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  • 第14回 長崎料理編(五)

    1.箕作阮甫(みずくりげんぽ)の長崎紀行ロシヤ正使の特別随員として長崎往来、蘭学者 箕作阮甫の手記「西征紀行」。▲ポルトガル色絵鉢 先年、岡山県津山市の木村岩治先生より同地出身の有名な蘭学者 箕作阮甫(1799~1862)が江戸より長崎往来の手記の原本「西征紀行」を編集発刊去れ其の一冊を御恵送いただいた。  阮甫先生が長崎に下向してきたのは嘉永6年(1853)の暮れであった。それは同年の7月ロシヤのプチャーチン一行がアメリカのペリーの浦賀入港に続いて、長崎の港にロシヤとの開港をせまり、且つ樺太の領土問題について交渉をする目的で来航してきたのである。  幕府はこのロシヤ使節に対し10月勘定奉行で外国通の川路聖莫を正使とし、阮甫を特別随員として任命し長崎下向を命じたのである。 阮甫は同年の10月30日、助手として門下生の中より後に兵学者として名をあらわし明治政府時代には陸軍幼年学校長となった武田斐三郎(あやさぶろう)他5人の従者を引き連れ、江戸鍛冶橋の自宅を朝七ツ時に出発している。朝七ツ時といえば、現在の午前8時頃である。 一行は中仙道を通り11月16日京都を過ぎ、夕方・高槻富田の宿(現在・高槻市富田)に泊まっている。かくて12月3日一行は小倉に到着、それより陸路長崎街道に入り12月8日夜七ツ時長崎の街に到着している。  其のようるは夜は長崎代官高木氏の中島の治にあった別邸に泊まっている。翌9日の日記には「雨のち晴れ、昨日来寒甚し。」それに続いて「我等主従7人、狭き室におし込められ、御用長持、駕篭、づづら、兩掛、葛羽篭に至るまで置く余地なければ別に一所を求む。」その願いにより一行は寺町三宝寺座敷とその控の間を宿舎として与えたれている。2.長崎の豚肉ブドー酒からスキ焼き、中華菓子まで阮甫が味わった長崎の食文化。 私はこの「日記」の中より「長崎食の文化」の関係を取りだし考えてみることにした。 12月11日夜食のとき阮甫は斐三郎と共に豚肉を賞味し「さすが長崎の豚肉は江戸の豚肉とは大いに異なり美味にして柔らかなり」と言っている。そしてその理由は「中国、オランダ人のために豚を土地の人達が長年飼育に勤めたからであろう」と記している。 13日再び阮甫は斐三郎と共に豚肉を賞味している。今回は長崎には豚肉を使った「ソボロ烹」という料理があると聞いているので其の料理を頂きたいと言っている。そして其の料理法を阮甫は次のように記している。 先ず鍋に豚の脂をとかし、次に豚肉をその油でいためる。それに細長く刻んだ椎茸と長さ3.4寸ばかりの豆芽(もやし)を多く入れ、方形に薄切りにしたるコンニャク、唐人菜少しばかりを加え、薄醤油にて味つけしものにて、甚だ口に可なり。※ソボロ烹は長崎地方の方言で中国料理の「繊羅蔔」を語源としていると古賀十二郎先生は長崎市史に述べておられる。 繊羅蔔とは千切り大根のことであり、それを油炒めした料理のことであろう。 12月19日には鮫屋宇八が贈った「シッポク料理を斐三郎と共に食べロシヤ人の事を談ず」と日記にはある。 然し、シッポク料理についてはその感想を記していない。 12月2日は、肥前鍋島公より野鴨一羽を料理して供さる。黄昏より酒飲む。3.ロシヤ船に招かる▲スペイン花模様皿 12月7日朝。西役所に至り、それより川路公を始め長崎奉行の一行と共にロシヤ船バルラス号に葵の紋をつけた御用船に乗ってでかけている。船上ではいろいろの事があり、其の後船室での小宴があった。その模様は次のように記してある。 座にもどれば侍者酒肴を勧む、一々記するにゆとしなし。シャンパン(酒)、リンスウエイン酒(白ブドー酒にして酸味あり)等は其の美なるものなり。・・・・・酒おわりて各々に一画幅を贈らる。余には洋画の山水人物図を贈らる。 12月27日、先日来のロシヤ使節一行の対応ですっかり疲れたので、ここらで一杯やろうという事で三宝寺の近くに「一力」という料亭があったので其処にでかけることにした。 「一力」に至ると酒も用意できぬうちから次々と来客があった。福岡藩黒田公の使者として永井太郎が藩公よりの贈物として博多帯2筋を持参された。次に長州藩三田尻の洋学者で余の門に学んだ田原玄周が訪ねてきた。相共に対酌す。舞ひめ1人を召す。痛飲して帰る。 12月29日、年の暮れであり、且つ年あけと共に我等一行は江戸に引き上げるというので名残の一席を思い立ち先ず第一に松森天満宮にある有名な料亭吉田屋(現在の富貴楼)に至る。年の瀬で満席であるという。次に、これも長崎第一の有名な筑後町聖福寺門前の料亭迎陽亭に至るも此処も同様に客に謝す。岐路一酒店にて一酌す。酒たけなわ、玄周・斐三郎ら余を無理に丸山に拉して行く。丸山にては花月楼に上る。 「文徴明の題字あり、宅地は広々としており屋宇華壮。山に依り水に面す。然し妓女全て田舎むすめにて、江戸より来れる人の目にはあやしく見ゆ」と記している。 嘉永7年1月1日、雨、雨を冒して奉行所に至り川路公ならびに長崎奉行に新正を賀す。午后より宿舎三宝寺にも来客あり豚肉を買う。午后より軒端に出でて酒酌みかわし海外の事情など談ず。歌妓阿玉といえるを召し席にて待せしむ。 1月4日、川路公と共にロシヤ船に招かる。ロシヤ船に近づけば鼓楽おきて我等をむかう。ロシヤの人々甚だ打ちとけ色々もてなしぬ。船上では幻灯もみせてもらい、小宴あり。  マデイランウエイン(madrawynポルトガル・マデイラ島産の白ブドー酒)。酒の肴には鯛のむしたるに酪(牛乳クリーム)をかけたるもの甚だ美味。カステラに酪に砂糖を和したるものを糸のようにして上にかけてあるもの甚だよろし、本日のパンは堅くてよからず。4.長崎見物▲古伊万里赤絵沈香壺(長崎純心大学博物館蔵) 1月5日早朝、ロシヤ船は長崎を出港していった。この日、阮甫は奉行所に至り仕事をすませ用人部屋に控えていたとき、先日ロシヤ人が奉行所に贈呈した牛肉を持ちこんできた。  この牛肉は先日プチャーチンが年賀の品として奉行所に送ってきた物で牛の4分の1ばかりの肉を白布で包み、白木の台に乗せてあったという。日本側では其の返礼として鮮鯛一折を贈ったという。 阮甫の日記には此の拝領した牛肉をスキ焼きにして食べたと次のように記してある。 ロシヤ船將より上(たつまつ)れる牛肉を余輩のため松前の犂(すき)にて烹(に)で一盃を勧む。長崎に江戸より来りてロシヤ牛肉を松前のスキにて烹るとは人生の一奇事なるべし。 ※犂とは牛に挽かせる農具であるが何故松前のスキで牛肉を烹たのであろうか。これがスキ焼きのはじめであろうか。 1月13日、川路聖莫公が折角、長崎に来たのであるからというので長崎の各役所を訪ね、其の日の最後には出島オランダ屋敷を訪ねている。 日記にはこのオランダ屋敷訪問のことが事こまかに記してある。その中より食関係を拾うと・・・ 台(ベランダ)より室に入る。酒食を供せらる。一はアネイス酒(anijs)次にパステイという菓子を勧む、表はカステラの如く内にアンを入る。それを良き程に切りて出したるもの、甚だ美ならず。 三、白ブドウ酒。四、シトルーウェイン(ブランデー)。五、パルヒタモール。此の酒もっとも香りたかく強烈、色は紅色、フランス製という。其の間に此の酒にひたしたる物、海藻実の密漬を出す。更に洋紙の花紋ある小方型の両端に五食の糸で編んだ飾りをつけたものに菓子を入れて出す。菓子は五寸ばかりの白色の砂糖菓子が入れてあった。この宴が終わってカピタンが出てこられた。  1月14日、川路公に従って筑後町聖福寺、福済寺に参詣、唐人屋敷に至った。  唐人屋敷内では天后堂に参詣し、明日(旧1月15日)媽祖堂に供えられる珍しい有平(アリヘイ)菓子をみる。次に唐船主に招かれ会館にて茶菓の接待をうく。  最初に月餅とおこしが運ばれ、次にカンラン(オリーブ)と蓮の実の砂糖漬を湯にひたした飲物、次に蓋茶碗に茶葉を入れ、其れに熱湯をそそぎて勧められる。と記している。 1月18日、阮甫は長崎に留まること凡そ40日と記し長崎を出発している、彼の日記には公務にて毎日が多忙にて長崎の風景を探る閑なしと記している。  阮甫は其の夜に大村まで駕篭を進め宿をとっている。第14回 長崎料理編(五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第491号【冬の海の幸(寒ブリ、ナマコ、カキ)】

