ブログ

  • 第470号【立山界隈のキリスト教関連史跡】

     長崎市街地のせまい路地裏を歩いていたとき、ふと鼻先をかすめた沈丁花の香り。夜気に漂うその香りの印象的なこと。「春のいろいろな別れや出会いが呼び起こされて、ちょっとせつない気持ちになる」と言った人のことを思い出しました。  ときおり厳しい寒の戻りがあるものの、日中、陽当たりのいい場所へ出てみるとスミレ、そして西日本で多く自生するというシロバナタンポポが咲いています。北国で春を告げる花として知られる辛夷(こぶし)も満開です。一方、ニュース映像で見る東北は、まだまだ冷たい風が吹いています。ささやかですが、一足早い九州・長崎の春の花を画像でお楽しみください。  春の花たちは今月初め、長崎市の立山界隈を散策したときに出会ったものです。立山は長崎の歴史を語る上で欠かせない特別な場所で、楠の巨木など樹木が生い茂るこの土地には何かを引き寄せる力でもあるのか、長崎が貿易港として歴史の表舞台に登場するずっと前には大きなお寺があったといわれ、南蛮貿易時代には「山のサンタ・マリア教会」、禁教令によって教会が破壊されたあとは、「長崎奉行所立山役所」が設けられるなど、時代に応じて重要な役割を果たす建物がありました。  明治維新後も公的な施設が置かれ、現在は「長崎歴史文化博物館」、「長崎県立長崎図書館」があります。この界隈の歴史は日本の近世・近代に大きな役割を果たした長崎の政治、経済、文化が複雑にからみあい凝縮され、ひもとくのは容易でありません。なので、散策で出会う史跡も南蛮貿易時代から現代までの数百年を何度も行き来するので混乱してしまいます。  今回はキリスト教関連の史跡を2つご紹介します。ひとつめは「長崎歴史文化博物館」の目の前にある「サント・ドミンゴ教会跡資料館」。桜町小学校の一角に併設された資料館で、1609年に建てられた「サント・ドミンゴ教会」の地下室や井戸の遺構を見ることができます。花十字紋瓦や長崎市内で発掘された当時のメダイや十字架などのキリスト教関連の出土品も展示。長崎でキリスト教が栄えた時代の遺構はあまり残されていないなか、たいへん貴重な施設でもあります。  現在は、埋め立てられこの辺りの南蛮貿易時代の様子は想像しにくいのですが、当時は、すぐ近くに舟が着く入り江がありました。この資料館のそばにある「八百屋町通り」は長崎で最初につくられた石畳の通りだったと言われ、江戸時代初めまでこの界隈にいくつかあった教会や教会関連施設へ運び込む物資が往来したといわれています。現在の通りはアスファルトに覆われてしまっているのが残念です。  「八百屋町通り」近くには、「西勝寺」があります。西本願寺の末寺として1632年に創建された「西勝寺」。禁教令後も転宗しないキリシタンが多くいた当時の長崎で、転宗させその証文を取って奉行所に提出していました。このお寺には、証人のひとりとして「忠庵」の名が記された証文の写しがあります。「西勝寺文書(キリシタンころび証文)」(非公開/長崎県有形文化財)と呼ばれるもので、書き損じたため寺に残ったと言われています。  「忠庵」とは、元イエズス会宣教師のフェレイラ神父のこと。1609年に来日し、24年間も日本で布教活動を行っていましたが、長崎潜伏時にとらえられ拷問の末に棄教。その後、日本名「沢野忠庵」として長崎奉行のもとでキリシタンを取り締まる側になった人物です。その忠庵も行き来した立山界隈。同じ場所を歩いても、彼の苦悩は想像を絶し、推し量ることなどできないのでした。

    もっと読む
  • 第3回 ターフル料理編

    1.その名前の事ターフルとはオランダ語のTable。テーブルで食事をするという意。▲グラバー園内旧オルト邸(国指定重要文化財) 寛延三年(一七五〇)、長崎奉行所に江戸より赴任していた小倉善就の父某の撰と記してある「紅毛訳問答」に、オランダ通詞より聞いた言葉として次のようなことが記してある。 一、シッポクと唱候は蛮語にて候哉 紅毛にはシッポクという言葉なし、紅毛にてはターフルと申候、シッポクはいづれの語たること、審ならず。  ターフルという言葉はオランダ語のTableという言葉からきている。ターフルは英語のテーブルという意味である。  すなわち、ターフル料理というのはテーブルで食事をする意味である。 その昔、長崎の人達はシッポク料理という言葉をつくりだしている。そのシッポクという言葉については、故古賀十二郎先生の研究論文中に次のように記してある。  シッポクとは東京(トンキン)語にて卓のことである。  トンキンというのは現在のベトナム国内の一都市の名であるが、昔はその地方の王国の国名で、そこの国王の名を阮氏といった。 それでは何故、そのような東京地方の言葉が長崎に伝えられ、シッポク料理として現長崎の名物の一つになったのであろうかと疑問を持たれる。それには、初期長崎の唐船貿易のことから考えてゆかねばならない。当時長崎の港から出発した貿易船を御朱印船とよんだ。御朱印船は多くベトナムを中心にして活躍した。中でもその中心地はトンキン王国であった。長崎の御朱印船主の一人に有名な荒木宗太郎がいた。宗太郎はトンキン王の信任をうけ遂に国王の娘アニオさんをお嫁にいただいた。宗太郎はアニオさんをつれて長崎の町に帰ってきた。そのアニオさんの上陸の行列は人々の目をみはらせ、今も「長崎くんち」の奉納踊りにその面影を残している。それは昨年石灰町が「くんち」に奉納した豪華な御朱印船入港絵巻にもあらわれている。 そのようにトンキン地方の文化は異国趣味の文化として急速に長崎の人達に大いに歓迎された。その中の一つに卓を囲んで食べるシッポク料理があった。この食事法は、これまでの我が国にはなかった食事法であり、料理であったので、人々は驚きの目をみはって食卓についた。やがてこのシッポク料理は江戸にまで流行していったのである。  このシッポク料理にかわる洋風の新しい様式の食事法・料理として長崎の町に登場したのがターフル料理なのである。2.新しきものオランダ人を持て成すために用意。出島オランダ屋敷の蘭料理。▲グラバー園内旧グラバー邸の食堂 ターフル料理は先ず出島オランダ屋敷の料理を基本としている。  このターフル料理の名前が長崎の文献にあらわれてくるのは安政初年頃(一八五四~)からである。はじめは蘭料理として記してある。安政四年(一八五七)四月の佐賀藩の記録の中に、 蘭船将其の他六人。ストークル三人え蘭料理御馳走おうせ付られ、右手当として十六日鵬ヶ崎え持出、給仕も相頼まれ申候。  また、同四月二十日の記録には当時用意された料理名が次のように記してある。  蘭料理鶏ケルリイ、豚フルカテル、豚ヒストック三種ならびに蘭酒二本、但し銘酒とシャンパンヤ このことより考えて最初に蘭料理を必要としたのは各藩が出島のオランダ人と商取引の関係上オランダ人を招待する必要があり蘭料理を用意したのである。佐賀藩はことに長崎港の警備役を兼ね長崎奉行所との交渉も親密であり、当時すでに安政二年(一八五五)十月には長崎西役所内(現在の県庁)に海軍伝習所が発足し、そこの教官としてファビウス以下二十名のオランダ士官・下士官が在留した。かくてオランダ人に対しては、出島を出て市街遊歩の事が許可された。又当時の佐賀藩主鍋島閑叟公は特に様式兵学の取り入れに力をもちいていた必要上、このようなオランダ士官との交渉の場を設けたのである。 当時の長崎の町にはまだ蘭料理の調理に堪能な人は前回のべたオランダ屋敷内の料理人三人以外にはいなかったので、佐賀藩では前記のように三人のオランダ人にその調理を依頼したのである。  安政六年(一八五九)正月、長崎奉行所「御用留」の中にロシア人が対岸の稲佐に上陸を許され酒宴を開いた模様を記し、その料理を「タアフリ料理」と記してある。翌安政七年十月五日の出島「万記帳」の中にも長崎奉行所目付役小倉九八郎が出島を訪ね、カピタン部屋でターフル料理を差し上げたと次のように記してある。  小倉様カピタン部屋にお入りなされ、御茶御煙草盆ターフル差上く、暫く御滞在、夫より出島商人の見世ご覧なされ候。 この時のターフルは簡単な洋風料理か菓子などであったと考える。3.ターフル料理は変化した。長崎西洋料理の始まりは、居留地の外国人の為の食料調達から。▲シーボルトが諫早候に送った酒瓶セット(長崎市立博物館蔵) 安政六年(一八五九)の開国と同時に長崎の町の様子は一変した。今までのオランダ人のみでなくアメリカ、フランス、イギリス、ロシアの各国の船が長崎に入港し、大浦方面には居留地や各国領事館がつくられ、外国人の食料として、「牛とき場」(屠刹場)が戸町海岸に文久二年(一八六二)官許によってつくられた。  これが我が国における官許の牛屠刹場のはじめである。イギリス領事館はこのとき奉行所に「食料として一年に牛五拾頭は確保しておいてもらいたい」と申しでている。これは、日本側が農耕用としている牛を外人側に差し出すことをあまり歓迎しなかったからである。 安政五年(一八五八)イギリス領事館開設準備のため長崎に渡ってきたホジリン氏の婦人は、彼女の書簡の中に当時の西洋料理事情を次のように説明している。長崎の地にはミルクもバターもありません。私たちは上海から食料用の羊を積んでいましたので、それを食べてどうにか過ごしました。牛肉を食べるのは困難です。私たちは上海からつれてきた中国人が早朝から出かけて九時頃やっと帰ってきて、すこしばかりの鳥や魚をもってきます。時にはこの中国の料理人が少しばかりの豚肉をさげてきて私達に自慢するのですが、これは私達の目からみれば食用にならないものが多いです。 次に彼女の文章をよむと、卵だけは充分にあったので毎日オムレツを食べたこと、外国船が入港したときには塩漬の貯蔵肉が手にはいるのでそれでカレーを作って食べたことが記してある。  さらに果物のことも記して、「日本の果物は早どりするので全てが固いので私達は二、三日おいてから食べます」と言っている。その果物は、香りのないメロン、かたい杏、石梨、かたい桃があったという。香りのないメロンというのは西瓜のことであろうか。 ここに安政六年に上海から入港した外国船の積荷の控がある。その中より食料の部を拾うと次のようなものがあった。 塩豚肉、酢、麦粉、パン、砂糖、豆、豌豆、ハム、干リンゴ、飲物 次に、居留地内の外人宅に日本人が次第に使用人として雇われるようになってきた事、外国人が必要とする食料を長崎の人達が調達しはじめてきた事は、長崎の人達をターフル料理に目をむけさせてきた。やがて、この外国人雇の日本人使用人の中に、西洋料理を学ぶ人達があらわれてきた。やがて長崎の人達は、一度は是非この西洋料理なるものを口にしてみたくなってきた。第3回 ターフル料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第469号【春めく、中島川】

