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  • 第413号【稲佐山のふもとのまちを歩く】

     長崎港にそそぐ浦上川の河口に架かる旭大橋(あさひおおはし)。港湾のいちばん奥から長崎港を見渡せるこの橋は、観光客があまり知らないビュースポットのひとつです。橋上から港の沖をのぞむと、左手に長崎市の中心市街地で、江戸時代に出島を擁して発展したまちがあり、右手対岸には稲佐山のふもとのまちが連なっています。  旭大橋は1987年(昭和57)に開通。橋の東側は長崎駅にほど近く、市中心部から稲佐山方面へ抜けるときに利用されます。橋の途中から歩道が整備されていて5分足らずで対岸へ渡ることができます。  稲佐山側の橋のたもとは、かつて「志賀の波止場」と呼ばれところです。志賀とは庄屋の名前。江戸時代、稲佐山のふもとは浦上村渕(ふち)と呼ばれ、志賀家は代々この地の庄屋を勤めていました。「志賀の波止場」は、志賀家が支配していた海運業の船だまりだったところです。実はこの界隈、幕末・明治期はロシア艦隊が越冬するための停泊地でもありました。海岸近くにはロシア将校クラブや料亭などがあり、「ロシア村」と呼ばれるほどの賑わいだったそうです。いまでは海岸線は埋め立てられ、当時の面影はほとんど見られません。  「ロシア村」の繁栄を語るとき必ず登場するのが「稲佐のお栄さん」こと道永栄さんです。当時、この地でホテルを経営したことで知られています。天草生まれのお栄さんは美しい顔立ちの人で、社交的で気前のいい性格だったとか。はじめロシア将校クラブで働いていたところ、たちまちロシア人たちの人気の的に。その評判はロシアの宮廷にまで及んだそうです。お栄さんは、のちに高台にある烏岩神社(からすいわじんじゃ)のそばに木造平屋建てのホテルを建設。ここにはステッセル将軍(のちの日露戦争のときの旅順要塞司令官)をはじめロシアの高官たちが多く宿泊したそうです。  烏岩神社の参道の登り口には、「お栄さんの道」の碑が建てられています。曲がりくねりながら続く階段は300段以上。登りきるとお栄さんのホテルがあったと思われる付近に小さな公園がありました。対岸の南山手、東山手の旧居留地も遠くに見渡す景色はすばらしく、TVドラマのロケ地になったこともあるそうです。   烏岩神社から小さな谷をくだった先に、悟真寺(ごしんじ)があります。1598(慶長3)に開かれたこのお寺は唐人の菩提寺とされました。悟真寺の墓地は長崎に3つある国際墓地のひとつで、その墓域には唐人墓地、ロシア人墓地、オランダ人墓地があります。ロシア人墓地にはロシア正教の小さなチャペルがあり、往時を偲ばせます。庄屋志賀家のお墓もロシア人墓地の隣にありました。ちなみに幕末の頃の志賀家の当主親朋(ちかとも)は露語の通訳になり、ロシアにも留学。維新後はロシアとの外交交渉に通訳として関わったそうです。悟真寺の国際墓地は、稲佐の個性的な歴史をいまも静かに物語っています。

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  • 第412号【城下町・深堀を散策】

     澄みきった秋空のもとを歩けば、ご近所の風景も遠くの山もいつもよりくっきり見えます。まちに出て、あれこれと古きをたずね新しきを知りたくなるのは、季節のせいでしょうか。今回は深まる秋を感じながら、長崎市内で唯一、城下町の歴史を持つ深堀地区を散策しました。  「深堀」という地名は、鎌倉幕府の御家人で1255年にこの地に下ってきた深堀能仲(ふかほりよしなか)に由来します。能仲は、上総国深堀(かずさのくにふかほり/現・千葉県大原町)の人。承久の乱の手柄で、この地の地頭となったのでした。深堀地区は目の前に海、背後には緑豊かな山を擁した小さなまちです。ちなみに能仲の故郷である千葉県大原町も、太平洋に面した自然豊かなまち。初めてこの地にやってきたとき、その風景と重なったのではないかと想像します。  能仲以来、深堀家は代々この地を治め、のちに佐賀鍋島藩の重臣となり、深堀鍋島家に。江戸時代、佐賀藩は福岡藩と隔年で長崎警備を義務づけられていましたが、深堀領は地形的にも長崎港の入り口をおさえる位置にあり、警備の重要な拠点でありました。  深堀のまちなかを歩けば、車両の往来が少なくたいへん静か。深堀氏の居城があった「深堀陣屋跡」には、現在、カトリック系の幼稚園が建っていました。かつてはここを中心に城下町を形成。周囲には武家屋敷跡の石塀や側溝など、旧藩時代の風情があちらこちらに残っていました。幕府直轄領だった長崎とは違う雰囲気を実感します。  まちを少し山手の方に歩くと、「金谷山菩提寺」がありました。能仲が下ってきた年に建立したお寺です。能仲はもともと関東の三浦氏の一族。この地に来て深堀姓になる前は三浦姓を名乗っていました。山号の金谷山は、三浦氏発生の地である相模国三浦荘金谷(現・横須賀市金谷町)に因んだもの。故郷の地名や一族発祥の地名を新たな土地にも刻んだ能仲。はるばる西国にやってきた心情がうかがえるようでもあります。  金谷山菩提寺には、「長崎喧嘩騒動」に関わり処分を受けた「深堀義士の墓」があります。「長崎喧嘩騒動」とは、元禄13年に深堀の武士らが長崎で起こした事件で、いわば上司の仇を部下が討つという話です。江戸城殿中で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという事件が起きたのは、その翌年のこと。地元ではこの「長崎喧嘩騒動」が赤穂事件になぞらえたりします。いずれの事件も武士のメンツがどんなものであったかを垣間みることができます。  まちなかには、海辺のまちらしく、きれいに彩色された恵比寿様が往来する人々を見守っていました。その色使いは派手だけどどこか素朴で、なぜか古賀人形を彷彿させます。   今回、深堀の鎌倉時代以降の歴史にふれましたが、実は縄文時代の遺構も各所から出土。自然に寄り添って生きた原始時代の人々が生活の拠点とした深堀には、まだまだ知られざる歴史が潜んでいそうです。

