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  • 第8回 中国料理編(三)

    1.長崎名物シッポク料理遠く南方海域との交流が運んだ、長崎・異国の食文化▲雍正年製粉彩中皿 前途したようにポルトガル船についで1600年頃より長崎に入港してきた唐船は、中国大陸の港より出航してきた船ではなく、当時の言葉で言うと安南・東京・交跡・カンボチア・シャム方面の港より出航してきた船である。 その唐船出航の地は現代でいうとベトナム・カンボチヤ・タイ方面の港より出航してきていた。そして船の型は中国船とほぼ同じジャンクの型であったので長崎の人達は、これら南方海域から来航してきた船も一括して唐船とよんでいた。 但し当時の人達は、このように遠く南方方面より長崎に来航した船を「奥船」。奥船に次いで福建省方面から来航してきた唐船を「中奥船」。1700年頃よりこ杭州(寧波)方面より来航してきた唐船を「口船」と区別してよんでいた。 そして、それら唐船の来航地によって船頭達の言葉が異なっていたので、それらに応じて唐通事(通訳)が任命されていた。例えば南京口の通事は口船。福州口は中奥船、東京口やシャム口は奥船の通訳をした。 奥船が入港していた頃、長崎より出航していた御朱印船も前途したように、その寄港地は奥船の出港地ベトナム、カンボチヤ、タイの各地に貿易に出かけていた。 1636年(官営十二)徳川幕府は御朱印船並びに日本人の海外渡航を禁じた。然しその間、長崎の町には唐船や奥船や中奥船の人達が来航し居住し、唐寺興福寺・福済寺・崇福寺の建立や唐僧の渡来、加えて南方に出かけた御朱印船乗組の人達が運んできた南方諸国の異国の文化が長崎の町にはあった。 そして、そこには当然のこととして、この町には南方や中国の食文化が多く移入されていた。2.シッポクその言葉は東京の言葉であるという。シッポクの語源は、現ベトナム。卓(テーブル)を用いて食べる料理。▲唐船舶載染付碗 古賀十二郎先生は先生の名著として有名な「長崎市史風俗編」の中でシッポクの語源について詳しく記しておられる。その要旨を整理すると次にようになる。 亨保十六年(1731)長崎奉行細井因幡守は当時唐人屋敷内に在留していた唐船より来航していた人達に「シッポク」という言葉について質問したところ、唐船の人達は次のように回答した。 シッポクという言葉は中国語にはございません。中国語ではシッポクという意味は卓子と書きシッポクとはよみません。卓のことをシッポクというのは広南・東京方面の言葉でございます。 広南・東京というのは現在のベトナム方面をいうのである。するとシッポクの語源はベトナム語ということになる。 私は先年NHKの国際ラジオ局でベトナム方面を担当しておられた富田春生先生(現奥羽大学英文学科教授)にシッポクの語源についてお尋ねしたが不詳ということであったし、一昨年来崎されたベトナムTV局の皆さんを通じて調査を依頼したが納得のゆく回答に接しなかった。 ここに考えられることは、細川奉行がシッポクの事について質問した亨保年間というのは、元禄二年(1689)に唐人屋敷が完成してより約五十年も後のことであり、当時来航していた唐船は寧波を中心にした口船の人達であり、一世紀も前に長崎に来航していた奥船のことについては詳しく知ることがなかったのである。 兎も角、卓(テーブル)のことをベトナム地方では「シッポク」と言い、我が国ではその「シッポク」(卓)で食事することにより、転じてシッポクを利用して食べる料理となり、更に「シッポク料理」という用語が生まれてきた。 このことは前途の西洋料理編でターフル(オランダ語でテーブルの事)を用いて食べる食事をターフル料理とよび、やがてそれが現在の西洋料理となってきたのと軌を一にする。 次にシッポク台も変化してきた。それは卓で食事するには椅子を必要とするが、この事は当時一般の畳敷の我が国の住宅では不便であった。その故に卓の足を短くし、型も収蔵するに便利な丸型の卓が造られるようになってきた。 1820年ごろ川原慶賀が描いた唐館絵巻の唐人宴席の図をみると、そこには朱塗の丸型の足の短いシッポク台をつかって会食している図が描かれているこれよりみると唐人屋敷内でのシッポク台も畳敷の部屋にあわせて朱塗丸型短足のシッポク台がつくられていたのである。 明和九年(1772)発刊の「普茶料理付卓子通考」に描かれているシッポクの図も、畳敷の部屋にあわせた短い足の長方形のシッポク(卓)で、卓の上には中国風の模様があるテーブル・クロスがかけられ、卓の上には箸袋に入った箸、小皿、酒瓶、匙などがおかれている。3.文献にみるシッポク料理卓袱(しょうふく)と書き、日本では「しつほく」。作法はありて、さらに無きに似たり。▲唐蘭館絵巻(長崎市立博物館蔵) 明和八年(1771)江戸日本橋の須原屋より刊行した本に「新撰会席しつほく趣向帳」という料理の本がある。これをみると当時江戸・京都で流行していた「シッポク料理」のことが詳しく紹介してある。その本の序文には次のように記してある。一、しつほくという言葉は肥前長崎にていう言葉にして、おそらくは藩語ならん、唐にては八僊卓(はつすえんちょ)というて猪豚の肉を専ら用揺る事なり。・・・一、しつほくは大菜五種・六種。小菜七種・八種のものなり。大宴なれば大菜九種・小菜十六種なり。 (中略) 一、しつほくは文字詳ならず、然れども朋友とねんごろに酒を飲むことを中国の演義文に卓袱(しょうふく)と書き日本にては「しつほく」と読むという。因って此の字を用ゆ、なお後人の考えを待つべし。(浪花 禿幕子著) 続いて同書には「卓袱器物全図」があり器物の一つ一つについて図を加えている。食事法については次のように記してある。 作法はありて さらに無きに似たり 次にシッポクには長命水という酒を用意し、それは金区ラ-あるいは骨杯(コップ)とも書く也-を用いて飲むとしている。 何故、長命酒を用いるかというと「およそシッポク料理は大酒に及ぶものなれば」健康のことを考えて長命酒を用いるという。そしてその長命酒というのはオランダ人が用いる酒のことであると説明している。第8回 中国料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第478号【長崎よもやま話(レモン、石畳)】

     よそさまの庭先でたくさんの実をつけた李(すもも)の木を見かけました。梅雨前から終わりにかけて、木いちご、山桃、梅、杏など、おいしい実をつける植物がたくさんありますが、そんな季節もそろそろ終わりに近付いています。梅雨のはじめに漬けた梅シロップは、もう飲み頃を迎えました。水や炭酸で割って飲む自家製梅ドリンクは格別。クエン酸による疲労回復の効果があるので、暑さでバテそうなこれからの季節にぴったりです。  クエン酸といえばレモンです。スポーツをするときレモンの輪切りをはちみつ漬けにしたものを持参する方もいらっしゃることでしょう。また、レモンはご存知のようにビタミンCもたっぷり含んでいます。大航海時代の船員たちは、長い船上暮らしで生野菜や果物を食べる機会が少なく、ビタミンC不足から引き起こされる壊血病で命を奪われたものも多かったそうです。18世紀半ばになってイギリス海軍でレモンが壊血病に効果があることがわかり、予防のために果汁をしぼったジュースを飲むようになったといわれています。  レモンの日本への初渡来は明治になってからという説がありますが、江戸時代後期に唐船が長崎に運んで来たという説もあります。また、オランダ船の乗組員たちがレモンを壊血病予防に用いたという話は、これまで聞いたことがありません。オランダ船は拠点のある東南アジアで、緊急時の水分補給のためにザボンを積み込んだといわれています。ザボンは、ビタミンC、ビタミンEを多く含んだ柑橘類です。図らずもザボンで壊血病を予防したのかもしれません。  さて、レモンの爽やかな香りと独自の風味をいかしたレモンスカッシュやレモネードは、まさに〝夏の飲み物〟のイメージです。ちなみに、レモネードの呼び名が転訛したといわれるのがラムネです。ラムネの日本での製造のはじまりについては、幕末に長崎で、という説や明治初期に神戸で、という説もあります。  レモンの果汁に蜂蜜や砂糖などで甘味をつけ冷水で割ったレモネード。ハイカラともてはやされた時代を経て、日本人に飲み継がれ、いまとなっては昔懐かしい飲み物のひとつになっています。かつて居留地だった南山手界隈の一角にある小さな喫茶店でレモネードを飲みながら、そんなことに思いをめぐらしていると、窓越しに見える石畳にふと目が止まりました。  長崎らしい風景には、いつも石畳があります。かつて外国人居留地だった東山手・南山手界隈の石畳の多くは幕末~明治期に敷かれたものです。では、長崎市内に現存するもっとも古い石畳はどこにあるのでしょうか。長崎の郷土史に詳しい方によると、「サント・ドミンゴ教会跡」(長崎市勝山町・桜町小学校内)に残っているとのこと。サント・ドミンゴ教会は1609年に建てられ、わずか5年後に禁教令により破壊されました。遺構として残る石畳は中庭の一部と推測されるそうで、大きめの平らな石やいくぶん小ぶりの石を敷き詰めてあります。400年以上も前の宣教師や長崎の人々は、いったいどんな姿や思いでそこを歩いたのでしょう。想像するだけで歴史好きの血が騒ぐのでありました。  ◎参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第7回 中国料理編(二)

