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  • 第444号【中国と長崎の縁を紡いだ唐通事】

    「2014長崎ランタンフェスティバル(春節祭)」もいよいよ明後日(2/14)まで。今年も大勢の人で賑わうなか、春節を祝う風習の残るアジア各地からの観光客の姿もけっこう見受けられました。年々、規模も内容も充実している長崎の春節祭は、国を超えて注目されはじめているようです。 「長崎ランタンフェスティバル」は、中国と長崎のゆかりの深さを象徴する催しのひとつです。では、そもそもいつ頃から中国との交流がはじまったのでしょうか。江戸時代、中国語の通訳や唐船との通商事務などを担当した「唐通事」(とうつうじ)に注目して、たどってみました。  長崎港に唐船が姿を現しはじめたのは、長崎がポルトガルとの貿易港として開港した元亀(1570~1573)の頃であったと言われています。開港前の長崎は九州の一寒村に過ぎず、商売のために外国の船が入ることなどなかったのです。当時、唐船は自由に日本各地の港に入り商売をしていて、九州では薩摩沿岸や平戸などで交易を行っていました。商魂たくましい彼らは長崎の開港を耳にして、すかさずやって来たと考えられます。また当時、明の時代だった中国は内乱が絶えず、清との政権交代も近い不安定な時期でした。その戦乱から逃れて来た人もいたようです。  1603年(慶長8)、江戸幕府が開かれ、長崎奉行が設置されました。初代長崎奉行の小笠原一菴は、唐通事の必要性を強く感じたのか、任命された年に長崎に居住していた山西省出身の馮六(ほう ろく)という人物をその人柄や能力を見込んで初代唐通事(大通事)に抜擢。馮六は二年後には退職したようですが、その子孫は日本人だった母方の「平野」姓を名乗り、代々唐通事を勤めました。  概ね唐通事は、江戸時代初め頃までに在留・帰化した唐人と、その子孫が起用されており、その家系は70ほどあったそうです。なかでも代表的な家系は、潁川(えがわ)、彭城(さかき)、官梅(かんばい)、神代(くましろ)、東海(とうかい)、鉅鹿(おおが)など。これらの姓は日本名で、陳氏は「潁川」姓、劉氏は「彭城」姓、魏氏は、「鉅鹿」姓と、それぞれ中国の出身地名を日本名にしたり、妻が日本人の場合はその姓を名乗ることもありました。  諏訪神社から徒歩15分。長崎市西山本町の小高い斜面地に、鉅鹿家の始祖、魏之琰(ぎ しえん)とその兄が眠る中国式墳墓の形式でつくられたお墓があります。福建省出身の魏之琰は、明朝に仕えた楽人で、貿易商に転じたのち寛文年間(1661~1672)に長崎に居住。日本に明清楽を伝えました。当時の長崎奉行牛込忠左衛門に気に入られたのか、その懇命により帰化し「鉅鹿」の日本名を賜ります。鉅鹿家は五代目のときに唐通事となり幕末・維新まで勤めたそうです。  崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に多大な援助をし、檀越(だんおつ)のひとりでもあった魏之琰の住まいは、酒屋町(現・長崎市栄町)にあり、たいへん裕福であったと伝えられています。私財を投じて中島川に本紺屋町橋(現在の常磐橋付近にあった石橋)を寄進するなど、地域にもその財を還元しました。魏之琰のように寄進をする唐通事や唐商人は少なくなかったようで、彼らは長崎の町づくりにもおおいに貢献したのでした。   ◎参考にした本/「長崎唐人の研究」(李 獻璋)、「長崎 東西文化交渉史の舞台」(若木太一 編)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第443号【春の兆し~2014長崎ランタンフェスティバル~】

     沖縄でヒカンザクラ(緋寒桜)が開花したというニュースを聞いた先週、長崎でも冬に咲くサクラがある西山神社(長崎市西山本町)へ出かけました。社務所の方によると、以前は新暦の正月に開花していたそうですが、ここ数年は遅れ気味だとか。例年、見頃を迎えるのは旧暦の正月頃。だからヒカンザクラは「元日桜」とも呼ばれるのでしょう。訪れたこの日は、5、6輪開いたところ。今年の満開は2月初め頃になるそうです。  西山神社の帰り道、近くの松森神社(長崎市上西山町)にも寄ってみました。春先に咲くロウバイ(蝋梅)があることで知られる神社です。ちょうど満開のときを迎え、水仙にも似た甘くさわやかな香りを辺りに漂わせていました。ロウバイの名は、黄色い花びらが蝋を引いたような光沢があることや、蠟月(ロウゲツ/旧暦12月の異称)に咲くことにちなんだものとか。毎年、開花を楽しみにしている人も多く、この日も参拝がてら花見をする人々の姿が絶えませんでした。  一年でもっとも寒い時季に咲いて、春がもうすぐそこまで来ていることを教えてくれるロウバイやヒカンザクラ。それにしても毎年、旧暦でしめす時季に忠実に咲いていることに驚かされます。つくづく旧暦ってすごい暦だな思います。  さて、「旧暦」、「春の兆し」といえば、「長崎ランタンフェスティバル」です。旧暦の中国のお正月・「春節」を祝う催しで、今年は1月31日(旧暦元旦/春節)~2月14日(旧暦1月15日/元宵節)まで開催します。まちの中心部に1万5千個に及ぶ中国ランタンや故事にちなんだ人物や神獣などのオブジェが飾られます。期間中は龍踊り、中国獅子舞、中国雜技などの催しで連日賑わいます。中島川の眼鏡橋付近は黄色いランタンに彩られ、新地中華街そばを流れる銅座川では、川面に映る桃色のランタンの幻想的な景色を楽しめます。 ところで、中国では旧暦12月に入ると新年(春節)を迎える準備がボチボチはじまり、暮れも押し迫った12月23日から1月15日(元宵節)までは、祭日の雰囲気に包まれるそうです。実家を離れて暮らす人々も、大晦日までに家にもどり1週間ほど正月休みをとるのが一般的なのだとか。きょう1月22日は旧暦12月22日。もうすぐ、中国やアジアのいろんな地域で正月休みをとる人の大移動がはじまるはずです。  ランタンフェスティバルの最終日となる元宵節は新年最初の満月の日になります。この日は、「元宵団子」と言って、家族揃ってピンポン玉くらいの大きさの団子(ユェンシャオ)を食べる風習があります。唐代からはじまった風習で、一家団欒の象徴なのだとか。数年前、ハルピン出身の中国の方に元宵団子の作り方を教わる機会がありました。それは、黒ゴマの餡をもち米粉で作った生地で包んだものでした。その方によると、元宵団子は地方によって材料や作り方に違いがあるものの、家族揃ってお団子を食べ、幸せを願う風習は、いまも中国全土で見られるそうです。     参考にした資料や本/「日本大歳時記~冬編~」(講談社)、「中国年中行事冠婚葬祭事典」(周 国強 著/明日香出版社)

