第432号【江戸時代に思いを馳せるお墓参り】
ご先祖さまの御霊を迎えて供養するお盆。故郷に帰省して家族揃ってお墓参りに出かけている方も多いことでしょう。長崎のまちでも、そうした光景があちらこちらで見られます。お墓では、静かに祈りをささげ語り合う一方で、爆竹を鳴らしたり、矢火矢をあげたりなど賑やかなことも行います。そして明日15日は「精霊流し」。江戸時代から伝承される長崎の「精霊流し」は、爆竹を激しく鳴らしながら船を引いていきます。それは、まるで一夜の夢のような盛大さ。哀しみは爆竹の音とともに空に紛れていくのでした。
さて、江戸時代、諸国から大勢の人々が訪れた長崎。当時の旅は、徒歩が基本。成人男性で1日10里(40km)ほど歩いたと言われています。当時は、身体をこわして旅先で亡くなる人も少なくなかったとか。かつての街道沿いには、そんな人たちが葬られた墓石(塚)が数多く残されています。
長崎の本河内(ほんごうち)という地域には、かつての街道沿いに、長崎で客死した将棋指しのお墓があります。墓石には、「六段上手・大橋宗銀居士」とあり、東武(武蔵国)出身で、天保10年(1839)11月23日に亡くなったと刻まれています。ちなみに、お江戸で幕府が援助した将棋の初代家元が「大橋宗桂」。「大橋」という名と、「宗」の字がある宗銀さんは、どうやら将棋の師匠だったようです。将棋は、江戸時代後期には地方の庶民にも広まり将棋所などもあったとか。宗銀さんは長崎で指導したり、地元の名士と盤上の闘いを繰り広げたりしたのかもしれません。
宗銀さんのお墓から街道沿いを少し下ると、「碁盤の墓」とも呼ばれる「南京房義圓」という人物のお墓もあります。中国出身の棋士の名人だったそうで、墓石の蓮華座下の台石が碁盤型をしています。また花筒が碁石入れ(碁け)の形です。亡き人を惜しむ江戸時代の人々の心が伝わるようです。
本河内の街道沿いあるお寺の墓域内には、大関丸山権太左衛門(宮城出身)、雲早山森之助(熊本出身)など、江戸時代に亡くなった「力士の墓」があります。当時、各地には力士集団があり、勧進興行が行われていたとか。長崎にもそうした力士が巡業していたようです。ちなみに丸山権太左衛門は、身長197㎝、体重は161kgもある巨漢。長崎の大徳寺(別説では丸山の梅園芝居所)での興行中に病にかかり、亡くなったそうです。
この時代に長崎を訪れた人物として紹介されるのは、西洋の知識を得ようとした学者や諸藩の武士の名前があげられがちですが、棋士や力士など江戸時代の庶民文化を支えた人たちも大勢訪れて、長崎を賑やかにしていたようです。
最後に、禁教令が敷かれたこの時代を物語るお墓をご紹介します。長崎市三ツ山地区で見かけた隠れキリシタンを葬ったと思われる複数のお墓です。大村藩と隣接するこの地区には、伊達政宗が1613年に派遣した遣欧使節に随行した人物も迫害を逃れて隠れ住んだと伝えられています。その墓石は表面がほぼ平らな自然石。いまでこそ十字架や小さなぐい呑みらしき器が墓石の上に置かれてますが、他の似たような石に紛れるようにして置いてあり、それがなかったらお墓とは気付きにくい。厳しい弾圧をくぐり抜けた信仰は、いまも子孫たちが守り受け継いでいます。
●参考/『江戸の旅は道中を知るとこんなに面白い!』(菅野俊輔)、『江戸時代館』(小学館)