第440号【秋帆を想う】
前々回、狛犬めぐりをしたとき、人知れず森林のなかに鎮座する狛犬がありました。そこは長崎公園の一角にある東照宮(家康廟)の古い参道で、現在は石段が崩れかけているため通行止めになっています。東照宮は江戸時代には、同場所にあった安禅寺に祀られていましたが、明治維新後、廃寺になりました。もとは由緒ある寺の狛犬だけあって、大きめで端正な姿をしています。調べてみると、1829年(文政12)に高島四郎兵衛茂紀(しげのり)が奉献したものだとわかりました。茂紀は、幕末期の西洋砲術家として名高い高島四郎太夫茂敦(しげよし)こと、秋帆(1798-1866)の父親です。
町年寄を代々つとめた高島家。理由はわかりませんが、有力な地役人であった父・茂紀が、ほかでもない東照宮に狛犬を奉るという行為は、あり得ないことではありません。茂紀は日本に昔から伝わる荻野流の砲術にくわしく、多くの門下を擁し、息子の秋帆にも仕込みました。秋帆がのちに西洋砲術を学び、第一人者となったのは、そうした父親の影響だったようです。
ところで、この秋シーボルト記念館(長崎市鳴滝)で開催された特別展[「鳴滝塾」の誕生 ~シーボルトと高島秋帆~](11/10で終了)で、秋帆が西洋砲術を一体誰から学んだのか、ということについて興味深いことが紹介されていました。これまでは、オランダ商館長のステュルレルなどとされていましたが、ステュルレルと同時に来日した商館医師シーボルトが伝授した可能性があることを示す史料が展示されていたのです。
同特別展によると、シーボルトが来日した1823年(文政6)頃、父・茂紀は出島の警備を受け持っていて、秋帆は町年寄見習として出島に出入りしていたそうです。秋帆は儒学や書道、絵画、蘭学なども学ぶ多彩な人物。二人とも人並み以上の才能と好奇心を持っていたでしょうから、互いにビビッときて、交流を持つようになったとも考えられます。また、秋帆の実兄で町年寄の久松碩次郎もシーボルトの活動を理解し、鳴滝塾の開設などに協力的であったといわれています。
この後、西洋砲術を学んだ秋帆は高島流砲術を開き、佐賀藩など近隣の諸藩に伝授しました。1841年(天保12)には、幕府の命で徳丸原(現・東京都板橋区高島平)で砲術の演習を行いました。ちなみに、秋帆の名字が「高島平」の地名の由来となったことはよく知られています。さて、演習の翌年、当時江戸町奉行だった鳥居耀蔵の讒訴(ざんそ)により、逮捕・投獄されます。許されたのは12年後のこと。その後は「喜平」と名乗って幕府に仕え、晩年を過ごした小石川で亡くなりました。文京区の大円寺に葬られましたが、長崎・晧台寺後山にある高島家の墓地にも、門人たちが秋帆の墓を設けました。
秋帆は生まれ育った長崎で、40代前半まで過ごしています。たいへん裕福だった高島家は、西役所(長崎奉行所)に近い大村町(現・万才町)にあり、その跡からは西洋、東南アジア、中国、朝鮮などの品々が発掘されています。この屋敷は1838年(天保9)の長崎のまちの大火の際に類焼し、秋帆は丸山に隣接する小高い丘の上にあった別邸に移り住みました。ここは、茂紀が1806年(文化3)に建てた木造瓦葺の2階建ての屋敷でした。敷地内には砲術の練習場跡があり、砲痕が残る石、常夜灯、石垣、土塀、そして一棟の石蔵がいまも残されています。
かつて西洋砲術を学ぶ男たちの熱気に包まれたであろう屋敷跡。いまは黄金の葉を付けたイチョウの木が、静かに葉を散らしていました。
◎参考にした資料や本/シーボルト記念館特別展「「鳴滝塾」の誕生~シーボルトと高島秋帆~」リーフレット、「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社)、「長崎市史」