     ときおり訪れる小春日和。江戸期発祥の石橋群が架かる中島川沿いを歩けば、真冬にはなかなか姿を見せなかった鳥たちが元気に水辺を飛び交うようになりました。年中見かけるアオサギも、春めくなかで気分が良さそう。観光客が集う眼鏡橋から徒歩5分ほどの上流にかかる桃渓橋(ももたにばし)あたりでも、川面を素早く飛翔するカワセミの姿がありました。翡翠(ひすい)のような美しい色をしたカワセミは、渓流などに棲むと思われていましたが、いまではまちなかを流れる各地の川で見かけるようになったといわれています。川の水がきれいになったからなのか、エサを求めてなのか、その理由はわかりませんが、鳥たちがのびのびと暮らせるよう見守りたいものです。  早春の気配が漂いはじめる1月下旬~2月初旬、長崎県下では各地の海岸でアオサ摘みがはじまったというローカルニュースが流れます。深緑色をした海藻のアオサは、水洗いして乾燥させ、お吸い物や味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。実は同時期、眼鏡橋のひとつ下流に架かる袋橋のたもとでも鮮やかな緑色をした海藻が目立つようになるのですが、よくよく見てみるとこれがアオサだったのです。  眼鏡橋あたりまでは、長崎港の海水と混じり合うところなので海藻が育っても不思議ではありません。早春の風物詩で、食卓に潮の香を運んでくれるアオサですが、さすがに中島川のそれを食するのは衛生上の問題がありましょう。また、ある漁村では原因不明の大量発生をして水質悪化につながり、漁師さんたちを困らせたこともあったとか。とはいえ、川の流れのままに揺れる深緑色はとてもきれいです。毎春この光景を楽しめますように。  その中島川はいま「長崎ランタンフェスティバル」の装飾に彩られ、黄色のランタンの下を連日大勢の人が行き交っています。今年も春節の休暇を利用して来た中国系の観光客の姿が目立ちます。袋橋の上は、上流の眼鏡橋を入れてランタンの写真を撮ろうとする彼らでいっぱいでした。  中島川沿いの散策を終え、中国語が飛び交うなかをくぐり抜けるようにして帰る途中、商店街で地元産の春キャベツとシマアジを購入。今夜は、白身魚の「ゴーレン」に春キャベツを添えていただくことに。「ゴーレン」は長崎の郷土料理のひとつで酒やみりん、しょうゆで下味をつけた白身魚(または鶏肉)に衣(小麦粉か片栗粉)を付けて揚げたものです。衣に甘味(砂糖)を加えて揚げるいわゆる「長崎天ぷら」とは別物です。   「ゴーレン」の語源は、ポルトガルやオランダにはないといわれます。東南アジアに「ナシゴーレン」という料理がありますが、そこでいう「ゴーレン」は、「炒め物」を意味するとか。江戸時代、出島には東南アジア出身の人々がオランダ人に付いて働いていましたから、そこらへんに長崎料理の「ゴーレン」の語源はありそうです。またキャベツも江戸時代にオランダ船が長崎に運んできたのがはじまりといわれます。今夜も長崎ゆかりの食材を、ありがたくいただきたいと思います。

    もっと読む
  • 第468号【2015長崎ランタンフェススティバル(予告)】

     西山神社では、早咲きタイプの「元旦桜」が九分咲き。春が目の前にきていることを実感します。これから三寒四温で季節は移っていくのですね。変化の激しい天候に体調を崩さないよう気を付けてください。  寒さのなかに小さな春を感じはじめるこの時期に行われるのが、「長崎ランタンフェスティバル」です。開催期間は、来週の2月19日(木)から3月5日(木)まで。毎年1月~2月に開催されますが、今年はめずらしく3月にまで入り込みます。期間が毎年変わるのは「長崎ランタンフェスティバル」が、中国の旧正月(春節)を祝う行事だからです。今年は2月19日が、旧暦の元旦に当たります。  朱色、桃色、黄色の大きなランタンが街中を埋め尽くす「長崎ランタンフェスティバル」。よく「幻想的」と表現されるように、夢の中に現われるような独特の世界観が創り出されます。それは、古くからゆかりの深い長崎と中国との融合から生まれた世界。期間中は国内はもとより、中国や台湾をはじめアジア各国からの観光客でにぎわいます。目にもあたたかなランタンを見上げながら和やかに行き交う人々の表情は、とてもやさしい。ランタンが平和の象徴のようにも見えてきます。  長崎市中心部に設けられた会場は、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場の7カ所。それぞれの会場で中国色豊かな装飾が施されます。  新地中華街会場、中央公園会場、孔子廟会場では、夕方近くから(土日は昼過ぎから)連日催しが行われます。中国獅子舞、龍踊り、中国雑技、中国民族踊、二胡の演奏、中国変面ショー、中国マジックショー、太極拳など、催しは年々充実しています。なかでも見逃せないのは、孔子廟会場で毎日公演される変面ショー。中国が誇る伝統芸能のひとつで、世界でも特殊といわれる演技を間近で見る事ができます。また、各会場で披露される中国雑技も本場の演技を堪能できます。しなやかで強靭な身体で繰り広げる伝統の技は驚きの連続です。  新地中華街会場には、今年の干支「羊」にちなんだ巨大オブジェ(高さ約10m)が登場します。『九陽(羊)啓泰』(きゅうようけいたい)というテーマでつくられたそのオブジェは、「吉祥の光で万事思い通りになる」という意味が込められているとか。そのほか縁起のいいいわれのあるランタンオブジェが各所に設けられています。行く先々で、幸運をもらえたような気分になれますよ。   期間中の催しの日時については、長崎の市街地各所に置いてあるランタンフェスティバルのチラシをご参考に。「長崎ランタンフェスティバル実行委員会」のホームページでも確認できます。当日はしっかり防寒して、お出かけください。

