第6回 中国料理編(一)

1.はじめに

ザビエルが驚いた、日本人の食生活。当時は、雑炊を主とした朝夕2食。



▲江戸時代に編纂された「清俗奇聞」食の部


 食の文化は異国の文化との出会い・接触によって食事の洋式、味の嗜好などと大きく変化してくる。

  一五四三年、初めて我が国に来航してきたポルトガルの人達はヨーロッパの食生活との相違に非常に驚いている。


 一五五〇年九月上旬、平戸の港に上陸し、キリスト教の布教のため山口、京都、大分と旅を続けたフランシスコ・ザビエル上人は、その翌年の十二月マラッカに帰りつくと早速ローマに「日本という国のこと」について長文の報告書を綴っている。そして、その中に日本人の食生活について次のように記している。


  一、日本の人達は家畜を殺して食べるということはありません。日本の人達はよく魚を食べるのです。

  一、米や麦はありますが、その量は少ないのです。野菜は多く良く食べますが、果物は少ないのです。

  一、日本の国では聖職者(坊さんや神父達)がもし魚や肉を食べるのをみたら、皆、大いに眉をひそめます。それですから私達神父は絶えず食物を制限する必要がありました。


 当時の日本人の食事は朝夕の二食で中食をとることはなかった。慶長の頃(一六〇〇年頃)の一女性の物語を記した古文書「おあむ物語」というのがあり、その中に当時の一般家庭の食事のことが次のように語られている。


 朝夕はたいてい雑炊を食べました。それでも兄さんが時々山に鉄砲うちに行かれます時には、朝から菜を入れた飯をたいて弁当にして持たせられました。その時には私達も菜めしをもろうて食べさせてもらいますので、たびたび兄さんに勧めて鉄砲うちに行かれるようにしたものでございます。


 当時の神父達の報告書の中にも日本人は野菜を炊きこんだ雑炊を食べているという記録が多く残されている。



2.長崎開港当時の食文化

日本の食文化は、いつも長崎の町を中心に大きく変化。



▲唐船持ち渡りのシッポク用具


 ポルトガル船の入港とキリスト教の布教は急速に我が国の食生活を変化させてきた。そのヨーロッパ風食生活は常に長崎の町を中心にして大きく変化していった。


 何故ならば、長崎の町は開港九年後には領主大村純忠の手によってイエズス会の知行所として寄進され、町の住民は全てキリスト教の信者であり、ポルトガルの人達は自由に街なかに住むことができた。そして、そのポルトガルの人達の奥さんは日本婦人であったので長崎の町ではパンが焼かれ牛肉の料理もつくられていた。


 しかし、一六〇〇年頃になると幕府の命によりキリスト教徒への禁教政策が次第に高められてきたので、キリスト教の教義に深くかかわりのあるものは次第に排除されてきた。このような中で先ずキリスト教に直接関係のあるパンと葡萄酒の使用については注意がむけられた。特にパンの使用については一六四〇年以来は街中で自由につくる事が禁止されている。但し出島オランダ屋敷の蘭人の食糧として必要なパンの製造は許されていたが、それも長崎の街に一軒ときめられ、毎日製造するパンの数もきめられていた。そしてそのパンは一個たりとも日本人に渡すことは許されなかった。



3.唐船来航

五島や平戸への唐船来航から始まった、家庭料理としての中国料理。



▲川原慶賀筆 唐蘭館絵巻 荷揚水門図

(長崎市立博物館蔵)


 長崎開港前の唐船は五島、平戸、松浦方面に入港している。その船団の中でも五峰王直の名は有名であった。王直は先ず天文年間(一五四一)五島に来航し江川(福江市内)に居を構え、次いで平戸に進んでいる。平戸では松浦隆信が五峰を援助し勝尾岳の東ふもと屋敷を構えさせている。現在、福江市や平戸市にある六角井戸(県文化財史跡地)は当時の唐船の人達が使用していた井戸であると伝えている。そして、その地では多くの唐船の人達が日本婦人を妻にむかえて家庭をもっていたので、それらの家庭では豚や鶏などをつかった中国料理がつくられていた。


 長崎開港の当時はキリスト教徒でない唐船の人達は長崎の港に近づけなかったが、前述のように一六〇〇年頃よりキリスト教徒への弾圧が次第に強められたとき唐船の姿が長崎の港に見られるようになった。


 しかし長崎の街中にはまだキリスト信者の人達が多かったので仏教徒である唐船の人達は先ず長崎の対岸、稲佐江ノ浦の港を中心にして立神、深堀方面に船づけし荷揚げしていた。


 やがて唐船主の欧陽華宇、張吉泉の二人が中心となって航海安全、菩提供養を願って江ノ浦の台地に悟真寺を建立している。時に慶長七年(一六〇三)のことであり、この寺の建立が長崎の町における仏教復興の最初になったと記してある。


 元和六年(一六二〇)唐船の人達は自分の手で唐寺興福寺を長崎市内の寺町に建立している。この時代になると唐船の人達は多く長崎の町に移り住み、今までのポルトガル人にかわって長崎貿易の主導権をとり、町中に自由に住むことが許されていたので、唐船の人達の婦人は全て長崎の人達であり、其処での家庭料理は全て中国料理であり、台所の鍋にはシヤンコという鉄鍋がつかわれていた。


 先月、私は崇福寺でおこなわれた媽祖祭に招待された。主催は長崎華僑の三山公幇の人達で上供は全て福建の郷土料理との説明であった。私は長崎の唐風料理の参考書として有名な「八僊卓燕式記」や「唐山卓子菜單」の写しをもって出かけ、藩美官総代の解説を聞きながら、その料理の手控えをつくった。そこに私は初期の長崎に伝えられた唐風料理の片鱗を感じからである。

  当日の料理メニューを記してみると、


一、方肉、長崎地方でいう豚の角煮である。昔は莞菜という野菜を入れて醤油、砂糖、酒で煮込み茴香の粉をふりかける。二、羊兒、山羊肉を大根、里芋、人参などを淡白に漬汁仕立にし丼に入れる。三、炒鶏、この料理は江戸時代長崎で編纂された「清俗奇聞」にも記載してあり、鶏と野菜のいためものであった。四、蟹の油揚げ。五、魚の油揚げに野菜の味つけが上からかけられていた。六、車海老の油揚げ煮込み。七、まて貝の料理で福州地方の媽祖祭には必ず供えられるという。八、卵と野菜の油いため。九、ごまパン。十、最後に米麺の油いための大皿が出た。


 昭和五二年三月、私は長崎市立博物館年報十七号に媽祖祭の資料を収録したがその参考資料として崇福寺の古記録「天保六年末八月改媽祖祭要言」も加えた。そこには媽祖堂の上供八盆や宴会用の卓子料理献立が記してあった。その料理には、一、小菜六皿。二、大菜三皿。三、中鉢六皿。四、味噌汁。五、澄免。それに菓子、餅などが記してあった。そして、それが全て精進料理であった。


 考えてみると崇福寺は黄檗宗の禅寺であり、江戸時代には禅寺の食事は全てが精進料理であったので崇福寺内の媽祖祭も当然精進料理であったはずであり、現在のように山羊や豚などを上供として登場させたのは明治時代以降のことである。多分にこのことは福建地方の食文化の風習が大きく影響しているものであることが知られている。


第6回 中国料理編(一) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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