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  • 第517号【早春の小鳥たち】

     散歩中、小鳥を見かけるとつい目で追ってしまう。聞きなれないさえずりが聞こえると、思わず立ち止まりその姿を探してしまう…。そんな方はいませんか。名前は知らなくても、小鳥ってちょっと気になる存在です。小鳥たちの魅力は、かわいらしいその姿だけではありません。寒い日も暑い日も、したたかにシンプルに生きている、そんな姿がとてもたくましい。そして、何より、身ひとつでビュンと飛べるところが、かっこいい。そんなわけで、早春のこの時期、長崎のまちなかで見かける小鳥をご紹介します。  スズメ以外の小鳥で、最近よく見かけるのはナンキンハゼの白い実やウメの花をついばんでいるメジロです。全国各地に棲息しているメジロは、一年中見かける留鳥。ご存知のように、オリーブ色の羽毛に目の周りの白が映えて、とてもきれい。メジロは群れて移動する習性があり、お互いの身体をくっつけあって枝にとまることがあるそう。その様子から、「めじろ押し」という言葉が生まれたとのことですが、メジロたちの「めじろ押し」は、まだ見たことがありません。  河原をトコトコ歩いては、長めの尾を上下に振ったりして、落ち着きがないのが、ハクセキレイとキセキレイです。遊んでいるのか、それとも縄張りから追い出しているのか、ハクセキレイがキセキレイのあとを追う様子を見かけました。2羽とも、波を描くように飛ぶのが面白い。「チュチン、チュチン」という鳴き声もよく似ています。単体で行動していますが、それぞれ微妙に羽毛の色が違うタイプを近場で見かけます。図鑑で調べたら、それは雄雌の違い。もしかしたら、つがいかもしれません。  キセキレイの頭上をヒューとまっすぐに飛び、石橋の下をくぐって河原に留まったのは、カワセミです。コバルト色の美しい羽を持ち、お腹あたりはオレンジ色をしています。小さな体ながら、くちばしがけっこう長い。これで小魚をつかまえるのです。じっと、川面を見つめる姿が印象的でした。  こちらの視線に気付かないのか、生垣の下をのんきに歩いていたのは、ジョウビタキ。秋頃に大陸方面からやってくる渡り鳥です。雄と雌は、羽毛の色合いがはっきり違いますが、どちらも翼に白い斑があり、尾羽根の外側はだいだい色をしています。やさしいベージュグレーの羽毛を持つ雌は、ひときわ愛らしい。羽毛をふくらませた姿はヒヨコみたいです。   中島川の上流に位置する鳴滝へ。シーボルトの鳴滝塾があった界隈は、山林に囲まれた静かな住宅街で、さまざまな野鳥の鳴き声が聞こえてきますが、その姿は枝や葉に隠れてなかなか見ることができません。そんな中、カサコソと落ち葉の上を歩いていたのは、シロハラです。ムクドリほどの大きさで、ツグミの仲間。図鑑には、「暗い林を好む」「地上で採餌」とあり、見かけた状況から、納得。大陸からの渡り鳥で、日本で越冬します。そして、春は旅立ちの季節。鳴滝のシロハラも、もうすぐ渡りのときと知って準備をしていたのかもしれません。