    もっと読む
  • 第2回 オランダ料理編

    1.出島オランダ屋敷の事奉行は、日本の牛を食べる事を禁止。オランダ人は、バタビヤから牛肉を運んだ。▲ミニ出島 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。  南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 平戸の町で、それまで自由に貿易していたオランダ人が、幕府の命令で長崎出島の地に移転することを命じられたのは寛永十七年のことである。 翌寛永十八年五月十七日(一六四一・六)オランダ人は出島に移り、長崎出島オランダ商館を設立している。  このオランダ商館を島原城主高力摂津守は早速見物ににおとずれている。このときカピタンは、見物客一同にオランダ風の料理を用意し、葡萄酒、アメンドウ、パンケーキを用意してもてなし、食事がおわると商館員が遊ぶ玉突部屋を案内し、ゴルフを見せたとオランダ商館日記に記してある。 そして、まもなく奉行所より次の連絡がとどいた。「長崎に入港してくるオランダ船の積み荷の中にある食品のうち牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤの葡萄酒、オリーブ 油その他、キリシタンが通常使用するものを日本人、支那人に 売渡すこと贈寄することがあってはならない。そして日本の牛を殺して食べることも禁止する。」  出島のオランダ人はパンを食べたいのでパンを焼いてくれるようにと長崎奉行所に願いでている。 それまで長崎の町には多くのポルトガル人が住んでいたので何軒ものパン屋があったが、パンはキリスト教に関係があるというのでパン屋を廃業させられていた。奉行はオランダ人の願をきき入れ、パン屋の一軒を残しパンを焼かせることにした。但し、そのパンは絶対・日本人に売ってはならないという条件がついていた。  然し、豚肉と鶏は比較的に自由に手に入ったと記してある。それは豚肉は来航してくる唐人船の人達の食料として是非必要であったので奉行も豚を長崎周辺の農家で飼うことを許していたからである。 オランダ人は、日本の牛を食べてはならぬという奉行の命令があったので牛は年に一度、貿易のためにバタビヤから入港してくるオランダ船に牛を積みこんで出島に運んでいる。  出島のオランダ屋敷内で、この牛を屠殺する風景は当時評判のもので出島見物記の中によく記してある。出島カピタン・H・ドーフの日記の中にも次のように記してある。 「このバタビヤの牛を出島で屠る時、長崎奉行、代官は喜んで、その牛肉の 一部を贈呈うけるのである。そして牛肉は美味であるといって食べる。  それは牛肉は薬になると信じているからである。」 天明八年(一七八八)十一月長崎に遊学した洋画家で蘭学研究者の司馬江漢も、このオランダ屋敷の牛肉をオランダ通詞稲部松十郎の家で食べている。その試食のことを江漢は次のように訳している。  「稲部方に帰りて牛の生肉を喰う。味ひ鴨も如し。 ・・・オランダ人、出島にて牛を足のところより段々と皮をひらき、ことごとく肉を塩漬にする。2.オランダ屋敷の料理人カピタンの江戸幕府にも同行。「出島くずねり」と呼ばれた、 三人の日本人料理人がいた。▲現在の出島の石垣 オランダ屋敷内には勿論本国からつれてきた料理人もいたが、日本人の料理人もいた。  この日本人料理人のことを「出島くずねり」と呼んだ。日本人の料理人は三人いた。その給料は一ケ年、一人は銀八百八十匁、一人は七百九十匁、一人は七百拾匁であった。 この三人の料理人のうち出島カピタンが将軍拝謁のため江戸に旅行するときには、二人の料理人がテーブル一台、折りたたみ椅子三脚、必要な食料を持って同行している。 安永五年の春(一七七六)カピタンと共に江戸に旅行した出島の医師ツンベリーの「日本紀行」の中に、この日本人料理人のことを次のように記している。 「二人の料理人は旅行中、常に一人は本隊より一足先に出発し、オランダ人が宿についた時には、すぐに食事がとれるように準備し、オランダ風の料理を上手につくることができる」。 そして、この出島で料理をつくっていた人達が、やがて我が国に西洋料理を伝えた人達につながっていると考えてよいのではないだろうか。3.オランダ正月と西洋料理年に一度の饗宴は、和洋折衷仕立ての、珍奇なオランダ風フルコース。▲唐蘭館絵巻会食図(長崎市立博物館蔵)年に一度、出島のオランダ人は出島出入の役人を招いてオランダ風の洋食でもてなしている。この日は西暦の一月一日であったので長崎の人達はこの日をオランダ正月とよんでいた。そして、この行事は大変有名であったので、長崎版画の中に各種のものがつくられているし、絵画としても描かれ、その献立表も残っている。その中でも文政初年頃(一八一八)に編集された「長崎名勝図絵」には実に詳しく、その時の献立が次のように記してある。 大蓋物一ツ。味噌汁仕立・中に鶏かまぼこ、玉子、椎茸。 蓋物二ツ。一、味噌汁仕立、中にすっぽん、木耳(きくらげ)、青ねぎ。 二、味噌汁仕立・中に牛。鉢物十種。一、牛股油揚。二、牛脇腹油揚。 三、豚の油揚。四、焼豚。五、野猪股油揚。六、家鴨丸焼。 七、豚の肝をすって帯腸に詰る。八、牛豚すり合わせ同じく帯腸に詰る。 九、豚のラカン(ハムの事)。十、鮭のラカン。 大鉢一ツ。潮煮汁なり。中に鯛、あら魚、かれい。 ボートル煮鉢物四ツ。(註、ボートルとはバターの事)一、オランダ菜。 二、ちさ。三、ニンジン。四、かぶら。菓子、紙焼カステラ。タルタ。スープ。 カネールクウク。丸焼きカステラ。○オランダ本国米なし。ゆえに小麦粉を常食とし、小麦粉を粉にして固め、 これを蒸焼にす、その名パンと言う○コッヒー。オランダ人、我が国のお茶の如く飲む。コッヒーと言うものは、形、豆の如くなれども実は木の実なり。豆は日本の大豆に似たるものを砕いて湯に入れ、煎じ、白砂糖を加えて飲む。▲長崎港府瞰図(長崎市立博物館蔵) オランダ正月にこの料理が全て出されたのであろうか。 オランダ人の日記をよむと、「お客によばれた日本人はオランダ風の料理には殆ど手をつけず、懐より大きな紙をとりだして包むと、大急ぎで出島の門の所に走って行き、門の外に待たしておいた家来に、その料理を渡し、又再び宴席に帰って、今度は日本式の料理をたべて帰る」、と記している。 それは、オランダの料理は当時より諸病の薬になるといわれていたので、招かれた客は大急ぎで自宅に料理を持ち帰らせていたのである。  特にボートルは天下の良薬と言われて珍重されていた。そして、シーボルトの長崎日記の中にも次のようなカステラとボートルの面白い話が記してあることを思い出した。 私の手もとにボートルがあったが、これは貯蔵法が悪いので塩辛く且つ悪臭をもっていたのに、私をたずねてきた日本人の紳士達は、土産に持ってきた、美味しいカステラの上に私の例のボートルを塗って、これはオランダの味がするといって喜んで食べていた。  多分、これは、日本人の人達が西洋の生活を偏愛し、西洋の食事に憧れた理由によったと私は考えた。そして、この日本ではつい最近まで、「ボートルは肺病の特効薬といわれ」塩ボートルで団子をつくり毎日たべていた。 天明五年十一月(一七八五)長崎を訪れた蘭学者大槻玄沢は先ず大通事吉雄耕牛邸をたずね、出島見物に案内されている。  そこで玄沢はオランダの料理の数々を著書「紅毛雑話」の中に記している。料理は十三皿、菓子四皿、菓子物1皿の名前をオランダ語で記し、その内容が記されている。第2回 オランダ料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第467号【松陰先生、長崎を駆け巡る】