     「ブリ大根」がおいしい季節です。「寒ブリ」は脂が乗り、大根も寒さのおかげで甘みが増しています。食堂のお昼の日替わり定食で「ブリ大根」を食べながら、「やっぱり、長崎の魚や野菜って最高よね!」と一緒にいた知人に言うと、「いやいや、野菜はさておき、魚は北陸のほうがおいしいかも。それにね、ブリ大根といえば、富山県よ。富山湾沖で取れる寒ブリで作ると、すごくおいしいんだから」と、のたまう。知人はかつて富山県で暮らしたことがあり、北陸方面の歴史や食についても詳しい。聞けば、「ブリ大根」は富山県氷見市の代表的な郷土料理のひとつなのだそうです。  知人によると、氷見市の郷土料理には「氷見うどん」といって、「五島うどん」に似た細いタイプの乾麺もあるそうです。「氷見うどん」は、江戸時代に同じ北陸の「輪島そうめん」の製法が伝わり作られるようになったらしい。「氷見うどん」と「輪島そうめん」、そして「五島うどん」は、麺を手で縒りながら竹にかけていくという製造工程が同じだそうで、その昔、海道を通じて「五島うどん」の製法が輪島に伝えられたのではないかという説もあるそうです。  さて、件の「ブリ」ですが、ご存知のように出世魚。氷見では、「コズクラ」、「フクラギ」、「ガンド」、「ブリ」と成長に応じて呼び名が変わります。長崎では、「ヤズ」、「ハマチ」、「メジロ」、「ブリ」の順でしょうか。ほかにも地域によって呼び名がいろいろあるようです。また、長崎ではブリは養殖も盛んです。魚屋さんの話では、養殖ものは「ハマチ」、天然ものは「ブリ」と呼び分けているそうです。  寒ブリに限らず、この季節の魚介類は寒さに鍛えられ、ひときわおいしそうに見えます。たとえば、クロ(メジナ)もこの時期は「寒グロ」と呼ばれ、脂がのりおいしくなります。そして、ナマコ。荒れた外海の影響を受ける五島産のアカナマコはコリコリとした食感。波静かな大村湾のアオナマコは少し柔らかい歯ごたえで、アカナマコとは微妙に違います。ナマコは、新陳代謝を促進し、お肌にもいいといわれるコラーゲンやコンドロイチンをはじめ、ビタミンB群・Eや、カルシウム、亜鉛などの栄養成分がバランス良く含まれています。滋養強壮にもおすすめです。  また、有明海や大村湾、橘湾などでとれる養殖のカキもいまが旬で、それぞれの産地の道路沿いではカキ小屋が立ち並ぶ光景がみられます。カキは、ビタミンやミネラルが豊富。薬膳的には、体質を改善したり、免疫力を高める食材のひとつとされ、めまいや耳鳴り、不眠や空咳などにも効果があるといわれています。   食いしん坊の女ふたりが、この時期の魚介類の話で盛り上がった昼飯の時間。「ブリ大根」でお腹も心も満たされると、「長崎と北陸の魚、どちらもおいしいよね」ということで話はまとまり、笑顔で食堂を後にしたのでありました。

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  • 第490号【真冬に咲く花々(スイセン、ロウバイ)】

     温かく穏やかな天候に恵まれた長崎の年末年始。先週、寒の入りしてからは、真冬らしい冷え込みがもどりつつあります。来週21日は「大寒」で、一年でもっとも寒い時期に。多くの草花が冬眠中ですが、寒さに刺激されて開花する花もあります。そんな花を代表するスイセンが見頃を迎えたと聞いて、長崎市野母崎町へ出かけてきました。  長崎半島の南端に位置する野母崎町。長崎駅からバスで1時間ちょっとかかります。一千万本のスイセンが咲き誇る「水仙の里」(野母崎総合運動公園内)をめざして半島の西海岸沿いを走るバスからは、美しい海原と伊王島、高島、そして昨年、世界遺産になった軍艦島をのぞみ、その眺めだけでも得した気分になります。余談ですが、同海岸沿いは昨年、ティラノザウルス科の大型恐竜の化石が発見され注目を浴びました。古代の地層があらわになっているところがある長崎半島は、今後も何かと話題を集めそうです。  到着した「水仙の里」では、丘の斜面に群生するスイセンがいっせいに花開いていました。スイセンの種類は、ニホンズイセン(日本水仙)一種のみ。一重咲きの白い6枚の花びらの中央に、濃い黄色の花びら(副花冠)が付いています。その姿はラッパズイセンのような華やかさはないものの、清々しい香りとともに楚々とした美しさで、日本人好みの風情を漂わせています。  潮風にやさしく揺れるスイセンの向こう側に広がる海上には、ゴツゴツとした姿の軍艦島が見えます。聞こえてくるのは、潮騒の音と野鳥の鳴き声。丘の上で羽を休めていた野鳥は、寒風にさらされ、ぷっくりと体を膨らませていました。頭が銀灰色で翼に白斑があるので、オスのジョウビタキでしょうか。冬の里山でよく見られる野鳥です。  スイセンは潮風と相性がいいらしく、各地の海岸で群生しているのが見られるそうです。ここ「水仙の里」も、もとは野生のスイセンの群落が、地元の人に大切にされ続けたことで現在の大規模な群落につながったと聞きます。いまでは、見頃になる時期に合わせて、毎年「水仙まつり」が開催されています(今年は1月9日から1月31日まで)。   スイセンが咲く頃、ロウバイも開花します。長崎市内でロウバイといえば、松森神社(長崎市上西山町)がよく知られています。毎年1月中旬頃に開花し、さわやかで甘い香りを漂わせるのですが、この冬は年末には開花したようで、寒の入りにはすでに見頃を迎えていたようです。  松の森神社は、学問の神として知られる菅原道真公を祀っていて、受験生やその家族らしい人たちが次々に参拝に訪れていました。本殿脇に植えられた梅は、これから咲き誇るとばかりに、つぼみをたくさん付けていましたよ。受験生のみなさん、笑顔の春はもうすぐそこまで来ています。頑張って!   本年もみろくやの「ちゃんぽんコラム」をどうぞよろしくお願い申し上げます。

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  • 第13回 長崎料理編(四)

