第459号【山川河内の言い伝え~念仏講まんじゅう~】

 風に、日差しに、秋の気配がしだいに濃くなってきました。とはいえ、局地的に大量の雨に見舞われる地域もあるなど、天候不順が続いています。ちなみに9月は防災月間。各地で関連催しも行われるなどいつも以上に防災への関心が高まっています。そこで今回は、江戸時代の災害体験を150年以上に渡って継承している「山川河内自治会」(長崎市太田尾町)の「念仏講まんじゅう」をご紹介します。



 

 「山川河内」は「さんぜんごうち」と読みます。「山」と「川」、そして川の流れに沿って平地の開けたところを意味する「河内」という文字が並ぶ地名は、緑深い谷あいにあるこの地域の地形をそのまま言いあらわしたもの。古い地名だそうです。



 

 長崎駅から車で約35分。路面電車が走る市街地から「山川河内」まで、いくつかの小さな山を越えて行きます。ヘアピンカーブを下りながら斜面地に見えてくる小さな集落が「山川河内」です。現在30数世帯が暮らすこの地区は、三方を山に囲まれ、東南に下った向こう側(太田尾地区)の先には橘湾天草灘が広がっています。古くからの農村で、車道がない時代は農作物の行商のために長崎市街地まで片道約3時間かけて往来していたそうです。

 

 「山川河内」地区の中心を、いくつかの支流をもつ川が流れています。地元の人の話によると、雨量が多くなると自然発生の出水があちらこちらに見られるとのこと。日本各地の山間の地域がみなそうであるように、ここもまた豊かな緑の恩恵を受ける一方で、常に雨への警戒を忘れてはならないところなのでした。

 

 いまから150年以上も昔のこと。1860年(万延元)49日(旧暦)、長崎地方は大雨による大水害におそわれました。このとき「山川河内」でも土砂災害が起き33人もの犠牲者が出ました。家屋は8軒、牛や馬などの家畜は13頭流され、地域全体が壊滅的な被害を受けたといいます。この災害が地元の人々に与えたダメージはたいへん深く、以後、亡くなった方の供養と災害を忘れないために、毎月14日に「念仏講まんじゅう」を地区の全世帯に配るという行事が続けられるようになりました。



 

 この行事を通じて、災害の伝承と同時に、「やましお(山崩れ)の前には異臭がある」などの言い伝えも各家々でごく自然に受け継がれてきたといいます。1982年(昭和57723日の「長崎大水害」のときには、この地区でも大きな土砂災害が起きましたが、日頃の災害に対する意識の高さからくる迅速な自主避難によって、一人の犠牲者も出なかったそうです。



 

 「念仏講まんじゅう」は、年に一度ではなく、月に一度の行事。長い時を経るなかでは、存続があやぶまれるときがあったことは、想像に難く在りません。それでも続いたのは、「先祖たちが続けてきたことを大事にしたい」、「山川河内は、人と人との絆が強い」、そういうことが理由かもしれないと地元の方が話してくれました。



 

 「念仏講まんじゅう」の日は、150年前の土砂災害でもっとも大きな打撃を受けた「脱底川(ぬげそこがわ)」と呼ばれる川の近くに祀られている「馬頭観音」にまんじゅうを備えて念仏を唱え、その後、各世帯へ配られます。

 

 玄関先でお年寄りがまんじゅうを両手で受け取りながら、頭を下げていた姿が印象的でした。亡くなった方への供養の行事が、災害を忘れないこと、地域の絆を育むことにつながった「山川河内」。災害の記憶を継承するための大切なヒントがこの地にあるようです。

 

 

 

◎参考にした本や資料/『長崎市日吉方言集』(坂本進)、『災害伝承「念仏講まんじゅう」調査報告書』(長崎大学 高橋和雄・NPO法人砂防広報センター)

◎取材協力/山川河内自治会

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