    1.御朱印船の時代長崎は、朱印船の出港地でもあり、町は西欧や中国料理の匂いで多彩。▲安南国舶載赤絵呉須大皿(昇園文庫) 御朱印船の時代とは豊臣秀吉がキリシタン禁教政策に転じた十六世紀の末、唐船が長崎に来航し始めた十七世紀の初頭、この間をぬって御朱印船の時代はあった。 その御朱印船とは豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光の許可をうけ、我が国の貿易船が海外渡航の許可書をもって 自由に海外貿易に従事した貿易船の事である。  そして、その海外渡航の許可書を持って自由に海外貿易に 従事した貿易船の事である。 そして、その海外渡航許可書には大きな朱印が押してあったので一般にこの許可書 を持参した貿易船を御朱印船または朱印船といった。  御朱印船の研究書としては長崎高商教授(現 長崎大学経済学部)川島元次郎先生の「朱印船貿易史」、 東京大学教授岩生成一先生の「朱印船貿易史の研究」は有名である。 これらの書物を読むと朱印船の主な出港地が長崎の港であり、更にその朱印船の船主として活躍した代表的人物の 殆どが長崎在住していた人達であった。 そして、その朱印船時代の長崎の港にはポルトガル船、唐人船の入港があり、活気にみち、町の人達は実に自由に 異国趣味のあでやかな生活を送っていた。  当時の長崎の町を歩くとヨーロッパ風の料理やパンを焼く匂い、中国風料理 の匂いとこの町の食生活は実に多彩であった。 長崎の町には今も当時の面影の一部が長崎くんちの奉納踊りの中に伝えられている。それは西浜町の竜船であり 石灰町の御朱印船である。長崎の人達はこの奉納踊りを俗に「アニオさんの通りもの」とよんだ。「通りもの」とは行列のことである。 そのアニオさんとは朱印船時代、安南国(現在のベトナムの一部)より長崎の御朱印船主荒木宗太郎のもとに嫁にこられた安南国王の一族院氏の王女の名のことである。 その王女の嫁入り行列は長崎の人達の目をみはらせるものがあったので、以来長崎の人達は何に彼につけて豪華な行列のことを「アニオさんの行列のごたる」といった。  この王女の嫁入りには安南国より多くの侍女、召使いが一緒に来航し、王女には安南国の料理を朝夕に調理し勧めたという。この安南国の料理の様式が長崎シッポク料理の源流であると説明する人もいる。 2.御朱印船の歴史朱印船の船主が貿易品と共に、我が国へ異国の食文化も運んだ。▲長崎清水寺奉納朱印船絵馬(写)長崎市立博物館蔵 さて、このわが国の食文化の上にも大きな影響を与えた朱印船の始めは豊臣秀吉の文禄初年度頃から(1592年頃) であるとされている。そしてその御朱印船の制度が廃されたのは寛永十二年(1635年)徳川幕府が「我が国人の海外渡航禁止令」を発した時であるので、その間約四十年、大いに我が国の人達が海外に発展した時期である。 朱印船の渡航地は後述する理由で中国の沿岸には立ち寄ることができなかったので、遠くベトナム、カンボジア、フィリピン、台湾方面にと出かけていた。 そして、その朱印船主として活躍した代表的な人物をあげると初代長崎代官村山等安、二代長崎代官末次平蔵をヒットに長崎町年寄高木作右衛門、同後藤宗因をはじめ、長崎商人荒木宗太郎、船本弥七郎、糸屋太兵衛などと共に面白い人物としては当時長崎に在住していた中国の人達やポルトガルの商人達も朱印状をもらって海外貿易に従事していることである。  そして、その朱印船の船主の人達は全て巨万の富をなしたと諸書に記してある。 これらの船主達は貿易品の他に多くの異国の文化を我が国にもたらしている。そしてその中の一つに異国の食の文化も運んできた。3.朱印船が運んできた食文化約一世紀、長崎だけに輸入され、日本の食文化に大きな影響を与えた「砂糖」。▲朱印船舶載トンボ染付碗(昇園文庫) 前述したシッポク料理もその一つである。シッポクという言葉は料理のことでなく卓(食卓)のことである。するとシッポク料理というのは卓で食べる料理という意味であったのが、時代と共に次第に日本風に転じて現在のシッポク料理にまで変化してきたのである。 食卓での食事となれば椅子はどうしたのであろうか、長崎では椅子のことをバンコといった。バンコという言葉はポルトガル語で椅子のことである。初期のシッポクにつくには多分バンコを使用していたのであろう。やがて、そのシッポク(卓)は日本人の生活にあわせて足が短められ現在の円型朱塗のシッポク台になったと考えている。 シッポク料理の時には各自の箸を運ばれてくる料理の器に直接さし入れ、各自の手塩皿にとり食べている。汁物などは器(丼)に各自のトンスイ(陶製のスプ-ン)を料理に差し入れ直接口に運ぶのである。この様式の食事法は従来の我が国の食習慣にはなかったのである。 長崎の人達は盆の十六日、精進落と称して冬瓜と骨つきの鶏の汁を食べたり、夏になると胡瓜と小蝦を汁物にたいて食べる風習は多分に南方より伝えられた料理であろう。 この他、シッポク料理の最後に出される丼(汁物)は、ニモンといって必ずご飯の上にその汁をかけて食べる習慣があり、更にシッポク料理の最後に出される甘い砂糖汁(お汁粉)の習慣はいよいよ南方料理の影を強く感ずる。  次に私が考えてみたいのは、朱印船が航海中に食べた食べ物のことなのである。 朱印船の航海は長崎を出航すると一路南方の目的地に向かって航海し途中の港に立ちよることはなかったのである。その航海は三十日乃至三十五日であったと記してある。  その間の食糧として朱印船に積み込まれた食糧は米、味噌、梅干し、魚や肉の干物、豚の足、野菜とある。この他 水と薪は当然積み込まれていたはずである。 朱印船の大きさとその乗員の人数については次のように記してある。「船の大きさは大小あるが100屯以上 平均268屯」とある。その積荷は「5、60万斤或いは80万斤づつ積申大船」と記してある。乗員数は平均200名前後であった。その2百人前後の乗員の三十日間の食糧となると大変な量であったに違いない。 さて、その帰路の食糧、薪、水は現地のものを積み込んでいる。米は主食とし、調味料としての味噌は南方の味噌であり、野菜類も南方のものを積み込んだに違いない。 西川如見の著書「長崎夜話草」や広川の「長崎見聞録」をみると異国より持ち渡られた蔬菜類として。南瓜(ボウブラ)はマカオ、ルソンより持渡る。西瓜は西域の地より。ジャホはサボン也、蛮国より伝わる。唐菜、高菜、冬瓜、猛宗竹これらみな唐国より持ち渡る、などと記してある。この他「和漢三才図絵」や「本草網目」などをみると多くの蔬菜類が持ち渡られていたことが知られる。  朱印船の積荷の中より食文化関係のものを拾うと次のようなものが、○マニラより   白砂糖、葡萄酒。○東京より   肉桂。○交跡より   砂糖、蜜、胡麻。○カンボジアより   蜜、黒砂糖。 朱印船の時代より我が国の食文化の上に大きな影響を与えた砂糖の輸入が急速に伸びている。 以来砂糖の輸入は朱印船の廃止以後は唐船、オランダ船の輸入品目の中に引きつがれ、我が国で使用される全ての砂糖は、我が国で砂糖がつくられるようになった十八世紀の後半までの間約一世紀、長崎にのみ輸入され、長崎会所の手を経て全国に売捌かれていたので、砂糖は長崎会所経営の重要な財源であった。  この故に長崎の文化は「砂糖の文化」であると言う人もあるほどである。第7回 中国料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第477号【オランダ船が運んだアーティチョーク】