     少しずつ伸びる日差しに春の兆しを感じている方も多いはず。あと1週間もすれば立春です。松森神社(長崎市上西山町)ではロウバイが水仙に似た甘くさわやかな香りを漂わせています。境内の梅はつぼみがいまにもほころびそう。植物たちは静かに、大胆に春に向かっています。  今回ご紹介するのは、大河ドラマで注目を浴びる幕末の志士、吉田松陰(1830-1859)の長崎での足跡です。長州藩士の松陰は志しが高く、むちゃなことでも失敗を恐れず行動する人物として知られています。明治維新で活躍した人物を多く育てた私塾・松下村塾では、心優しき熱血先生として慕われ、身分や階級にとらわれず、「共に学ぼう」という姿勢で塾生に接していたと伝えられています。  ところで長州藩は、他の藩へ遊学することを奨励するなど、江戸時代を通じて人の育成に力を注ぎ、藩内には私塾や寺子屋が数多くあったそうです。そうした環境のもとで生まれ育った松陰は、20歳を過ぎると東北各地から南は九州熊本まで各地をめぐりました。そのなかで長崎を訪れたのは21歳と24歳のときでした。  松陰が著した『西遊日記』には、1850年(嘉永3年/21歳)に平戸や長崎などを訪れ、どこで、誰と会い、何を思ったかなどが簡潔に記されています。この日記によると、松陰は諫早(永昌)~古賀~矢上を経て9月5日(旧暦)に日見峠を越えて長崎へ入り、長州藩屋敷(長崎市興善町)に到着。その日の短い日記には、よほど印象的だったのか、長崎市中では所々に木戸が設けられていることが記されています。  翌6日朝、西洋砲術を学びに来ていた人と一緒に、西洋砲術家・高島秋帆の息子、高島浅五郎を訪ねています。また、午後には舟を雇って停泊するオランダ船や唐船の近くを乗り回したとあります。いかにも好奇心旺盛な若者らしい行動です。その後、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)に行き清国人のお墓を見たり、後山の高台から長崎のまちを眺めたりしたことが記されています。  7日、諏訪神社(長崎市上西山町)に参拝。平戸藩屋敷(長崎市大黒町)へ行き名刺(紹介状)を差し出したとあります。松陰は晴れ男だったようで、長崎入りしてから9月11日までの1週間、晴天に恵まれ唐人屋敷や出島のオランダ屋敷を訪れ、さらにはオランダ通詞のはからいでオランダ船に乗り込んだりもしています。時間をいっときも無駄にしない松陰の動き。その合間には、『海防説階』という書物を写したりもしています。短めの内容だったそうですが、いかにも松陰らしいエピソードです。  このあと、長崎をいったん離れ平戸でしばらく過ごし、再び長崎へ向かいます。今度の滞在は11月8日から12月1日までの約1ケ月間です。福岡藩と佐賀藩が長崎港警備にあたっていた西泊番所に行ったり、再び高島浅五郎と会ったり。また、ある唐通事と親交を深めたことがうかがえる記述もみられます。  長崎でのある日、松陰は春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山にある唐通事・東海氏の墓を見学。背後の城址に上り長崎のまちを一望しながら、江戸時代初めに貿易港として賑わう長崎を静かに去った長崎甚左衛門(それまでの長崎の領主)に思いを馳せています。過去も未来も独自の視線で見通した吉田松陰。彼の眼に当時の長崎はどのように映ったのでしょうか。           ◎参考にしたもの/『吉田松陰全集 第九巻』(山口県教育会)、『藩と県~日本各地のつながり~』(赤岩州五、北吉洋一)

    もっと読む
  • 第466号【小正月~小豆よもやま話~】

     初春気分がどこか抜けきれなかった松の内も過ぎて、きょうは小正月。朝から小豆粥を召し上がった方もいらっしゃるのではないでしょうか。もともと小正月は新年最初の満月を祝うもので旧暦の1月15日(今年は新暦3月5日にあたる)に行われていました。新暦採用後も1月15日を小正月としましたが、いまも旧暦で祝う地域は少なくないようです。また小正月の期間も15日のみだけでなく、14~16日までや15~20日までなどいろいろです。  小正月に小豆粥を食べる風習は各地に残っています。ちなみに「小豆」は季語ではありませんが、「小豆粥」は新年の季語。1月7日に七草粥を食べて健康を祈願する風習と同じく、こちらも一年の無病息災を祈っていただきます。古来、小豆の赤色は邪気を祓う力があると考えられていましたが、薬膳では、新陳代謝を促し、デトックス効果がある(むくみや吹き出ものなどを解消する働きがある)とされ、実際、身体の毒素(魔)を出すという意味で、古来の人々の考えは正しかったのです。  赤飯、おはぎ、ぜんざい、あんこ餅…、小豆を使った食べ物は数多く、行事食や日常食として、たいへん身近な食材です。ところで、小豆によく似た豆で「ささげ」というのがあります。小豆より固く、煮崩れしにくいので、関東地方のお赤飯はこの「ささげ」を使うことが多いとも言われています。なかには小豆と混同している方もいらっしゃるかもしれません。東南アジアで広く食べられているる小豆は中国原産。日本では北海道が主な産地のひとつです。一方、「ささげ」はアフリカ原産ということもあってか、日本ではその多くが関東以西で栽培されました。関東地方のお赤飯に広く用いられたのも、そうした理由があるようです。  小豆を使った和菓子を見渡せば、ときに個性的なもの見られます。対馬市の小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)の秋の大祭のときに作られる「だんつけもち」は、そのひとつといえるかもしれません。小さなもちに塩ゆでした小豆をまぶしただけのシンプルな豆もちで、塩豆大福の元祖ともいえるような味わいです。文永の役(1274)で、蒙古軍の襲来に備えて、兵士に持たせるためのあん入りもちを作っていたところ、相手が思ったよりも早く攻めてきたため、もちの中にあんをいれる余裕がなかった、というユニークないわれがあります。  当時(鎌倉時代)砂糖は一般に使われておらず、塩ゆでした小豆を使う「だんつけもち」からはその時代背景がうかがえます。また、地理的に韓国に近く古くから交流があった対馬ですが、聞くところによると韓国では、小豆を砂糖で甘く煮ることはほとんどないそうで、韓国料理の影響もあったのでは?という想像も膨らみます。さらには、大陸との交通の中継地だった対馬ですから、都からの往来もあったことを踏まえれば、京都の食の影響なども考えられます。「だんつけもち」のルーツは、辿れば辿るほど収拾がつかなくなるのでした。 本年も弊社「ちゃんぽんコラム」をどうぞ、よろしくお願い申し上げます。          ◎      参考にしたもの/『聞き書き 長崎の食事』(農山漁村文化協会)、リーフレット『長崎の郷土料理 シリーズ⑧』(18銀行)、『日本の食材帖 乾物レシピ』(三浦理代/主婦と生活者)

    もっと読む
  • 第1回 西洋料理編(一)

