第428号【幕末・明治期の長崎~草野丈吉ほか~】
こんにちは!長崎はいま、紫陽花の季節。長崎市の花ということもあり、まちのいたるところに咲いています。この時期、紫陽花ほどではありませんが、長崎の家々の庭先でよく見かけるのがザクロの花です。6月1日の「小屋入り」(長崎くんちの今年の踊町が諏訪神社、八坂神社で無事達成を祈願し、稽古に入る日のこと)の頃に咲きはじめる橙色をした小ぶりの花で、秋のくんちの頃に実を付けます。その実はくんちのときの装飾やくんち料理のひとつ「ザクロなます」に使います。地元ではザクロの花が咲くと、秋のくんちへの期待感が密かに高まるという人も少なくないよう。ザクロもまた長崎の歳時記を彩る植物のひとつなのでした。
秋の大祭・長崎くんちを行う諏訪神社。江戸時代は、近くに長崎奉行所もあり、参道下の隣接する界隈は要人らが行き交ったところでもあります。幕末から明治にかけては、長崎港に面した居留地とともに、にわかに欧米化していく時代の影響を大きく受けたところのひとつといえるかもしれません。
日本初の商業写真家、上野彦馬が1862年(文久2)に開いた「上野撮影局」もこの界隈を流れる中島川沿いの一角にありました。彦馬は、龍馬など当時長崎を訪れた幕末の志士らの写真を撮ったことでも知られています。この撮影局から10分ほど歩いて南側の高台に登ったところに、亀山社中の跡(長崎市伊良林)があります。
新時代を画策する若者たちが、日々往来したこの界隈。亀山社中が結成される2年前の1863年(文久3年)には、草野丈吉なる人物が、伊良林の若宮神社そばに日本初の西洋料理店「良林亭」を開店しています。
草野丈吉は伊良林の農家の生まれ。利発でまじめな人物だったそうで、若い頃、出島に出入りする商人の使用人として雇われると、その働きぶりが認められ、オランダ公使の使用人となり、その後、オランダ船の調理師見習いになって西洋料理人としての腕を磨いたそうです。
丈吉が開いた「良林亭」は、自らの生家でわらぶきの家。六畳一間の部屋で客は6人までとし、料金は現在でいうと1万3千円ほど。要人など良い客筋に恵まれ、おおいに繁盛したとか。その後、店を諏訪神社近くの平坦地に移し、「自由亭」と改称。そのときに建てた洋風建築は、現在グラバー園内に移築されています。
まもなく丈吉は店の客で交流のあった薩摩藩の五代友厚の助言もあって、明治元年に大阪にも進出し、洋食屋を開業。ちょうどその頃は、大阪遷都論が唱えられた頃で、長崎から大勢の政財界関係者が大阪に移ったといわれる時期と重なります。丈吉は、五代などとのつながりもあってか、大阪の居留地に外国人止宿所ができたとき、その司長に任命されたり、政府の要人が出席する大阪・神戸間の鉄道開通式の宴会を担当するなどしています。また、明治14年には、中之島に進出しホテル兼西洋料理店を開き、さらには京都にも支店を出すなど活躍しました。
丈吉は明治19年、47才の若さで亡くなっています。江戸時代の身分制度の気風が残るなか、一料理人の名が表に出ることはあまりなかったようで、史料も少なく、あいまいな点も多いのですが、丈吉は関西のホテル業界の創始期に刻まれる重要な業績を残したようです。
●参考/『明治西洋料理起源』(南坊洋/岩波書店)、『近代日本食文化年表』(小菅桂子/雄山閣)、京都ホテルグループ公式ウェヴサイト「京都ホテル100年ものがたり」、みろくやHP「長崎の食文化/長崎開港物語」