    1.足立敬亭と長崎雑煮新鮮なる鰤に盛り沢山の諸菜が基本。敬亭も好んだ長崎雑煮。▲松本良順 養成法「飲食の事」 前号に引き続き敬亭のいう長崎料理を紹介することにした。敬亭は、「吾は新年に用うる長崎雑煮を好む」と記し、次のようにその料理法を説明している。 5人前の雑煮・先づ血切鯛150匁・または新鮮なる鰤の腮をとり腸を去り、胴骨と胴骨との間を3枚おろしの法にて背鰭の処まで包丁を入れ、次に頭部の中央に内部から脳を目がけて包丁を入れ。 次に・内部全体・外部全体に塩をふり、そのまま縄巻にして日陰に4・5昼夜つるして置く。 食するに臨みて入用だけ切とり、鱗を落とし皮ごと切目を作る。(塩を振る前に鱗を取るもよし。)或るいは魚を3枚におろし、又は切目にしたるものを摺り鉢に入れ薄塩して押蓋をし、軽く圧石をして3昼夜おくもよし。  右、150匁の魚を10に切り水で洗い、それより干椎茸10個を約半時間ばかり水につける。次に里芋15個を皮と共に15分間熱湯ににて茹でて皮をむき、1個を2つに切る。次に京菜100匁に塩を少し入れて茹で水に浸し、揃えて絞って水気を取り1寸位の大きさに切る。次に大根50匁を生のまま皮をむき5・6分の暑さに輪切りにする。餅は焼かずに熱湯に10分間ばかり煮ておく。 次に昆布20匁を水で洗い1升の水に入れそのまま1時間ばかり漬けおき、それを火にかけて煮立たせ沸騰したら直ちに昆布を引き上げ、その煮汁に鰹節の薄けずり5匁をさっと入れ之をこす、それに小匙半杯の「味の素」を加える。 かく煮汁を用意しておき、昆布、焼豆ふ、里芋、椎茸、鯛身を串にさし、それをさきの煮汁に入れて10分間ばかり煮るが、その時、少しの塩と醤油にて味をつける。  かく全て用意が整ってより長崎雑煮椀をとりだし盛りつけをする。椀盛りの順序は、先づ、椀のそこに先こくの輪切り大根1片を椀の底に置き、上に串ざしの諸菜を串よりぬいて都合よく見かけよく並べ、最後に傍らに京菜をそえ、煮込んである熱き煮汁を注ぐ。 是にて1人2椀あてとし、5人分の用意できる。先の大根を椀の下に敷くは2点の利あり。1は椀底に餅の粘着せぬように、次に子供が誤って餅をのどにつめた時、その大根を食べれば即座に除かれる効あり。2.江戸時代の長崎雑煮水菜・大根・牛蒡・するめ・昆布など6品に、古式は、干しあわび・干しいりこ(海鼠)を加えた。 寛政9年(1797)長崎の人・野口文龍が記した「長崎歳時記」をよむと長崎雑煮について次のように記している。雑煮。水菜・大根・牛ぼう・するめ・こんぶ・南京芋または里芋を用意す。  右の6品を見合わせ、串にぬいて置くなり。  次に「だし」を煮て餅を入れ、出す時に先に串をさしておきし6品をあたため串をぬき椀を盛りて出す。  昔は干あわび・干いりこを串にぬきておき雑煮に加うるを古式とす。されど今は慎みある家にては此の2種をはぶく也。 この最後の慎みある家にては「干あわび・干いりこ」2品をはぶくという意味は、当時・輸出用の銅の国内生産量が不足していたので、銅に替えて海産物を俵につめ俵物と称し主として中国に輸出していた。その中でも「干あわび」「干いりこ」の2品はとくに需要が多かった。然し右2品は特に集荷することが困難であった。「干いりこ」をいうのは海鼠(なまこ)を干したものであり、中国料理の食材として珍重されていた。そのために長崎奉行では、時として「あわび」「なまこ」を食べることを禁じていたので、長崎の家庭で「慎みのある家」では正月の縁起物であっても「干あわび」「干いりこ」を食べることを控えていたと言うのである。3.明治以降の長崎雑煮山の幸、海の幸など長崎趣味の7~11品。その味わいは長崎料理の粋▲有田焼花模様色絵鉢 先学の渡辺庫輔先生の「長崎旧家料理手控帳」が私の手元にあるのでその中より正月雑煮のことを拾うと次のように記してある。1.元日雑煮のこと 鯛の身、鳥の身、いり子(干海鼠)、半ぺん、あわび、くわい、椎茸、昆布、にんじん、かつを菜 是は12月31日に竹に搓しておく事。 1.元日の朝は神様へのお酒とお雑煮を上げる事。 1.佛壇には精進にて雑煮を供へる事。 1.元日の朝お雑煮の時、向皿 に裏白の小さきものを敷き其の上に「からがき鰯(丸ぼし鰯のこと)」腹合せにして置くこと。 1.お雑煮は3日の日まで出す事。 昭和38年長崎調理研究会より発刊された「長崎料理研究」第7に同会の後見役であられた小方定一老が語られている長崎料理自慢話の中にも長崎雑煮が載せられている。その中で長崎雑煮の味は「長崎料理の粋である」と言っておられる。 長崎の人達はダシをとるのに北海道田尻の昆布と鰹魚節は土佐か薩摩の本節でなければ使用しません。その「出汁」は、「こんがりとした焼いた餅の香りと風味が良く調和し何とも言えない味」と語られている。これをみると前段での長崎雑煮の餅は焼かないと記してあるが明治以降は餅を焼くようになったのであろう。 長崎風俗考の著者・足立正枝翁は長崎雑煮について次にように記しておられる。○雑煮は特に長崎趣味を専らにして他土に誇れるものなり。  通例は餅・菜・芋・大根・牛蒡・塩鰤・昆布などにして此より以上は、之に巻ハンペン・海老蒲鉾・鶏肉・鯛の身(塩鰤に代ゆるなり)ナマコ・クワイなどこれ亦好みに依て加うるなり。  餅は必ず一応焼き入るること、是長崎特種の習ひなり。○2日には雑煮の他ナマコを刻みて交ぜたるナマスを膳に供す。○3日はカラガキ鰯をむしりて交せたるナマスを添ゆる。 長崎市立博物館の長老であられた林源吉老も長崎料理については一家言を持っておられた。昭和32年12月の長崎市教育委員会の月刊号に長崎雑煮について老は次のように記しておられる。 長崎の雑煮は特に美味で栄養価に富み、なかなか評判がよく長崎名物のひとつである。お雑煮をいただく雰囲気は印象的で、世の中が変わってもこれだけは一生実行したいものである。次に献立にふれることにする。雑煮は小餅をはじめ唐人菜、塩鰤、鶏肉、巻半平、椎茸、くわい、人参、牛旁などの9品、あるいは7品、11品、お椀の見込みに菜の葉をしき、小餅をのせる。小餅は網で焼かないとお椀にくっつく。一部では「菜(名)を残す」とて縁起をとり、菜を残す向きもあるという。このように長崎雑煮は山の幸、海の幸と分量が多くかさむから長崎の雑煮椀は特に大形である。4.長崎の雑煮椀正月の雑煮にだけ使用する秘蔵の椀は、唐伝独特の漆塗の特注品。▲足立家雑煮椀(光源寺蔵) 私は先年長崎の漆芸について少し記したことがある。長崎の漆芸については西川如見の「長崎夜話草」にも記してあるように長崎には唐伝独特の漆芸があった。 長崎の旧家には正月の雑煮にのみ使用する特注の「カシ椀」に似た大きめの雑煮椀が秘蔵されていた。その椀は各旧家自慢の品であった。 前記足立敬亭の家は貿易商であり、各藩の御用達も兼ね屋号を海老屋といった。その故に足立家の雑煮椀は黒塗りの大きな椀に朱の漆絵で海老が描いてあった。この椀は今も長崎伊良林の光源寺に伝世されている。それは天保2年(1831)光源寺大火の時、とりあえず大壇那の海老屋より火事見舞いとして贈られたものと伝えられている。 長崎雑煮椀はひとまわり大きくて黒漆、朱漆、溜塗などの下地の上に松鶴の事や宝珠、鯉魚などの図が巧みに描かれているのを多く見かけたが、戦後は殆ど、そのような立派な長崎雑煮椀を見かけなくなったのは寂しい。 尚、本稿については長崎純心大学博物館発刊の拙著「長崎学・續食の文化史」を参考にして頂くとよい。第13回 長崎料理編(四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第489号【長崎版・冬至の七種】

     きのう12月22日(旧暦11月12日)は二十四節気のひとつ「冬至」。南瓜(かぼちゃ)や小豆粥を食べたり、柚子を浮かべたお風呂に入ったりして、季節の行事を楽しまれた方もいらっしゃることでしょう。「冬至」は、一年でいちばん昼間の時間が短い日。この日を境に、また日が長くなっていくことから「一陽来復(いちようらいふく)」とも称されます。暗いもの、衰えていたものが太陽の力で再び明るさを帯びてパワーが増し、良い方へ転じるという意味合いがあるそうです。  「冬至」の期間は、その15日後にやってくる「小寒」までで、寒気が本格的に厳しくなりはじめる頃です。今年は暖冬傾向にありますが、極端に気温が低くなる日もあり、体調をくずしやすい方、高齢の方などは、油断できません。  先日、料理教室の先生からこの時期に積極的に食べたい食材として、「冬至の七種(ななくさ)」を教えていただきました。いつの頃からか民間で伝えられてきたこの七種は、「南瓜(なんきん)」「人参(にんじん)」「蓮根(れんこん)」「金柑(きんかん)」「銀杏(ぎんなん)」「寒天(かんてん)」「饂飩(うんどん)」と、いずれも「ん」が二つ付く食材です。これには、「運」が開けるようにという願いが込められているそうで、旧年と新年にまたがる「冬至」の時節にふさわしいチョイスになっています。  「冬至の七種」のなかで長崎ゆかりのものは、ここでは「なんきん」と呼ばれる南瓜(かぼちゃ)です。天正年間に、ポルトガル人がカンボジアから長崎に伝えたのが日本での最初だといわれています。ちなみに「かぼちゃ」の名称は「カンボジア」が転じたものですが、ほかにも、「唐なす」や「ぼうぶら」と呼ぶ地域もあります。また、「寒天」も長崎ゆかりの食材です。1654年、隠元禅師が中国から長崎に渡ってきた際、もたらしたもののひとつといわれています。  ところで、「饂飩(うんどん)」ですが、これは「うどん」のこと。実は、同じ漢字で「わんたん」とも読みます。「わんたん」は、ご存知のように中国の点心料理のひとつで小麦粉を練って作った薄い生地に豚ひき肉を包んだもの。スープに入れたり、揚げたりしていただきます。  「わんたん」は、長崎ではすでに江戸時代に、唐人屋敷(現:長崎市館内町周辺)に居住した中国の人々が作っていたことから、「わんたん」が日本で最初に伝えられたのは長崎という説もあるようです。「わんたん」の具材となる豚肉は、薬膳では発熱時の無気力、から咳、便秘のときに食べると良いとされています。はからずも「わんたん」も「ん」が二つ。長崎の「冬至の七種」は「うんどん」ではなく「わんたん」の方がいいかもしれないと思いきや、名物「ちゃんぽん」だって「ん」が二つ付く縁起のいい食べ物なのです!野菜たっぷりに豚肉や魚介類も加わって、真冬の体を芯から温めてくれます。  長崎の「冬至の七種」は、「うんどん」に代えて、「わんたん」か「ちゃんぽん」ということにいたしまして、まずは、きょうのランチか晩ごはんは、明日の運が開けることを願って、ぜひ、「ちゃんぽん」をお召し上がりくださいませ。  本年もみろくやの「ちゃんぽんコラム」を読んでいただき、ありがとうございました。どうぞ、心温まるクリスマス、そして新年をお迎えください。  ◎参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第488号【師走のひといき、柿とツュンベリー】