    1.南蛮人の来航日本初の西洋料理は、「南蛮料理」。ポルトガル語のパンに始まる。▲長崎に最初にできた教会「トウドス・オス・サントス教会跡」 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。 南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 その南蛮人が長崎の地を最初に訪れたのは織田信長の頃であり、その人の名はルイス・デ・アルメイダといった。彼は医者であり伝道者イルマンであったと記してある。 アルメイダは領主長崎甚左衛門に大いに歓迎されている。そして翌永禄11年(1568)布教長トーレス神父が長崎の地を訪れ、長崎の港が大変な良港であることを最初に発見している。 永禄12年の初めトーレス神父は長崎地方の布教を更に進めるためヴィレーラ神父を特に派遣している。そのため、この地方は急速に信者がふえ住民の大部分がキリシタンになった。 長崎の領主は神父に屋形の近くの土地を寄進したので、神父はそこに小さいが美しい長崎最初の教会トウドス・オス・サントスを建てた。 パンと葡萄酒は当然この教会でも使用された。パンはポルトガル語のPaoである。この言葉が、西洋料理の始まりとなる。そして、そのパンは二種類がつくられていた。ひとつは教会で使用するホスチヤとよばれる煎餅のようなパンであり、他はヨーロッパ人が食料とするパンである。そのパンも船員用の堅パン、一般用の砂糖入りパンなどの種類があった。2.長崎開港パンを焼く店、牛肉を売る店があり、人々は、異国風の料理を楽しんだ。▲山のサンタ・マリア教会の碑 長崎の地は大村の殿の支配下にあった。当時の大村の殿は大村純忠といった。純忠は永禄三年(1563)さきのトーレス神父の指導で領内の横瀬浦の教会で洗礼をうけ日本最初のキリシタン大名となった。 この洗礼式後の宴会のとき「純忠は教会の食堂でビオラの演奏をききながらポルトガル風の洋食を喜んで食べました」とアルメイダは彼の書簡の中で記している。 トーレス神父の長崎港発見以来、ポルトガル船の長崎入港の準備が進められ元亀元年の秋(1570)には港の測量が行われている。そして、その翌年の初夏(1571)マカオより長崎に最初の南蛮船が貿易品を満載して入港してきた。 このとき長崎の街は大村純忠の手によって新しく開かれ、岬の先端にはサン・パウロの教会が建ち、その教会の前の広場をはさんで大村町、島原町、平戸町などの六町が造られていた。そして入港してきたポルトガル船の人達は、その新しい町の中を自由に歩くことができたし、町は年と共に急速に発展してきた。 町にはポルトガル商人の奥さんとなる日本婦人もいたので、この婦人達は上手にポルトガル料理をつくっていたと記してある。そして町中には教会、病院、学校が次々と建てられ、パンを焼く店、牛肉や鶏を売る店もあり、長崎にない食料品は船で運ばれてきていたという。 人々はこの町でつくられる異国風の料理を南蛮料理として賞味した。 1618年10月長崎の教会よりコロウス神父がローマに送った書簡には長崎の料理について次のように記している。 日本に住まっている神父達の中で一番楽しく生活している人達は、ここ長崎の町に住まっている神父達である。それは長崎の町の教会(建物)はヨーロッパ風であるし、町には食用とする牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く住んでいたので、私達はポルトガルや、スペインに住んでいるのと同じような生活ができるからであると記している。▲南蛮人来朝之図(長崎県立美術博物館蔵) また、ほぼ同時代に長崎の教会で布教活動に活躍していたメスキータ神父も、長崎の町における食生活について次のように記している。 長崎のコレジョ(教会付属の学校)における食事は大変ヨーロッパ風の食事が用意されます。それは他の処ではみることができません。特に、祝日にはヨーロッパと同じ食事が用意されます。ここでは何でも用意されるのです。 又、中国からも多く安い品物が運ばれてきています。また、玉子、鶏、その他の鳥、果物、日本にある全ての果物も用意されています。又ヨーロッパでもめったに見ることのできない牛の骨の中にあるゼラチンで作る菓子も此処のコレジョではつくられますと言っている。3.長崎の町に今も残る南蛮料理「ヒカド・南蛮漬け・テンプラ・・・・・・」。ポルトガルを今に偲ぶ、長崎の家庭料理。 キリシタンが禁教になったとき、江戸幕府は牛肉とパンと葡萄酒はキリシタンに関係あるものとして食べることが禁止され、長崎のパン屋も肉屋も全て店を閉じてしまった。 そこで、長崎の人達は南蛮料理の牛肉のかわりに赤身の魚シビなどを其の代用として使用している。その代表的な料理として今も長崎の冬の家庭料理として「ヒカド」とよぶ料理が残っている。ヒカド、ポルトガル語のPicadoからきている。ヒカドは物を刻むという意味である。調理法はシビ・大根・薩摩藷などを四角に細かく切って、これに醤油で味をつけ煮込んだものと説明している。 然し今では、長崎の町でもよほどの旧家の人達でないとこの料理のあることを知らないし、市内の料亭でもヒカドを用意する店は殆ど見かけない。▲南蛮人来朝之図(県立美術博物館蔵)ヒロウズ、この言葉もポルトガル語のFillosからきている。江戸時代この料理は江戸にも伝えられ「守貞漫稿」の中には「飛竜頭」として紹介されている。 初期のヒロウズはポルトガルの菓子として記され、「小麦粉をこね油であげ蜜をつけて食べる」と説明されている。然し、いつの頃からか長崎地方では小麦粉のかわりに豆腐を摺り、その中に牛房、椎茸、木耳(きくらげ)、銀杏(ぎんなん)などを刻みこみ、薄味をつけ油で揚げた精進料理となり「ヒロス」とよんでいた。この料理は江戸に伝えられると更に工夫が加えられ「ガンモドキ」となっている。テンプラ。この料理もポルトガル語のTemporaからきているという。二十六聖人記念館長の結城了悟神父にお聞きしたところによると、長崎テンプラの語源はTemporaの時に食べる料理が転用された言葉であると言われる。Temporaというのは宗教用語でヨーロッパでは四季のかわり目の月、すなわち3月、6月、9月、12月のはじめの水曜、金曜、土曜の三日間は日本でいう精進日のようなものが定めらていて、この日は牛肉を口にしないで魚と野菜を食べていた。 長崎のテンプラは魚と野菜のテンプラで熱いうちには食べないし、天つゆもない。そしてテンプラの外皮は小麦粉、卵で味をつけ、その外皮は厚く、食べるとお菓子のようにつくられ、実においしい。現在はシッポク料理の小菜の一皿にこのテンプラがよく出される。南蛮漬。長崎の正月にはなくてはならぬ料理の一つである。そして南蛮漬の材料となる魚は秋より冬にかけて獲れはじめる「ベンサシ」という赤い魚がつかわれる。そのころになると魚屋さんは一夜干しにしてベンサシを売っている。家ではこの魚を油であげ、酢と醤油、砂糖でつけ込む。この料理は全国的に広く普及しているがベンサシをその材料とするところは少ない。 ポルトガル時代の食生活を収録したフロイスの記録を読むと次のように記してある。「日本人はフライにした魚をよろこばない。但し海藻(コンブ?)のあげたのを好む。日本人は油や酢、または香料の入ったものは食べない。」 南蛮漬、これこそポルトガル人が南蛮の味を長崎の人達に伝えた第一の味である。当時の我が国では味わえなかった異国の味であり、人々はその中にポルトガルを偲んでいたのであろう。第1回 西洋料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