     梅雨寒が続いて、風邪をひいている人もちらほら。季節に応じた食事でみだれがちな体調を整えたいものです。この時季、薬膳の献立では、臓腑のはたらきを高める食材(いんげん豆、干ししいたけ、きゃべつ、カリフラワー、じゃがいも、かぼちゃ、さつまいもなど)、気の巡りを良くする食材(たまねぎ、らっきょう、えんどう豆、そば、オレンジ、みかんなど)、体内の湿を取り除くはたらきのある食材(うど、冬瓜、とうもろこし、小豆、大豆、黒豆、そら豆、はとむぎなど)をよく使います。どれも普段使いの食材ばかり。いつもより意識して取り入れて、梅雨を元気に乗りきりましょう。  梅雨時の身体におすすめの野菜のなかには、いんげん豆、きゃべつ、かぼちゃ、じゃがいも、さつまいも、とうもろこしなど戦国時代から江戸時代にかけて、唐船やポルトガル船、オランダ船が日本に初めて運び込んだといわれるものが少なくありません。長い船旅に耐えられるものだけあって、丈夫で育てやすく、栄養価も高いものばかり。その昔の飢饉のとき人々をおおいに助け、現代人の健康にも役に立っているのですから、本当にありがたい野菜です。  さて、梅雨の晴れ間に散歩に出ると、住宅街の一角に設けられた小さな畑で、背丈が2メートル近くはありそうな巨大なアザミを見かけました。きれいな紫色の花と、ウロコ状の大きなガクがとても個性的。調べてみるとアザミではなく、アーティチョークという西洋野菜。地中海原産のキク科の植物で、日本では朝鮮アザミとも呼ばれているものでした。  アーティチョークは、ハーブの一種。花が咲いたら食用にはならず、つぼみの段階でガクや花芯をゆでていただきます。でんぷん質のホクホクとした味わいで、欧米ではポピュラーな食材だそうです。日本ではあまり馴染みがありませんが、一説には江戸時代にオランダ船が運び込んだのが最初の伝来ともいわれていて、江戸時代中期に栽培された記録も残っているとか。でも、さつまいもやいんげん豆のように庶民の間に広まらなかったのは、なぜ?アクが強いのでゆでるとき塩や酢などでアク止めする必要があったり、ガクを一枚一枚剥ぐのが面倒だったから?栽培上の理由も含め、日本に馴染まなかった理由が気になるところです。  アーティチョークのような渡来野菜のなかには、パセリ(おらんだぜり)、セロリ(おらんだみつば)、クレソン(おらんだがらし)など、別名で「おらんだ○○○」と呼ばれるものがあります。パセリは江戸時代にオランダ船が運んできたといわれてますが、セロリは秀吉の時代にポルトガル船が、クレソンは明治期にヨーロッパから、など全部が全部オランダゆかりというわけではありません。南蛮渡来の文物と同じように、目新しいものは「おらんだ○○○」と呼んでいたのですね。  料理でも、油やカラシを使った、当時としては珍しい調理法、製法のものは「オランダ○○」と呼ばれています。また、ねぎを加えた料理で、南蛮煮、南蛮焼と呼ばれるものは、南蛮人が健康のためにねぎをよく食べていた事に由来するとか。でも、本当のところはよくわからないのが、食べ物のルーツ。食べるときのうんちくはほどほどにして、しっかり味わっておいしくいただきたいものです。          ◎参考にした本/「たべもの語源辞典」(清水桂一 編/東京堂出版)、「薬膳コーディネータ講座・食薬編(テキスト2)」(U-CAN)

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  • 第476号【快速シーサイドライナーに乗って東彼杵町へ】

     長崎駅から大村湾沿いを走る快速「シーサイドライナー」に乗り込んで、東彼杵町(ひがしそのぎちょう)へ出かけてきました。青い車体が爽やかな「シーサイドライナー」は、長崎~佐世保(JR長崎線・JR大村線・JR佐世保線)を走る電車です。先頭車両のどこか無骨な表情が旅情を誘います。  諫早駅を過ぎてしばらくすると、国道34号とさほど離れぬ道筋で大村湾沿いの線路に入る「シーサイドライナー」。このルートは、目的地の彼杵駅(そのぎえき/東彼杵町)まで、長崎街道の彼杵通ともほぼ並んであります。江戸時代、多くの商人や役人、文人墨客が行き交った長崎街道。「シーサイドライナー」が車体をやや海側に傾けながら、ガタン、ゴトンとゆるやかなカーブを描くとき、車窓には江戸時代の旅人たちも眺めた風光明媚な大村湾が一面に広がるのでした。  長崎駅から約1時間で彼杵駅に到着。ちなみに、ひとつ手前にある「千綿駅」(ちわたえき)は、レトロ感漂う木造の駅舎と大村湾を一望する眺めで、鉄道ファンならずとも魅了する人気スポットです(普通列車のみ停車。快速は停車しません)。東彼杵町内でJRの駅がある「千綿」「彼杵」は、長崎街道の宿場町でもありました。いまも家並みなどに当時の風情が感じられます。  ところで、長崎街道はここ「彼杵」の宿から、大村湾を対岸の時津港へ向かう海路もありました。秀吉の時代にこのルートを、禁教令で捕えられ長崎・西坂の丘で処刑されたキリスト教の宣教師や信者らが通りました。その海岸には「日本二十六聖人乗船記念碑」が建っています。  長崎県のほぼ中央に位置し、三方を緑豊かな山々に囲まれた東彼杵町。お茶(そのぎ茶)の産地として知られ、長崎県の茶の生産量の60~70%を占めます。朝霧の立つ山あいの土地を利用した茶栽培の歴史は古く、江戸時代には地元大村藩の特産品となっていたそうです。   苦み、渋みは控えめで、のどごしの良い「そのぎ茶」。道の駅「彼杵の荘」で飲んだセルフサービス(無料)のお茶の美味しいこと!堅実で研究熱心なこの土地の生産者の人柄が育んだ、茶葉を傷めないという伝統の製法に、美味しさの秘密があるようです。これまで数々の品評会で高い評価を得ており、昨年は「日本茶AWARD2014」で、消費者が選ぶ日本一美味しいお茶として「日本茶大賞」を同町の生産者の方が受賞しています。  陸路・海路に通じやすい地の利で、古くから交通の要衝として栄えた東彼杵町。江戸時代初めから明治期にかけては、捕鯨と捕鯨取引の中心地でもありました。鯨肉はこの地域の食文化に根づいていて、いまでも町内各所で販売されています。この辺りでは、お正月の雑煮にも鯨肉を入れるお宅があると聞いたことがあります。道の駅「彼杵の荘」のレストランでは、「鯨入りだご汁」が人気メニューでありました。  東彼杵町は、多良山系に続く山々に囲まれ、「龍頭泉」など美しい渓谷を擁していることでも知られています。豊かな緑と水に恵まれたこの地域には、遥か大昔から人々の営みがありました。その証のひとつとして、5世紀頃に大村湾一帯を統治していた首長の墓といわれる前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。   分け入るほどに自然も歴史も奥深く、興味をそそる東彼杵町。何度でも足を運びたくなる魅力あふれるまちでした。

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  • 第6回 中国料理編(一)

