第456号【思い出の昭和30年代】
お盆休みで帰省して家族や友人たちと和やかなひとときをおくっている方も多いことでしょう。港や市街地を望む山の斜面にお墓が連なる長崎。夕方近くになるとお墓に一家が揃い、オトビヤ、ヤビヤなどと呼ばれる小型の花火を上げる光景が見られます。
そして、あさって15日は伝統行事の「精霊流し」が行われ、長崎の夜は爆竹の音と煙、そして大勢の人々の熱気に包まれます。小さなまちなので、帰省中の友人、知人と久しぶりに顔を合わせたりするという楽しみもあります。お盆休みは、故人を偲んだり、懐かしい人と出会ったりして、思い出にひたることも多々あります。半世紀前をふりかえってみましょう。
いまからちょうど50年前の昭和39年(1964)は、東京オリンピック開催の年でした。「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子バレーボールチームとソ連との決勝を、モノクロのテレビで観戦したことを憶えている方もいらっしゃるでしょう。ちなみにカラーテレビが一般に普及したのは1960年代後半に入ってから。オリンピック当時は、カラーで放送する番組はとても少なかったそうです。
東京オリンピック開催の9日前には東海道新幹線が営業を開始し、新幹線「ひかり」が東京~新大阪間を4時間で走り抜けました。この「夢の超特急」開通について、現在70代のある男性は、「当時は東京~大阪間を日帰りできることに驚いたけど、まさか、それ以上に速くなるとは思いもしなかった」と言います。現在、東京~大阪間は「のぞみ」で2時間35分です。
高度経済成長期の真っただ中にあった昭和39年は、「みろく屋」が創業した年でもあります。日本中が未来に向かって力強く突き進むなか、長崎もまた観光都市、造船のまちとして活気にあふれていました。一方で、その時代(昭和30年代)は、かすかに戦後復興の空気も残っていたそうです。
昭和20年8月9日の原爆で大きな被害を受けた長崎市。戦後復興対策のひとつとして、観光産業の活性化にも力をそそぎ、昭和25年には「日本観光地百選」で1位に選ばれました。原爆で全焼した長崎県庁は昭和28年に新装され、市内の観光スポットも次第に整えられていきました。昭和30年代に入ると、長崎県立図書館や長崎市公会堂など、市民が集い文化を育む施設も次々に建てられました。そして観光都市長崎は、戦前をしのぐ数の観光客が訪れるようになったといいます。
昭和30年代に発行された長崎の絵はがきを見ると、「浦上天主堂」、「グラバー園」、「眼鏡橋」、「オランダ坂」など、当然ながらいまと同じ観光スポットが描かれていますが、いまよりも情緒があり、懐かしさが感じられます。意外だったのは、現在、10数棟の建物が復元され、大勢の観光客が往時の様子を楽しんでいる「出島」が、昭和30年代は、敷地内外の整備が少しずつ進められている段階で、いまほど観光客に注目されていなかったようだということです。
激動の時代に翻弄されながらも、懸命にくぐりぬけてきた長崎の数々の観光スポット。あらためて見直せば、日本の近世、近代、そして現代の姿があざやかによみがえります。
◎参考にした本/『日録20世紀~1964~』(講談社)、『長崎市史年表』(長崎市)、『長崎への招待』第2版(長崎文献社)