     師走に入ったとたん、気温は急降下。いっきに真冬になってしまい体調をくずす方も多いようです。バランスのとれた食事と十分な睡眠で、寒さと忙しさを乗りきりましょう。ときには雑事をちょっと脇に置いて小休止するのもいいと、ご近所さんからいただいた干し柿を囲んで、友人とコタツでほっこりすれば、柿にまつわる長崎ゆかりの話が出てきました。  柿は東アジア原産で日本も特産地のひとつです。ヨーロッパへ旅行した時に、果物屋の店先で「kaki」と商品名が書かれているのを見かけたことがある方もいらっしゃると思います。その呼び名はもちろん日本語の「柿(かき)」からきたものなのですが、そもそも柿の学名が「Diospyros  kaki  Thunberg(ディオスピロース カキ ツュンベリー)」。「Diospyros」は「神の食べ物」を意味し、「kaki」は「柿」。「Thunberg」はこの学名の命名者であるツュンベリー博士のことです。  ツュンベリー博士は、スウェーデンの植物学者リンネの高弟で、江戸時代に長崎にやってきたオランダ商館医のひとりです。ケンペル、シーボルトらとともに、出島の三学者として長崎では知られています。日本にいる間に、多くの日本の植物を採取し、帰国後に学名を定めて分類。このとき柿にも学名をつけました。ツュンベリー博士は、日本で出会った柿に「神の食べ物」と名付けたところをみると、よほどその美味しさに感動したのでしょうね。  分類などの功績で、のちに日本の植物学界の父とも称されるようになるツュンベリー博士。日本の植物に学名をつけるとき、「kaki」のように日本名をそのまま使ったものがほかにもあるようです。学名「Cammellia sasanqua  Thunberg」(サザンカ)もそのひとつ。長崎県立図書館前にある苔むした「ツュンベリー記念碑」の背後には白いサザンカが植えられています。  多忙なこの季節、しばし現実逃避したいなら、夜の長崎を散歩するのもいいかもしれません。徒歩圏内でつながるグラバー園〜大浦天主堂〜長崎水辺の森公園は、いまロマンティックなイルミネーションに彩られています(〜12月27日まで)。夕方5時を待ってグラバー園に出かけると、豊かな緑のなかに点在する幕末から明治にかけて建てられた洋館がライトアップされ、昼間とは違ったドラマチックな風情をかもしていました。  今年7月、世界遺産として登録された旧グラバー住宅もライトアップされ幻想的な雰囲気に。時空を超えて、激動の幕末を生きるグラバーさんや薩摩藩士らが現れそうな感じです。旧グラバー住宅の前には薩摩藩主がグラバーさんに贈ったというソテツが存在感たっぷりに枝葉を伸ばしていました。樹齢300年で、国内最大級だそうです。   旧グラバー住宅の前庭にはハートストーンが埋め込まれています。園内にはもうひとつハートストーンがあって、夕暮れのなかを探している方々がけっこういました。見つけて触れば、恋が叶うかもとか、良いことがあるかも、なんて言われています。人はいつだってloveやluckyを求めるものなのですね。皆さんがつつがなく師走を過ごせますようにと、ハートストーンにお願いしてきました。

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  • 第12回 長崎料理編(三)

    1.足立敬亭と長崎料理現在も原稿そのままに残る敬亭が編集した「鎖国時代の長崎料理」。▲長崎卓子用(蝙蝠染付)皿 敬亭は号で本名は清三郎といい長崎市榎津町の素封家海老屋別家足立家に安政4年(1857)2月22日に生まれている。 敬亭の畧伝は大正14年長崎小学校職員会編集の「明治維新以後の長崎」人物編に先賢の一人として集録されている。その伝記によると敬亭は少年期、当時来崎していた佐賀藩の漢学者谷口中秋について学問の手ほどきを受け、次いで京都に登り石津灌園、菊池三渓などについて修学し、特に漢詞文に長じ明治10年東京管城舎より出版された「古今名家詞抄」に既に敬亭の詩文は集録されている。 然し敬亭は家庭的には不遇で一人息子の靖一は五校・東大を卒業し朝日新聞社の評論員となった其の年に急逝し、敬亭の婦人ヒデも、亦その跡をおい、敬亭は靖一の一子で3才の孫巻一の手を引いて東京の小さな家に住まっていた。その間にあっても敬亭は「世事を顧みず読書に親しみ手つねに巻を離さず」と伝記には記してある。敬亭は郷土のため史書の編纂を思い立ち「鎖国時代の長崎」を脱稿し、その中編第9節に「料理の章」を設けている。  この本の脱稿は古賀十二郎先生が大正15年名著「長崎市史・風俗編」のなかで長崎料理のことを詳述される10余年も前のことである。但し、敬亭のこの著書は活字にされることはなく現在も長崎県立図書館古賀文庫の中に原稿そのままに製本されている。 敬亭は其の後、孫巻一の手を引いて長崎に帰り知人の援助で油屋町の裏家に住んでいた。ちょうど其の頃より長崎市史の編集が始まったので大正10年5月より敬亭はその編集員の一人として辞令を受けたが其の翌月6月30日入湯中に死亡し、巻一ひとりが残された。 その巻一氏に私は昭和19年秋鹿児島県の積部隊でばったりお逢いした。 戦後巻一氏は神戸に居住し本居太平の事を中心に書かれた「やちまた」により、新しい戦後の評伝作家として第24回芸術選奨文部大臣賞を受賞され、次いで祖父敬亭の評伝「蛟滅記」をさりげなく面白く書かれたほか、多くの著作を発表されている。2.敬亭婦人は料理の名手日本全国で大いに認められていた、日中欧三国折衷の味、長崎婦人の料理。 敬亭婦人のヒデは大変な料理の名手であったという。その影響もあってか敬亭の代表的著述「鎖国時代の長崎」の中に前期のように料理の章を設け其の「序」のところで長崎婦人と料理のことを次のように記している。 長崎の婦人は一概に言って翰墨を持たせると不向きの者が多いが、一度包丁を持たせると上手にあつかえない長崎婦人は一人もいないのである。その故は長崎の街は早くより国際都市であり、海外より渡ってくる多くの異国の人々に接し、その対応のため諸外国人に対する料理も心得、更に自国の塩梅を加えている。その故に長崎婦人の料理の味付け日中欧三国折衷の味であり、日本全国に於いても其の風味は大いに認められている。ヒデの得意の料理はシッポク全般であったが特に鯛豆腐入りの白味噌腕はすばらしいと記してある。製法は鯛の崩し身を摺り、裏ごしにし水にて溶く、ここが秘伝である。水が多いと身が固まらないし、水すくなければボロつくのである。これに葛をいれ、鍋にて煉り詰め、箱に美濃紙を布き其れに流し込んで固め、酒しおにて味をつけ方形のまま上白(じよう)みそ(汁)に入れる。その上に柚又蕗のとうを置く。凡そ百匁の鯛の身に葛三合の割りにてよし。上白味噌でも普段の時は鱧(はも)を入れる。3.敬亭の長崎料理カステラ、枇杷羹などの菓子から敬亭の好みの料理まで、その数26種。▲夜行杯(敦煌産) 敬亭は先ず26種の料理名をあげ、その料理法を述べているが其の中にはカステラ、一口香、枇杷羹などと菓子の製法も記している。次には別項として腥(なまぐさ)料理。精進料理。鍋料理とカシワ。婚宴の実例をあげ其の中に本膳の部と卓子部、新杯五丼の順で記し、最後に敬亭自身の好みの料理をあげている。  今私達はこの中より数点をあげ記してみることにする。第一に敬亭はソボロ(料理)のことを次のように記している。  ソボロは外国語なり、日本でいう合戝煮である。材料はもやし、豚肉のこま切れ、糸切りイリコ、干小海老、銀杏の小口切、それに松露、刻み人参、ハムを用意す。 次にこれらの物を共に大丼に入れ「だし汁」を加え、蒸器に入れて出来あがるが、この他、長崎の家庭でのソボロは豚の赤白肉を叩いて刻み、豚油にてジリジリという迄に煮て、其れに椎茸・もやし・銀杏などを加え酒しおとソップ・昆布のだし等にて味をつける、盛り分けに法あり。註、敬亭はソボロを外国語としているが、ソボロは我が国の言葉で「物の乱れ、からまる、まぜ合うさまを言う」ので「鯛のソボロ」などという言葉もある。ただ長崎のソボロには、江戸時代まで長崎の地以外では殆ど食べることのなかった豚肉を入れてソボロがつくられるというのが長崎ソボロの特徴で、長崎では浦上ソボロといって浦上地域のソボロはおいしいとの評判で、数年前までは浦上地区の宴席に行くと、よくこのおいしいソボロが戴けたので愉しみであった。4.長崎チャンポン考最初はチャンポン・皿うどんの区別はなく、共にチャンポンと呼んでいた?▲有田焼色絵鉢 敬亭の料理の五番には煎包と記し、これに仮名をつけて「チャンポン」と読ませている。 長崎で最初にチャンポンの事を本で紹介したのは敬亭ではなかったかと考えている。敬亭はチャンポンを次のように説明している。煎包 チャンポン その材料、玉ねぎ・蒲鉾・小椎茸・皮豚肉・薄焼卵などを小麦粉鉢にたかく盛り、五目飯、散目鮓のごとくにし、或は脂濃き煎汁をかけ、麺を同じく椀盛りとす。要は麺を下において前段の物は玉ねぎ等の油いためを上にかけ、後段は麺を丼に入れ汁をかけるという意味である。これは現在の「皿うどん」と「チャンポン」を指している。  敬亭の時代には現在のようにチャンポン・皿うどんとの区別はなく共にチャンポンとよんでいたのであろう。  そのチャンポンの語源については私は前県立図書館長永島正一先生の後をうけて次のように考えてきた。  先ず第一にチャンポンという言葉が長崎に登場してくるのは明治30年以降のことであることにより当時長崎に多く渡航してきた人達は福建省の華僑の人達であったので、早速、私は福建省にとんでチャンポンという料理を探した。然しチャンポンという料理はなかった。  たしか福州長楽県の食堂で腰掛けて話をしているときシャポンという言葉を聞いた。 私はこの時、これがチャンポンの語源ではないかと強く感じた。台湾に旅行したときにはチャンプと聞こえた。シャポンは吃飯と書く事もわかった。上海には此の発音はないと言われる。  すると長崎チャンポンの語源は福建省に始まり、台湾、沖縄、長崎と伝えられ、その意味は「軽い食事」を意味するようである。  其の後、崇福寺の中国盆のとき故薛春花老が庫裏の前で朝早く宿泊されていた中国の方達に「シャンプよシャンプよ」と呼びかけておられるのをお聞きしました。 朝御飯の準備が出来たという意味だそうであった。明治時代後期、福建から来られた人達が持ち込まれてきた簡単な食事チャンポンが、いつの間にか長崎の人達に親しまれ、それに更に工夫が加えられ、現在では長崎になくてはならぬ名物料理チャンポンとして有名となったのである。第12回 長崎料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第487号【南蛮の食文化〜黄飯と浦上そぼろ〜】