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  • 第442号【長崎ことはじめ~南蛮ことば編~】

     明けましておめでとうございます。長崎の元旦は穏やかな天候に恵まれました。長崎県でいちばん初詣に訪れる人が多い諏訪神社は、今年も参道が大勢の人々で埋め尽くされていました。眼鏡橋あたりでは、飛び石を渡って遊ぶ子供たちや、帰省した家族がのんびり散歩を楽しむ姿などが見られ、お正月らしい和やかな雰囲気に包まれていました。  さて、元旦から1週間も過ぎれば、そろそろお正月気分もひとくぎり。きのうは七草がゆで、お腹を休めた方も多いことでしょう。風邪気味のとき、食欲があまりないときなど、胃にやさしく、簡単に作れるおかゆや雑炊はありがたいものですね。  ところで雑炊は、一般には「おじや」と呼ばれ、その言葉の響きからも純和風に思えます。広辞苑にも「じや」は、煮える音だとありました。しかし、一説にはスペイン語で煮込み料理を意味する「olla」(オジャ)に由来するとも言われています。もし、そうだとしたら、伝わった時期は戦国時代でしょうか。450年以上も前に日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル以後、次々にやってきた宣教師たちによってさまざまな南蛮文化が伝えられました。長崎もこの時代の1571(元亀2)年にポルトガル船が初めて入港し、南蛮貿易時代がスタートしました。  この頃、日本へやってきた宣教師たちの国籍はスペイン、ポルトガル、イタリアなどさまざま。日本人とは違う顔立ち、服装、言葉。彼らを目の当たりにした当時の日本人の驚きようは想像を絶します。  さて、「おじや」伝来のこの時代に、カステラやコンペイトウやアルヘイトウなどのお菓子も宣教師たちによって伝えられました。それぞれの名称は、スペイン語やポルトガル語に由来するものです。宣教師たちは布教活動の際にこうした珍しいお菓子を日本人に配ったと言われています。当時の食生活を思えば、心も身体もとらえるような魅惑のお菓子だったのではないでしょうか。  古き良き日本のお正月遊びのひとつ「歌留多(カルタ)」も、スペイン語あるいはポルトガル語の「carta」に由来する外来語です。当時の日本人は、南蛮人が遊んでいるそれを模して「天正カルタ」(または南蛮カルタ)という、いまのトランプと基本的にはあまり変わらないものを作りました。  ところで、日本には平安朝の時代から「貝覆(かいおおい)」という遊戯がありました。はまぐりの内側に歌や物語の有名なシーンを描き、歌なら上の句・下の句を、絵なら同じものを合わせる遊びです。この遊びが手のひらサイズの長方形の紙に書き分けられ「歌カルタ」などと呼ばれるようになったのは江戸時代初めのこと。これは、「天正カルタ」にヒントを得たもので、貝を紙に代えたことで作る費用も手間もずいぶん省けたそうです。ちなみに紙で最初に作られたのが、当時から人気だった「百人一首」だそうです。  いまもなお、日本の言葉や伝統に大きな影響を及ぼし続ける南蛮文化。その計り知れない魅力と面白さを、今年もいろいろな視点で紹介していきたいと思います。  ◎参考にした資料や本/「日本大歳時記~新年編~」(講談社)、「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第441号【クリスマスよもやま話】

     クリスマスの定番アイテムといえば、セイヨウヒイラギ。冬枯れの季節に、春を連想させる深緑色の葉と真っ赤な実は、古くから魔除けとして用いられ、クリスマスカラー(緑と赤)のもとになったといわれています。ちなみにセイヨウヒイラギの英名はholly(ホーリー)。「神聖な」を意味するholyが転じたものだそうです。  常緑樹のセイヨウヒイラギは、モチノキ科モチノキ属の植物です。大音寺(長崎市寺町)に、同じモチノキ属のクロガネモチがあり、やはり秋から冬にかけて小さな真っ赤な実を付けます。通常、クロガネモチは成長しても樹高10メートル程度だそうですが、大音寺のそれは15メートルを超える大木で、長崎市の天然記念物に指定されています。  セイヨウヒイラギやクロガネモチ、そしてナンテン、センリョウ、マンリョウ、ピラカンサスなど、秋から冬にかけて赤い実をつける植物をよく見かけます。いずれもクリスマスやお正月の飾りに欠かせません。春や太陽の炎をイメージさせる赤い実は、やはり縁起ものとして扱われるのでしょう。  なかでもナンテンは「難を転じて福となす」に語呂が通じることから縁起が良いとされ、昔から庭木として親しまれています。中国原産のナンテンは、一説には享保年間(1716-1735)に唐船が長崎に運んできたともいわれています。ナンテンの名も漢名の「南天燭(ナンテンショク)」からきたものだそうです。  出島のオランダ商館の医師として1775年8月に来日したツュンベリー。スウェーデンの著名な博物学者であるリンネの高弟でもあったツュンベリーは、ケンペル、シーボルトと並んで出島の三賢人のひとりとして知られています。出島での任務を終えたツュンベリーは帰国後、日本のナンテンに「ナンディナ・ドミニステカ」という学名を付けて世界に紹介しました。「ナンディナ」は、ナンテンが訛ったもの。「ドミニステカ」は「家庭的」という意味があるそうです。江戸時代、日本ではどの家の庭にも植えられていたというナンテン。ツュンベリーはそのことを知っていたようです。  さて、出島でのクリスマスと言えば、「冬至」です。キリスト教が禁止されていたその時代、オランダ人は「冬至」の祝いに見せかけてキリストの生誕祭を祝ったといわれています。毎年クリスマス近くにある「冬至」は、昼間の時間がもっとも短くなり、この日を境にまた日が長くなっていくという特別な日。厳しい寒さのなかに訪れる春の兆しとして、古代から祭事が行われてきました。  一方、イエス・キリストの誕生日は12月25日とされていますが、実際は定かではなく、古く冬至の祭事が行われていた12月25日に合わせたともいわれています。そんなことを知ってか知らずか、出島のオランダ商館員たちは冬至の宴を楽しみ、さらにその約1週間後の阿蘭陀正月では、奉行所の役人や通詞などを招いて阿蘭陀式で祝宴を張ったそうです。  年末年始、会食の機会が増えるのは昔も今も同じよう。食べ過ぎ、飲み過ぎに注意して健やかにお過ごしください。今年もありがとうございました。                  Merry Christmas & a happy New Year  ◎参考にした資料や本/「クリスマス小事典」(現代教養文庫)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第440号【秋帆を想う】