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  • 第411号【もうすぐ、長崎くんちです】

     秋の味覚、ナシがおいしそうに店頭に並んでいます。「ナシはリンゴ酸やクエン酸を含み、疲労回復に役立つのよ。夏の疲れが出るこの時期に食べるのは、理にかなったことなの」と教えてくれたのは、料理教室の先生。旬の食材って、本当にありがたいものですね。  9月も終盤に入り、日に日に秋めくなか、日本は祭りのシーズンに突入。長崎も諏訪神社の大祭「長崎くんち」が10月7、8、9日に行われます。地元の60代、70代の方々に子どもの頃の「長崎くんち」についてうかがうと、当日は晴れ着や新しく買った洋服を着せられ、食卓には、ざくろなます、お煮染めが並んだとか。また、甘酒も専用のカメに必ず作ったそうです。  そんな「長崎くんち」の家庭料理には、「さらさ汁」というものもあります。豆腐、ちくわ、板付けかまぼこを具材とした白みそ仕立ての汁碗です。料理名は、江戸時代に輸入されていた文様柄の木綿布、「更紗」に由来するそうですが、なぜこの料理の名に転じたのか、詳しくはわかりませんでした。  さて、寛永11年(1634)にはじまった「長崎くんち」。奉納する演し物を担当する町は「踊り町」と呼ばれ、7年に1回その当番が巡ってきます。それぞれの町内で趣向を凝らした演し物は、各町の歴史を物語り、東洋と西洋が混在する長崎の歴史絵巻にふれるような魅力があります。  今年の「踊り町」は5カ町。町名(演し物)は次のとおりです。今博多町(本踊り)、魚の町(川船)、玉園町(獅子踊り)、江戸町(オランダ船)、籠町(龍踊り)。  今博多町の「本踊り」では、6羽の鶴に扮した踊り子たちが優雅に舞います。町内の小さな子どもたちも踊りに参加。本番に向け、夜、ゆかた姿で一生懸命稽古に励んでいました。  眼鏡橋がかかる中島川沿いに位置する魚の町。昔、魚市があったことに由来する町名です。奉納する演し物「川船」では、屈強な根引き衆による船回しが見どころのひとつ。また、子どもが扮した船頭による「網打ち」にも注目です。  玉園町の「獅子踊り」は、日本の獅子舞とはまた違った風貌の獅子が登場。江戸町の「オランダ船」は、鮮やかなブルーの船体が目を引きます。西洋楽器によるリズム(囃子)がいかにも長崎らしい。そして、籠町の「龍踊り」。辰年でもある今年、熟練の龍衆らによる迫力いっぱいの演技が今から楽しみです。   長崎くんちは、10月7、8、9日がメインイベントですが、実は10月3日の庭見世(にわみせ)も大事なくんち行事のひとつです。この日、夕方から夜10時くらいまで、それぞれの踊り町で本番に使う衣装や道具、お祝いの品々を披露します。長崎っ子たちは家族や友人、職場の仲間たちと踊り町を渡り歩きながら、くんち話に花を咲かせるのでした。

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  • 第410号【皿うどんサラダでアートにチャレンジ!】

     ずいぶん朝夕が過ごしやすくなりました。気持ちのいい涼風は、今年の猛暑を乗り越えたご褒美のようでもあります。でも、九州・長崎はまだまだ日中の残暑は厳しいです。北の地方では、ずいぶん暑さがおさまったようですね。季節の変わり目です。体調に気を付けてお過ごしください。  今回は先月末に行われた長崎県美術館でのワークショップ『「皿うどんサラダ」で皿うどんアートに挑戦!』の様子をご紹介します。これは、夏休み期間中に同美術館で開催された「メアリー・ブレア原画展」(2012年7月28日~9月2日迄)の関連イベントのひとつで、皿うどんサラダの麺と野菜を使って、親子で絵を描いてもらおうという催しです。   メアリー・ブレアは、アメリカのアーティストで、数々の名作アニメを世に送り出したディズニー・スタジオの草創期に活躍した女性です。「シンデレラ」、「不思議の国のアリス」などのコンセプト・アートのほか、ディズニーランドのアトラクションとして親しまれている「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインを担当したことでも知られています。また、2人の息子に恵まれたメアリーは、母としての愛情を通してさらに創造性あふれる作品を残しました。その豊かな色彩感覚とデザインは、いまも多くのアーティストに影響を与えています。  そんなメアリーのようにカラフルで創造性豊かな作品をつくろうと、会場に集まった子どもたち。衛生のためのフィルムでくるんだ画板に、ピーマン、パプリカ、ブロッコリー、レタス、トマト、コーンなど、色鮮やかな野菜と麺を配しながら、絵を描いていきます。最初はとまどい気味の子も、すぐに夢中に。途中、麺や野菜をつまみぐいする子もいたりして、会場は、楽しくほほえましい空気に包まれました。  作品のテーマは自由。大好きな「お母さん」や「キャラクター」のほか、「花火大会」、「山」、「海」など家族とのこの夏の思い出などを、のびのびと仕上げていました。参加した子どもたちの感想は、「たいへんだったけど、面白かった!」(7才男子)、「がんばって良かった」(5才女子)、「家ではこんなことできないから、楽しかった」(11才女子)「少しむずしかったけど、またやってみたい」(5才男子)などなど。それぞれに楽しんでくれたようです。  それぞれの作品は、最後はちゃんと食べる、というのがこの催しの大切なポイントです。嫌いだったはずの野菜も、何度も手にとって親しみがわいたのか、「おいしそうに食べていますね」とお母さん。別のテーブルでは、ふだんは食べないというパセリを、パクパク食べている男の子の姿が印象的でした。  もともと、皿うどんサラダの麺は、子どもたちに野菜をいっぱい食べてほしいという思いから開発された商品です。パリパリの食感の麺と一緒に食べれば、きっと苦手だった野菜もおいしく食べてくれるはず。こうしたアートを通して、いろんな野菜、食材と触れ合うことは、現代の子どもたちにとって、食を知り、もっと親しむ大切なきっかけのひとつになるのかもしれません。  ◎取材協力/長崎県美術館、KTNテレビ長崎