     大分県臼杵市には、「黄飯(おうはん)」という郷土料理があります。くちなしの実のつけ汁で炊き上げたごはんで、文字通り、目にも晴れやかな黄色をしています。「黄飯」は、豆腐やごぼう、にんじん、エソ(白身魚)のミンチなどを炒め煮た「かやく」をかけていただく汁かけ飯で、一説にはスペインはバレンシア地方の郷土料理パエリアがルーツともいわれています。ちなみにパエリアの場合、お米を黄色に染めるのにサフランを使います。  戦国時代の臼杵藩は、キリシタン大名として知られる大友宗麟の城下町でした。時代は16世紀後半、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸後、平戸、博多、山口、堺など西日本各地で布教活動を行っていた頃です。豊後でも宗麟の庇護のもと布教活動が行われ、そのさなかに宣教師のひとりがつくったのが「パエリア」だったと伝えられています。  当時、キリスト教の布教のため日本に渡ってきた宣教師は、スペインやポルトガルの出身者が多かったそうで、そのなかにバレンシア地方に生まれ育った者もいたのかもしれません。ちなみにザビエルは、スペインとフランスの間に位置するバスク地方(当時ナバラ王国)の出身。バレンシア地方(東部は地中海に面している)とはまた違う食文化なので、黄飯のきっかけはザビエルではないような気がします。  古くから漢方薬にも用いられ、現在もお漬物や栗きんとんなど食品を黄色に染めるときなどに使われる、くちなしの実。遥か昔、臼杵藩で「パエリア」を作った宣教師がサフランに代えてくちなしの実を使ったのは、日本へ渡る前、東南アジアあたりですでに知っていたのかもしれません。  「黄飯」にかける「かやく」は、見た目と醤油仕立ての素朴な味わいが、どこか長崎の浦上地区に伝わる「浦上そぼろ」を彷彿させます。浦上地区は、戦国時代にキリシタン大名の有馬晴信が治めたこともあり、一時期はイエズス会に寄進されていたこともあるところです。長崎港が南蛮貿易で賑わうなか、浦上川のほとりにはポルトガル船の船員たちによって教会も建てられました。「浦上そぼろ」は、その頃に宣教師によって伝えられたと言われています。  「かやく」は白身魚、「浦上そぼろ」は豚肉を使いますが、野菜は似たり寄ったり。拍子切りや細切りにして炒め煮るという調理法も似ています。戦国時代のキリスト教布教のつながりで、もしや何か関係があるのではないかと勝手な想像をしてしまいます。ただ、古く中国や西洋の影響を受けた長崎県下各地の郷土料理を調べてみても、お米を黄色に染める料理は見つけることはできませんでした。  さて、宗麟は秀吉の九州征伐後に病で倒れ死去したといわれています。大友家の没落後、その身内や家臣らのなかには、長崎へ亡命した者もいました。そのひとりが、宗麟の孫といわれる桑姫(くわひめ)です。桑姫はキリシタンが集う長崎市中を対岸にのぞむ浦上地区(当時の浦上村渕)にひっそりと暮らしました。桑を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ、そのやり方を近隣の娘たちにも教えていたそうです。その生き方、人柄は地域の人々の心を動かすものがあったのでしょう。没後は塚がつくられ、いまも淵神社(長崎市淵町)に「桑姫社」として祀られています。  ◎参考にした本/「日本の食生活全集〜宮崎〜」(農山漁村文化協会)

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  • 第486号【長崎のリトル❤オータム】

     今年の秋は全国的に晴天の日が多いよう。ありがたい一方で、空気の乾燥が気になります。近頃のお肌のカサつき、喉のイガイガは、そのせいかもしれませんね。気分までカサつきそうになったなら、家事や仕事の手を休めて散歩に出ませんか。  長崎の中島川にかかる石橋群のひとつ、桃渓橋(ももたにばし)のたもとでは、夏のはじめに根元近くまで刈られたカンナが、早くも1メートルほどに丈を伸ばし鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていました。大雨のときは全身川に浸かり勢いのある水流になぎ倒されることもしばしば。しかし、水が引けば何事もなかったように、すくっと太陽に向かって茎を伸ばす、本当にたくましい植物です。そこに「ツーン、ツーン」と少し甲高い小鳥の声が。数年前からこの界隈で見かけるようになった翡翠(カワセミ)です。カンナのつぼみにチョコンと羽を休めました。文字通り翡翠(ヒスイ)色の美しい羽。すぐそばでアオサギが小魚をねらっていました。  散歩に出ると、思わず頬がゆるんでしまう光景にしばしば出会います。住宅街の一角で、ミドリガメを日向ぼっこさせている方がいました。正式には「ミシシッピアカミミガメ」という種類で、20年ほど前にお祭りの出店で手に入れたとか。体長5cmもなかったのに、いまでは約20cmまで成長。ほぼ毎日、屋外で散歩させているそうです。人懐っこい性格で、水槽から出すと、人のあとを追ったり、名前を呼ぶと甲羅から首を出して反応します。飼い主の方にとてもかわいがられて、幸せなカメさんでした。  顔の横に黄色や赤い線が入ったそのカメと同種と思われるものを、中島川でよく見かけます。お天気がいい日には、何匹も甲羅干ししています。そのなかには飼い主によって川へ放されたものもいるかもしれません。ミシシッピアカミミガメは繁殖力が強く、川の生態系を乱す可能性もあるそうです。ご縁があって手に入れたカメ。最後まで自宅でかわいがってあげてほしいものです。  中島川上流から眼鏡橋へ下れば、石垣に埋め込まれたハートストーンを指差しながら記念撮影をする観光客の姿がありました。魚市橋のたもとから川へ降りたところにあるハートストーンがよく知られていますが、実は眼鏡橋をはさむ魚市橋(上流側)から袋橋(下流側)あたりの石垣には、複数のハートストーンがあります。熱意のある方は、探してみてください。  続いて、秋の修学旅行生の姿が絶えない浦上天主堂(長崎市本尾町)へ。お堂のまわりを歩いていたら、かわいい野良猫と目が合いました。つかず離れずこちらの様子をうかがっています。ちょこんと前足を揃えて座った姿を見たら、胸下の毛並みが❤型!もう、これは、かわいすぎ。こういうことがあるから、散歩ってやめられないのです。   さて、ハートフルな秋のひとときの締めくくりは、やはり食。乾燥する季節には肺を潤し、温める食材がおすすめです。ちゃんぽんに欠かせない豚肉は、うってつけの食材のひとつ。いつものちゃんぽんに、熱っぽい咳や喉の渇きを改善するアサリや滋養のあるカキなどの海鮮類を加えると、秋の体が喜ぶはず。今夜の食卓で、試してみませんか。

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  • 第11回 長崎料理編(二)

