第454号【福祉事業の先駆け、ミゼリコルディアの組】
7月に入り中島川にかかる桃渓橋(ももたにばし)の下では、小規模ながら群生したオレンジ色のカンナが満開を迎えました。カンナの原産地は、中南米や熱帯アジア。赤、黄、オレンジなどの鮮やかなカラーと、フリルのようなおおぶりの花びらがいかにも南国出身らしいエキゾチックな表情です。コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰った植物のひとつともいわれていて、日本へは江戸時代初期に渡来したそうです。最初に入って来た地が長崎だったのかは不明。大陸から琉球を経て薩摩へ渡ったルートなども考えられます。
カンナの話から打って変って、いまから400年以上も前の戦国時代、長崎を舞台に実践された社会福祉事業の話です。南蛮貿易港のまちであり、キリシタンのまちでもあった当時の長崎。周囲に石畳が敷かれた教会がいくつも建ち並び、教会の祭日ともなると司祭やキリシタンによる祝いの行列が見られました。外国人が自由に歩いていた街角では、白パンを焼く匂いが漂っていたと伝えられています。そうしたまちの様子は「小ローマ」と呼ばれるほどでありました。
一方で、ポルトガル船が入港するたびに、日本各地から商人やキリシタンをはじめ、さまざまな人々が押し寄せるようにやって来た長崎は、浮浪者なども増え治安が悪化したといいます。そうしたなか、1583年(天正11)年に創設されたのが「ミゼリコルディアの組」という福祉団体でした。
「ミゼリコルディア」とは、ポルトガル語で「慈悲」という意味です。創設者はキリシタンで、堺の金細工師だったジュスティーノ山田という人物とその妻。創設や運営に全財産を投じたと伝えられています。キリシタンたちによって運営された「ミゼリコルディアの組」は、病院と困窮した高齢者や孤児のための施設も設け、病気やケガの人の手当をし、困窮者に食べものや衣服を与え、行き倒れの人を助け最後をみとって埋葬まで行いました。戦国時代にあってのそうした行為は、周囲の人々に驚きと感動を与えたようです。「ミゼリコルディアの組」の病人や死者に対する献身的な態度は、キリスト教の教えにもとづく「慈悲の所作」、すなわち隣人愛の実践でありました。
現在、長崎地方法務局(長崎市万才町)の場所に、「ミゼリコルディアの組」の施設は設けられていました。その墓地は長崎市役所がある桜町付近で、当時はその一角に大きな十字架が掲げられていたことから、「くるす町」と呼ばれていたと伝えられています。彼らの活動にかかる費用は、キリシタンによる献金や長崎のまちの有力者らの寄付によって賄われたそうです。
周囲から「慈悲屋」と呼ばれていた「ミゼリコルディアの組」。文字通り慈悲にあふれたその活動は、宗教を超えて人々の心に届いていたことがうかがえるエピソードがあります。1614年(慶長16)、幕府の命で厳しいキリシタン弾圧が行われ、宣教師らは国外に追放、長崎のまちのほとんどの教会が破壊されましたが、「ミゼリコルディアの組」の施設には弾圧の手は下せなかったそうです。
しかし、その後キリシタン弾圧はさらに強まり、1620年(元和6)に施設は破壊され、跡地には大音寺が建造されました(大音寺はのち移転)。長崎地方法務局脇に建つ「ミゼリコルディアの組」の碑には、『最初の民間社会福祉事業が、ここで行われた』と記されています。
◎参考にした本/『四季の花色大図鑑』(講談社 編)、『長崎 東西文化交渉史の舞台 ~ポルトガル時代 オランダ時代~』…「教会のある町長崎」(片岡千鶴子)、『長崎県大百科事典』(長崎新聞社)