     前々回、狛犬めぐりをしたとき、人知れず森林のなかに鎮座する狛犬がありました。そこは長崎公園の一角にある東照宮(家康廟)の古い参道で、現在は石段が崩れかけているため通行止めになっています。東照宮は江戸時代には、同場所にあった安禅寺に祀られていましたが、明治維新後、廃寺になりました。もとは由緒ある寺の狛犬だけあって、大きめで端正な姿をしています。調べてみると、1829年(文政12)に高島四郎兵衛茂紀(しげのり)が奉献したものだとわかりました。茂紀は、幕末期の西洋砲術家として名高い高島四郎太夫茂敦(しげよし)こと、秋帆(1798-1866)の父親です。  町年寄を代々つとめた高島家。理由はわかりませんが、有力な地役人であった父・茂紀が、ほかでもない東照宮に狛犬を奉るという行為は、あり得ないことではありません。茂紀は日本に昔から伝わる荻野流の砲術にくわしく、多くの門下を擁し、息子の秋帆にも仕込みました。秋帆がのちに西洋砲術を学び、第一人者となったのは、そうした父親の影響だったようです。  ところで、この秋シーボルト記念館(長崎市鳴滝)で開催された特別展[「鳴滝塾」の誕生 ~シーボルトと高島秋帆~](11/10で終了)で、秋帆が西洋砲術を一体誰から学んだのか、ということについて興味深いことが紹介されていました。これまでは、オランダ商館長のステュルレルなどとされていましたが、ステュルレルと同時に来日した商館医師シーボルトが伝授した可能性があることを示す史料が展示されていたのです。  同特別展によると、シーボルトが来日した1823年(文政6)頃、父・茂紀は出島の警備を受け持っていて、秋帆は町年寄見習として出島に出入りしていたそうです。秋帆は儒学や書道、絵画、蘭学なども学ぶ多彩な人物。二人とも人並み以上の才能と好奇心を持っていたでしょうから、互いにビビッときて、交流を持つようになったとも考えられます。また、秋帆の実兄で町年寄の久松碩次郎もシーボルトの活動を理解し、鳴滝塾の開設などに協力的であったといわれています。  この後、西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を開き、佐賀藩など近隣の諸藩に伝授しました。1841年(天保12)には、幕府の命で徳丸原(現・東京都板橋区高島平)で砲術の演習を行いました。ちなみに、秋帆の名字が「高島平」の地名の由来となったことはよく知られています。さて、演習の翌年、当時江戸町奉行だった鳥居耀蔵の讒訴(ざんそ)により、逮捕・投獄されます。許されたのは12年後のこと。その後は「喜平」と名乗って幕府に仕え、晩年を過ごした小石川で亡くなりました。文京区の大円寺に葬られましたが、長崎・晧台寺後山にある高島家の墓地にも、門人たちが秋帆の墓を設けました。  秋帆は生まれ育った長崎で、40代前半まで過ごしています。たいへん裕福だった高島家は、西役所(長崎奉行所)に近い大村町(現・万才町)にあり、その跡からは西洋、東南アジア、中国、朝鮮などの品々が発掘されています。この屋敷は1838年(天保9)の長崎のまちの大火の際に類焼し、秋帆は丸山に隣接する小高い丘の上にあった別邸に移り住みました。ここは、茂紀が1806年(文化3)に建てた木造瓦葺の2階建ての屋敷でした。敷地内には砲術の練習場跡があり、砲痕が残る石、常夜灯、石垣、土塀、そして一棟の石蔵がいまも残されています。  かつて西洋砲術を学ぶ男たちの熱気に包まれたであろう屋敷跡。いまは黄金の葉を付けたイチョウの木が、静かに葉を散らしていました。  ◎参考にした資料や本/シーボルト記念館特別展「「鳴滝塾」の誕生~シーボルトと高島秋帆~」リーフレット、「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社)、「長崎市史」