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  • 第409号【長崎の精霊流し】

     先週はお盆で、久しぶりに里帰りしたという方もいらっしゃることでしょう。長崎のまちも観光客の方々に、帰省した人々も加わっていつも以上の賑わいに。家族揃ってお墓参りする光景が、あちらこちらで見られました。  先祖の霊を迎えて供養するお盆。盆踊りや灯籠流しなど、各地にはいろいろな盆祭りがありますが、なかでも長崎は、その規模と豪華さで全国でも屈指の盆祭りだといわれています。  8月13、14、15日に行われる長崎のお盆で特徴的なもののひとつが、お墓参りの光景です。お墓の前には小さなスペースがあり、お参りに来た家族や親戚たちは、そこで爆竹を鳴らし、花火を楽しみます。また大人たちは静かに酒を酌み交わすなどして、亡き人と一緒に和やかなひとときを過ごすのです。  そして、長崎のお盆を全国的に知らしめているのが、お盆最終日に行われる「精霊流し」です。故人の霊を船に乗せ、西方浄土へ送るという意味を持つ行事ですが、その盛大さ、賑やかさは目を見張るものがあります。   300年以上の伝統がある長崎の「精霊流し」。長崎の郷土史家、越中哲也氏(長崎歴史文化協会理事長)によると、1596年頃、キリシタンのまちだった長崎に、まず浄土宗のお寺が入り(その後まもなく、キリスト教は禁教令が出される)、「浄土には船に乗っていくのがいい」という浄土宗の考えから、「精霊流し」がはじまったといいます。また、現在の「精霊流し」は爆竹や花火でたいへん賑やかなのですが、その昔は、しめやかなもので、男衆が船を担ぎ、ゆっくりと流し場へ向かったそうです。江戸時代後期の画家でシーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀が描いた精霊流しの絵からも、そうした光景が伝わってきます。  さて、この1年間で亡くなられた方の霊を乗せる精霊船。その大きさは、両腕で抱えられるくらいの藁船(わらぶね)から、十数メートルはある木製の大船までさまざまです。船上には遺影のほか故人にゆかりのものが飾られ、一隻ごとに個性が見られます。また精霊船には町内で出す、もやい船もあります。最近では、小型トラックを使ってもやい船を出すところも増えてきました。「もやい船は10人から20人の引き手が必要。いまは、その人数がなかなか揃わないので、トラックで出すんです」と、ある町の世話役の方が残念そうにおっしゃっていました。  地元の女性(70代)は、「精霊流し」がはじまると、必ず沿道に出て一隻、一隻、どこの家から船が出ているかを確認するとか。というのも、この行事を通じて、知人が亡くなったことを知ることも少なくないからだそうです。   今年の長崎の「精霊流し」は、3,500隻以上の船がまちをねり歩きました。爆竹と花火、カネの音、そして「ドーイドイ」という掛け声が響くなか、故人への思いを乗せた船は、大勢の沿道の人々に見守られながら西方浄土へ送られたのです。

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  • 第408号【夏にうれしい、皿うどんサラダ】

     残暑お見舞い申し上げます。この夏も長崎の港では伝統のペーロン選手権大会が行われました。炎天下、ドラの音が響くなか懸命に櫂をさばく選手たち。勇壮さに感動しながら、ふと岸壁の一角に目をやると、満開のコスモスが風に揺れていました。海上の熱戦をやさしく涼しげな表情で見守るその姿。すでに季節は次へと向かっているのでした。  とはいえ、まだまだ暑さは続きます。陽がジリジリ照りつけるお昼どきなどは、なるべくガスも電気も使わずにササッと食事を作りたいものです。そんなときにおすすめなのが、パリパリの皿うどん麺に好みの具材をのせていただく「皿うどんサラダ」です。  旬の野菜をはじめお豆腐などの大豆加工品、チーズなどの乳製品、海藻や野菜の乾物、魚介類の缶詰などをうまく組み合わせれば、夏バテ防止につながる栄養バランスのとれたオリジナルな一品が作れます。  たとえば、ボウルにトマト、パセリ、クリームチーズ、ピーナツを適宜刻んで入れ、好みのドレッシングで混ぜておきます。お皿にホウレンソウなどを敷き、その上に「皿うどんサラダ」の麺をほぐしてのせます。そこに、ボウルに混ぜておいたものをトッピングして出来上がりです。  ちなみにトマト、パセリ、ホウレンソウ、ピーナツは、長崎ゆかりの食材です。南米アンデスが原産地のトマトは、江戸時代にオランダ船がはじめて日本に運んできました。当時は赤茄子、唐柿とも呼ばれ、いまのように甘いトマトではなかったようです。地中海原産のパセリも17世紀にオランダ船が運んできたもの。ホウレンソウとピーナツ(落花生)は、江戸時代に唐船が運んできたのが最初と言われています。  さて、具材の組み合わせ次第でいろいろなおいしさが楽しめる「皿うどんサラダ」をもう一品。アボガドとキュウリを合えたものをトッピング。敷き野菜には、水菜、コーン(とうもろこし)、キャベツを使ってみました。このメニューでは、南蛮貿易時代にポルトガル船が運んで来たコーンと、オランダ船で渡ってきたキャベツが長崎ゆかりの食材です。  「皿うどんサラダ」をよりおいしくいただくコツは、具材を一口大よりも少し小さめに刻むこと。パリパリの麺とよく絡み食べやすくなります。手前味噌になりますが、我が社の「皿うどんサラダ」の麺はあっさりとしたパリパリの細麺で、具材やドレッシングの味がひきたちます。また、添付の白ごまドレッシングもぜひお試しください。  口の中でパリパリと麺を噛みくだく音は、心地よい刺激となって食欲をそそります。この夏、好きな食材を盛り合わせて、オリジナルの「皿うどんサラダ」を作ってみませんか。   ◎参考にした本/たべもの語源辞典(清水桂一 編/東京堂出版)、ながさきことはじめ(長崎文献社 編)

