第453号【旅と学問の人、ケンペル】
アジサイの見頃が過ぎた長崎。石橋群で知られる中島川の近くで、ノウゼンカズラが橙色の花を咲かせていました。日照りに強いこの植物は、真夏の花として知られています。長崎が日本の西に位置することもあってか、植物図鑑に記された時期より半月~1カ月ほど早い開花。たぶん九州のほかの地域でも咲きはじめていることでしょう。
前回はシーボルトとアジサイにまつわる話でしたが、今回はシーボルトと同じオランダ商館医だったエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)についてのよもやま話です。ケンペルはその突出した功績でのちにシーボルト、ツュンベリーとともに、出島の三学者のひとりに数えられる人物です。彼らの功績とは、来日中に日本の自然や文化などを熱心に研究し、医学をはじめとする西洋の知識を伝えたこと。そして帰国後、日本での研究を書籍にしてヨーロッパ諸国に広く紹介したことなどがあげられます。
オランダの東インド会社から出島に派遣された三学者たちの来日時期は、早い順にケンペル1690年(元禄3)、ツュンベリー1775年(安永4)、シーボルト1823年(文政6)です。ケンペルから133年後のシーボルトは、ケンペルやツュンベリーが日本について記した本に大いに学んで来日。彼らの研究をもとに日本での成果をあげました。出島にはシーボルトが建立したケンペルやツュンベリーの偉業を讃える記念碑がいまも残されています。
ケンペルは、ヨーロッパのレムゴ(現在のドイツ・レムゴ市)生まれ。父は牧師で教育熱心な家庭に育ちました。法学者で政治家、ヘブライ語学者で牧師となった兄弟がいて、ケンペル自身も哲学や歴史、ヨーロッパの言語、医学などさまざまな分野の学問を複数の大学で学んでいます。
ケンペルを語るときのキーワードは「旅」と「学問」といえるほど、その人生は未知なるものを知りたがる情熱と行動力にあふれていました。日本に来る前にはスウェーデン、ロシア、イランなどの各都市を訪れながら、測量や風物スケッチの腕を上げたといわれています。
好奇心の果てに、縁あって日本を訪れたケンペル。滞在は2年余りで、江戸参府も2度経験。帰国後ケンペルが著した『日本誌』には、動植物から社会、政治、風俗など元禄時代の日本が驚くほど詳細に記されていて、当時を知る貴重な史料になっているそうです。ちなみに江戸参府行列のケンペルのスケッチに残された小さな横顔の自画像から、顔は面長、鼻の下にちょび髭らしきものがあり、髪は軽くウエーブのかかったセミロングであることがわかります。
『日本誌』には将軍綱吉への拝礼のあと、さまざまな質問を浴びせられ、あげくケンペルが歌ったり、踊ったりしたことが記されていて、このときの部屋の様子や人物も細かなスケッチで残されています。また、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉する国であることなども指摘していて、この文面をのちに志筑忠雄が「鎖国」と訳したことは有名な話です。
ケンペルが当時の日本について記したものから感じられるのは、その視野の広さと細かさ、そして洞察力です。しかし、彼のまなざしは多岐多様にわたるがゆえにとらえようがなく、それで印象が薄くなっているのか、シーボルトよりも一般には知られていない気がします。一方でケンペルは、『ガリバー旅行記』のガリバーのモデルのひとりともいわれ、また日本の名著、島崎藤村の『夜明け前』にも登場しています。実はケンペルに関する研究では、近年になってオランダ通詞今村源右衛門がケンペルの弟子であったことがわかるなど、まだまだ知られていないことがたくさんあるようです。今後のケンペルに関する研究に期待したいところです。
◎参考にした本/『~礼節の国に来りたりて~ケンペル』(B・M=ベイリー著)、『ケンペルやシーボルトが見た九州、そしてニッポン』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編)、『ケンペルとシーボルト』(松井洋子著)、『江戸参府旅行日記』(ケンペル著・斎藤信訳)