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  • 第439号【長崎の植物観察~晩秋編~】

     秋の七草のひとつ、薄(すすき)。どこか淋しげな姿で郷愁を誘います。身近な植物だと思っていましたが、近頃では近郊に出ないと群がり生える景色は見られなくなりました。薄で思い出すのが、芭蕉十哲のひとり向井去来の「君が手もまじるなるべし花薄」という句です。  長崎で生まれ育ち、京都に出て芭蕉と出会い、門人となった去来。その後、何度か帰郷して蕉風俳諧を長崎に伝えました。「君が手も~」は、元禄2年(1689)夏に帰郷し、仲秋の頃に京都へ帰る際、長崎街道・日見峠で簑田卯七(みのだ うしち/去来の親戚筋で俳諧を志した人物)に見送られたときの句です。別れを惜しみ、いつまでも手をふる卯七。去来が振り返るたびにその姿、その手が薄の間に見え隠れし、ゆれる花穂に混じっていつしか見えなくなってしまった、そんな光景が浮かびます。  この句に出て来るのは仲秋の薄で、花穂がふさふさと付いている頃です。晩秋~初冬の今時分になるとずいぶん散ってしまい、より淋しい感じがします。余談ですが、去来が長崎で過ごしたこの時期、芭蕉は「おくのほそ道」の旅の終盤にありました。  さて、今回は薄の写真を撮りがてら晩秋の植物を観察。長崎の低地は、ようやく紅葉シーズンを迎えたところで、イチョウ、ナンキンハゼ、サクラなどの紅葉がまちを彩っています。寺町通りの一角にある大音寺の大イチョウ(樹高約20m/推定樹齢300年以上)も見事な黄金色に染まりました。  趣のある茅葺きの建物と日本庭園が美しい「心田庵」(長崎市片淵)では、美しく紅葉したヤマモミジが見られました。心田庵は、去来が生きた時代とも重なる1660~1680年代頃に、唐通事の何兆晋(が ちょうしん)が建てた別荘です。当時、風雅の楽しみを知る人たちが集い、お茶を嗜んだそうです。今年2月長崎市の史跡に指定され、春と秋には期間限定で一般公開されています。庭園では、サザンカ、ツワブキの花などが見られました。石垣や樹木の表面には、ちょうどこの時期に成長する「豆蔦(マメヅタ)」が這いつたっていました。直径2センチ前後の小さな葉ですが、光沢のある緑色が目を引きます。  シーボルトの鳴滝塾跡(長崎市鳴滝)へ足を運ぶと、イチョウやムクロジが鮮やかな黄色に染まっていました。中国原産のイチョウは全国各地で見られますが、ムクロジは関東より西の比較的温かな地域に分布する高木です。市街地の一角ながら雑木林や段々畑の風景が残る鳴滝界隈。雑木林の地面には、アラカシの大木からこぼれ落ちたドングリの実がたくさんころがっていました。辺りを包むんは、ひんやりとした空気と落ち葉の匂い。自然界は着々と冬支度をすすめているようです。       ◎参考にした本/「名前といわれ 野の草花図鑑2」(杉村昇/偕成社)、紅葉ハンドブック(林将之/文一総合出版)、どんぐりハンドブック(いわさゆうこ/文一総合出版)

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  • 第438号【長崎の狛犬いろいろ】

     神社などで見かける狛犬。そのルーツは古代文明の発祥地といわれるオリエント(エジプトやメソポタミア)の時代にまでさかのぼり、ライオン(獅子)がその意匠のモデルだといわれています。オリエントから東へは、シルクロードを経て伝わり、中国では唐獅子、日本では狛犬として現在に至っています。西へ伝わったものは、神殿や宮殿を守るライオン像や紋章のデザインに取り入れられるなどしました。  長崎で狛犬といえば、「カッパ狛犬」や「トゲ抜き狛犬」、「立ち狛犬・逆立ち狛犬」などめずらしい狛犬が数多く点在している諏訪神社が良く知られています。もともと長崎のまちには、神社や唐寺、道の脇にひっそりとある祠(ほこら)など狛犬が置かれるような場所がたくさんあります。その姿も、威風堂々としたものから、愛らしくユーモラスなものまでいろいろなタイプがあり、見比べながらのまち歩きも楽しいものです。  長崎市内各所の狛犬を数多く見ていると、タイプによっていつ頃つくられたものかが、何となくわかるようになってきます。たとえば、諏訪神社の参道でいちばん最初に出会う大きな狛犬は昭和10年のものですが、たてがみも表情もくっきりと彫られ、胸には「瓔珞(ようらく)」という飾りも付けるなど、全体的に堂々として、いかにも強そうな雰囲気が漂っています。こういう「立派で、強い」印象の狛犬は、大正時代から昭和10年代のものに多いようです。戦争が続いた当時の時代背景がなんとなく感じられます。  聖福寺(長崎市玉園町)の参道にいらっしゃる狛犬は、江戸時代のものと思われます。どこかアニメチックな表情で、短い足と広い尾がかわいい。この狛犬に限らず、江戸時代の狛犬は、石工の人柄やセンスが偲ばれるほど個性的。発注者のこまかい注文がある一方で、職人が自分の思いを込める余地があったのでしょう。  長崎のまちの狛犬(?)でもっともめずらしいと思われるのが、出雲大社長崎分院(長崎市桜町)にあります。神話に出て来る鰐鮫(ワニザメ)と白兔をモチーフにしたもので、狛犬的な存在らしいのですが、その鰐鮫が「サメ」ではなく、「クロコダイル」なのです。向かって左側はクロコダイルの背中に、白兔が腹這いで乗り、右側は白兔が立ち上がった姿勢で乗っています。関係者のお話によると、これは大正時代につくられたもので、当時、動物園を通して「ワニ(クロコダイル)」が知られはじめた頃だったとか。「石工は一人でも多くの人の注目を浴び、参拝に来ていただこうと、クロコダイルを彫ったと思われる」とのことでした。ハイカラ好みでどこかおおらかな明治の気風を残した大正時代の空気が感じられるエピソードです。  歴史的に中国とのゆかりが深い長崎らしい狛犬が、崇福寺の山門前に佇んでいます。こちらは「唐獅子」と呼んだほうがしっくり来る姿です。また、長崎には江戸時代の唐通事のお墓で、約20年の歳月をかけて築いたといわれる「東海の墓」があります。そこにもお墓を守るように設けられた狛犬的なものが見られます。  表情豊かな狛犬を見ていると、特に江戸時代などはその地域の人々に愛され親しまれる存在で、いまでいうご当地マスコットキャラクターではなかったかと思われ、現代の日本人に通じる国民性が垣間見れる気がするのでした。  ◎参考にした本/「狛犬の歴史」(藤倉郁子/岩波出版サービスセンター)、「狛犬事典」(上杉千郷)