    もっと読む
  • 第465号【やさしいきらめき~長崎夜景~】

     大雪や嵐で被害に合われた方々に心からお見舞い申し上げます。  例年より強い寒さを感じる今年の師走。天候不順が気になるところですが、ご家庭や仕事先で新年を迎える準備はすすんでいらっしゃいますか?長崎の郷土料理を得意とする先生のお宅では12月に入るとすぐ、お正月用の「紅さしの南蛮漬け」を作って冷凍保存したそうです。その先生から、伊達巻(だてまき)にまつわる面白い話をうかがいました。  伊達巻の名称の由来は、伊達政宗の好物だったという説や、見た目の華やかさから、お洒落とか派手さを意味する「伊達」の名が付いたとも言われています。先生によると、江戸時代に「カステラ蒲鉾」として長崎からお江戸に伝わり、洒落た装いをする人(伊達者)の着物に似ていたので、「伊達巻」と呼ばれるようになったとか。白身魚のすり身と卵を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いて作る伊達巻は、本当にカステラのような焼き上がり。いまでも長崎で「カステラ蒲鉾」と呼ばれるわけです。  きょうは、クリスマス・イブ。ちょうどいま、長崎のまちの中心部はイルミネーションとライトアップでクリスマスの装い。仕事や家事をちょっと脇において夜の長崎へお出かけになりませんか。  昔から変わらぬ長崎の夜景スポットは、やはり稲佐山(標高333m)。ロープウエイで登れば、「来て良かった♡」と思わせる見事なロケーションを楽しむことができます。以前来たことのある方は、きっとまちのきらめき感がアップしたように感じられるはず。聞くところによると、より美しい夜景をめざして市民にカーテンを開けてもらうなどの協力をお願いしているそうです。寒い季節なので人出は少ないかと思いきや、15分おきに発着するロープウェイは、ひっきりなしにお客さんを山頂へ運んできます。それに、焼けちゃうほどカップルが多い。真冬でも超ホットな稲佐山でした。  長崎駅や出島、長崎水辺の森公園、南山手の大浦天主堂やグラバー園も、それぞれの個性をいかしたイルミネーションで出迎えてくれます。ところでイルミネーションがLED(発光ダイオード)の灯りに変わったのは10年ちょっと前くらいからでしょうか。最初の頃は色合いも限られて、どこか冷たい印象がありましたが、年々技術が進化し、いまではほぼフルカラーのやさしいきらめきで、まちを彩っています。   ろうそく、白熱電球、蛍光灯に次ぐ、第四世代の灯りといわれるLED。今年、明るくエネルギー節約効果が高い照明を実現するとして、青色LEDの基礎研究と実用化に貢献した3人の日本人がノーベル物理学賞を授賞しました。多大な忍耐を要したという彼らの研究を知ると、LEDの灯りをたくさんちりばめた長崎の夜景がいっそう温かく心にしみてきます。今宵、みなさんにも、やさしいきらめきが届きますように。Merry Christmas and Happy new year.

    もっと読む
  • 第464号【南蛮貿易時代の豪商・末次興善】

     長崎市中心部に、興善町(こうぜんまち)という南蛮貿易時代に生まれたまちがあります。国道34号線沿いにある長崎県庁と長崎市役所のちょうど真ん中あたりで、長崎市立図書館(長崎市興善町1-1)のある一帯です。  平成のいまにつながる長崎の町建ては、400年以上も前の元亀2年(1571)、ポルトガルとの貿易を行うために、港に突き出た岬に6つの町(島原町・大村町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知町)を築いたのがはじまりです。全国各地の商人やキリシタンが集まり賑わいを増すなか、町域はしだいに拡大し、新しいまちが次々に生まれました。興善町はその初期の頃に開かれたまちのひとつです。  それぞれの町名は、住民の出身地や職業にちなんだもの(材木町、紺屋町、酒屋町など)が多いなか、興善町は当時としてはめずらしく人名ゆかりのもので、私財を投じてこのまちを開いた「末次 興善久四郎」(以下「興善」)の名が付けられています。  興善は博多商人でした。その父は、周防(山口県)の大内氏の旗下に属し、大内氏が明との貿易の本拠地とした博多に住んで貿易がらみの仕事をしていたようです。当時は群雄割拠の戦国時代。博多には俗にいう「武士崩れ」と呼ばれる商人が大勢いたそうです。大内氏もまた重臣の反乱をきっかけに滅び、興善の父もいわば失業の身、「武士崩れ」となります。その頃の興善はすでに父と同じく明との貿易の仕事に従事。商人としての活動するなか、縁あってキリスト教の宣教師たちと交流を持つようになります。  争いの絶えない世に生きる人に、キリスト教の教えは心に響くものがあったのでしょう。興善はたいへん熱心なキリシタンとなり、「コスメ」という洗礼名も授かりました。日本側のイエズス会の会計や雑務係をしていたともいわれ、ルイス・デ・アルメイダ(1567年に長崎で初めてキリスト教を布教した宣教師)の各地での布教活動に同行したこともあったようです。ルイス・フロイスの『日本史』にも興善が熱心な信徒であったことがわかるエピソードが記されています。  興善は布教活動に同行中の堺で、宣教師から長崎開港の話を聞いて、息子(平蔵)や使用人たちを連れて長崎にやって来たといわれています。ところで、当時、長崎にやって来た各地の商人たちは、みなキリシタンだったといわれています。キリスト教の布教と貿易を同時に行おうとするポルトガル側に対して、日本の商人たちは、まずキリシタンになることがスムーズな交渉の第一歩だったのです。ですから、興善のように慈悲、慈愛といったキリスト教の教えに導かれた者だけでなく、商売のために信者となった者もいたようです。  長崎での興善は、ポルトガルとの貿易で莫大な富を得、町建てにも関わり、慈善事業にも多額の寄付をするなどしました。その後、キリスト教の禁教令が敷かれ、取り締まりが厳しくなるなか、興善がどのように難を逃れたのか、その詳細については残念ながら不明です。一説には、かつて共に長崎入りした息子より長生きしたともいわれ、その墓はなぜか博多の妙楽寺にあります。ちなみに息子は、キリスト教を棄て長崎代官となった「初代・末次平蔵」です。  激動の時代をいくつもくぐり抜けるうちに失われる町名もあるなかで、いまもしっかり残る「興善町」。そのルーツを知るにつけ、キリスト教がらみゆえに繁栄の形跡をほとんど消されてしまった南蛮貿易時代の長崎が垣間見えるようで、面白い。「末次興善」は当時を知る重要人物であることは間違いないようです。           ◎      参考にしたもの/長崎史談会11月例会『長崎の豪商・末次興善』(松澤君代)、『長崎文化考~其の一~』(越中哲也)

