第8回 中国料理編(三)

1.長崎名物シッポク料理

遠く南方海域との交流が運んだ、長崎・異国の食文化



▲雍正年製粉彩中皿


 前途したようにポルトガル船についで1600年頃より長崎に入港してきた唐船は、中国大陸の港より出航してきた船ではなく、当時の言葉で言うと安南・東京・交跡・カンボチア・シャム方面の港より出航してきた船である。


 その唐船出航の地は現代でいうとベトナム・カンボチヤ・タイ方面の港より出航してきていた。そして船の型は中国船とほぼ同じジャンクの型であったので長崎の人達は、これら南方海域から来航してきた船も一括して唐船とよんでいた。


 但し当時の人達は、このように遠く南方方面より長崎に来航した船を「奥船」。奥船に次いで福建省方面から来航してきた唐船を「中奥船」。1700年頃よりこ杭州(寧波)方面より来航してきた唐船を「口船」と区別してよんでいた。


 そして、それら唐船の来航地によって船頭達の言葉が異なっていたので、それらに応じて唐通事(通訳)が任命されていた。例えば南京口の通事は口船。福州口は中奥船、東京口やシャム口は奥船の通訳をした。


 奥船が入港していた頃、長崎より出航していた御朱印船も前途したように、その寄港地は奥船の出港地ベトナム、カンボチヤ、タイの各地に貿易に出かけていた。


 1636年(官営十二)徳川幕府は御朱印船並びに日本人の海外渡航を禁じた。然しその間、長崎の町には唐船や奥船や中奥船の人達が来航し居住し、唐寺興福寺・福済寺・崇福寺の建立や唐僧の渡来、加えて南方に出かけた御朱印船乗組の人達が運んできた南方諸国の異国の文化が長崎の町にはあった。


 そして、そこには当然のこととして、この町には南方や中国の食文化が多く移入されていた。



2.シッポクその言葉は東京の言葉であるという。

シッポクの語源は、現ベトナム。卓(テーブル)を用いて食べる料理。



▲唐船舶載染付碗


 古賀十二郎先生は先生の名著として有名な「長崎市史風俗編」の中でシッポクの語源について詳しく記しておられる。その要旨を整理すると次にようになる。


 亨保十六年(1731)長崎奉行細井因幡守は当時唐人屋敷内に在留していた唐船より来航していた人達に「シッポク」という言葉について質問したところ、唐船の人達は次のように回答した。


 シッポクという言葉は中国語にはございません。中国語ではシッポクという意味は卓子と書きシッポクとはよみません。卓のことをシッポクというのは広南・東京方面の言葉でございます。


 広南・東京というのは現在のベトナム方面をいうのである。するとシッポクの語源はベトナム語ということになる。


 私は先年NHKの国際ラジオ局でベトナム方面を担当しておられた富田春生先生(現奥羽大学英文学科教授)にシッポクの語源についてお尋ねしたが不詳ということであったし、一昨年来崎されたベトナムTV局の皆さんを通じて調査を依頼したが納得のゆく回答に接しなかった。


 ここに考えられることは、細川奉行がシッポクの事について質問した亨保年間というのは、元禄二年(1689)に唐人屋敷が完成してより約五十年も後のことであり、当時来航していた唐船は寧波を中心にした口船の人達であり、一世紀も前に長崎に来航していた奥船のことについては詳しく知ることがなかったのである。


 兎も角、卓(テーブル)のことをベトナム地方では「シッポク」と言い、我が国ではその「シッポク」(卓)で食事することにより、転じてシッポクを利用して食べる料理となり、更に「シッポク料理」という用語が生まれてきた。


 このことは前途の西洋料理編でターフル(オランダ語でテーブルの事)を用いて食べる食事をターフル料理とよび、やがてそれが現在の西洋料理となってきたのと軌を一にする。


 次にシッポク台も変化してきた。それは卓で食事するには椅子を必要とするが、この事は当時一般の畳敷の我が国の住宅では不便であった。その故に卓の足を短くし、型も収蔵するに便利な丸型の卓が造られるようになってきた。


 1820年ごろ川原慶賀が描いた唐館絵巻の唐人宴席の図をみると、そこには朱塗の丸型の足の短いシッポク台をつかって会食している図が描かれているこれよりみると唐人屋敷内でのシッポク台も畳敷の部屋にあわせて朱塗丸型短足のシッポク台がつくられていたのである。


 明和九年(1772)発刊の「普茶料理付卓子通考」に描かれているシッポクの図も、畳敷の部屋にあわせた短い足の長方形のシッポク(卓)で、卓の上には中国風の模様があるテーブル・クロスがかけられ、卓の上には箸袋に入った箸、小皿、酒瓶、匙などがおかれている。



3.文献にみるシッポク料理

卓袱(しょうふく)と書き、日本では「しつほく」。作法はありて、さらに無きに似たり。



▲唐蘭館絵巻(長崎市立博物館蔵)


 明和八年(1771)江戸日本橋の須原屋より刊行した本に「新撰会席しつほく趣向帳」という料理の本がある。これをみると当時江戸・京都で流行していた「シッポク料理」のことが詳しく紹介してある。その本の序文には次のように記してある。


一、しつほくという言葉は肥前長崎にていう言葉にして、おそらくは藩語ならん、唐にては八僊卓(はつすえんちょ)というて猪豚の肉を専ら用揺る事なり。・・・

一、しつほくは大菜五種・六種。小菜七種・八種のものなり。大宴なれば大菜九種・小菜十六種なり。

 (中略)

 一、しつほくは文字詳ならず、然れども朋友とねんごろに酒を飲むことを中国の演義文に卓袱(しょうふく)と書き日本にては「しつほく」と読むという。因って此の字を用ゆ、なお後人の考えを待つべし。(浪花 禿幕子著)


 続いて同書には「卓袱器物全図」があり器物の一つ一つについて図を加えている。食事法については次のように記してある。


 作法はありて さらに無きに似たり


 次にシッポクには長命水という酒を用意し、それは金区ラ-あるいは骨杯(コップ)とも書く也-を用いて飲むとしている。


 何故、長命酒を用いるかというと「およそシッポク料理は大酒に及ぶものなれば」健康のことを考えて長命酒を用いるという。そしてその長命酒というのはオランダ人が用いる酒のことであると説明している。


第8回 中国料理編(三) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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