    1.はじめにザビエルが驚いた、日本人の食生活。当時は、雑炊を主とした朝夕2食。▲江戸時代に編纂された「清俗奇聞」食の部 食の文化は異国の文化との出会い・接触によって食事の洋式、味の嗜好などと大きく変化してくる。  一五四三年、初めて我が国に来航してきたポルトガルの人達はヨーロッパの食生活との相違に非常に驚いている。 一五五〇年九月上旬、平戸の港に上陸し、キリスト教の布教のため山口、京都、大分と旅を続けたフランシスコ・ザビエル上人は、その翌年の十二月マラッカに帰りつくと早速ローマに「日本という国のこと」について長文の報告書を綴っている。そして、その中に日本人の食生活について次のように記している。  一、日本の人達は家畜を殺して食べるということはありません。日本の人達はよく魚を食べるのです。  一、米や麦はありますが、その量は少ないのです。野菜は多く良く食べますが、果物は少ないのです。  一、日本の国では聖職者(坊さんや神父達)がもし魚や肉を食べるのをみたら、皆、大いに眉をひそめます。それですから私達神父は絶えず食物を制限する必要がありました。 当時の日本人の食事は朝夕の二食で中食をとることはなかった。慶長の頃(一六〇〇年頃)の一女性の物語を記した古文書「おあむ物語」というのがあり、その中に当時の一般家庭の食事のことが次のように語られている。 朝夕はたいてい雑炊を食べました。それでも兄さんが時々山に鉄砲うちに行かれます時には、朝から菜を入れた飯をたいて弁当にして持たせられました。その時には私達も菜めしをもろうて食べさせてもらいますので、たびたび兄さんに勧めて鉄砲うちに行かれるようにしたものでございます。 当時の神父達の報告書の中にも日本人は野菜を炊きこんだ雑炊を食べているという記録が多く残されている。2.長崎開港当時の食文化日本の食文化は、いつも長崎の町を中心に大きく変化。▲唐船持ち渡りのシッポク用具 ポルトガル船の入港とキリスト教の布教は急速に我が国の食生活を変化させてきた。そのヨーロッパ風食生活は常に長崎の町を中心にして大きく変化していった。 何故ならば、長崎の町は開港九年後には領主大村純忠の手によってイエズス会の知行所として寄進され、町の住民は全てキリスト教の信者であり、ポルトガルの人達は自由に街なかに住むことができた。そして、そのポルトガルの人達の奥さんは日本婦人であったので長崎の町ではパンが焼かれ牛肉の料理もつくられていた。 しかし、一六〇〇年頃になると幕府の命によりキリスト教徒への禁教政策が次第に高められてきたので、キリスト教の教義に深くかかわりのあるものは次第に排除されてきた。このような中で先ずキリスト教に直接関係のあるパンと葡萄酒の使用については注意がむけられた。特にパンの使用については一六四〇年以来は街中で自由につくる事が禁止されている。但し出島オランダ屋敷の蘭人の食糧として必要なパンの製造は許されていたが、それも長崎の街に一軒ときめられ、毎日製造するパンの数もきめられていた。そしてそのパンは一個たりとも日本人に渡すことは許されなかった。3.唐船来航五島や平戸への唐船来航から始まった、家庭料理としての中国料理。▲川原慶賀筆 唐蘭館絵巻 荷揚水門図(長崎市立博物館蔵) 長崎開港前の唐船は五島、平戸、松浦方面に入港している。その船団の中でも五峰王直の名は有名であった。王直は先ず天文年間(一五四一)五島に来航し江川(福江市内)に居を構え、次いで平戸に進んでいる。平戸では松浦隆信が五峰を援助し勝尾岳の東ふもと屋敷を構えさせている。現在、福江市や平戸市にある六角井戸(県文化財史跡地)は当時の唐船の人達が使用していた井戸であると伝えている。そして、その地では多くの唐船の人達が日本婦人を妻にむかえて家庭をもっていたので、それらの家庭では豚や鶏などをつかった中国料理がつくられていた。 長崎開港の当時はキリスト教徒でない唐船の人達は長崎の港に近づけなかったが、前述のように一六〇〇年頃よりキリスト教徒への弾圧が次第に強められたとき唐船の姿が長崎の港に見られるようになった。 しかし長崎の街中にはまだキリスト信者の人達が多かったので仏教徒である唐船の人達は先ず長崎の対岸、稲佐江ノ浦の港を中心にして立神、深堀方面に船づけし荷揚げしていた。 やがて唐船主の欧陽華宇、張吉泉の二人が中心となって航海安全、菩提供養を願って江ノ浦の台地に悟真寺を建立している。時に慶長七年(一六〇三)のことであり、この寺の建立が長崎の町における仏教復興の最初になったと記してある。 元和六年(一六二〇)唐船の人達は自分の手で唐寺興福寺を長崎市内の寺町に建立している。この時代になると唐船の人達は多く長崎の町に移り住み、今までのポルトガル人にかわって長崎貿易の主導権をとり、町中に自由に住むことが許されていたので、唐船の人達の婦人は全て長崎の人達であり、其処での家庭料理は全て中国料理であり、台所の鍋にはシヤンコという鉄鍋がつかわれていた。 先月、私は崇福寺でおこなわれた媽祖祭に招待された。主催は長崎華僑の三山公幇の人達で上供は全て福建の郷土料理との説明であった。私は長崎の唐風料理の参考書として有名な「八僊卓燕式記」や「唐山卓子菜單」の写しをもって出かけ、藩美官総代の解説を聞きながら、その料理の手控えをつくった。そこに私は初期の長崎に伝えられた唐風料理の片鱗を感じからである。  当日の料理メニューを記してみると、一、方肉、長崎地方でいう豚の角煮である。昔は莞菜という野菜を入れて醤油、砂糖、酒で煮込み茴香の粉をふりかける。二、羊兒、山羊肉を大根、里芋、人参などを淡白に漬汁仕立にし丼に入れる。三、炒鶏、この料理は江戸時代長崎で編纂された「清俗奇聞」にも記載してあり、鶏と野菜のいためものであった。四、蟹の油揚げ。五、魚の油揚げに野菜の味つけが上からかけられていた。六、車海老の油揚げ煮込み。七、まて貝の料理で福州地方の媽祖祭には必ず供えられるという。八、卵と野菜の油いため。九、ごまパン。十、最後に米麺の油いための大皿が出た。 昭和五二年三月、私は長崎市立博物館年報十七号に媽祖祭の資料を収録したがその参考資料として崇福寺の古記録「天保六年末八月改媽祖祭要言」も加えた。そこには媽祖堂の上供八盆や宴会用の卓子料理献立が記してあった。その料理には、一、小菜六皿。二、大菜三皿。三、中鉢六皿。四、味噌汁。五、澄免。それに菓子、餅などが記してあった。そして、それが全て精進料理であった。 考えてみると崇福寺は黄檗宗の禅寺であり、江戸時代には禅寺の食事は全てが精進料理であったので崇福寺内の媽祖祭も当然精進料理であったはずであり、現在のように山羊や豚などを上供として登場させたのは明治時代以降のことである。多分にこのことは福建地方の食文化の風習が大きく影響しているものであることが知られている。第6回 中国料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第475号【博多商人と長崎 ~博多・御供所界隈~】

     眼鏡橋がかかる中島川では「紫陽花まつり(5/23~6/14)」がはじまりました。紫陽花に彩られた石橋群は、くもり空やそぼふる雨といった日にこそ、しっとりとした美しい光景を見せてくれます。どうぞ、お出かけください。  先日、長崎から博多へ足を伸ばし、博多駅に近い御供所(ごくしょ)地区のお寺をめぐりました。博多は港町としては長崎の大先輩。長崎は近世に入って歴史の表舞台に登場しますが、博多は古代より大陸に開かれ、港町として華やかな歴史を刻んできました。  博多の歴史を物語る由緒ある寺社が建ち並ぶ御供所地区には、806年に唐から帰ってきた空海が、日本で初めて開いた真言密教のお寺、「東長寺(とうちょうじ)」があります。また、日本に中国(宗)からお茶をもたらしたことで知られる栄西禅師が開創したという日本最初の禅寺「聖福寺」もあります。ちなみに栄西は、帰国の際、長崎・平戸に立ち寄り、「冨春庵」の裏山で茶の種を蒔き、喫茶や抹茶の作法を伝えたといわれています。  博多のまちの中心部とは思えないほど緑豊かな静かな通りが続く御供所地区。その一角にある「妙楽寺」には、長崎ゆかりの博多商人、伊藤小左衛門一族のお墓があります。伊藤小左衛門は博多の豪商のひとりで、長崎がポルトガルとの貿易のために開港してからしだいに発展していく、その初期の頃に活躍。博多時代から続く貿易で莫大な富を得、その財力は外様大名と変わらぬほどであったといわれています。しかし、鎖国の禁を破り、密貿易を行った罪で二代目伊藤小左衛門のとき一族郎党とも処刑されたのでした。  現在の「昭和通り」近くの、かつて伊藤小左衛門の居宅があったといわれる一角に「萬四郎神社」があります。処刑された伊藤小左衛門の子らを祀る神社で、いまは商売繁盛と子どもの健やかな成長にご利益がある神様として、地元の人に親しまれているとのことでした。  『伊藤小左衛門は 船乗り上手 昼は白帆で夜は黒帆 沖のとなかに お茶屋をたてて 上り下りの船を待つ』。これは、対馬に残る民謡で「密貿易の歌」といわれるものです。対馬海域を舞台に朝鮮との商いの様子を唄っていると思われ、伊藤小左衛門に対する島民に羨望のまなざしが感じられます。肥前の津々浦々に貿易船の拠点があったと思われる当時の貿易商。伊藤小左衛門の長崎市中における居宅は、当時、舟が横付けできる海辺の五島町界隈にありました。  伊藤小左衛門に限らず、長崎で活躍した一部の博多商人たちがいかに裕福であったか。寛永13(1636) 年に完成した「出島」造成時の費用は、25人の町年寄や貿易商などが出資していますが、そのなかに、「大賀」、「末次」といった博多からやってきた商人の名があります。この「末次」ものちに密貿易が発覚し処罰されますが、伊藤小左衛門にしても、末次家にしても、巨万の富を持つ豪商でその影響力の大きさを幕府側が恐れて、つぶしにかかったのではないかと推測する人もいます。  ところで、博多「妙楽寺」の近くにある禅宗のお寺「円覚寺」の山門前には、茶道「南方流」の看板が掲げてありました。「南方流」(「南坊流」とも書く)は、南坊宗啓を流祖とする流派で、立花実山(黒田藩士)による『南方録』を秘伝書として護り伝えてきた流派といわれています(『南方録』は、千利休の茶湯を伝える最も重要な秘伝書のひとつといわれるもの。その編集・成立に関しては諸説ある。)。博多には「南方流」が生まれる素地として、早くからお茶の文化があったと思われます。  かつて代官屋敷があった長崎市勝山地区では、茶の湯で使われるような茶碗(16世紀半ばのもの)が発掘されています。当時の博多の豪商等が長崎で茶の湯を嗜み、人をもてなした可能性もあり、それが茶の湯の文化を長崎に伝えたひとつの流れだったかもしれません。  ◎参考にした本/『博多~町人が育てた国際都市~』(武野要子/岩波新書)、『悲劇の豪商 伊藤小左衛門』(武野要子/石風社)、『茶の湯人物案内』(八尾嘉男/淡交社)

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  • 第5回 西洋料理編(三)