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  • 第437号【各藩の蔵屋敷跡をめぐる】

     江戸時代に長崎に設けられていた諸藩の蔵屋敷跡をめぐりました。蔵屋敷とは、米やその他の物産を貯蔵する倉庫の役割と、販売するための事務所を兼ねた屋敷のこと。江戸や大坂、大津など、商業都市や交通の要所などに設置されました。長崎には、熊本・佐賀・福岡・対馬・小倉・平戸・薩摩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島・長州の14藩の蔵屋敷がありましたが、他の地域にある蔵屋敷とは少し様子が違いました。そこで、もっとも重要とされた役割は情報収集と伝達だったのです。それには理由がありました。  寛永16年(1639)に海禁政策(鎖国)が完成。ポルトガル船の来航が禁止されてから数年が経った正保4年(1647)夏のこと。長崎港に突如、ポルトガル船が2隻やって来ました。通商の再開を求める目的を持った使節だったのですが、このとき幕府は過剰反応とも思えるような対応に出ます。西日本の諸藩に出兵を命じ、総勢約48,000人の動員を得て長崎港内外の警備を固めたのです。  結果、ポルトガル船は攻撃を加えられることはなく、米や水を与えられて長崎港を出ていきました。この事件以降、西日本の諸藩は長崎に蔵屋敷を設けて、「聞役(ききやく)」という、長崎での情報を速やかに入手して伝える役目を置き、いざというときの出陣に備えるようになりました。もともと長崎警備の任務があった福岡・佐賀をはじめ、熊本・対馬・平戸・小倉の6つの藩は、「聞役」を一年中滞在させる、「定詰」に。柳川藩や唐津藩など他の8藩は、5月中旬から9月下旬までの「夏詰」で派遣したそうです。  諸藩の蔵屋敷は、長崎奉行所(西役所・立山役所)跡からいずれも徒歩圏内に点在しています。長崎駅前の商店街の一角(大黒町)に熊本藩蔵屋敷跡、道を隔てて佐賀藩蔵屋敷跡も隣接していました。大黒町の隣に位置する五島町界隈には、柳川藩、鹿島藩、佐賀藩深堀鍋島家屋敷、そして福岡藩の蔵屋敷跡があります。いずれも運搬などに便利な海際に設けられていました。  興善町には、坂道を挟んで小倉藩と長州藩の蔵屋敷がありました。その坂は、いつの頃からか「巌流坂」と呼ばれるように。両藩の間にある鳴門海峡には、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島があり、そこからきた名称だそうです。  「巌流坂」の近くには、佐賀藩深堀鍋島家屋敷の家臣と町年寄高木家の若者が起こした事件、『深堀騒動』の現場である「大音寺坂」と呼ばれる坂段があります。身分が上のはずの武士がささいなことでコケにされてしまい、それが大きな事件を引き起こしたというもの。事件の顛末は、赤穂浪士討ち入りの参考にされたともいわれています。  正式な蔵屋敷ではないものの、長崎に拠点を置いた藩は、松前藩、会津藩、加賀藩、尾張藩、紀州藩、伊代松山藩、宇和島藩など十数あったそうです。また、水戸藩は、医者に密偵の役目を与えて長崎に送り込み、情報を得ていたそうです。   いまとなっては、どの蔵屋敷跡も当時のなごりが見られず、とても残念。しかし、その場所に行くと長崎警備のことだけでなく、海外貿易の水面下で、諸藩が少しでも有利な情報を得ようと、画策したり、右往左往していたことが、何となく想像できて楽しい。きっと、こうしたところに長崎の歴史にさらなる深みと面白みを与えてくれるストーリーが埋もれているのでしょう。

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  • 第436号【秋の味~アケビから煮しめ料理~】

     この夏の猛暑で体重が3㎏減りましたが、早くも元にもどってしまいました。店頭に山盛り積まれた採れたての野菜やくだもの。収穫の季節ならではの彩りと喜びがあり、眺めるだけでつい頬がゆるみます。先日は小さな商店街の一角で、「アケビ」を発見。そばにいた60代の女性は、「子どもの頃の遠足で、よくとって食べてたのよ!」と懐かしそう。「アケビ」のよこに並んでいたのは、「イチジク」。いずれも山野に自生していたもののようで、小ぶりで、形も無骨。さっそく買い求め、秋の味覚を満喫しました。  日に日に秋めきながらも、ときおり厳しい残暑にさらされるこの時期、バテ気味の身体にいいといわれるのが「甘酒」です。長崎では「長崎くんち」の少し前頃から、店頭でよく見かけるようになります。「昔は、どこの家でも手作りしていた」、「くんちのとき、必ずおばあちゃんが作っていた」という友人たちがいました。ビタミンB群や各種アミノ酸、ブドウ糖が含まれる「甘酒」は、いわば日本のスタミナ飲料。そのルーツは古墳時代にさかのぼるというから驚きです。滋味あふれるおいしさと豊富な栄養。日本中で、行事のたびに欠かさず飲まれてきた理由がわかります。  秋祭りなどの行事の日、お赤飯や煮物、酢の物といった、いわゆるハレのメニューを一品添えて食卓を囲む家々も少なくないと思います。こうした行事食は、同じような料理でも地域ごとに味や名称などに個性があらわれます。たとえば、「煮しめ」。長崎くんちのときも、行事食のひとつに数えられます。ニンジン、ゴボウ、レンコン、タケノコ、とり肉などを少し甘めの調味で煮ます。「いり鶏」とも呼ばれる料理です。  佐世保市と大村市の間に位置する東彼杵町や川棚町あたりでは、「栗つぼ」と呼ばれる煮しめ料理が、やはり秋祭りなどの行事食のひとつとして食べつがれているようです。「栗つぼ」は、長崎くんち料理の「煮しめ」と材料は似たり寄ったりですが、その名のとおり栗が入るのが特徴です。煮こむとき麦味噌を入れるので、より素朴な味わいです。「つぼ」というのは、料理を盛るお椀をつぼに見立ててそう呼ぶようになったといわれています。  おなじく島原地方にもたんに「つぼ」と呼ばれる煮物があります。サトイモ、ニンジン、レンコン、ゴボウ、厚揚げ、コンニャクなどをだし汁で煮込み、仕上げにクズなどでとろみをつけたものです。ちなみに、富山に暮らしたことのある友人によると、富山のあるお寺では、コゴミと呼ばれる山菜と根菜類を煮込んだ「つぼ煮」という精進料理が受け継がれているそうです。    大村あたりでは、「煮ごみ」と呼ばれる煮しめ料理があります。祝い事や仏事など人々が集まるときは必ず作られているとか。特徴はこの地域でとれる落花生が渋皮付きのまま入ること。地元の学校給食でも出され、郷土の味として大切にされているようです。