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  • 第407号【涼を求めて中の茶屋へ】

     梅雨が明け、暑さもひとしお。外出時はついつい建物や木の影を探しながら歩いてしまいますね。身も心も涼を求めるこの季節。眼鏡橋などの石橋群が架かる中島川にいくと、気持ち良さげに泳ぐコイや、水面でエサを採る青サギ、コサギ、ゴイサギの姿が見られます。そこは、まちのなかの小さな自然界。暑さや喧噪をよそに、涼やかな景色が楽しめます。  いま夏休み中とあって涼を楽しむレジャー&観光スポットは、どこも子供たちでいっぱいです。長崎観光で心静まる大人の涼を楽しみたいという方は、かつての丸山花街の一角にある「中の茶屋」を訪れてみませんか。洗練された数寄屋風の住宅と江戸時代中期に築かれたという小さな庭園のあるところで、和やかなひとときを過ごすことができます。  「中の茶屋」は江戸時代の丸山の遊女屋「中の筑後屋」が、裏手の高台に茶屋として設けたもの。当時は「花月楼」と並び知られ、多くの文人墨客が訪れたと伝えられています。長崎奉行も市中を巡検する際には休憩所として指定していたとか。ちなみに「中の茶屋」のお隣には丸山の芸者衆が参拝していた梅園天満宮があります。この界隈は石畳の路地や石塀、飾り格子のある家屋など、あちらこちらで遊郭時代の名残りを見ることができます。  「中の茶屋」の現在の建物は、昭和46年に近所で起きた火災により全焼。のちに火災前の家屋が復元されたものです。江戸時代の茶屋の建物についてはよくわかりませんが、復元された玄関の広さ、炉がきられた奥座敷、次の間、広い縁側などから、茶屋として利用された時代の雰囲気が感じられます。冷房の効いた和室から縁側のガラス越しに見る庭園の涼しげなこと。各地に残される大名庭園とは違い、ある意味、名もなき小規模な庭園ですが、江戸期から続く景色かと思うと感慨深いものがあります。  松、梅、桜、サツキ、柿など四季折々に楽しめる植栽。敷石、飛び石、石灯籠、手水鉢など長崎では珍しく純和風な趣きです。江戸時代、庭園造りは全国的にブームになったと聞いたことがありますが、中の茶屋の庭園は、幕末・明治期に入ってくる西洋庭園の影響を受けていない庭園といえるのかもしれません。  現在、「中の茶屋」は「清水崑展示館」にもなっていて、昭和の時代の懐かしいかっぱの絵も楽しむことができます。  さて、中の茶屋から徒歩で3、4分ほどのところには「玉泉神社」があります。軒周辺の装飾には中国の影響と思われる極彩色の龍や獅子が彫られるなど、神社らしからぬ雰囲気を漂わせています。「玉泉神社」はもとは天台宗・聖護院の末寺だったそうで、のちにこの地に祀られていた稲荷社と合祀されたとか。中国風の飾りの由来については不明ですが、もしかしたら江戸時代、唐船主からの寄進によるものかもしれません。それにしても、いかにも長崎らしい神仏混合的な姿でありました。   ◎参考にした資料や本など/長崎市中の茶屋(リーフレット)、長崎市史~地誌・佛寺部(下)編~、よくわかる日本庭園の見方(JTBパブリッシング)