    1.幕末と共に長崎の洋風化は進む市街地の遊歩を許可された異国人たちが変えた、長崎の町▲ペトルレゴート社見本皿(長崎市立博物館蔵) 嘉永六年六月三日(一八五三)ペリー提督アメリカ大統領の国書をたずさえ浦賀に来航。  その年の七月にはロシアのプチャーチン三隻の軍艦を引きつれて長崎に入港。  この米国・ロシアの来航に続いてイギリス・フランスの軍艦が来航し幕府に和親条約の締結と開国を求めた。 安政二年(一八五五)これに対して幕府は遅まきながら国防の充実を計り、長崎の地に洋式兵学を学ぶ施設として外浦町西役所内に「海軍伝習所」を設立、旗本と諸藩のの中より、伝習生を募集し、講師陣にはオランダ海軍の士官、下士官を招いた。 このため従来は出島の地以外には自由に市中を歩き回ることを許されなかったオランダ人に対して「市街地の遊歩を許可する」という通達がだされ、又これに続いて奉行はイギリス人、アメリカ人の市街地遊歩も許している。 市街地遊歩を許可された外国人達は店に立ちより東洋の珍しい品々を土産に多く買いこんだ。これに目をつけた長崎の商家の人達は外人専用の土産品を店さきに並べはじめた。 安政五年(一八五八)十二月にはキリスト教徒の発見のため厳格に実施されてきた「踏絵」の執行が止められることになり町の様子も何か次第に洋風化してきた。 その頃、長崎の港に来航したイギリス海軍のオズボンは、長崎の町のことについて次のように彼の著書「日本近海航海日記」に中に記している。 私達は出島に上陸し、それより長崎の地にでて行きました。ある店で我々は顕微鏡、望遠鏡、日時計、定規、物指、時計、ナイフ、スプーン、ガラス器、ビーズ玉、など、皆これらの品はヨーロッパの型にならって長崎の地で作られたものだそうです。 2.長崎の開港居留地には洋館、外国人経営の店。外国人専用の英字新聞も刊行された。▲長崎板画・蘭人酒宴図(長崎市立博物館蔵) 安政六年五月(一八五九)幕府は遂に長崎、神奈川、函館の三港を先ず開港することにした。 イギリス聖公会のリギスン牧師は英語教師の名目で来航してきた。続いてアメリカのウィリアムズ牧師も英語教師の名目で来航し、密かにキリスト教の布教を開始している。 大浦地区の東山手、南山手には外人の居留が完成したので、そこには大勢の外国人、新しく渡来してきた中国人の人達が住むようになった。その大浦地区には、洋風建築が建ち並び外国人の商社、外国人の経営する日用品を販売する店、肉屋、パン屋、バーなどがあり、外国人専用の教会も建てられていた。 梅ヶ崎の海岸道路ができるまでは大浦地区の人達は皆十人町の坂を下り、広馬場、本篭町、船大工町を通り、浜町方面に買物にでかけた。 それ故に本篭町、船大工町の町筋には外国人相手の土産品店が軒をつらねていた。  長崎開港の3年後、プロシャ国の使節として長崎に寄港したオイレンブルグは街の商店の様子を次のように説明する。 長崎の人口は約六万人。日本人の店にヨーロッパの商品も多く並べてある。例えばイギリス製の木綿の反物、マッチ、ガラスのコップ、ブドウ酒の空ビン。動物屋もある。その店には有名な子犬や、珍しい鳥や小動物が篭に入れておいてある。長崎の店には全てヨーロッパ人が好んで買うであろうものが計算されておいてある。そしてそれらの店にはまた日本人には決して必要としないであろうスープ皿、ソース入れ、いろいろな大きな洋皿の一揃えが並べてある。 オイレンブルグはこのとき田上を越えて茂木まで使節の人達と共に遠足している。茂木では村の代表者達が出迎え、そこにはヨーロッパ風に飾られたテーブルが用意され、更にテーブルの上にはオランダの国旗と万国旗が飾られていたと驚いている。テーブルに座ったとき、プロシャの軍艦からつれてきた音楽隊が何回も何回も演奏したと追記している。3.日本の料理店もこの風潮にあわせる。幕末の頃、長崎の料亭で大いにもてはやされた洋風料理。▲青白色硝子腕(長崎市立博物館蔵) 幕末の頃の長崎の料亭は七十軒あり、東西南北の四組にわかれていた。慶応二年(一八六六)奉行所はこれら組員の中より上筑後町迎陽亭杉山村助、西山松森神社境内吉田屋内田重吉(後の富貴楼)伊良林藤屋松尾長之助、出来大工町先得楼本庄与吉の四名を御切紙を以て惣代御用を仰付けている。 これらの料理の料理控帳をみてみると必ず洋風料理の一皿乃至二皿が加えられている。中でも藤屋では従来のオランダ風洋食は二流なりと言って一族の松尾清兵衛を慶応元年二月上海に派遣し更に北京まで出張させてフランス料理を修得させている。  このことにより長之助は佐賀鍋島藩主に佐賀に招かれ清兵衛と共に早速、鶴のブラドを調進したところ大変お褒めにあずかったという。  さらに明治三年八月には鍋島老公が江戸で病気となられ、その薬飼として洋食が第一であるというので藤屋に東京までくるようにとの下命があった。そこで藤屋では四代松尾作市他数名が東京愛宕下藤屋掛屋敷の鍋島邸に伺候しフランス料理を調進している。  藤屋は今の若宮神社横の横田氏の所を玄関に後方は松田氏の庭園付近まであった大きな料亭であったが昭和の初年廃業している。 明治九年十一月二十六日長崎県令北島秀明の着任祝が藤屋で開催されているが、当時の献立が残っている。 料理は本膳にて向付、ひれ椀、向皿、鉢と並び大鉢四皿の中に「牛のフルカデル・野菜付」が加えられている。これが藤屋秘伝のフランス料理であると記してある。 本河内の入口、一ノ瀬にも有名な料理螢茶屋があった。ここでも二代の当主甲斐田政吉は幕末の頃より盛んに洋食を調進し評判のものであった。私が市立博物館に勤務していた頃、螢茶屋旧所蔵のガラス椀や洋皿を多数購入したことがあったが、それらには皆「文久二年流螢舎」と記してあった。文久の頃(一八六一)を頂点に長崎の料亭では大いに洋食がもてはやされていたと考える。第5回 西洋料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第473号【幕末~明治期、英語の学び場だった長崎】

     新年度のスタートに合わせて、テレビやラジオなどの英語講座をはじめた方もいらっしゃることでしょう。これまで何度も中途半端に終わったけれど、あらためてチャレンジしているという方も少なくないはず。いまは、学習法がいろいろあって悩ましいですね。そんなときこそ、限られた学習環境で懸命に英語を学んだ先人達に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。  幕末から明治にかけての英語通訳者といえば、ジョン万次郎(中浜万次郎)がよく知られています。天保12年(1841)出漁中に漂流し、アメリカ船に救助されアメリカで教育を受けて嘉永4年(1851)に帰国。土佐藩、幕府に仕えました。  江戸時代、オランダ語や中国語以外の外国語、とくに英語修得の必要に迫られたのは、このジョン万次郎の時代、幕末になってからです。嘉永7年(1853)ペリー来航は、その大きな引き金となりました。4年後の安政4年(1857)、幕府はオランダ通詞や唐通事たちに英語を学ばせるために、「語学伝習所」を長崎に設けました。翌年には、「英語伝習所」と改称。その後、明治元年(1868)までに、「英語稽古所」「洋学所」「語学所」「済美館」「広運館」などと、数回に渡り名称と場所、教科内容を変えて行きます。これは、激動の世相を反映した結果でありました。また、慶応元年(1865)には佐賀藩が英語教育を目的に「致遠館」を設け、明治元年には、近代印刷の始祖・本木昌造が英語など複数の教科を無料で学べる「新町私塾」を開設しています。当時、日本で英語を修得するなら「長崎」がもっとも充実した環境だったようです。  ところで、ジョン万次郎が帰国したり、幕府が「語学伝習所」を設けたりする前に、長崎には小さな英会話教室が存在しました。先生は、本場のアメリカ英語を話すラナルド・マクドナルド。生徒は十数人のオランダ通詞たちです。この教室の大きな特長は、先生と先生の間に牢格子があったということ。そう、マクドナルドは捕われの身だったのです。  マクドナルドは、1824年アメリカはオレゴン州生まれ。父はスコットランド人で、母はネイティブ・アメリカン。母の先祖のルーツがあるといわれる日本に対し憧れを持っていたマクドナルドは、嘉永1年(1848)捕鯨船での日本への密入国を企て、北海道の利尻島で捕えられました。その後、取り調べのため長崎奉行所へ護送されたのでした。  礼儀正しく教養があり、温厚な人柄だったというマクドナルド。牢越しに交わされるのは、わずかな言葉やジェスチャー。その限られた環境下で懸命に日本の言葉を憶えようとする姿は、世話係をつとめた森山栄之助(多吉郎)らをはじめとする下級オランダ通詞らの心を動かしました。彼らはすでに英語修得の必要性を感じていたこともあり、マクドナルドが帰国するまでの半年ほどの間、日本ではじめてネイティブ・スピーカーによる英会話教室が開かれたのでした。  この教室で、マクドナルドから一目置かれていた森山栄之助は、数年後のペリー来航時やその翌年の日米修好通商条約締結時に通訳として活躍しています。 諏訪神社にほど近い上西山町には、「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」があります。この碑の真向かい辺りに、牢格子越に英会話教室が行われた「大悲庵(だいひあん)」(崇福寺の末庵)がありました。マクドナルド顕彰碑の隣には、通訳業務を通してアメリカとの交渉に命を燃やした森山栄之助の顕彰碑が建っています。幕府は栄之助の語学力と交渉能力に全幅の信頼をおいていたそうです。