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  • 第435号【平成25年の長崎くんち】

     先週木曜日(旧暦8/15)の夜は全国的に晴れ。長崎でも雲一つない夜空にまんまるのお月さまが浮かびました。家のベランダから、仕事場の窓から、大勢の人々が中秋の満月を見上げたことでしょう。この時期、長崎の新地中華街では中国の三代節句の一つといわれる「中秋節」の祭り(9/16~20)が行われました。たくさんの黄色いランタンが中華街を照らします。新年を祝う「ランタンフェスティバル」と比べ、こじんまりとしたお祭りですが、アットホームでいい感じ。秋の夜長を家族連れてのんびり楽しめます。  全国的に祭りや催しが多いこの季節。長崎でも諏訪神社の大祭「長崎くんち」が10月7、8、9日に控えています。寛永11年にはじまり379年目となる今年、奉納踊りを担当する「踊り町」は、桶屋町(おけやまち)、万屋町(よろずやまち)、栄町(さかえまち)、本石灰町(もとしっくいまち)、船大工町(ふなだいくまち)、丸山町(まるやままち)の6カ町です。  桶屋町は、まちのシンボルである傘ぼこの垂幕(たれ)を100年ぶりに新調。傘ぼこの上にのる飾(だし)は、ファンの多い「からくり仕掛けの白象」です。出し物は、「本踊り」。江戸時代に長崎に上陸した象にちなんだストーリーが織り込まれ、踊りに、衣装に、長崎らしい異国趣味がうかがえます。  万屋町も、豪華さで知られる傘ぼこの垂幕「長崎刺繍魚づくし」の部分が新しくなったそうです。現代の職人さんによる長崎刺繍の出来映えが楽しみです。出し物は「鯨の潮吹き」。江戸時代の捕鯨の様子をモチーフにしたもので、曵き回される大きな鯨(約2トン)や、その背中から勢いよく吹き出す水にずぶぬれになる根引き衆の姿に、何度も「モッテコーイ」の声がかかりそうです。  栄町の出し物は「阿蘭陀万才」です。どこかピエロを思わせる出で立ちの二人組、「万歳」(青色の衣装)と「才蔵」(黄色の衣装)が、ユーモラスな踊りを披露。その昔、日本にやってきたオランダ人が元気に正月の祝儀に回っていたのに、教会の鐘の音を聞いたとたん、故郷を恋しがるというストーリーです。7年前は主役の二人を女性が演じていたはずですが、今回は男性だとか。おかしみのなかにせつなさのある「阿蘭陀万才」をお楽しみください。  本石灰町の出し物は、龍囃子(じゃばやし)のなか勇壮な朱色の船体がいく「御朱印船」、船大工町は子どもが扮する船頭の網打ちが見どころのひとつでもある「川船」、丸山町は長崎検番による「本踊り」と、見逃せない奉納踊りが続きます。   本番を前に、10月3日の夕方から夜にかけて行われる「庭見世」へもぜひ、お出かけください。それぞれの踊り町で、傘ぼこや本番で使用する衣装や道具、贈られたお祝い品などをお披露目。国指定重要無形民俗文化財である「長崎くんち」への期待がさらに高まります。

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  • 第434号【雨の中国盆】

     竜巻や大雨の被害にあわれた地域の皆様方に心よりお見舞い申し上げます。しばらくは台風の発生も気になるところ。今後も気を付けてお過ごしください。  長崎でも数日大雨が続いた9月初めの夕方。雨がっぱ姿で寺町通りを抜け、長崎市鍛冶屋町にある唐寺「崇福寺(そうふくじ)」へ向かいました。この日は旧暦7月28日。3日間行われた「中国盆」の最終日です。「中国盆」は江戸時代から続く伝統祭事で、正式には「普度蘭盆勝会」といいます。期間中、全国各地から集まるという華僑の人々が崇福寺の祭壇で竹線香をあげ、静かに手を合わせます。日本のお盆とは違う独特の飾り付けや儀式をひと目見ようと見物客も大勢訪れます。                                    話がそれますが、崇福寺の山門をくぐる前に、近くにある浄土真宗のお寺、「大光寺」へ寄りました。実はこの日(新暦9月3日)は、日本の活版印刷の創始者として知られる本木昌造(もときしょうぞう)の命日。大光寺にお墓があり、毎年、地元の印刷業関係者によって法要が営まれています。幕末、オランダ通詞だった本木は、明治になると日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を発刊、製鉄の分野も関わるなど激動と混乱の時代に多方面で活躍しました。本殿裏手にある本木家のお墓には、すでに何人もの参拝者が訪れたらしく、線香の匂いが漂っていました。  大光寺から徒歩1分の崇福寺へ。朱色の門をくぐると参道階段の頭上を覆うように真っ赤なランタンが飾られていました。その階段をのぼれば、だんだん現世から離れていくような不思議な感じ。出迎えた「第一峰門」(国宝)前にも赤いろうそくが灯され、お盆のしつらえ。どこもかしこも精霊を迎えるために整えられた崇福寺は雨に濡れ、いつも以上に幻想的な雰囲気に包まれていました。  先祖の霊はもちろん、ご縁の有る無しに関わらず、亡くなったすべての人々の精霊が極楽浄土へ行けるように供養するという中国盆。崇福寺内には、大小いくつもの祭壇が設けられていました。雨の中、順々に参拝して回る華僑の人々。ときおり、「久しぶり!」「元気だった?」という声が聞こえてきます。この祭事のときにしか会えない知り合いもいるとのことです。  白飯、キクラゲ、寒天、高野豆腐など、十数種類の精進料理が白いお皿にズラリと並べられたお供え物は圧巻。唐寺の軒下で極彩色の光景を眺めていると、ときどき竹線香やジャスミンに似た甘い香りを風が運んできます。お坊さんたちの歌うような読経にも何となくうっとりしてしまい、時間を忘れてしまいそうです。   最終日の夜は例年なら中国獅子舞が奉納されるのですが、雨のため中止に。でも、お供えの「金山・銀山」を燃やす供養は行われました。狭い境内の一角で、盛大に燃やされ、天にのぼるその煙とともに精霊たちは極楽浄土へ送り出されるのでしょう。すべてが燃え尽きたところで、長崎市の消防団がすみやかに放水に取りかかります。雨で十分に濡れていても、念には念を入れ鎮火するのです。この消防団の現実感あふれる勇姿によって、毎回、中国盆の幻想的な世界から、ようやく抜け出た気分になるのでした。

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  • 第433号【長崎まちなかネイチャーガイド(チョウや鳥)】

