第473号【幕末~明治期、英語の学び場だった長崎】
新年度のスタートに合わせて、テレビやラジオなどの英語講座をはじめた方もいらっしゃることでしょう。これまで何度も中途半端に終わったけれど、あらためてチャレンジしているという方も少なくないはず。いまは、学習法がいろいろあって悩ましいですね。そんなときこそ、限られた学習環境で懸命に英語を学んだ先人達に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。
幕末から明治にかけての英語通訳者といえば、ジョン万次郎(中浜万次郎)がよく知られています。天保12年(1841)出漁中に漂流し、アメリカ船に救助されアメリカで教育を受けて嘉永4年(1851)に帰国。土佐藩、幕府に仕えました。
江戸時代、オランダ語や中国語以外の外国語、とくに英語修得の必要に迫られたのは、このジョン万次郎の時代、幕末になってからです。嘉永7年(1853)ペリー来航は、その大きな引き金となりました。4年後の安政4年(1857)、幕府はオランダ通詞や唐通事たちに英語を学ばせるために、「語学伝習所」を長崎に設けました。翌年には、「英語伝習所」と改称。その後、明治元年(1868)までに、「英語稽古所」「洋学所」「語学所」「済美館」「広運館」などと、数回に渡り名称と場所、教科内容を変えて行きます。これは、激動の世相を反映した結果でありました。また、慶応元年(1865)には佐賀藩が英語教育を目的に「致遠館」を設け、明治元年には、近代印刷の始祖・本木昌造が英語など複数の教科を無料で学べる「新町私塾」を開設しています。当時、日本で英語を修得するなら「長崎」がもっとも充実した環境だったようです。
ところで、ジョン万次郎が帰国したり、幕府が「語学伝習所」を設けたりする前に、長崎には小さな英会話教室が存在しました。先生は、本場のアメリカ英語を話すラナルド・マクドナルド。生徒は十数人のオランダ通詞たちです。この教室の大きな特長は、先生と先生の間に牢格子があったということ。そう、マクドナルドは捕われの身だったのです。
マクドナルドは、1824年アメリカはオレゴン州生まれ。父はスコットランド人で、母はネイティブ・アメリカン。母の先祖のルーツがあるといわれる日本に対し憧れを持っていたマクドナルドは、嘉永1年(1848)捕鯨船での日本への密入国を企て、北海道の利尻島で捕えられました。その後、取り調べのため長崎奉行所へ護送されたのでした。
礼儀正しく教養があり、温厚な人柄だったというマクドナルド。牢越しに交わされるのは、わずかな言葉やジェスチャー。その限られた環境下で懸命に日本の言葉を憶えようとする姿は、世話係をつとめた森山栄之助(多吉郎)らをはじめとする下級オランダ通詞らの心を動かしました。彼らはすでに英語修得の必要性を感じていたこともあり、マクドナルドが帰国するまでの半年ほどの間、日本ではじめてネイティブ・スピーカーによる英会話教室が開かれたのでした。
この教室で、マクドナルドから一目置かれていた森山栄之助は、数年後のペリー来航時やその翌年の日米修好通商条約締結時に通訳として活躍しています。
諏訪神社にほど近い上西山町には、「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」があります。この碑の真向かい辺りに、牢格子越に英会話教室が行われた「大悲庵(だいひあん)」(崇福寺の末庵)がありました。マクドナルド顕彰碑の隣には、通訳業務を通してアメリカとの交渉に命を燃やした森山栄之助の顕彰碑が建っています。幕府は栄之助の語学力と交渉能力に全幅の信頼をおいていたそうです。