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  • 第472号【土地の記憶をたどる(風頭山~伊良林界隈)】

     九州では先週、満開を迎えた頃、東北では開花宣言が出たとたん、春の嵐に見舞われましたが、あなたのまちの桜の様子はいかがですか?この時季、あちらこちらで聞こえてくる桜談義。転勤で各地の桜を見て来た知人たちによると、同じソメイヨシノでも、九州と北陸や東北地方などの寒い地方とでは、印象がかなり違うとか。温暖な九州のものは、おだやかでやさしい表情。一方厳しい冬をくぐり抜けたソメイヨシノは、どこか凛とした美しさで、満開を見上げたときの感動もひとしおなのだそうです。  嵐の翌日、長崎の中心市街地の桜の名所のひとつ「風頭山(かざがしらやま)」へ様子を見に行くと、案の定、花びらをあたり一面に散らしていました。花曇りのなかを行き交うのは花見客や観光客。風頭山の山頂から徒歩で10分ほど下ったところには、慶応元年(1865)に坂本龍馬が結成した亀山社中跡があり、ゆかりの地ということでこの山頂にも、長崎港沖を望む坂本龍馬像が建立されていることから一年を通して観光客が絶えません。  坂本龍馬が率いた亀山社中は貿易商社。ちなみになぜ亀山社中と呼ばれたかというと、近くに亀山焼と呼ばれる窯があったからです。亀山焼は19世紀はじめ頃に、オランダ船に売るための水瓶を製造するために開かれた窯。水瓶の「カメ」が、「亀」に転じて亀山焼と呼ばれるようになったそうです。しかし水瓶の販売は不振で、途中から白磁の陶器に切り替えました。絵付けには、中国から輸入した花呉須(はなごす)という発色のいい藍色の顔料を用い、長崎の三画人と呼ばれた、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門などが描いたといわれています。そうして上質の染め付けを製造していたようですが、残念なことに開業から約60年で廃窯に。奇しくもその年に亀山社中が誕生したのでした。たしか龍馬も亀山焼のご飯茶碗を持っていたはずです。  風頭山の北東側の斜面に位置する亀山社中跡や亀山焼窯跡がある一帯は、伊良林(いらばやし)とよばれる地域です。坂段が縦横に入り組むようにしてあり(長崎はそういうところが多い)、すれ違う観光客たちはみなフウフウ言いながら上り下りしています。それでも同じ道を、亀山社中の若者たちも歩いたのかと思うと、感慨深いものがあります。亀山社中のメンバーは、大里長次郎(近藤長次郎)、陸奥陽之助(陸奥宗光)など数人の正式な隊員ほか総勢20人ほどだったそうです。   同界隈で育った大正生まれのある方が、子どもの頃に聞いた話によると、「亀山社中のもんは荒らくれものが多くて、あんまり好かれとらんやったらしい」とのこと。若くて、血気盛んな彼らのこと。何をしでかすのか怖くて、遠巻きに見ていた地元の人もいたのでしょう。いまとなっては、ほほえましくもあるそんなエピソード。見えない土地の記憶としてこの界隈に刻まれています。

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  • 第4回 西洋料理編(二)

    1.横浜の西洋料理横浜初、洋風建築の西洋料理店。それは、長崎人によって始められた。▲明治初期のビードロ用具 横浜沿革誌を読むと次のように記してある。 明治二年八月、横浜姿見町三丁目に谷蔵なるものが西洋割烹を開業。当時は外国人の供養を目的とし 本邦人は之を嗜むものなし この横浜で最初に西洋料理を創業したとされる谷蔵は長崎県出身の人であったという。その谷蔵のことについて「明治車物起原」には次のように記してある。 横浜西洋料理の祖、長崎県の人大野谷蔵は初め姿見町三丁目に開業、後に今の相生町五丁目に移り開業・・・・ 次に明治五年三月二十三日発刊の横浜毎日新聞には、「西洋料理店崎陽亭」開業の広告が次のように掲載されている。 西洋料理御一人前、金二分より従来馬車道似て渡世士候ところ、類焼後、尾上町二丁目に開業まかり在り御ひいきを蒙り候ところ、今般西洋風家作造営、来る二十五日より開店、風味第一、且つ下直に差上候間、不相度ににぎにぎ敷ご入来、沢山御用仰付られ候よう 願上げ奉り候   崎陽亭利兵衛 この崎陽という言葉は長崎の別称であるので営業主の利兵衛は前記の大野谷蔵と同様長崎の出身者であり谷蔵と利兵衛は同一人物であるという人もいる。そして利兵衛の店は洋風建築であったっと紹介している。これは恐らく横浜における洋風建築の西洋料理店としては最初の物であったと考える。 私はここに、横浜における本格的西洋料理は全て長崎の人達の手によって始められていることに注目している。  これより少し前の文久元年(一八六一)横浜に滞在していたシーボルト父子は横浜における食事のことについて次のように述べている。 私達の横浜での食事はアカリーという黒人ボーイのレストランで過しました・・・・・其の後、私達は今度フランス教会で改宗した上手な料理人を雇うことができましたので大変愉快な食事となりました。 このフランス教会で改宗した人というのは、当時はまだキリスト教禁教時代であったので日本人ではなかったと考えている。2.長崎の西洋料理屋出島のオランダ人に料理見習い。長崎生まれの西洋料理人、草野丈吉。▲自由亭(明治11年建、グラバー園内) 長崎の町で一番早く西洋料理の専門店を開業したのは草野丈吉であったといわれている。 草野丈吉のことについては小冊子の伝記が出版されている。それによると丈吉は天保十年(一八三九)上長崎村伊良林郷次石、若宮神社前で生まれ、少年の頃、出島のコンプラ商人の一人増永文治の使用人として雇われている。このことが丈吉を西洋料理に向かわせる遠因となっている。 丈吉は幼少の頃より働きものでまじめで人と争はず、実に利発な少年であったという。この少年を信頼していた増永氏は、当時としては給料もよく高給とりとしてエリートの職業であった出島に居住していたオランダ人の使用人に丈吉を推挙している。 その出島での丈吉の働きぶりには大いにみとめられ、やがて在オランダ公使のゼネラル・デヴィットの使用人となった。公使デヴィットは丈吉がオランダ料理を研究したいという目的を知って、当時長崎に入港していたオランダ船セロット号の調理師見習いとして推挙している。ここでも丈吉は彼が真面目が大いに認められ、オランダ語を身につけ、横浜、函館と各地を廻り、めきめきと西洋料理の腕を上げ、外人はみな丈吉の料理を称賛したという。 これに自信をえた丈吉はデヴィット公使の許可で知人となった五代友厚に西洋料理専門店開業のことを相談している。友厚は丈吉に「これからの時代はきっと西洋料理を注文するものがふえてくるであろう」と言って開店開業のことを進めたと草野丈吉伝は記している。 五代は後に明治初年を代表する大実業家となった人物であるが当時は長崎海軍伝習所に学び薩摩藩を代表する一員として活躍していた。 この五代と丈吉の出会いは、後に五代が外国事務局判事・大阪府判事となったことにより丈吉の西洋料理の大阪進出への端緒となっている。3.草野丈吉の開業。グランド将軍や内外の賓客が訪れた、本格的洋風接待所「自由亭」。▲西洋料理発祥の碑(グラバー園内)文久三年(一八六三)丈吉は前述の伊良林若宮神社前の自宅に少しばかり手を加え、屋号を土地の名に因んで良林亭とよんだという。然し渡辺庫輔先生の「幕末長崎料理屋名寄」には東組の中に「伊良林郷 草野屋丈吉」とあり、慶応三年(一八六七)の名寄には「伊良林 自遊亭丈吉」とある。  草野屋(良林亭)時代には店の前に次のような張り紙がだしてあったという。料理代 御一人前金参朱 御用の方は前日に御沙汰願上げます。 但し六人以上の御方様はお断り申し上候。 部屋は六畳一間で椅子がなかったので酒樽を使用し、洋食器も六人以上は不備であり、使用人もなく、丈吉はコックとボーイ役を兼ねて一人で走り回っていた。 料理代三朱といえば、一両の3/16である。一両を現在の七万円とすれば三朱は一万三千円位となる。しかも店は伊良林若宮神社前という山の中腹にあって人力車も行かず、電話のない時代に前日より予約して御来店下さいというのであるから、西洋料理一皿を食べるのも大変であったと考える。然し、それでも丈吉の店は繁昌していたのである。  これは丈吉が外国人接待用のターフル料理を、要望に応じて其の処に出むいて調達していたからである。翌々年丈吉は店を自宅の下方でより便利なところに移し、店も広め料理代も一朱としている。今も土地の人達はこの場所をジュテイとよんでいる。 明治十一年丈吉は長崎市馬町諏訪神社前に進出、立派な洋風建築を新築し店名を自由亭と改称、長崎を訪問する各国賓客の本格的洋風接待所として活用している。その故に自由亭はアメリカ大統領グランド将軍をはじめイタリヤ、ギリシャ、ロシヤの賓客が次々と訪れた記録が残されている。 さて、丈吉が用意した料理の献立については殆ど記したものをみないが他の資料より考えて料理名をあげると、 牛のソウパ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒーなどにカステラ、カスドースなどの洋菓子がつけられていた。 丈吉は商業都市大阪への進出を契機として、前述の五代友厚後からの力をかりて明治二年大阪川口梅本町に外人止宿所(ホテル)を完成、翌三年にはこれを自由亭と改称、丈吉は大阪府料理御用達を命ぜられている。 明治九年、京都で博覧会が開催されている。丈吉は、このとき祇園二軒茶屋にあった藤屋が廃業したので早速その跡地を買収、ホテルと西洋料理専門店を開業、屋号はそのまま藤屋といっている。 当時の料理の代金は「上等五十銭、中等二十七銭五厘、下等は二十五銭」であった。第4回 西洋料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第471号【雨の石畳を歩く(東山手・南山手界隈)】