     今年の夏の暑さには、本当にまいってしまいますね。皆さんはいかがお過ごしですか?食も細くなりがちですが、冷し中華なら野菜や肉類など好みの具材を盛ってツルツルッといただけるのでおすすめです。栄養バランスのよい食事をとって、夏バテしないようにしてください。  さて夏休みももうすぐ終わり。長崎のまちなかを流れる中島川界隈では、今年も昆虫採集などをしている子どもたちをよく見かけました。川は子どもたちにとって絶好のネイチャースポット。魚類はもちろん、昆虫や鳥類などいろんな生き物とふれあうことができます。  ある日、河原で子どもたちが追いかけていたのはアゲハチョウ。夏場は特にいろいろな種類が飛んでいますが、「キアゲハ」、「クロアゲハ」などよく見かけるタイプから、南方からはるばる海を渡ってくる「アサギマダラ」ではないかと思われるものも見かけます。  また、「クロアゲハ」に似た「ナガサキアゲハ」という種類もいます。「ナガサキアゲハ」は、江戸時代にシーボルトが名付けたもの。本州西部から九州・沖縄にかけて分布し、オスは黒地にブルー、メスは黒地にイエローの紋様が入ったきれいなチョウです。赤い花を好むのでハイビスカスの蜜を吸っているチョウがいたら、それが「ナガサキアゲハ」かもしれません。   カワセミに似たきれいなブルーグリーンの太い線が入ったチョウは「アオスジアゲハ」です。中島川にかかる石橋のひとつ「一覧橋」(光永寺そば)付近でよく見かけました。橋のたもとには大きなクスノキがあるのですが、この葉を「アオスジアゲハ」が好んで食べるのだそうです。  中島川付近でお馴染みの鳥類は、カワラバト、スズメ、ムクドリ、アオサギ、シラサギ、そしてカワセミやキセイレイ、ハクセキレイなど。しかし8月に入ると猛暑を逃れたのか、ムクドリやカワセミとなかなか出会うことができません。スズメたちは、真冬には丸くふくれていますが、いまはスマートな姿。甲羅干し中のカメたちは、この暑さにのびてしまっていました。  中島川がそそぐ長崎港界隈では、頭から背にかけて青くお腹がレンガ色をしたイソヒヨドリをよく見かけます。また、上流の森林の多い地域にいくと、「デデーポオポオ」と鳴く「キジバト」や「ツツピー、ツツピー」と鳴く「ヤマガラ」などとも気軽に出会えます。  目を凝らし、耳を澄ませば、まちなかにも小さな自然がたくましく息づいている長崎。あなたのまちでも、探してみませんか。  ◎参考にした本/生きもの出会い図鑑~日本のチョウ(学研)、野鳥博士入門(全国農村教育協会)

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  • 第432号【江戸時代に思いを馳せるお墓参り】

     ご先祖さまの御霊を迎えて供養するお盆。故郷に帰省して家族揃ってお墓参りに出かけている方も多いことでしょう。長崎のまちでも、そうした光景があちらこちらで見られます。お墓では、静かに祈りをささげ語り合う一方で、爆竹を鳴らしたり、矢火矢をあげたりなど賑やかなことも行います。そして明日15日は「精霊流し」。江戸時代から伝承される長崎の「精霊流し」は、爆竹を激しく鳴らしながら船を引いていきます。それは、まるで一夜の夢のような盛大さ。哀しみは爆竹の音とともに空に紛れていくのでした。  さて、江戸時代、諸国から大勢の人々が訪れた長崎。当時の旅は、徒歩が基本。成人男性で1日10里(40km)ほど歩いたと言われています。当時は、身体をこわして旅先で亡くなる人も少なくなかったとか。かつての街道沿いには、そんな人たちが葬られた墓石(塚)が数多く残されています。  長崎の本河内(ほんごうち)という地域には、かつての街道沿いに、長崎で客死した将棋指しのお墓があります。墓石には、「六段上手・大橋宗銀居士」とあり、東武(武蔵国)出身で、天保10年(1839)11月23日に亡くなったと刻まれています。ちなみに、お江戸で幕府が援助した将棋の初代家元が「大橋宗桂」。「大橋」という名と、「宗」の字がある宗銀さんは、どうやら将棋の師匠だったようです。将棋は、江戸時代後期には地方の庶民にも広まり将棋所などもあったとか。宗銀さんは長崎で指導したり、地元の名士と盤上の闘いを繰り広げたりしたのかもしれません。  宗銀さんのお墓から街道沿いを少し下ると、「碁盤の墓」とも呼ばれる「南京房義圓」という人物のお墓もあります。中国出身の棋士の名人だったそうで、墓石の蓮華座下の台石が碁盤型をしています。また花筒が碁石入れ(碁け)の形です。亡き人を惜しむ江戸時代の人々の心が伝わるようです。  本河内の街道沿いあるお寺の墓域内には、大関丸山権太左衛門(宮城出身)、雲早山森之助(熊本出身)など、江戸時代に亡くなった「力士の墓」があります。当時、各地には力士集団があり、勧進興行が行われていたとか。長崎にもそうした力士が巡業していたようです。ちなみに丸山権太左衛門は、身長197㎝、体重は161kgもある巨漢。長崎の大徳寺(別説では丸山の梅園芝居所)での興行中に病にかかり、亡くなったそうです。  この時代に長崎を訪れた人物として紹介されるのは、西洋の知識を得ようとした学者や諸藩の武士の名前があげられがちですが、棋士や力士など江戸時代の庶民文化を支えた人たちも大勢訪れて、長崎を賑やかにしていたようです。  最後に、禁教令が敷かれたこの時代を物語るお墓をご紹介します。長崎市三ツ山地区で見かけた隠れキリシタンを葬ったと思われる複数のお墓です。大村藩と隣接するこの地区には、伊達政宗が1613年に派遣した遣欧使節に随行した人物も迫害を逃れて隠れ住んだと伝えられています。その墓石は表面がほぼ平らな自然石。いまでこそ十字架や小さなぐい呑みらしき器が墓石の上に置かれてますが、他の似たような石に紛れるようにして置いてあり、それがなかったらお墓とは気付きにくい。厳しい弾圧をくぐり抜けた信仰は、いまも子孫たちが守り受け継いでいます。      ●参考/『江戸の旅は道中を知るとこんなに面白い!』(菅野俊輔)、『江戸時代館』(小学館)