    もっと読む
  • 第463号【狛犬いろいろ~踊る狛犬やグラバー家の唐獅子~】

     季節の深まりを感じるこの頃。長崎は穏やかな天候に恵まれて過ごしやすい日々が続いています。先日、浦上のカトリックの教会前を歩いていたら、千歳飴らしき長方形の袋を手にした園児の行列に出会いました。教会で七五三のお祝いをしてきたばかりのよう。ステンドグラスの光に包まれて、聖歌を歌いながら祝う七五三。これも長崎らしい風景のひとつかもしれません。  さて、今回は狛犬の話です。神社の拝殿前や参道などで、悪いものが入ってこないように見張っている狛犬。少々マニアックかもしれませんが、狛犬めぐりを楽しんでいる方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。また、特に関心がなくても変わった狛犬に出会うと、「あらっ?」なんて心を動かされたりするものです。そこで今回は、ちょっと目を引く長崎の狛犬をご紹介したいと思います。  「長崎くんち」で知られる諏訪神社(長崎市上西山町)は、狛犬の宝庫だと紹介したことがあります(当コラム384号)。その諏訪神社から背後の山を2kmほど登った先にある金比羅神社の境内の一角に、いわゆる「立ち狛犬・逆立ち狛犬」といわれるタイプが置かれています。諏訪神社にも同じタイプがありますが、金比羅神社のものは、まるで踊っているかのような躍動感があります。山頂近くの森林に囲まれた静かな境内だけに、「踊る狛犬」の姿は、より印象深く映るのかもしれません。  唐寺・崇福寺の近くにある八坂神社(長崎市鍛冶屋町)にも、個性的な狛犬が数体。そのなかにクリクリの巻き毛でぬいぐるみのような体型をした狛犬がいます。表情をよく見ると、けっこういかめしい。だけど、かわいい。洋風と唐風と和風が混じったような姿です。  長崎港を見渡す南山手の丘にたつ旧グラバー住宅(1863年築造)。現存する日本最古の木造洋風建築です。家屋の一角は温室になっていて、その入り口付近に狛犬のような石像が置かれています。どこか生々しさのあるしなやかな身体つきで、崇福寺の山門前に鎮座する唐獅子と系統的には似ています。おそらく日本の石工さんによるものではなく、中国ゆかりと思われます。  そもそも狛犬のルーツは古代オリエントの時代にまでさかのぼり、メソポタミア文明の初期の王朝の遺跡からも獅子をデザインした調度品が見つかっているそうです。その意匠モデルは獅子(ライオン)だといわれ、強さと威厳を感じるその姿は、洋の東西を問わず人々を魅了。東へはシルクロードを経て東南アジア諸国に伝わり、中国では唐獅子、日本では狛犬として定着します。西欧では、建築物の装飾や王家・氏族の紋章などに取り入れられています。  スコットランド出身の商人、グラバーさんの唐獅子は、この温室のある邸宅にずっと置かれていたそうで、彼が創始に携わったビール会社の麒麟ラベルのモデルになったというエピソードで知られています。獅子の意匠は、スコットランドの国章にもデザインされていますし、建築物の装飾にもふんだんに使われ、グラバーさんにとって故郷の風景のひとつだったと思われます。幕末に日本にやってきて、激動の時代を生きたグラバーさん。温室でつかの間草花を愛でるとき、唐獅子を通して遠い故郷へ思いを馳せることがあったかもしれません。           ◎参考にしたもの/『狛犬事典』(上杉千郷)、『日本全国獅子・狛犬ものがたり』(上杉千郷)

    もっと読む
  • 第462号【幕末~明治を生きた馬田兄弟(本木・松田・柴田)】

     秋のイワシは脂がのって、とてもおいしい。煮付けやお刺身などでよく食卓にあがるのですが、そういう話を関東の友人にするとちょっと驚かれます。最近では漁獲量が減り、昔のように買い求めやすい魚ではなくなりつつあると言うのです。まあ、確かにそんな気配もありますが、長崎は沿岸の漁場で比較的豊富にとれるからでしょうか、まだ手に入れやすい価格です。イワシに限らず新鮮な旬の魚がいつでも気軽に手に入る長崎。本当にありがたいことです。  ある日、小イワシの煮付けを食べているとき、ふと、明治時代に日本で初めて長崎で試作された缶詰の中身がイワシだったという話を思い出しました。それはオイルサーディンだったそうですが、製造者は松田雅典(1832-1895)という長崎の人で、缶詰製造の始祖と言われています。  当時、長崎の外国語学校「広運館」の司長だった松田雅典は、いまから145年前の明治2年(1869)フランンス人教師レオン・ジュリーから缶詰の製法を学び、県知事に缶詰試験所の設置を願い出て実現させます。缶詰試験所は、現在の日本銀行長崎支店(長崎市炉粕町/長崎県立長崎図書館そば)の場所にあり、『日本最初の缶詰製造の地』の碑が建っています。ちなみに、食べ物を密封し、加熱・殺菌処理して長期保存を可能にするという缶詰の原理は、いまから約200年前のフランスで生まれたもの。ナポレオンが兵士の食料を確保するために、食べ物の長期保存の方法を募集したのがきっかけだそうです。  さて松田は、のちに缶詰試験場の建物を払い下げてもらい、松田缶詰工場を開業。清国へ輸出したり、ロシアの東洋艦隊へ納品するなどしたそうですが、開業から約10年後には病気で亡くなっています。激動の幕末~明治を生きるなか、缶詰を手掛けた松田には先見の明があったと言えますが、一般に普及するようになったのは亡くなった後の大正時代に入ってからのことでした。  ところで松田は、長崎会所の吟味役の馬田家(分家)の生まれで、のちに金屋町乙名の松田家の養子になっています。実の兄は、近代活字印刷の始祖として知られる本木昌造(1824-1875)です。本木も馬田家に生まれましたが、阿蘭陀通詞を代々務める本木家を相続しました。ちなみに馬田家の本家も阿蘭陀通詞の家柄で、本木は本家を通じてオランダ語を学べる環境に育つなか、その才能を見込まれて本木家へ入ったと思われます。印刷業に関わる前の阿蘭陀通詞時代は、ロシアのプチャーチンの通訳を務め、ペリー来航時には下田に派遣されるなどの活躍をしています。  本木昌造、松田雅典兄弟には、柴田昌吉(1841-1901)という語学に精通した弟もいました。柴田もまた馬田家に生まれ、のちに医家の柴田家に入ります。英語伝習所の教師を経て、維新後は外務省で通訳を務めました。退官後、〝柴田辞書〟と呼ばれる英語辞書を出し、日本の英語教育に大きな影響を与えています。  偉業を成した3人は、名字が違うこともあり、馬田家出身の兄弟であることはあまり知られていません。彼らを通して思うのは、昔は養子縁組で個々の才能を活かすしくみがあったということ。また、近代化へと突き進む時代に生まれるべくして生まれた兄弟であったという気がしてなりません。           ◎      参考にしたもの/日本缶詰びん詰レトルト食品協会HP「かんづめハンドブック」、「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)、「まちなかガイドブックⅠ~新大工・中通り・浜ん町編~」(長崎史談会・長崎市観光政策課)

    もっと読む
  • 第461号【「すぶくれ」は、「白パン」か?】

     小腹が空いて買い求めた「すぶくれ」。「すぶくれ」とは、餡の入っていない「酒饅頭」のことで、小麦粉に甘酒を入れ、少しの砂糖と塩を混ぜて練ったタネを、こぶし大に丸めて蒸しあげたものです。たんに「酒饅頭」とか「蒸し饅頭」、「蒸しパン」などと呼ばれたりもします。饅頭界における名称というのは、その饅頭が庶民的であればあるほど、深い意味付けもなくいろいろな呼び方をされるようです。  「すぶくれ」は、ほのかに麹の匂いがするやさしい甘さで、どこか懐かしいおいしさです。ちなみに現在では甘酒の代わりに、重曹やイースト菌、ベーキングパウダーなどを使って膨らませたものも多いよう。それぞれ微妙に風味が変わります。  長崎県下各地の地産地消をうたう店などに行くと、地元の人が手作りした「すぶくれ」を見かけることがあります。他の地域のことはわかりませんが、少なくとも長崎県内では、餡なしの饅頭の存在は、昔ながらの味のひとつとして食べ継がれているのです。  ところで先日、長崎の歴史に詳しい先生から、興味深い話をうかがいました。ポルトガル人が伝えた「南蛮文化」と、出島を通じてオランダ人が伝えた「紅毛文化」の違いについてです。大雑把な言い方をすれば、「南蛮文化」は、市中に住んでいたポルトガル人らが、日本の庶民にじかに伝えた生活文化。「紅毛文化」は主に医療や天文学につながるサイエンスが中心で、その情報は将軍や大名家、学者など限られた人々に伝えられたものであるということでした。  長崎に南蛮文化が花開いたのは、南蛮貿易港として栄えた時代。長崎開港(1570年)後、ポルトガル船に乗ってやってきたキリスト教の宣教師や商人たちは、60数年間、長崎市中に散宿していました。そうするなかで、市井の人々に彼らの文化がじかに伝えられたのでした。   「パン」「ビスケット」「カステラ」「コンペイトウ」などの食べ物はその製法とともに名称も伝えられ、「ボタン」「メリヤス」「カッパ」「シャボン」などの多くのポルトガル語もこの頃に伝わりました。これら「食べ物」や「言葉」で「南蛮文化」がいまに残ったのは、やはり、その文化が日本人の生活に馴染み、活かされたからにほかありません。  当時、キリスト教の教会が建ち並び、どこか異国の風景をなした長崎の街角では、パンを焼く匂いが漂っていたと伝えられています。このパンは、「カステラ」と区別して、「白パン」とも呼ばれていたそうです。   ここから、再び冒頭の「すぶくれ」の話にもどるのですが、当時、長崎市中に住んでいたのはポルトガル人だけではありません。日本と貿易を行う中国人も自由に住み、日本の文化と混じり合っていました。それで、前述の街角に漂っていたパンを「焼く」匂いは、実は小麦粉に甘酒を練り込んだタネを「蒸す」匂いではなかったのかと想像するのです。というのも、「すぶくれ」は、中国の小麦粉料理、「包子(パオズ)」や「花巻(ホワジュアン)」などの味にもよく似ていて、長崎人と中国人の歴史的な深い関わりを思えば、ありえない話ではないような気もするのです…。皆さんは、どう思いますか?

