第17回 阿蘭陀料理編(二)

地方史研究に外国文献を取り入れ、新分野「長崎学」を開拓した古賀十二郎。



▲ポルトガルの絵皿(越中文庫)


今年の長崎には"ながさき阿蘭陀年"の各種行事に軌をあわせるように、なかにし礼先生の小説・長崎ぶらぶら節の直木賞受賞、それに続いて市川森一先生の脚本、深町幸男先生の監督による映画化で観光地長崎は今更ながら全国的に大きく認められてきた。


この小説の主人公は実在されていた古賀十二郎先生と名妓愛八である。古賀先生は長崎の二十世紀を代表される博学の人で明治12年長崎五島町の旧黒田藩御用達で素封家萬屋の長男として家督を継いでおられる。先生は長崎商業高校を卒業後、東京外国語学校に進学、やがて郷里に帰られて以後は長崎県立図書館の創立など長崎文化の推進に尽くされている。先生の学風は従来の地方史研究にみられなかった外国文献を大いに取り入れられ研究されたことで、ここに新しく、「長崎学」という新分野を開拓された功績は各方面より高く評価されている。



1.長崎学における食文化

長崎人の食習慣などを集録した、代表的著者「長崎市史風俗編」



▲平戸三川内焼 デミタス・カップ

(越中文庫)


古賀先生の代表的著者に長崎市史風俗編があり其のページ数は上遍742ページ、下遍330ページの大冊で大正14年11月長崎市役所より市史佛寺編、神社編などと共に出版されている。風俗編は18章に分類され其の第9章が衣食住であり、同章の第2節(P618~700)が料理となっている。料理は先ず1,卓袱料理。2,南蛮料理。3,ターフル料理。4,長崎料理。5,揚屋。6,待合。7,料理屋。8,鰻屋。9,鋤焼屋。


10,食事。11,牛肉類其他食用の禁。12,夜打。13,菓子其他。14,煙草と阿片。に分類されている。この内第10食事というのは長崎人の平常もちゆる食事のことが集録されている、その中より2、3の事を拾うと


イ)長崎人の家庭では朝飯は冷飯の茶漬けに香のものを用う。味噌を朝飯に用うることはない。これは贅沢な家庭にてもこの習慣あり。

 但し客人に対しては朝飯でも汁物、魚肉類を出すことは云ふ迄もなし。

ロ)冬になると朝芋がゆを用うることもあり。天明8年(1771)長崎に遊学した司馬江漢の日記の文に「11月11日、雨天、朝・・・・・・夫よりしてサツマ芋の粥(かゆ)を喰ふ。」と記してある。



2.長崎学とターフル料理

ターフルとは、蘭語の食卓の意。パン、酒類など出島オランダ屋敷の食生活を解説。



▲色絵コンプラ正油瓶

(越中文庫)


ターフルとは蘭語のTafelに外ならぬのである。そして食卓と云う意味を持っている。と先生の説明は始まっている。そして続いてパンの説明が記してある。パンというのは蘭語ではなくポルトガル語paoスペイン語でpanと称した。蘭語ではbroodというが長崎人にあわせてパンと言っていた。パンはオランダ人の主食で長崎の街に唯1軒のパン屋があり、毎日数をきめて焼かれていた。

そのパンは出島オランダ屋敷に納入するだけの数が焼かれ日本人にはパンを売ることは禁止されていた。


それはキリスト教とパンとは関係があり、「パンはキリスト教の肉、葡萄酒はキリスト教の血なり」と教会で教えられていたからである。出島のオランダ人と長崎のパン屋との間には次のような取り決めがなされていたと1649年8月4日の出島オランダ商館日記に記してある。


向う1年間は1匁に10個のパンのかわりに善く焼いた目方もちがわぬパン11個半ずつ納めると言ってきた。これで目方65匁のパン100個であったのが115個となった。次にターフル料理によくでてくる言葉としてはボートルという言葉がある。古賀先生は「ボートルとは蘭語のboterである」と説明され元禄15年(1702)6月13日より来崎していた土佐藩士吉本八郎右衛門の日記を引いて出島のオランダ人の食生活について次のように説明されている。


パンと申す小麦粉にて仕候餅に、牛の乳を塗り申候


更に、先生は明和2年(1765)刊行の「紅毛詩」を引用されてバタは「牛の乳をねりつめたものなり。紅毛人諸食物にまじへ食す。

日本の鰹節を用ふるがごとし。此もの丸薬となし、衣に砂糖をかけ小児の百日ぜきに用ゆ、効あり」と説明されている。洋食器の中にフォークがあらわれてくるのは出島のオランダ式の食卓からで、ポルトガル船の時代にはまだフォークがあらわれていない。

先生の論考には次のように記してある。ホルコという。蘭語Vorkにあたる。蘭語辨惑には「物をこの器にてさし喰ふ俗に関さしといふなり」とある。長崎ではホコと称する。長崎名勝絵には三刃鑽と記し右傍にホコと片暇名をつけている。英語にてはforkという。ターフル料理には酒類もいろいろある。葡萄酒、麦酒、アラキ酒、焼酒の名をあげられている。

このうち麦酒は蘭語のbierに外ならぬのである。蠻語箋には「麦酒 ビール」とある。亦長崎の出島で編集されたドーフハルマ辞書にはBiter Oomogite Kosiraje-tar' nomi mono.とある。ビールも亦紅毛船によって長崎に舶載されたものである。

アラキ酒はよく出島オランダ屋敷の招待客のもてなしに食卓に並べられている。アラキ酒は蘭語orakと云う。ポルトガル語ではaracaスペイン語ではaracフランス語ではarack、英語ではarack(or racl)その母語はアラビヤ語aragに見いだすのである。古賀先生は更に言葉を続けられてアラキ酒は我が国では阿刺吉、荒気など書いた。蘭領インドのバタビヤ産のアラキ酒は最良のものである。アラビヤ語のaragは汗または汁という意味を持っている。東インドのイスラム教徒の間にこの言葉は普及した。そして強い酒と云う意味である。そして古賀先生は「これは要するに強い酒である」と結ばれている。


古賀先生は上述のように東京外大の御出身で語学には非常に堪能であられ、この酒の解説は先生ご自慢の文であられた。


第17回 阿蘭陀料理編(二) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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