第462号【幕末~明治を生きた馬田兄弟(本木・松田・柴田)】
秋のイワシは脂がのって、とてもおいしい。煮付けやお刺身などでよく食卓にあがるのですが、そういう話を関東の友人にするとちょっと驚かれます。最近では漁獲量が減り、昔のように買い求めやすい魚ではなくなりつつあると言うのです。まあ、確かにそんな気配もありますが、長崎は沿岸の漁場で比較的豊富にとれるからでしょうか、まだ手に入れやすい価格です。イワシに限らず新鮮な旬の魚がいつでも気軽に手に入る長崎。本当にありがたいことです。
ある日、小イワシの煮付けを食べているとき、ふと、明治時代に日本で初めて長崎で試作された缶詰の中身がイワシだったという話を思い出しました。それはオイルサーディンだったそうですが、製造者は松田雅典(1832-1895)という長崎の人で、缶詰製造の始祖と言われています。
当時、長崎の外国語学校「広運館」の司長だった松田雅典は、いまから145年前の明治2年(1869)フランンス人教師レオン・ジュリーから缶詰の製法を学び、県知事に缶詰試験所の設置を願い出て実現させます。缶詰試験所は、現在の日本銀行長崎支店(長崎市炉粕町/長崎県立長崎図書館そば)の場所にあり、『日本最初の缶詰製造の地』の碑が建っています。ちなみに、食べ物を密封し、加熱・殺菌処理して長期保存を可能にするという缶詰の原理は、いまから約200年前のフランスで生まれたもの。ナポレオンが兵士の食料を確保するために、食べ物の長期保存の方法を募集したのがきっかけだそうです。
さて松田は、のちに缶詰試験場の建物を払い下げてもらい、松田缶詰工場を開業。清国へ輸出したり、ロシアの東洋艦隊へ納品するなどしたそうですが、開業から約10年後には病気で亡くなっています。激動の幕末~明治を生きるなか、缶詰を手掛けた松田には先見の明があったと言えますが、一般に普及するようになったのは亡くなった後の大正時代に入ってからのことでした。
ところで松田は、長崎会所の吟味役の馬田家(分家)の生まれで、のちに金屋町乙名の松田家の養子になっています。実の兄は、近代活字印刷の始祖として知られる本木昌造(1824-1875)です。本木も馬田家に生まれましたが、阿蘭陀通詞を代々務める本木家を相続しました。ちなみに馬田家の本家も阿蘭陀通詞の家柄で、本木は本家を通じてオランダ語を学べる環境に育つなか、その才能を見込まれて本木家へ入ったと思われます。印刷業に関わる前の阿蘭陀通詞時代は、ロシアのプチャーチンの通訳を務め、ペリー来航時には下田に派遣されるなどの活躍をしています。
本木昌造、松田雅典兄弟には、柴田昌吉(1841-1901)という語学に精通した弟もいました。柴田もまた馬田家に生まれ、のちに医家の柴田家に入ります。英語伝習所の教師を経て、維新後は外務省で通訳を務めました。退官後、〝柴田辞書〟と呼ばれる英語辞書を出し、日本の英語教育に大きな影響を与えています。
偉業を成した3人は、名字が違うこともあり、馬田家出身の兄弟であることはあまり知られていません。彼らを通して思うのは、昔は養子縁組で個々の才能を活かすしくみがあったということ。また、近代化へと突き進む時代に生まれるべくして生まれた兄弟であったという気がしてなりません。
◎ 参考にしたもの/日本缶詰びん詰レトルト食品協会HP「かんづめハンドブック」、「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)、「まちなかガイドブックⅠ~新大工・中通り・浜ん町編~」(長崎史談会・長崎市観光政策課)