    1.長崎くんち料理旧暦9月1日の「庭おろし」が祝宴。本膳の馳走に、甘酒、栗柿饅頭を菓子として出す。▲南蛮料理「ヒカド」 旧暦の9月9日は長崎の氏神諏訪神社の祭礼日であり、土地の人達はこれを「クンチ」とよんでいる。 古記録を読むと「長崎くんち」の祝宴は、くんち当日は忙しいので旧暦9月1日を「庭おろし」といって其の夜は家に料理を用意し親類知者へ案内をだし馳走し、「甘酒を造り栗柿饅頭を台に盛りて菓子として出す」と記してある。 長崎くんちの当日、7・8・9日の3日間は踊町・年番町などと忙しいので殊更に人を招き馳走するなどという事はなかった。  この9月1日の「庭おろし」の時の祝宴はシッポクではなく、全て黒塗又は朱塗の本膳で用意されている。  このくんち料理の資料として今回は先に紹介した割正録<第10回 長崎料理編(1)参照>の中より「長崎くんち」のある旧暦9月上旬の料理を取り上げてみることにした。 同書によると最初に出される一の膳は次のように記してある。先ず前菜として次の4品がだされる。小箱 わさび味噌をしき・雉子のささ鳥・松たけ・ぎんなん猪口 あみの塩辛引肴 大つとの蒲鉾、切しそ吸物 塩煮、こちの薄背切、ゆ(註:ゆとは湯葉のことであろう)二の膳には次の3点がだされた。膾(なます) 酢いり酒・湯引いか・はす芋・黒くらげ・ざくろふりて註:長崎くんちの膾には必ず「ざくろ」を上にかける風習が今も残っている。 私はこの「ざくろ膾」のことについて拙著「続長崎食の文化史」(平成8・10・長崎純心大学博物館刊)の中で記しているが、その時長崎女子短大の大坪藤代先生よりザクロが朝鮮通信使歓迎の馳走の中にあることをお聞きした。 このことより考えてザクロを祝宴に使用する料理は「長崎くんち」のルーツが博多にあることより考えて、ザクロ膾のルーツも博多方面から「くんち行事」の風習の1つとして伝えられたのではないかと推測してみた。どうであろうか。二の椀 すまし汁・たいらぎ(貝)・子茄子木口切・岩たけ坪皿  とうふ・とろろ三の膳として次の3品が用意されている。汁  すり立小鳥・小かぶ・しゅんぎく平皿 にしめ塩梅・たたきたこ・燒栗・小梅干大皿 鮎やき・ひたし菜・あらめ短冊▲古伊万里赤絵金彩皿註:汁につかわれている「しゅんぎく」について同書の巻末に次のように記してある「しゅんぎくは方言也。高麗菊と言う。8月頃よりたうの内葉をつみてもちゆ」次に古賀十二郎先生の未刊原稿「諏訪社雑綴」(長崎県立図書館古賀文庫)によれば10月4日くんちの人数揃の日には次の料理を用意したと記してある。 当日(人数揃の日)踊町の家では来客あれば必ず馳走を出す。1,菓子は海老糖、湿地茸、カステラなどを大平にて盛て出す。2,料理の中に必須のものは鰭椀、中に松茸と栗を入るるを要す。 この他、柘榴なます、及び泥鱒汁を用ゆ 但しこの10月4日人数揃というのは明治5年旧暦が新暦に変更になったので長崎くんちの祭礼日が10月7・8・9日の3日と変更され、それにつれて10月4日を人数揃となった事より考えて本稿の料理献立は明治頃のくんち料理と考える。2.異国趣味の長崎料理「もうりう、すすへひと、ひかど」など鶏や家鴨を使い、塩味の南蛮の料理は、多分に中国風。▲清朝の急須 前出の「割正録」には長崎地方における異国府の料理として次の7種類の料理名をあげている。 1,くずたたき。 2,えひもち。 3,もうりう。 4,すすへひと。 5,ひかと。 6,くじいと。 7,てんぷら。 私は先年・東北大学狩野文庫より「南蛮料理書」の複写本を長崎県立図書館の渡辺庫輔文庫に見いだし、更に前出の松下幸子先生より東北大学所蔵の原本の複写をいただいた。  この本の成立は江戸時代の初期と言われているが渡辺先生は江戸時代中期と考えておられた。同書の中より南蛮菓子を除き南蛮料理を拾うと次のようになる。 1,ひりやうす。 2,南蛮料理ひりし。 3,てんぷらり。 4,とりやき。 5,うをの料理。 6,くぢいく。 7,たまごどうふ、(他略す)割正録に記す「くずたたき」は南蛮料理書の「うをの料理」と同じで、その料理法は次のように記してある。 魚をせぎりにして葛の粉をつけ、摺り粉木にてとろとろと身の切れぬように打ち開き、油にてあげる。ゆびきでも用ゆ。えひ・蚫などにても同じ仕形也。(後者の本には葛の粉を麦の粉と記し、油にて揚げた後、丁子にんにくをすりかけ味をつけ煮しめるとある。) 2,えひもち、うどん粉又は葛粉を海老の身にまじへ良くたたき葱を小さく刻みこみ、丸くして油にてあぐ。「くずな」にても同じ也。 3,もうりう(松下幸子先生の注に「もうりつ」は毛竜と記してある)鶏・家鴨いずれにても、骨ともに切りて大根、ねぎなど入れ煮也。身だけをささ鳥にして用ゆ。塩あんばい也。  酒水にて良くたたき正油はかくし味として塩にて味付けをする。この他水煮ソップなど色々仕形あり。取り合の貝もこの他あり。註:多分に中国風の料理であるが文化5年(1808)江戸で発刊された「料理談合集」には南蛮料理として次のような記録がある。鶏の毛を引き、首足としりを切すて、鍋に入れ、大根を厚く輪切りにして煮あげ、鶏の骨ともよくたつき丸めて酒・塩にて、うす味にするなり。すひ口に葱、唐辛子などよし。 4,すすへひと、異国の料理也。鶏か家鴨の身をさいの目に小さく切り、水・酒にてたき正味は少し、山芋を小さく切りて入、パンというものをときて入る。又はパンの代わりに「うどん粉」を入れ、とろりとし、葱をきざみ、玉子つぶしてときまじえて出す。是も塩あんばいがよし。註:この料理にはパンの言葉が使用してある。パンはポルトガル語のp~aoであり江戸時代にはキリスト教に関係があるとして一般に食べることは禁止されていた。但し出島のオランダ人のみは長崎の街でパンを製造することが許されていたパン屋がオランダ屋敷に毎日納入していたので当時一般の人達がパンを自由に口にすることは殆どなかった。その故に料理にはパンに代えて麦の粉としている。 5,ひかど これも異国料理也。鳥と大根を小さく賽の目に刻み葱きざみ入れ、玉子つぶし入る。是は麦粉を入れず、さらりとしたるようにする也。味付は「すすへひと」と同じ。 魚を使用するときはあま鯛・いとより・小鯛にてもする也。魚は油にていため、其の上にて味をつける。すすへいと、ひかと共に同じ塩梅なり。 註:ヒカドとはポルトガル語のpicadoすなはち小さく刻む、調理するという意味である。古賀十二郎先生は長崎市史風俗編の中でヒカドについて詳しく説明しておられる。それには鮪と大根・甘藷とを交ぜて煮込み正油にて味をつけると記し、ヒカドにはドロドロ汁を作る場合と作らぬ場合があると記しておられる。 「割正録」では前述のようにドロドロ汁した場合には「すすえひと」といい、さらりとした場合には「ひかと」と言っている。1800年頃までの長崎料理では前述のように両者を分けてそのように呼んでいたのである。第11回 長崎料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第485号【秋の夜長、十六寸豆を煮る】

     冷涼な空気に満たされる秋の夜長は、コトコトと白い湯気をたてながら煮込むスローな料理を作りたくなります。数日前の10月25日(旧暦9月13日)は、「十三夜」と呼ばれる月見の日でした。「十三夜」は、豆が食べ頃を迎える時期と重なるので「豆名月」とも呼ばれます。  ということで、今宵は卓袱料理の一品(小菜)でもある豆料理、「十六寸豆の蜜煮(とろくすんまめのみつに)」を作ることに。地元の60代以上の方はこの料理を「十六寸(とろくすん)」と呼び、親しみがあるようですが、下の世代になると「白豆の甘煮」と言わないと分からない人が多いようです。なかには「トロクスンって日本語ですか?」と尋ねる人もいます。聞き慣れない言葉に、パスティ、ヒカド、ゴーレンなど外来語に由来する長崎の伝統料理のひとつと思うのかもしれません。  「十六寸豆」は白インゲン豆の一種で、豆を十個並べたとき六寸の長さになることにちなんだ別称です。一寸が3.03cmですから、六寸は18.18㎝。扁平で腎臓みたいな形をしたこの豆を実際に並べて測ってみると、本当にその長さ!ちなみに、十六寸豆は同じく白い「白花豆(しろはなまめ)」と混同されがちですが、こちらはさらにサイズが大きく、「十八寸(とはっすん)豆」とも呼ばれています。  「十六寸豆の蜜煮」を作りましょう。洗って7〜8時間以上水に漬けた豆を火にかけ、数回水をかえながら3〜4時間煮ます。豆がやわらかくなったら、砂糖を加えてさらに少し煮て火を止め、じんわり味がしみるのを待ち、塩少々で味を整えて出来上がりです。白インゲン豆は食物繊維と、代謝を促すビタミンB 群も豊富に含まれ、その栄養価が再注目されています。おばあちゃん世代は豆1カップに対し、砂糖も1カップくらい加えとても甘く仕上げたようですが、甘さ控えめを好むなら砂糖はその半分くらいでもいいと思います。  「インゲン豆」にはもうひとつ、長崎ゆかりのものがあります。「サヤインゲン」です。江戸時代の書籍で、長崎土産や輸入品、特産品などを列挙した『長崎夜話草』の第5附録には、インゲン豆のことを「八升豆(はっしょうまめ)」と記し、「隠元和尚持来て種子を南京寺の内にうへしより世に流布す。…(省略)。」と紹介しています。ここでいう「八升」は、実がたくさんなるという意味合い。また、「南京寺」とは興福寺(長崎市寺町)のことです。  1654年春、弟子ら総勢30人で廈門(アモイ)を出港し、長崎に渡ってきた隠元和尚。このとき一行がもたらしたものは、インゲン豆だけでなく、寒天、煎茶(隠元茶)、「明朝体」といわれる書体、1行20文字の原稿用紙など、現在も用いられているものがいろいろあります。  サヤインゲンは薬膳では、食欲不振、胃や腹部の張り、体が重たい感じのときなどに用いられます。長崎ゆかりの白や緑色をしたインゲン豆。マメに食べて日々の健康づくりにお役立てください。  ◎  参考にした本…『長崎夜話草〜第五附録〜』(西川如見・岩波文庫)