     西日本では3月中旬から4月にかけて、どこか梅雨を思わせるような天候が続くことがあります。「菜種梅雨」とも呼ばれるこの雨は、シトシトと降り続けるのが特徴ですが、気のせいか、ここ数年はドシャ降りが多いように感じられます。手元には、やさしい雨に濡れるオランダ坂の古い絵はがき。その風情を見たくて、幕末~明治期に外国人居留地だった東山手、南山手界隈へ出かけました。  路面電車に乗り、「市民病院前」電停で下車。絵はがきにあったオランダ坂は、そこから徒歩3分です。近くには旧長崎英国領事館の煉瓦づくりの建物があります。そぼ降る雨にうたれる石畳の上をカラフルな傘をさし、タブレットやスマホ片手の観光客が行き交っていました。幕末の開国にともない外国人居留地として街並が造られたこの界隈。石畳の通りの先々には、明治期に建てられた洋館が点在しています。地元住民には見慣れた風景も、やはり観光客の方々にとってはハイカラな歴史をかもす異国情緒は特別な感じがするようです。「初めて来たのに、懐かしい感じがする。不思議よね」という方がいました。雨にもかかわらず、熱心に観光案内の立看板を読む人や写真を撮る人の姿が絶えませんでした。  ブルーグレーの外観が印象的な東山手甲十三番館(国登録有形文化財)は、かつてフランス領事館として使用されたことがありました。ご近所にあるクリーム色をした東山手十二番館(国指定重要文化財)は、ロシアやアメリカの領事館として使用されました。また外国人向けに洋風にしつらえた東山手洋風住宅群(7棟)もこの界隈の異国風な景観のひとつになっています。そんな東山手を通り抜け、南山手にある大浦天主堂へ向かいました。  現存する日本最古のゴシック建築様式のカトリック教会で、国指定の重要文化財である大浦天主堂。1859年の長崎開港後にやってきたヒューレ神父によって建築が計画されました。完成し献堂式が行われたのが1865年2月。当時は「フランス寺」と呼ばれ、見物人が絶えなかったといいます。とはいえ、まだキリスト教の禁教令下にあった日本。献堂式にはフランス領事をはじめ、各国艦船の艦長や居留地の外国人らが正装して出席するなか、長崎奉行は招待を受けたものの、参列を断っています。  その日から約1ヶ月後の3月17日。約250年もの間、信仰をひそかに守り伝えてきた浦上のキリシタンが、祭壇前で祈っていたプチジャン神父に近付き、耳元でそっと自分たちの信仰を打ち明けます。「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」。プチジャン神父はその夜、「信徒発見」の大きな感動を手紙にしたためローマに送りました。そのニュースは瞬く間に世界中に伝えられたのでした。   「世界宗教史上の奇跡」ともいわれる大浦天主堂での「信徒発見」。先週3月17日は、その日から150年を迎えました。大浦天主堂では早朝から7回の記念ミサを行っています。新聞報道によると、法王の特使をはじめ国内外の神父や信徒が参列。さらに、宗派や宗教を超えて聖職者などが参列し、一緒に世界の「平和」を祈ったそうです。それは、宗教弾圧、被爆という哀しみを知る長崎の切なる願い。このまちを象徴するかのような光景であったに違いありません。

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  • 第470号【立山界隈のキリスト教関連史跡】

     長崎市街地のせまい路地裏を歩いていたとき、ふと鼻先をかすめた沈丁花の香り。夜気に漂うその香りの印象的なこと。「春のいろいろな別れや出会いが呼び起こされて、ちょっとせつない気持ちになる」と言った人のことを思い出しました。  ときおり厳しい寒の戻りがあるものの、日中、陽当たりのいい場所へ出てみるとスミレ、そして西日本で多く自生するというシロバナタンポポが咲いています。北国で春を告げる花として知られる辛夷(こぶし)も満開です。一方、ニュース映像で見る東北は、まだまだ冷たい風が吹いています。ささやかですが、一足早い九州・長崎の春の花を画像でお楽しみください。  春の花たちは今月初め、長崎市の立山界隈を散策したときに出会ったものです。立山は長崎の歴史を語る上で欠かせない特別な場所で、楠の巨木など樹木が生い茂るこの土地には何かを引き寄せる力でもあるのか、長崎が貿易港として歴史の表舞台に登場するずっと前には大きなお寺があったといわれ、南蛮貿易時代には「山のサンタ・マリア教会」、禁教令によって教会が破壊されたあとは、「長崎奉行所立山役所」が設けられるなど、時代に応じて重要な役割を果たす建物がありました。  明治維新後も公的な施設が置かれ、現在は「長崎歴史文化博物館」、「長崎県立長崎図書館」があります。この界隈の歴史は日本の近世・近代に大きな役割を果たした長崎の政治、経済、文化が複雑にからみあい凝縮され、ひもとくのは容易でありません。なので、散策で出会う史跡も南蛮貿易時代から現代までの数百年を何度も行き来するので混乱してしまいます。  今回はキリスト教関連の史跡を2つご紹介します。ひとつめは「長崎歴史文化博物館」の目の前にある「サント・ドミンゴ教会跡資料館」。桜町小学校の一角に併設された資料館で、1609年に建てられた「サント・ドミンゴ教会」の地下室や井戸の遺構を見ることができます。花十字紋瓦や長崎市内で発掘された当時のメダイや十字架などのキリスト教関連の出土品も展示。長崎でキリスト教が栄えた時代の遺構はあまり残されていないなか、たいへん貴重な施設でもあります。  現在は、埋め立てられこの辺りの南蛮貿易時代の様子は想像しにくいのですが、当時は、すぐ近くに舟が着く入り江がありました。この資料館のそばにある「八百屋町通り」は長崎で最初につくられた石畳の通りだったと言われ、江戸時代初めまでこの界隈にいくつかあった教会や教会関連施設へ運び込む物資が往来したといわれています。現在の通りはアスファルトに覆われてしまっているのが残念です。  「八百屋町通り」近くには、「西勝寺」があります。西本願寺の末寺として1632年に創建された「西勝寺」。禁教令後も転宗しないキリシタンが多くいた当時の長崎で、転宗させその証文を取って奉行所に提出していました。このお寺には、証人のひとりとして「忠庵」の名が記された証文の写しがあります。「西勝寺文書(キリシタンころび証文)」(非公開/長崎県有形文化財)と呼ばれるもので、書き損じたため寺に残ったと言われています。  「忠庵」とは、元イエズス会宣教師のフェレイラ神父のこと。1609年に来日し、24年間も日本で布教活動を行っていましたが、長崎潜伏時にとらえられ拷問の末に棄教。その後、日本名「沢野忠庵」として長崎奉行のもとでキリシタンを取り締まる側になった人物です。その忠庵も行き来した立山界隈。同じ場所を歩いても、彼の苦悩は想像を絶し、推し量ることなどできないのでした。