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  • 第431号【近代通信網のはじまり(郵便・電信)】

     長崎の路地裏を歩いていると、昭和の雰囲気を残す丸型ポストを見かけることがあります。鉄製のこのタイプは、戦後、物資が行き渡りはじめた頃の昭和24年から実用化されたもの。戦後の復興から現在に至るまで情報伝達の役割を果たしながら、ずっと私たちの暮らしを見守ってきたのですね。  ポストといえば、ちょっと珍しいタイプが長崎県庁そば(長崎市江戸町)に設置されています。「黒ポスト」と呼ばれる角柱型の郵便箱で、明治期に使用されたデザインを復元したもの。通常のポストと同様に利用されています。  日本の郵便制度が生まれたのは、明治4年(1871)3月1日(新暦4月20日)。まず東京 ・京都・大阪の3都市に現在の郵便局を意味する「郵便役所」と、その間を結ぶ東海道筋の各宿駅に「郵便取扱所(62カ所)」を設けスタートしました。同年12月には九州で最初の「郵便役所」が長崎につくられ、東京~長崎間の郵便線路が開通。このとき長崎~小倉を結ぶ長崎街道沿いに「郵便取扱所(16カ所)」が設けられ、郵便ネットワークは九州全域へと広がっていきました。  東京~長崎間の郵便線路は、東海道、山陽道、西海道の各宿駅を継ぎ渡していくもので、それまでの飛脚による所要時間が190時間ほどかかっていたのが、半分の95時間に短縮されたそうです。現在、「長崎郵便役所」があった場所(長崎市興善町)には、「長崎東京間郵便線路開通起点の跡」の碑が建てられています。  一方、電信の分野では、郵便制度スタートの同年にデンマーク系の大北電信会社が、長崎~上海間と長崎~ウラジオストック間に海底電線を開通させました。当時、世界の通信網のトレンドは海底電線で、その敷設によって世界をひとつにつなげようとしていたのです。さらに当時の先進諸国は、日本国内における海底電線敷設権をめぐって競争を展開。明治政府は、通信主権を守るため、自らの手で国内電信線の架設を試み、技術的にはイギリスの力を借りながらも郵便線路開設から2年後の明治6年に、東京~長崎間の電線を架設。東京から長崎・上海経由で、ヨーロッパ諸国へ電信を交わせるようになりました。  現在、グラバー園(長崎市南山手)へ向かう坂の登り口に、「長崎電信創業の地」「国際電信発祥の地」という2つの碑が建っています。当時、ここにあったベルビューホテルの一角に大北電信社の通信所が設けられ、世界との交信が行われたのです。  江戸時代、主に出島を通じて西欧諸国の情報を入手していた日本。明治という新しい時代にとって、郵便線路や電信など情報・通信網の整備は、近代国家を築くうえで不可欠な課題でした。長崎はそうした動きの重要な拠点のひとつだったのです。    ●参考/『日本郵便創業の歴史』(藪内吉彦)

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  • 第430号【気になる形や文様(中国編)】

     七夕に夜空を見上げた方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか。織女星と彦星が年に一度だけ出会うこの日、「成績が上がりますように」「逆上がりができますように」と短冊に書いた思い出のある方もいることでしょう。ちなみに、願い事を記した短冊を笹竹に付けるようになったのは、寺子屋が普及した江戸時代のこと。当時の人も手習いの上達を星々に祈願したそうです。その頃、長崎にも多くの寺子屋があり、七夕(旧暦)は賑やかな年中行事のひとつでした。師匠が、師弟やその親を招いてしっぽく料理をふるまったと伝えられています。  ところで夜空の星を見上げたとき、つい北の空にある北極星を探してしまうという方も多いはず。見つけやすく、常にそこにある北極星は、方位の目印。古く「北辰(ほくしん)」と呼ばれ信仰の対象でもありました。西山神社(長崎市西山)には、この星をかたどったと思われる鳥居の額束(がくづか)があります。額束は通常、長方形ですが、ここのは円形です。西山神社(当時は妙見社)は、唐通事を祖とする家柄で、長崎聖堂(学問所)の学頭であった盧草拙(ろ そうせつ)が中国から持参したという「北辰妙見尊星」を祀るために1717年に建てたもの。盧草拙は天文学者で、西川如見らとともに将軍吉宗に招かれるほどの人物でした。  まちを歩けば、行く先々で気になる形や装飾文様と出会う長崎。唐寺・聖福寺(長崎市玉園町)では、境内そばの石造りの柵に「蝙蝠(こうもり)」の文様が刻まれていました。蝙蝠は、中国語では「蝙」と「福」の発音が同じことから、吉祥文とされています。また、聖福寺は本堂の扉にある「桃」の彫刻でも知られていますが、この「桃」も延命長寿の吉祥文です。  崇福寺(長崎市鍛冶屋町)で、ひときわ色鮮やかな第一峰門には、牡丹の花や青い蝙蝠など縁起のいい文様が描かれています。門の軒下に組まれた木の一つひとつには「雲」が描かれていました。「雲」もまた古代中国以来、瑞祥を意味する文様です。  玉泉神社(長崎市寄合町)では、唐寺にも負けない色鮮やかな文様をいくつも見ることができます。たとえば、拝殿の軒下には魔除けの役割として「獏」と「獅子」と思われる霊獣の彫刻がほどこされています。周辺には長寿の象徴である「亀」や愛嬌のある表情をした「獅子」もいます。唐人屋敷や丸山にもほど近いこの神社。江戸時代は中国の人々との関わりもあったのでしょう。唐寺の面影のある長崎らしい神社です。  長崎のまちでもっとも多く見かけるのが、龍の文様です。古代中国で創られた想像上動物で、中国とゆかりの深い長崎のシンボル的な存在です。建物や看板、お土産品、喫茶店のコースターなど、龍の姿を数え出したらキリがありません。神獣・龍は、あらゆる場面で長崎のまちや人々を見守っているのでした。  ●参考/『すぐわかる日本の伝統紋様』(並木誠士 監修/東京美術)、『長崎事典~歴史編~』、『江戸文様図譜』(熊谷博人 編著)

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