、ナイフ、スプーン、ガラス器、ビーズ玉、など、皆これらの品はヨーロッパの型にならって長崎の地で作られたものだそうです。 



2.長崎の開港

居留地には洋館、外国人経営の店。外国人専用の英字新聞も刊行された。



▲長崎板画・蘭人酒宴図(長崎市立博物館蔵)


 安政六年五月(一八五九)幕府は遂に長崎、神奈川、函館の三港を先ず開港することにした。


 イギリス聖公会のリギスン牧師は英語教師の名目で来航してきた。続いてアメリカのウィリアムズ牧師も英語教師の名目で来航し、密かにキリスト教の布教を開始している。


 大浦地区の東山手、南山手には外人の居留が完成したので、そこには大勢の外国人、新しく渡来してきた中国人の人達が住むようになった。その大浦地区には、洋風建築が建ち並び外国人の商社、外国人の経営する日用品を販売する店、肉屋、パン屋、バーなどがあり、外国人専用の教会も建てられていた。


 梅ヶ崎の海岸道路ができるまでは大浦地区の人達は皆十人町の坂を下り、広馬場、本篭町、船大工町を通り、浜町方面に買物にでかけた。


 それ故に本篭町、船大工町の町筋には外国人相手の土産品店が軒をつらねていた。

  長崎開港の3年後、プロシャ国の使節として長崎に寄港したオイレンブルグは街の商店の様子を次のように説明する。


 長崎の人口は約六万人。日本人の店にヨーロッパの商品も多く並べてある。例えばイギリス製の木綿の反物、マッチ、ガラスのコップ、ブドウ酒の空ビン。動物屋もある。その店には有名な子犬や、珍しい鳥や小動物が篭に入れておいてある。長崎の店には全てヨーロッパ人が好んで買うであろうものが計算されておいてある。そしてそれらの店にはまた日本人には決して必要としないであろうスープ皿、ソース入れ、いろいろな大きな洋皿の一揃えが並べてある。


 オイレンブルグはこのとき田上を越えて茂木まで使節の人達と共に遠足している。茂木では村の代表者達が出迎え、そこにはヨーロッパ風に飾られたテーブルが用意され、更にテーブルの上にはオランダの国旗と万国旗が飾られていたと驚いている。テーブルに座ったとき、プロシャの軍艦からつれてきた音楽隊が何回も何回も演奏したと追記している。



3.日本の料理店もこの風潮にあわせる。

幕末の頃、長崎の料亭で大いにもてはやされた洋風料理。



▲青白色硝子腕(長崎市立博物館蔵)


 幕末の頃の長崎の料亭は七十軒あり、東西南北の四組にわかれていた。慶応二年(一八六六)奉行所はこれら組員の中より上筑後町迎陽亭杉山村助、西山松森神社境内吉田屋内田重吉(後の富貴楼)伊良林藤屋松尾長之助、出来大工町先得楼本庄与吉の四名を御切紙を以て惣代御用を仰付けている。


 これらの料理の料理控帳をみてみると必ず洋風料理の一皿乃至二皿が加えられている。中でも藤屋では従来のオランダ風洋食は二流なりと言って一族の松尾清兵衛を慶応元年二月上海に派遣し更に北京まで出張させてフランス料理を修得させている。

  このことにより長之助は佐賀鍋島藩主に佐賀に招かれ清兵衛と共に早速、鶴のブラドを調進したところ大変お褒めにあずかったという。

  さらに明治三年八月には鍋島老公が江戸で病気となられ、その薬飼として洋食が第一であるというので藤屋に東京までくるようにとの下命があった。そこで藤屋では四代松尾作市他数名が東京愛宕下藤屋掛屋敷の鍋島邸に伺候しフランス料理を調進している。

  藤屋は今の若宮神社横の横田氏の所を玄関に後方は松田氏の庭園付近まであった大きな料亭であったが昭和の初年廃業している。


 明治九年十一月二十六日長崎県令北島秀明の着任祝が藤屋で開催されているが、当時の献立が残っている。


 料理は本膳にて向付、ひれ椀、向皿、鉢と並び大鉢四皿の中に「牛のフルカデル・野菜付」が加えられている。これが藤屋秘伝のフランス料理であると記してある。


 本河内の入口、一ノ瀬にも有名な料理螢茶屋があった。ここでも二代の当主甲斐田政吉は幕末の頃より盛んに洋食を調進し評判のものであった。私が市立博物館に勤務していた頃、螢茶屋旧所蔵のガラス椀や洋皿を多数購入したことがあったが、それらには皆「文久二年流螢舎」と記してあった。文久の頃(一八六一)を頂点に長崎の料亭では大いに洋食がもてはやされていたと考える。


第5回 西洋料理編(三) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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