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  • 第3回 ターフル料理編

    1.その名前の事ターフルとはオランダ語のTable。テーブルで食事をするという意。▲グラバー園内旧オルト邸(国指定重要文化財) 寛延三年(一七五〇)、長崎奉行所に江戸より赴任していた小倉善就の父某の撰と記してある「紅毛訳問答」に、オランダ通詞より聞いた言葉として次のようなことが記してある。 一、シッポクと唱候は蛮語にて候哉 紅毛にはシッポクという言葉なし、紅毛にてはターフルと申候、シッポクはいづれの語たること、審ならず。  ターフルという言葉はオランダ語のTableという言葉からきている。ターフルは英語のテーブルという意味である。  すなわち、ターフル料理というのはテーブルで食事をする意味である。 その昔、長崎の人達はシッポク料理という言葉をつくりだしている。そのシッポクという言葉については、故古賀十二郎先生の研究論文中に次のように記してある。  シッポクとは東京(トンキン)語にて卓のことである。  トンキンというのは現在のベトナム国内の一都市の名であるが、昔はその地方の王国の国名で、そこの国王の名を阮氏といった。 それでは何故、そのような東京地方の言葉が長崎に伝えられ、シッポク料理として現長崎の名物の一つになったのであろうかと疑問を持たれる。それには、初期長崎の唐船貿易のことから考えてゆかねばならない。当時長崎の港から出発した貿易船を御朱印船とよんだ。御朱印船は多くベトナムを中心にして活躍した。中でもその中心地はトンキン王国であった。長崎の御朱印船主の一人に有名な荒木宗太郎がいた。宗太郎はトンキン王の信任をうけ遂に国王の娘アニオさんをお嫁にいただいた。宗太郎はアニオさんをつれて長崎の町に帰ってきた。そのアニオさんの上陸の行列は人々の目をみはらせ、今も「長崎くんち」の奉納踊りにその面影を残している。それは昨年石灰町が「くんち」に奉納した豪華な御朱印船入港絵巻にもあらわれている。 そのようにトンキン地方の文化は異国趣味の文化として急速に長崎の人達に大いに歓迎された。その中の一つに卓を囲んで食べるシッポク料理があった。この食事法は、これまでの我が国にはなかった食事法であり、料理であったので、人々は驚きの目をみはって食卓についた。やがてこのシッポク料理は江戸にまで流行していったのである。  このシッポク料理にかわる洋風の新しい様式の食事法・料理として長崎の町に登場したのがターフル料理なのである。2.新しきものオランダ人を持て成すために用意。出島オランダ屋敷の蘭料理。▲グラバー園内旧グラバー邸の食堂 ターフル料理は先ず出島オランダ屋敷の料理を基本としている。  このターフル料理の名前が長崎の文献にあらわれてくるのは安政初年頃(一八五四~)からである。はじめは蘭料理として記してある。安政四年(一八五七)四月の佐賀藩の記録の中に、 蘭船将其の他六人。ストークル三人え蘭料理御馳走おうせ付られ、右手当として十六日鵬ヶ崎え持出、給仕も相頼まれ申候。  また、同四月二十日の記録には当時用意された料理名が次のように記してある。  蘭料理鶏ケルリイ、豚フルカテル、豚ヒストック三種ならびに蘭酒二本、但し銘酒とシャンパンヤ このことより考えて最初に蘭料理を必要としたのは各藩が出島のオランダ人と商取引の関係上オランダ人を招待する必要があり蘭料理を用意したのである。佐賀藩はことに長崎港の警備役を兼ね長崎奉行所との交渉も親密であり、当時すでに安政二年(一八五五)十月には長崎西役所内(現在の県庁)に海軍伝習所が発足し、そこの教官としてファビウス以下二十名のオランダ士官・下士官が在留した。かくてオランダ人に対しては、出島を出て市街遊歩の事が許可された。又当時の佐賀藩主鍋島閑叟公は特に様式兵学の取り入れに力をもちいていた必要上、このようなオランダ士官との交渉の場を設けたのである。 当時の長崎の町にはまだ蘭料理の調理に堪能な人は前回のべたオランダ屋敷内の料理人三人以外にはいなかったので、佐賀藩では前記のように三人のオランダ人にその調理を依頼したのである。  安政六年(一八五九)正月、長崎奉行所「御用留」の中にロシア人が対岸の稲佐に上陸を許され酒宴を開いた模様を記し、その料理を「タアフリ料理」と記してある。翌安政七年十月五日の出島「万記帳」の中にも長崎奉行所目付役小倉九八郎が出島を訪ね、カピタン部屋でターフル料理を差し上げたと次のように記してある。  小倉様カピタン部屋にお入りなされ、御茶御煙草盆ターフル差上く、暫く御滞在、夫より出島商人の見世ご覧なされ候。 この時のターフルは簡単な洋風料理か菓子などであったと考える。3.ターフル料理は変化した。長崎西洋料理の始まりは、居留地の外国人の為の食料調達から。▲シーボルトが諫早候に送った酒瓶セット(長崎市立博物館蔵) 安政六年(一八五九)の開国と同時に長崎の町の様子は一変した。今までのオランダ人のみでなくアメリカ、フランス、イギリス、ロシアの各国の船が長崎に入港し、大浦方面には居留地や各国領事館がつくられ、外国人の食料として、「牛とき場」(屠刹場)が戸町海岸に文久二年(一八六二)官許によってつくられた。  これが我が国における官許の牛屠刹場のはじめである。イギリス領事館はこのとき奉行所に「食料として一年に牛五拾頭は確保しておいてもらいたい」と申しでている。これは、日本側が農耕用としている牛を外人側に差し出すことをあまり歓迎しなかったからである。 安政五年(一八五八)イギリス領事館開設準備のため長崎に渡ってきたホジリン氏の婦人は、彼女の書簡の中に当時の西洋料理事情を次のように説明している。長崎の地にはミルクもバターもありません。私たちは上海から食料用の羊を積んでいましたので、それを食べてどうにか過ごしました。牛肉を食べるのは困難です。私たちは上海からつれてきた中国人が早朝から出かけて九時頃やっと帰ってきて、すこしばかりの鳥や魚をもってきます。時にはこの中国の料理人が少しばかりの豚肉をさげてきて私達に自慢するのですが、これは私達の目からみれば食用にならないものが多いです。 次に彼女の文章をよむと、卵だけは充分にあったので毎日オムレツを食べたこと、外国船が入港したときには塩漬の貯蔵肉が手にはいるのでそれでカレーを作って食べたことが記してある。  さらに果物のことも記して、「日本の果物は早どりするので全てが固いので私達は二、三日おいてから食べます」と言っている。その果物は、香りのないメロン、かたい杏、石梨、かたい桃があったという。香りのないメロンというのは西瓜のことであろうか。 ここに安政六年に上海から入港した外国船の積荷の控がある。その中より食料の部を拾うと次のようなものがあった。 塩豚肉、酢、麦粉、パン、砂糖、豆、豌豆、ハム、干リンゴ、飲物 次に、居留地内の外人宅に日本人が次第に使用人として雇われるようになってきた事、外国人が必要とする食料を長崎の人達が調達しはじめてきた事は、長崎の人達をターフル料理に目をむけさせてきた。やがて、この外国人雇の日本人使用人の中に、西洋料理を学ぶ人達があらわれてきた。やがて長崎の人達は、一度は是非この西洋料理なるものを口にしてみたくなってきた。第3回 ターフル料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第469号【春めく、中島川】

     ときおり訪れる小春日和。江戸期発祥の石橋群が架かる中島川沿いを歩けば、真冬にはなかなか姿を見せなかった鳥たちが元気に水辺を飛び交うようになりました。年中見かけるアオサギも、春めくなかで気分が良さそう。観光客が集う眼鏡橋から徒歩5分ほどの上流にかかる桃渓橋(ももたにばし)あたりでも、川面を素早く飛翔するカワセミの姿がありました。翡翠(ひすい)のような美しい色をしたカワセミは、渓流などに棲むと思われていましたが、いまではまちなかを流れる各地の川で見かけるようになったといわれています。川の水がきれいになったからなのか、エサを求めてなのか、その理由はわかりませんが、鳥たちがのびのびと暮らせるよう見守りたいものです。  早春の気配が漂いはじめる1月下旬~2月初旬、長崎県下では各地の海岸でアオサ摘みがはじまったというローカルニュースが流れます。深緑色をした海藻のアオサは、水洗いして乾燥させ、お吸い物や味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。実は同時期、眼鏡橋のひとつ下流に架かる袋橋のたもとでも鮮やかな緑色をした海藻が目立つようになるのですが、よくよく見てみるとこれがアオサだったのです。  眼鏡橋あたりまでは、長崎港の海水と混じり合うところなので海藻が育っても不思議ではありません。早春の風物詩で、食卓に潮の香を運んでくれるアオサですが、さすがに中島川のそれを食するのは衛生上の問題がありましょう。また、ある漁村では原因不明の大量発生をして水質悪化につながり、漁師さんたちを困らせたこともあったとか。とはいえ、川の流れのままに揺れる深緑色はとてもきれいです。毎春この光景を楽しめますように。  その中島川はいま「長崎ランタンフェスティバル」の装飾に彩られ、黄色のランタンの下を連日大勢の人が行き交っています。今年も春節の休暇を利用して来た中国系の観光客の姿が目立ちます。袋橋の上は、上流の眼鏡橋を入れてランタンの写真を撮ろうとする彼らでいっぱいでした。  中島川沿いの散策を終え、中国語が飛び交うなかをくぐり抜けるようにして帰る途中、商店街で地元産の春キャベツとシマアジを購入。今夜は、白身魚の「ゴーレン」に春キャベツを添えていただくことに。「ゴーレン」は長崎の郷土料理のひとつで酒やみりん、しょうゆで下味をつけた白身魚(または鶏肉)に衣(小麦粉か片栗粉)を付けて揚げたものです。衣に甘味(砂糖)を加えて揚げるいわゆる「長崎天ぷら」とは別物です。   「ゴーレン」の語源は、ポルトガルやオランダにはないといわれます。東南アジアに「ナシゴーレン」という料理がありますが、そこでいう「ゴーレン」は、「炒め物」を意味するとか。江戸時代、出島には東南アジア出身の人々がオランダ人に付いて働いていましたから、そこらへんに長崎料理の「ゴーレン」の語源はありそうです。またキャベツも江戸時代にオランダ船が長崎に運んできたのがはじまりといわれます。今夜も長崎ゆかりの食材を、ありがたくいただきたいと思います。

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