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  • 第484号【長崎の家紋】

     秋の大祭「長崎くんち」が先週7、8、9日に行われました。長崎の中心市街地は、今年も奉納踊りや庭先回り(家々や事業所、官公庁などを回り、玄関先や出入り口などで演し物を呈上すること)で大にぎわい。心躍らすシャギリの音とともに、まちを練り歩く演し物の後を追っていたとき、ふと鼻先をかすめたのがキンモクセイの香りでした。いつもならくんちの後なのに、今年はちょっと早いかな。長崎県内各地のコスモスの名所はすでに満開。山々ではじきに紅葉もはじまります。遠出しても、しなくても、この季節ならではの澄んだ空気とさやかに見える月や星はいつもそばにあります。美しい日本の秋を楽しみたいものです。  日本の美といえば、「家紋」もそのひとつかもしれません。月や星、草花、生活の道具などをモチーフにした図柄は簡素化され、どの時代にも受け入れられる普遍性が感じられます。日本人の感性を映し出した大切な文化ともいえる家紋の歴史は約千年。現在その数は1万とも、2万ともいわれています。現代の生活のなかで家紋が用いられるシーンは少なくなりましたが、着物(背縫いの中央、両胸元、両外袖)に付けられているのは、いまでもよく見かけますよね。  長崎くんちでは、庭先回りで訪れる家々や事業所などの出入り口に、家紋と家名を染め抜いた幔幕(まんまく)が張られます。青や紺地に白抜きの家紋は、そのシンプルなデザインの力もあって、とても目を引きます。くんち見物でまちを歩いていると、たまにどこからか、「あ、うちと同じ家紋だ!」という声が聞こえたりもします。また、よく見かける紋でも、その名称は案外知らないものです。くんちの幔幕から、いくつかご紹介します。  長崎に生まれ育った知人の家は、「丸に隅立て四つ目(まるにすみたてよつめ)」。由来を尋ねると、「母親から、清和天皇ゆかりの紋だと聞かされてきたけど、よく分からん」とのこと。種類的には「目結紋(めゆいもん)」といわれる紋のひとつで、布を染める時、布の一部をくくってできる文様からきたもの。かつては武将たちに多く用いられた紋だそうです。  長崎でよく見かける紋のひとつが「橘紋(たちばな)」。ミカン科の常緑小高木である橘をモチーフにしています。聖武天皇より賜ったものといわれ、橘氏ゆかりの古い紋だそうです。葉と果実を組み合わせたデザインは、どこか愛らしさがあります。橘氏の系譜を持たない武家などでも用いられました。  九州の戦国大名・大友氏が愛用したという杏葉紋(ぎょうようもん)。杏葉とは馬に使う装飾用具のこと。大友氏は功労のあった家臣らに、この紋を与えたとか。その後、大友氏を倒した龍造寺隆信へ、さらに龍造寺家を倒した鍋島家に伝えられました。北九州地方の武士たちが憧れた名紋です。  江戸時代には武家を中心に用いられた家紋ですが、町人たちも使用を認められていて、多くの新しいデザインが生まれました。とくに商家は屋号として用い、のれんや半てん、てぬぐいなどにしるしました。庶民が広く家紋を用いるようになったのは、明治時代に入ってからだそうです。  家紋のルーツを辿れば、たいてい由緒あるものばかりで、いずれも吉祥や家訓に通じるものなど、家の繁栄を願う気持ちが込められています。さまざまなご縁を結びながらいろいろな時代をくぐりぬけてきた家紋。その由来や意義をひもとけば、あなたのルーツが垣間見えるかもしれません。   ◎  参考:『正しい紋帖面』(古沢恒敏)、『〜面白いほどよくわかる〜家紋のすべて』(安達史人 監修)、『イラスト図解 家紋』(高澤等 監修)

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  • 第10回 長崎料理編(一)

    1.割正録のこと長崎人が執筆した長崎料理の参考書、南蛮・異国風味を加味した、異色の献立集▲青華亀山向付 長崎料理のことを記した本に「割正録」というのがある。  この本のことについて昭和37年長崎調理研究会の機関誌「長崎料理」の創刊号に渡辺庫輔先生が初めてこの本を紹介され次のように記しておられる。 割正録は長崎料理に関し最高の参考書であると信じ、此こに復刻することにた。原本は私の所蔵である。 解説は最後に書くつもりである。原本には難読のところも少なくない。変態仮名は改め、片仮名はそのままにして置いた。    寅12月  渡辺庫輔識  渡辺先生が歿くなられたのは昭和38年6月であり、この割正録の復刻は臘月上旬で終わっている。そして先生所蔵の原本は現在長崎県立図書館所蔵の渡辺文庫の中には収録されていないようである。 その後、千葉大学教授松下幸子先生より御教示いただいて割正録の写本が題名を「料理集」と改められ国立古文書内閣文庫と東北大学狩野文庫にあることを知った。また私は東大資料史料編集所の加藤栄一先生から内閣本料理集の複写本を送って戴いた。 昭和55年松下先生はこの料理集を研究され「千葉大学紀要29」にその成果を次のように発表され私にも其の一部を送って下さった。  その紀要の中で松下先生もこの「長崎料理」の価値について次のように高く評価されている。 この料理集は長崎の人の執筆で、献立の内容は長崎の料理で所謂南蛮風、異国風料理の加味された日本料理、つまり長崎料理の献立集である。  その点については異色の献立集と言える。  これは長崎にある大音寺日鑑にみる献立や同地の料亭、各家庭の料理控類を除けば、他にこれに比敵するものは見当たらない。2.この本の執筆者は誰か雅号は「崎水」。茶道や俳諧にも一応の心得があり、教養のある料理屋の主人?▲南方青磁蓋物 本の筆者を考える前に、一体この本はいつ頃できたのであろうかと考えねばならない。 渡辺先生の「割正録」には年月の記載はないが、東北大狩野本にこの本を写した年号が「享和三正月吉祥日・和田市兵衛・増田半衛門因写之」とあり、同写本の序文の後には次のように記してあると松下先生は述べられておられる。 丁巳仲和  崎水  白蘆華 記  そして丁巳仲和の年とは寛政9丁巳年仲春(1799)のことであるとされている。 その故に此の本は寛政9年以前に著述されていたのであろう。  著者の崎水とは雅号である。長崎のことを崎陽といったので崎水は長崎の人であると考える。白蘆華の本姓は不詳であるし、どのような人物であったかも不詳である。  著者は同書の序文の中で「私は茶道にうとく」。料理のことについては「只聞伝え習い得たる事を組み合わせ、その仕方等を粗にしるし、又公案を加えた類のもの、塩梅なども書付」けたのであり、この本を書く動機になったのは「或る人のもとめよりて漫にかき記す所也」といっている。 著者は「茶道にうとく」と記しているが、料理の献立は「茶人の書によりて料理の序に従う」といっているので茶道についても一応の心得がある人物で、俳諧の事を料理献立に引いて「是は俳諧にいへるさび、淋しきにあらず・・・」と記しているので俳諧にも心得があり、「崎水」とは俳諧の雅号であると考える。 以上の事より白蘆華という人物を私は次のように考えてみた。 料理の事については習得することのできた人物で、茶人ではないにしても茶道については一応知るところがあり、俳諧についても心得があり、教養のある料理屋の主人像がうかんでくる。 寛政頃の長崎を代表する料理やとして西山松ノ森社の境内に千秋亭があった。古賀十二郎先生の長崎市史風俗編の中には「俳人紫暁」の浮草日記を引いて千秋亭のことを記しておられるので千秋亭主人は俳諧を嗜む人であったろうし、千秋亭は又の名を吉田屋といったので白蘆華の姓は吉田氏であったと思う。  又、寄合町・丸山の遊里の主人にも引田屋主人山口拝之のように俳諧をよくした文人もいたので崎水はその方面のひとであったかもしれない。3.長崎料理の献立正しい長崎料理を記すという意の題名。一汁五菜を基に四季に分けた、三十六種の献立表。▲台湾の竹篭 本料理集の書の原本には「割正録」と記してあるのは、先にも言ったが、「割正」とは諸橋漢和辞典に「割は断で、さきて正すの意」とあるので、ここでは正しい長崎料理を書き残すという意味の題名と考えてよいようである。 著者は四季に分けて献立をつくり、1ケ月に3回の献立をたてて作っているので、一季節の献立は9回の献立となっている。本書は四季の献立であるから全体は9回×四季となり36種の献立が表にして竝べてある。 次に本書の序文によると「一汁五菜をもととし、猶、二汁六・七の菜類に組合せ 肉類を撰びて繁を計り、闕けたるを補ひ・・・」と記してある。  一例に正月上旬のものを記すと 二汁七菜の時   汁、  たいらぎ・岩たけ・ねせり   猪口、  塩から   曲物、  敷葛にて・骨ぬき小鴨・くわい・しめじ   炙物、  きし・干いわし・やきのり   鱠、  酢いり酒・きす・しし貝生作り・巻すいせんし・しぶ栗・きんかん   平皿、  ねりみそ、むし鮒   引肴、  青のり粉まぶし・にんじんふとと煮   汁、  薄みそ・塩鱈背切・若め・すくひ豆ふ・ぬうと   坪皿、  青かちもどき・小鳥・松露・わさび   吸物、  ぬかみそ・しじみ註、以上の献立表の次には料理の造り方が記してある。例えば●しし貝生作は、一夜正油酒にひたし置き盛り合すべし。●鱈の味噌は、骨あたまを煮出し、盛合せしかるべし。●しぶ栗は、肉皮を付て切形 さび栗ともいふよし●青かちもどき 青かちは鶉雉子に限る、仕方青かちの所に記す。もどきは小鳥の身をひらつくりにして、骨のあばらを去り、もも等こもかにたつぎ、だし正油の煮汁にてときながし、身具を加ふ。塩梅はいり鳥の少しさらりとしたる良し、塩はたっぷりと盛るべし、小鳥もつぐみ可然。 更に本の最後に長崎地方の料理材料の方言をまとめて記してあるのは大いに参考となる、例えば 1,どせん   うどのことなり。 1,くるくる   あんこうのくるくる、餌袋也。 1,ゆすら   庭梅の衆類也。 1,金ひれ   ふかひれの肉すじ也。 (以下次号につづく・・・・)第10回 長崎料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第483号【ヘルシーなイカを食べよう】