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  • 第406号【ごま豆腐と呉豆腐】

     久しぶりに「ごま豆腐」を作りました。精進料理を代表する「ごま豆腐」は、少し手間ひまのかかる料理です。ごまを炒り、すり鉢で油が出るまですって、水を加えて布で漉す。だし汁、葛粉を加えよく混ぜて20~30分ほど火にかけ練りあげてから、流し箱に入れて固めます。この作業を家庭で一からやるのはしんどい。ですので、もっぱら市販されている練り胡麻を使います。ごまを炒ったり、すったりの作業が省かれ手軽に作れます。  長崎ではお盆に欠かせない「ごま豆腐」。長崎や佐賀などの一部の地域、つまり江戸時代でいう「肥前」エリア内では、「ごま豆腐」が郷土の伝統食ともいえる位置づけにある地域もあります。「肥前」と「ごま豆腐」には一体、どんなゆかりがあるのでしょう。探ってみると、話はいんげん豆を伝えた隠元禅師にまで遡りました。  中国は明の時代の高僧・隠元禅師は、1654年7月、長崎に上陸。興福寺(長崎市寺町)に入り、約1年間を過ごしました。(のちに京都へ移り、「黄檗山萬福寺」を創建)。その隠元禅師が、長崎在住時に伝えたもののひとつに「普茶料理(ふちゃりょうり)」があります。この料理は、精進料理の中でも、中国の建築や儀礼作法をそのまま日本に取り入れた黄檗宗の料理とも言われるものです。たとえば、他の禅宗寺院の精進料理では、一人ひとりに膳が出されますが、普茶料理は円卓に数人が座し、一つの器に盛られた料理を皆で分け合って食すというスタイルです。一説には、この食事作法が長崎の卓袱料理の形式に受け継がれとも言われています。ちなみに普茶とは、「普く茶を施す」ということ。上下の関係なく和気あいあいと食事をいただくという意味合いも含まれているそうです。  隠元禅師が伝えた卓袱式(中国様式)精進料理、「普茶料理」。黄檗宗では「ごま豆腐」は「蔴腐(マフ)」と中国読みするそうですが、いまでも長崎ではお年寄りや卓袱に慣れ親しんだ方などは「ごま豆腐」ではなく「マフ」と言います。江戸時代、長崎を訪れたある人は、宿泊した乙名の家で卓袱料理のもてなしを受けたとか。また、とある名古屋の豪商は、長崎の両替商の家で卓袱料理を食べ、そのときの献立の中に「ごま豆腐」があったことを記しています。「ごま豆腐」はそんなふうにして、しだいに長崎そして近隣エリアの庶民の食生活に広がり根付いていったのかもしれません。  ところで、長崎県でも島原や佐賀県の有田などでは「呉豆腐」と呼ばれるものがあります。豆乳をでんぷんで固めたもので、ニガリで固める豆腐とは違い、もっちりしています。「呉豆腐」は材料、作り方、食感など「ごま豆腐」の兄弟みたいなものです。砂糖も少し入るので、デザート感覚でいただけます。また、かつて島原半島や天草などでは、自家製の落花生とサツマイモで作ったでんぷんを原料に「落花生豆腐」(これも呉豆腐の一種)を作るところもありました。当時はカボチャやスイカの種を干して粉にしたものを原料にした「呉豆腐」もあったとか。いずれも主に法事などの際に作っていたそうで、やはり、精進料理の流れをくんでいるからでしょうか。  ルーツを探れば、仏教やかつての人々の暮らしなど、いろいろな話につながっていく「ごま豆腐」。ま、何はともあれ、身体にもいいので、ぜひ、ご賞味ください。    ◎参考にした本など/日本の食生活禅宗42~聞き書き・長崎の食事~(農文協)、長崎卓袱料理(長崎インカラー)、長崎町人誌・第三巻さまざまのくらし編・食の部(長崎文献社)

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  • 第405号【永井隆博士の足跡をたずねる】

     梅雨も後半に入りました。河川の氾濫やがけ崩れなど、この時期に多い災害には十分気を付けてお過ごしください。それにしても、待ち遠しいのは梅雨明けとロンドンオリンピックですね。今年の夏はアツアツの熱戦で幕開けです!  さて先日、永井隆博士の生き方に感銘を受けたという女性(70代)とともに、長崎市浦上地区に残る永井博士の足跡を訪ねました。「博士が生きた浦上の地に立ち、その空気を肌で感じたかった」と言うその女性は、東京の方。持病の足腰の痛みをおして実現させた念願の長崎の旅でした。  時を越え、人を動かす永井隆博士。いったい彼の何が、そうさせるのでしょう。博士は、1908年(明治41)島根県出身。努力型の勉強家で、松江高等学校を首席で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学。卒業後、同大で放射線医学を専攻。1934年(昭和9)軍医として満州事変に従軍。除隊後、長崎医大の物理的療法科(放射線医学)に復職します。その後、日中戦争に2年半従軍。無事帰還し、職場にもどると、博士は寝る間も惜しんで仕事に没頭します。その頃の日本では結核が流行っていて、毎日何百人ものレントゲン写真を撮って検査・診断を続けました。しかし、当時の不十分な医療環境や過労などが重なり、37才のとき「慢性骨髄性白血病」、「余命は3年」と宣告されたのでした。  博士のここまでの人生も波乱に満ちたものですが、実は、このあとから、のちに博士が世界的にその名を知らしめることになる人生がはじまります。余命3年の宣告を受けた2カ月後の8月9日、原爆投下中心地からわずか700mの医大医院で被爆。自ら大けがを負い、浦上の自宅(原爆投下中心地から約600m)にいた妻も失いながら、被災者の救護活動にあたります。まもなく浦上川の上流地域にある「三ツ山の木場」と呼ばれる山里へ移り、「長崎医科大学第11医療隊救護所」を開設しました。ここには、妻の緑さんの母が住む家があり、そこが救護活動の拠点となりました。博士の2人の子供たちも原爆投下の3日前からこの祖母のもとにいて難を逃れたのでした。  木場には、大勢の負傷者が避難していました。博士は頭の傷に布を巻き、木の杖をつきながら、朝から夜遅くまで近隣の山里を診療して回りました。そして、間もなく病床に伏します。周囲の援助で、浦上の自宅があったすぐそばに木造の小さな家屋が建てられました。その家に博士は「己の如く隣人を愛せよ」の言葉から「如己堂(にょこどう)」と名付け、2人の子供たちと生活。『長崎の鐘』『この子を残して』など十数冊の本を執筆。命の大切さや隣人愛を説き、世界中に平和の尊さを発信し続けました。そして原爆投下から6年後、43才で永眠。余命3年と言われていましたが、さらに3年を生き抜いたのでした。  東京の女性は、1日だけという限られた時間のなか、博士がカトリックの洗礼を受けるために通った「浦上天主堂」、被爆直後に救護活動にあたった医大医院そばの「ぐびろが丘」、そして「如己堂」、「長崎市永井隆記念館」などを巡りました。それぞれの場所で、めいっぱい在りし日の博士に思いを馳せた彼女は「博士の残したメッセージを後世に伝えなければなりませんね」と話し、翌日名残惜しそうに帰路についたのでした。  ◎参考にした本/「永井隆~長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」(永井誠一 著)、「永井隆~平和を祈り愛に生きた医師~」(中井俊己 著)