    もっと読む
  • 第460号【秋うらら。聖福寺で会いましょう】

     きょうは「長崎くんち」の中日。踊り町の演し物がシャギリや太鼓、ドラの音を響かせながらまちなかを練り歩き、大勢の見物客で賑わっています。今年は五島町が「龍踊り」を奉納していますが、二体の大きな龍が秋の日差しを浴びながら空中に舞う姿はとても感動的。「長崎くんち」は明日までです。間に合う方は、ぜひ、お出かけください。  祭りや催しが続くこのシーズン。先月27日には、「長崎孔子廟」(長崎市大浦町)で孔子さまの生誕を祝う「孔子祭」が行われました。古式にのっとった儀式は、祭具も参加する人々も中国絵巻から飛び出してきたかのような華やかさ。太極拳、龍踊り、中国獅子舞なども行われ拍手喝采を浴びるなか、観光客のひとりが、「ホントに長崎ならでは、だね」と言っていたのが印象的でした。  中国色に彩られる長崎の秋。賑やかな催しが続くなかで、先月18日には中国にゆかりの深い「聖福寺」(しょうふくじ/長崎市玉園町)の「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」、「天王殿(てんのうでん)」、「鐘楼(しょうろう)」、「山門(さんもん)」の4棟が国の重要文化財に指定されるという、うれしいニュースもありました。  長崎駅前から望む山の麓にある聖福寺は、黄檗宗のお寺です。創建者は鉄心(てっしん)という長崎生まれの僧侶です。その父は陳朴純という中国の人、母は長崎の西村家の人です。鉄心は、隠元(1654年渡来)に接したことがきっかけで僧侶になること決意。隠元の弟子である木庵に師事し、長崎の福済寺、そして、隠元、木庵が初代、二代の住職をつとめた京都にある本山・黄檗山万福寺で修行を積みました。 その後、名僧として親しまれるようになった鉄心は、ときの長崎奉行牛込忠左衛門らの強い後ろ盾と、鉄心の母の実家である唐通事・西村家から主な資金を得て、「聖福寺」を創建(1677年)。その建築様式は本山・万福寺を大いに模して造ったといわれています。  重要文化財に指定された「山門」を見上げると、正面に「聖福禅寺」という扁額がかかっています。この文字は、隠元が81才のとき書いたものと伝えられています。「山門」をくぐると、木陰に覆われた古びた石畳。幕末、いろは丸事件の賠償交渉でこの寺を訪れた坂本龍馬もまた、同じ石を踏みしめたと思うと何だかドキドキします。  苔むした参道の石段を登れば、正面に「天王殿」。その中に鎮座する布袋さまが年季の入った微笑みで迎えてくれます。そして境内奥に、「大雄宝殿」(1697年建築)。中央の半扉に施された浮き彫りの桃が目を引きます。土間や天井は、明らかに日本の寺院とは違う様式。また柿色をした瓦も特徴的。これは肥前・武雄で製造されたものとか。建物の雰囲気、配置など、長崎の唐寺のひとつ、崇福寺ともまた違う趣きです。   ひもとくほどにからみあう濃厚なつながりを持つ長崎と中国。そのいったんを秘めた「聖福寺」の境内に佇めば、めくるめく歴史の延長線上に自分らがいることの不思議を感じるはず。この秋、「聖福寺」で思いを馳せてみませんか。

    もっと読む
  • 第459号【山川河内の言い伝え~念仏講まんじゅう~】

     風に、日差しに、秋の気配がしだいに濃くなってきました。とはいえ、局地的に大量の雨に見舞われる地域もあるなど、天候不順が続いています。ちなみに9月は防災月間。各地で関連催しも行われるなどいつも以上に防災への関心が高まっています。そこで今回は、江戸時代の災害体験を150年以上に渡って継承している「山川河内自治会」(長崎市太田尾町)の「念仏講まんじゅう」をご紹介します。  「山川河内」は「さんぜんごうち」と読みます。「山」と「川」、そして川の流れに沿って平地の開けたところを意味する「河内」という文字が並ぶ地名は、緑深い谷あいにあるこの地域の地形をそのまま言いあらわしたもの。古い地名だそうです。  長崎駅から車で約35分。路面電車が走る市街地から「山川河内」まで、いくつかの小さな山を越えて行きます。ヘアピンカーブを下りながら斜面地に見えてくる小さな集落が「山川河内」です。現在30数世帯が暮らすこの地区は、三方を山に囲まれ、東南に下った向こう側(太田尾地区)の先には橘湾天草灘が広がっています。古くからの農村で、車道がない時代は農作物の行商のために長崎市街地まで片道約3時間かけて往来していたそうです。  「山川河内」地区の中心を、いくつかの支流をもつ川が流れています。地元の人の話によると、雨量が多くなると自然発生の出水があちらこちらに見られるとのこと。日本各地の山間の地域がみなそうであるように、ここもまた豊かな緑の恩恵を受ける一方で、常に雨への警戒を忘れてはならないところなのでした。  いまから150年以上も昔のこと。1860年(万延元)4月9日(旧暦)、長崎地方は大雨による大水害におそわれました。このとき「山川河内」でも土砂災害が起き33人もの犠牲者が出ました。家屋は8軒、牛や馬などの家畜は13頭流され、地域全体が壊滅的な被害を受けたといいます。この災害が地元の人々に与えたダメージはたいへん深く、以後、亡くなった方の供養と災害を忘れないために、毎月14日に「念仏講まんじゅう」を地区の全世帯に配るという行事が続けられるようになりました。  この行事を通じて、災害の伝承と同時に、「やましお(山崩れ)の前には異臭がある」などの言い伝えも各家々でごく自然に受け継がれてきたといいます。1982年(昭和57)7月23日の「長崎大水害」のときには、この地区でも大きな土砂災害が起きましたが、日頃の災害に対する意識の高さからくる迅速な自主避難によって、一人の犠牲者も出なかったそうです。  「念仏講まんじゅう」は、年に一度ではなく、月に一度の行事。長い時を経るなかでは、存続があやぶまれるときがあったことは、想像に難く在りません。それでも続いたのは、「先祖たちが続けてきたことを大事にしたい」、「山川河内は、人と人との絆が強い」、そういうことが理由かもしれないと地元の方が話してくれました。  「念仏講まんじゅう」の日は、150年前の土砂災害でもっとも大きな打撃を受けた「脱底川(ぬげそこがわ)」と呼ばれる川の近くに祀られている「馬頭観音」にまんじゅうを備えて念仏を唱え、その後、各世帯へ配られます。  玄関先でお年寄りがまんじゅうを両手で受け取りながら、頭を下げていた姿が印象的でした。亡くなった方への供養の行事が、災害を忘れないこと、地域の絆を育むことにつながった「山川河内」。災害の記憶を継承するための大切なヒントがこの地にあるようです。   ◎参考にした本や資料/『長崎市日吉方言集』(坂本進)、『災害伝承「念仏講まんじゅう」調査報告書』(長崎大学 高橋和雄・NPO法人砂防広報センター) ◎取材協力/山川河内自治会

    もっと読む

検索