     ほんの少し前、「日本人はイカをいっぱい食べている」と言われた時代があったのをご存知でしょうか。昭和55年(1980)の日本のイカの漁獲量は68万トン。世界のイカの漁獲量の約半分を占め、国別ではダントツ一位でした(FAO漁獲統計)。その後、資源の減少や漁業の衰退にともないトップの座は他国にゆずりましたが、いまも日本国内における鮮魚の1人あたりの購入数量は、昭和40年(1965)がアジに次いで2位、昭和58年(1983)が1位、そして平成21年はサケに次いで2位(総務省「家計調査」、平成21年は水産庁作成データより) と、つねに上位にランクイン。やっぱり、日本人はイカをよく食べているようです。  三角のヒレをつけた長い筒状の胴体、そして10本の腕。本当は宇宙人?と思ってしまうような摩訶不思議な容姿をしたイカ。うんと昔、それをはじめて口にした人間は、ナマコ同様にちょっと勇気が必要ではなかったかと想像します。刺身のほか焼く、煮る、乾物、塩漬けなど、いろんな調理法がありますが、なかでも保存食でもある「イカの塩辛」は、料理名や漬ける時の材料に若干の違いはあるものの、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地で作られてきました。  ところで、「イカの塩辛」には色合いが、白っぽいものと赤っぽいものがありますが、塩や米麹だけで漬け込むと白に、さらに内臓(肝臓)を加えると赤くなるようです。また、少数派ではありますが、黒いタイプもあります。イカ墨を加えたもので長崎県では「黒身あえ」といって、五島列島の北に位置する小値賀島をはじめ平戸島、そして大島といった島々で食べ継がれてきました。富山県にも「イカの黒作り」と呼ばれる同じような郷土料理があります。  この時期手に入りやすい「ヤリイカ」で「黒身あえ」を作ってみました。胴に包丁を入れ、なかの墨袋を破らないように取り出し、さっとゆでます。イカ墨をボウルにとり、少量の味噌、砂糖を丁寧にまぜるとつやが出てきます。これを短冊に切った身に加えてあえれば出来上がりです。  「黒身あえ」はヤリイカより肉厚で旨味のあるミズイカ(アオリイカ)だと、よりおいしいと思います。ミズイカは、これから冬場にかけてがシーズンです。さて、「黒身あえ」は、見た目が真っ黒なので抵抗がある方がいるかもしれませんが、イカ墨自体がもつ塩味と旨味は酒の肴に喜ばれそうな珍味です。未体験の方は一度お試しください。  「イカの塩辛」は発酵食品のなかでも酵母菌が豊富で、美肌効果が高いといわれています。また、イカは低脂肪、低カロリーで知られ、コレステロールを減らす働きをするタウリンを多く含みます。薬膳では、養血を補い心臓、肝臓を滋養するとされ、とてもヘルシーな食材として利用されます。  この秋もたくさん食べたいイカは、ちゃんぽんの大切な具材のひとつでもあります。とくに下足(げそ)部分は、いい出汁がとれ欠かせない存在です。塩辛もいいけれど、まずは、今夜あたりちゃんぽんで、イカを味わってみませんか。    ◎  参考:全国いか加工業協同組合ホームページ「日本人とイカ」、『ふるさとの家庭料理第17巻〜魚の漬込み 干もの 佃煮 塩辛〜』(農文協)、『聞き書長崎の食事〜日本の食生活全集42〜』(農文協)

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  • 第482号【秋めく長崎市街地の花々】

     驚くような早さで秋めいています。寝冷えして風邪などひいていませんか?長崎のまちを歩けば、夏の間、目をうるおしてくれた「ノウゼンカズラ」や「サルスベリ」の花々がそろそろ終盤を迎え、花びらをちらしています。朝晩の涼風に誘われたのか、市街地の高台に位置する立山地区では「ヒガンバナ」が咲いていました。いつもより1〜2週間ほど早い気がします。  学名は「Lycoris(リコリス)」。秋のお彼岸の頃に咲くことからヒガンバナと呼ばれるようになりました。異名が多く、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ、まんじゅしゃか)」とも呼ばれるのは、この花がサンスクリット語で「manjusaka」と書くことに由来。また「幽霊花」などとも呼ばれ、ちょっと不吉なものを連想させるイメージもありますが、サンスクリット語では、「おめでたいことが起こる兆しの天上の赤い花」という意味があるそうです。  住宅街を彩るさまざまな庭木に目を向けると、実をつけたものをたくさん見かけるようになるのもこの時期ならでは。初夏、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていた「ザクロ」もそのひとつ。たわわに実って細い枝をしならせていました。「ザクロ」は種子が多いので子宝に恵まれるとか、豊かな実りをもたらすといった縁起のいい木とされ、長崎くんちではお供え物にしたり、「ザクロなます」というくんち料理として食べ継がれています。  庭木の実で「ザクロ」とともに目立つのが「ツバキ」です。ピンポン玉くらいの大きさの実のなかに茶色の硬い種子が入っています。種子から絞り出されるツバキ油は古くから食用にされ、髪や素肌を健やかに保つ油としても利用されてきました。長崎県内では、五島列島や島原半島などが良質のツバキ油を生産することで知られ、近年その良さがあらためて見直されているようです。  中島川にかかる眼鏡橋あたりで、ときおり観光客の足を止めていた花があります。「タデ」です。背丈のある茎の先に、穂状に垂れ下がった鮮やかなピンクの花が目をひきます。夏場から咲きはじめるタデの花期は意外に長く、もうしばらくは愛でることができそうです。  眼鏡橋の上流にかかる桃渓橋のたもとあたりでは、「ヤブラン」が紫色の花を咲かせていました。ヤブに咲くランに似た花、というのが名前の由来だとか。穂先に密集する小さな花を虫眼鏡で見ると、確かに似てなくもありません。花期は夏から秋にかけて。ヤブランは昔から根茎に薬効があるとされ、乾燥させたものは漢方薬として、滋養のほか咳止めや利尿薬などとして用いるのだそうです。日陰でもよく育つらしく、桃渓橋の「ヤブラン」もほかの植物の影のなかで旺盛に育っていました。 鉢植えでよく見かける花に「マリーゴールド」があります。春から秋にかけて次々に花を咲かせ、ガーデニング初心者にも育てやすいといわれています。メンキシコ原産のこの花が、西洋に伝わったのは大航海時代のこと。その後、日本へはオランダ船が運んだともいわれていて、江戸時代初めに編まれた園芸事典に、「紅黄草」の名で記されているそうです。植物たちもいまに至るまでにいろいろな旅路を経験しているのですね。  ◎参考にした本・「四季を楽しむ花図鑑500種」(新星出版社)

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