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  • 第404号【長崎くんちの小屋入り】

     梅雨空の下、大きな花を咲かせたアマリリス。通りすがりの人の足を止めるほど、ハッとさせる美しさです。紫陽花や花菖蒲にしても、この時期に咲く花々は、どれも曇り空に映える色、姿をしています。すっきりしない天候が続くとき、気分を晴れやかにしてくれるありがたい存在です。  6月は衣更えにはじまり、窓に簾を掛けたり、カーペットを籐製のものに変えるなど部屋の方も涼しげに模様替え。また、出回りはじめた梅やらっきょうを買い求めて、梅酒、梅干し、らっきょう漬け作りに精を出すなど、夏に向かって衣食住を整えるのに、何かと忙しい月でもあります。  一方、長崎の伝統行事に目を向けると、6月は「小屋入り」で幕が開けました。「小屋入り」とは、諏訪神社の秋の大祭、「長崎くんち」に関わる行事のひとつで、毎年6月1日に踊り町(おどりちょう:その年に奉納踊りを披露する当番の町)の方々が、諏訪神社と八坂神社で清祓(きよはらい)を受け、演し物を無事奉納できるよう祈願します。  「小屋入り」はその年の「長崎くんち」のはじまりを告げる大切な行事です。この日から各踊り町は本番(10月7・8・9日)に向けて演し物の稽古に入ります。なぜ「小屋入り」というかというと、昔は文字通り、小屋を建て、その中で身を清めて稽古に挑んだからだそうです。  「小屋入り」の日の朝、各踊り町の男性は紋付きはかまやスーツ、女性は着物に身を包み、行列をなして諏訪神社、そして八坂神社へ参拝します。午前中に清祓を終えると、午後は3時頃から「打ち込み」があります。「打ち込み」とは、ほかの踊り町や年番町(くんち運営の手伝いをする当番の町)など、関係先への挨拶回りのことをいいます。  「打ち込み」では、町の長老らを中心とした男衆が、軽快な唐人パッチに着替え町名が入った提灯を片手に、シャギリ(囃子)をともなってふたたび町を練り歩きます。今年の踊り町は、今博多町(本踊)、魚の町(川船)、江戸町(オランダ船)、玉園町(獅子踊)、籠町(龍踊)の5町。今回、今博多町の「打ち込み」に同行させていただきましたが、町や関係先など20カ所近くを約3時間かけての挨拶回りは、かなり体力を使いました。しかし、踊り町のみなさんに弱音を吐く人は一人もおらず、むしろ晴れ晴れとした表情です。故郷の祭りを愛する人々の心に触れたような気がしました。    ところで、「小屋入り」の日は、長崎の人にとって「厄入り」の日でもあります。厄年に関する慣習は地域によって異なると思いますが、長崎では、昔からこの日に厄入りの祈祷を行う人が多いのです。厄入りの酒宴では、厄に入った当人をその日の内に自宅に帰してはならないという言い伝えもあります。最近の若い人は早々と切り上げる方も増えたと聞きますが、それを口実に遅くまで飲む方もまだまだいらっしゃるようです。

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  • 第403号【美しくておいしい紫陽花】

     長崎は紫陽花のシーズンがはじまりました。まだ固いつぼみが多いのですが、葉は瑞々しくしげり、道行く人の目を楽しませています。また、ビワもシーズンを迎えています。路地ビワの樹には実がたわわです。住宅街などでも庭木のビワに袋がけをしたところを多く見かけます。ビワの産地・長崎ならではの光景かもしれません。  紫陽花の季節には必ず訪れたい場所があります。長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」です。出島の商館医シーボルトは、ある紫陽花の品種に、彼が愛した日本人女性「お滝さん」の愛称から「オタクサ」と名付けました。同記念館ではこのエピソードにちなんだ小さな企画展を毎年開催しているのです。  今年の企画展「シーボルトとオタクサ展」(平成24年5 月18日~6月17日まで開催)では、世界で最も美しい図鑑のひとつといわれている『日本植物誌』(シーボルトほか 著)をはじめ、シーボルトにとって出島の商館医の大先輩で、日本の植物について先に著したケンペルやツュンペリーの関連資料、さらに幕末の日本の植物学者が著した書などが展示されています。  なかでも目を引いたのは、デンマークの名窯ロイヤルコペンハーゲン・ポーセリン製のカップとソーサーです。『日本植物誌』からアジサイをはじめクロマツ、サザンカ、ハマナスなど10種類の花をモチーフにした優雅な陶器でした。  シーボルトの生涯を知る貴重な資料が展示された「シーボルト記念館」は、シーボルトの学塾兼診療所だった「鳴滝塾」跡にあります。周囲を豊かな緑に覆われた静かなところで、いまでは紫陽花の名所としても知られています。時を経て語り継がれる「お滝さん」への愛情物語とともに、心に刻まれる美しい風景に出合える場所です。  ところで、見目麗しい紫陽花ですが、食べておいしい紫陽花もあります。長崎の味を代表する卓袱料理の小菜のひとつ「紫陽花揚げ(あじさいあげ)」です。エビのすり身を丸め、小さく角切りした食パンを衣にして揚げたもので、形が紫陽花に似ています。いつ頃から卓袱料理に出されるようになったのかはわかりませんが、古いものではなさそうです。同じく卓袱料理で出されるハトシ(エビのすり身を食パンではさみ揚げたもの)を、長崎にゆかりの深い紫陽花の形に転じたものともいわれています。   エビの風味とサクサクした衣がおいしい「紫陽花揚げ」は、長崎の惣菜屋さんでも時折見かけます。見て美しく、食べておいしい紫陽花をお楽しみください。

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  • 第402号【かつては海だった大波止界隈を歩く】

     ゴールデンウィーク直前に沖縄地方が梅雨入り。その数日後、北海道の桜が開花。そして長崎はいま、新緑の季節を謳歌中です。いろいろな季節が同時進行する日本。四季の味わいもそれぞれの地域によって異なり、人々の営みもその風土や歴史に培われてきました。そのなかで育まれる「土地柄」という個性は、昔もいまも旅人の好奇心をくすぐります。  全国から多くの旅人が集う長崎。その土地柄を語る時、「港」は重要なキーワードのひとつです。このまちが歴史の表舞台に登場したのも、1570 年にポルトガルとの貿易港として開かれたことがきっかけでした。はじめに緑に覆われた岬の突端が開かれ町がつくられました。場所は、いまの長崎県庁があるあたりです。その後、海岸線を埋め立てるなどして土地を広げ、町の数を増やしながら発展。鎖国時の貿易港時代を経た後も、居留地時代(明治期)、上海航路開設の時代(大正~昭和初期)など、折々に開発が行われ現在に至っています。  その昔の岬の突端あたりから県庁坂を下ると、「南蛮船来航の波止場跡」の碑があります。ここは、江戸時代には長崎奉行所西役所の船着き場(大波止)が設けられていました。現在、周りは幹線道路が通り、ビルが建ち並んでいます。かつて目の前は海だったなんて、なかなか想像できません。  大波止界隈の変貌はめざましく、近年では、出島ワーフ、長崎水辺の森公園などが整備され、新たな賑わいが生まれています。これまでの時代の変遷は、あちらこちらに史跡として残されています。そのなかで不思議な存在感を放っているのが「大波止の鉄玉」です。直径約56cm、重量約560kgの丸い鉄の玉で、台座の上に供えられ、鉄格子で囲われています。通りの角に鎮座するその様子は、目立たないけれど際立っている、そんな感じです。  近所に住む知人は「テッポンタマ」と呼んでいます。大波止が開発されるたびに、この界隈を転々として現在地に至っているとか。長年の雨ざらしで、よく見ると表面がところどころ剥がれて世界地図のように見えます。別の角度からはクレーターの跡がくっきりのお月さまみたいです。説明板によると、島原の乱のとき原城攻略のために長崎で鋳造された石火矢玉だという言い伝えがあるそうですが、製造された時期も含めて本当のところは定かではないそうです。  長崎奉行所西役所の大波止を描いた江戸時代の地図に、海に向かって設置されたこの鉄砲玉が描かれています。こんなものを作れる、使える、ということを入港する船に誇示したのかもしれません。ときをくだって戦争中には、金属供出でお寺の梵鐘から個人の指輪、タンスの取手といったものまで回収されたと聞きますが、そんな時代さえもくぐり抜けてきました。   なぜ、無事に生き残ったのか、その強い生命力(!?)の理由を問いたくなる「大波止の鉄玉」。きょうも静かに人々の往来を見守っています。

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  • 第401号【南蛮渡来のビスケット】

     小腹が空いたときや仕事が一段落ついたとき、お茶といっしょに甘いお菓子をいただくと、ちょっと幸せな気分になります。そんなティータイムによく添えられるのがビスケット。カステラやコンペイトウと同じく400年以上も前にポルトガル船によって日本に運び込まれたのが最初ではないかといわれています。  ビスケット(英語・ラテン語biscuit)は、ポルトガル語では「ビスコイト(biscout)」といい、江戸時代には「ヒスカウ」、「ビスカウト」などと称されました。ビスケットは、ラテン語では「二度焼かれたもの」を意味する言葉で、「保存食用の堅いパン」という意味合いも含まれています。文字通り、大航海時代には船に積み込まれ、船員たちの長い航海を助けました。現代に至っても、堅(乾)パンやビスケットは非常用としても利用されています。  江戸時代のはじめ頃、長崎でビスケットを作り、ルソン(フィリピン)に輸出していたという話があります。また平戸にもビスケットを焼いて売る店があったそうです。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川正休編)の中の「長崎土産物」の項には、眼鏡細工や時計細工などの工芸品にまじって「南蛮菓子色々」とあり、そのなかにカステラボウル、コンペイトウ、タマゴソウメン、パンなどと並んでビスカウトが記されています。  オランダ商館での宴に出された料理のデザートにもビスケットのようなお菓子が出されていました。それらは、「ヲペリィ」、「スース」、「カネールクウク」と記されています。ちなみに「スース」は肉桂(シナモン)が入ったビスケット、「カーネルクウク」は花型に抜かれたビスケットのことだそうで、どうやら風味付けに使った香辛料や型の違いで名称が異なるようです。  八代将軍吉宗(1684~1751)に、ビスケットにまつわるエピソードがあります。外国の文化に強い関心を示した吉宗は、江戸参府で滞在中のオランダ人のもとへ奉行をやり、彼らが持参していたビスケットやバターなど数種の品をそれぞれの名称を付けて出させたとか。オランダ人はそんな将軍の嗜好を知ってか、その後、バターやお菓子、ブドウ酒など西洋の食べ物や飲み物を数々献上したようです。  ひとくちにビスケットといっても小麦粉、バター、砂糖、牛乳を混ぜて作るシンプルなタイプから、チョコレートやナッツ類、香辛料などを加えたものまでいろいろあります。そんな材料のひとつであるアーモンドも、南蛮船によって輸入されていました。もともとはペルシャあたりから運ばれてきたものらしく、江戸時代には「あめんどう」と称して将軍へ献上されていたようです。また、風味付けに用いられたのが、肉桂(シナモン)や丁字(クローブ)といった香辛料です。これらも南蛮渡来の品々で、薬用にも用いられました。  南蛮菓子には、ほかにもボウロやアルヘイトウなどがあります。いずれにしても当時の庶民にとってはたいへん珍しく貴重なものでした。   ◎参考にした本など/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、南蛮から来た食文化(絵後迪子著/弦書房)、長崎出島の食文化(親和文庫第17号)

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  • 第400号【長崎の春2012】

     先週、満開を迎えた長崎の桜。八分咲きの頃に春の大嵐に見舞われましたが、よく耐えました。嵐が過ぎ去った翌日、桜の名所として知られる風頭公園へ足を運ぶと、大勢の人々が桜の樹の下でお弁当をひろげていました。東北や北海道の桜の見頃はゴールデンウィーク前後でしょうか。長崎は早くも葉桜の季節へ移りはじめました。山の緑も日に日に濃くなっています。 春もたけなわのこの季節、江戸時代から続く長崎の風物詩といえば「ハタ揚げ」です。ハタ揚げの日ともなると前日の夜から参加者が会場となる山の頂きに集まり、たいへんな賑わいだったと伝えられています。江戸時代の風俗を描いた長崎名勝図絵にもその様子は描かれていて、当時の熱狂ぶりが伺えます。 現代の「ハタ揚げ」はというと、やはり相変わらずの人気ぶり。毎年4月はじめ頃に開催される地元新聞社主催のハタ揚げ大会では、世代を問わず大勢の市民が集います。会場は長崎港と市街地を見渡す景勝地「唐八景」の山頂。かつて「ハタ揚げ」はもっぱら男子がするものでしたが、いまでは女性の姿も大勢見かけます。  ただ、「ハタ合戦」となると、やはり男の世界です。手元での巧みなヨマ(ハタを揚げる糸)さばきで、遠く上空にのぼったハタを操縦。空中で相手のハタに交差させ「ビードロヨマ」(粉状に砕いたビードロを塗った糸)で相手のハタを切り落とすのです。大勢の観客が手をかざしながら勝負を見守っていました。  「子供の頃は、みんな自分でハタを作って揚げていた」と話す地元の80代の男性は、ハタの骨組み(縦骨1本と横骨1本を十字に交差させたシンプルな構造)となる竹の弾力や、よまの付け具合など自分なりに工夫する楽しみがあり、ハタを揚げるときには風を読んだり、技を競い合ったりするところが面白いといいます。  また、70代の男性は、「ハタ揚げは男のロマン」と言います。「子供の頃、しつけに厳しかった祖父はお小遣いをくれない人だったけど、ハタを買うと言うと快く出してくれたものです」。  ところで、男子がハタ揚げに興じるそばで、ワラビ摘みに夢中になっている女性がいました。声をかけると、「灰汁抜きは面倒だけど、おいしいものね」と照れ笑い。そう、いつだって女性は現実的なのです。   ハタ揚げ見物を終え、土の感触を楽しみながら山道を歩けば、土手にツワブキがいっぱい生えていました。長崎では「ツワ」と呼ばれ、煮しめや味噌漬けなどにして食べます。そして、足下に目をやれば、スミレやジロボウエンゴサク、オキザリス、オドリコソウなど野山の小さな花たちが元気に花を咲かせていました。さあ、次の休日はお弁当を持って春を散策しませんか。ツワブキジロボウエンゴサクオキザリス オドリコソウ

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  • 第399号【ウチワエビのウチワ話】

     老夫婦が営む小さなおまんじゅう屋の前を通りかかると、店先で摘んできたばかりの蓬(よもぎ)の若葉が香気を放っていました。毎年その光景を見るたびに思い出すのが「おらが世やそこらの草も餅になる」という一茶の句。春のパワーをおいしくいただくのは、昔から変わらぬものなのですね。  蓬が山の幸なら、今回ご紹介するウチワエビは海の幸。冬からいま頃にかけて、とくにおいしくなる魚介類です。ウチワエビはイセエビ亜目セミエビ科。比較的温かい海域の水深100メートルほどの泥砂底に生息し、以西底引船などで漁獲されます。体長は15センチ前後、扁平で団扇のような形をしています。エビらしからぬそのユニークな姿はウルトラマンシリーズに出てくる怪獣を思わせます。  長崎県内各地で水揚げされ、地元の市場やスーパーなどに並ぶウチワエビ。けして珍しいものではないのですが、県外の方からは、「見たことがない」「食べたことがない」という声をよく耳にします。また、昨今のサカナ離れの傾向もあってか、長崎でも若い世代になると「知らない」という人も少なくありません。  近所の魚屋さんは、「味は伊勢エビと一緒たい!」と長崎弁で太鼓判を押します。確かに刺身でいただくと「プリップリ」して、「あま~い」のです。ウチワエビが好きで、よく食卓に上げるという地元の女性(60代)は、「刺身、味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。そんなに安いものではないけれど、伊勢エビよりは求めやすい」といいます。先日の時価は一尾495円でした。  「ウチワエビには常連のお客さんがいる」という魚屋さんに、プロのさばき方を見せていただきました。まず、裏返して頭の付け根を押さえ、軽くひねるようにして胴体からはずします。意外だったのは、この後です。胴とその周りにあるギザギザの腹肢や尾肢との間に包丁を入れ、固い殻を外していくのかと思いきや、包丁を使わず、デザートナイフを胴内に入れ、殻に沿って切り回し、あっと言う間に身を取り出しました。「このやり方はあまり知られていないんですよ」と店主。目からウロコが落ちるような光景でした。  見た目は淡白な印象ですが、食べてみると濃厚な旨味があるウチワエビ。身はもちろん殻からもおいしい出汁が出るので、味噌汁や寄せ鍋におすすめです。また、外観の大きさに比べ、身は小さいと感じるかもしれませんが、インパクトのある姿と伊勢エビに負けないおいしさで、十分満足できるはずです。   長崎では、和食処などで名物のひとつとして出しているところも多いウチワエビ。未体験の方は、ぜひ一度ご賞味ください。

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