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  • 第516号【めくるめく如月の暦】

     旧暦の新年を祝う「長崎ランタンフェスティバル」は今週の土曜日(2/11)まで。この期間中、とくに「立春」を過ぎてからは日差しがどんどん春めいてきました。その昔、一年のはじまりと考えられていた「立春」は、二十四節気のスタート。これから「雨水」「啓蟄」「春分」と時候を刻んでいきます。  暦に記される二十四節気は、太陽が1年でひとまわりする道(黄道)を24等分し、約15日ごとの時候を2文字の漢字で表現したものです。そのいちばん最後(24番目)は「大寒」で、今年は1月20日でした。  二十四節気をさらに分けて、季節の変化をよりこまやかによみとる目安となっているのが七十二候です。古代中国で生まれたものですが、日本に渡った後、江戸時代に日本の気候に合わせて改められています。七十二候も「立春」の日にはじまり、第1候は「東風解凍」(はるかぜこおりをとく)。それから約5日ごとに第2候「黄鶯睍睆」(うぐいすなく)、第3候「魚上氷」(うおこおりをいずる)と季節をめぐり第72候「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」まで続きます。  二十四節気や、七十二候でもないけれど、暦のうえでさらに季節の節目を教えてくれるのが「雑節」です。「立春」の前日の「節分」や、梅雨入りの目安となる「入梅」、新茶を摘む時期とされる「八十八夜」、台風など自然災害への備えを促す「二百十日」などがそれです。畑を耕したり、海や川で漁をするなど自然を相手に暮らした人々が生活に役立てるためにもうけた「雑節」は、現代の暮らしにもおおいに役立てられています。  2月3日の「節分」には、あちらこちらの社寺で「鬼火焚き」や「豆まき」が行われました。「鬼火焚き」は地域によっては、「左義長」、「どんど焼き」と呼ばれています。この日、お正月の注連縄や去年のお札などをもって近所の社寺へ出かけた方も多いことでしょう。長崎市の諏訪神社でも恒例の「鬼火焚き」と「豆まき」が行われていました。  消防車がそばで待機しての「鬼火焚き」。無病息災、家内安全を願って、じっと炎にあたる人々。炎のゆらぎやパチパチと燃える音が心地よく、自然に無口になります。手をかざせば身体もじんわりと温まり、気分もほっこり。屋外で大きな炎をみる機会があまりない現代人にとって、「鬼火焚き」は貴重なひとときです。人間が洞窟に暮らした時代から変わらない炎がくれるやすらぎのようなものをいまに伝えている気がします。  そして節分の日には、伝統の行事食をいただきます。ここ数年、関西発祥の恵方巻きが全国的に知られていますが、けんちん汁、こんにゃく料理、いわし料理を食べる地域もあるようです。長崎では、紅大根の酢の物、カナガシラの煮付けなどが知られています。   季節のさまざまな節目や行事が続く2月。来週はバレンタインデーも控えています。みろく屋の「皿うどんチョコレート」は、サクサクの皿うどん細麺と上質チョコレートのおいしいコラボ。もらった人は「へぇー」なんて言いながら、ほおばれば、きっとにっこり。大切な人、お世話になった方へ、贈ってみませんか?

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  • 第26回 平戸にみる西洋料理(其の二)

    ▲安南手色絵皿前号で解説したように平戸のポルトガル船への開港は1550年であり、長崎の開港は1571年であるので、当然・長崎県下で最初のヨーロッパ風食事が開始されたのは平戸の町である。 今回は前回に引続き、1613年6月11日平戸港に到着。平戸藩主松浦隆信(1603~1637)に面会。8月6日にはイギリス国王の書簡をたずさえて駿府に家康を、更に江戸まで足を伸ばして将軍家光に面会したジョン・セーリス「日本渡航記」(新異国羨書)を中心に西洋料理関係の話を進めてきた。一、セーリス(J.Saris)の平戸出発 1613年8月、平戸公はセーリスのために大阪まで船を用意している。その船は片側に25本にカイがあり、乗り組みの船員は60人であった。 使節の一行はセーリス以下、イギリス人10名、通詞の日本人1名、W・アダムスとその家来(日本人)2名、警護の武士1名とその家来3名、槍持ち1名であった。 8月6日、出帆のとき祝砲13発をもって送られた。平戸より2日間漕ぎ続け博多の港につき上陸している。博多の町では人々が騒ぎたて自分達の後ろよりついてきた。日記には「之にかまわず行きました」と記してある 下関を過ぎ、8月27日大阪に着いている。途中何も異状もなかったと記してあり。船中の給与については、ビールとビスケット。1食は豚肉・1食は米と油と記してある。 次に当時の日本人の食に関する記事が収録してある。▲中国色絵壷 日本人は全般に米を食べ、白い米が最高である。我等のパンの代わりである。次に塩漬けの魚、酢漬けの菜類。豆類。 塩漬けまたは酢漬けの大根と其の他の根。野禽・家鴨・真鴨・鵞鳥・雉・しぎ・うずら・其の他多くの種類がある。彼等は其れ等に粉をかけて塩漬けにする。(粉は糠(ぬか)のことである) 鶏は多い。鹿も同様であり赤いのと淡黄色の両方ある。野猪・野兎・山羊・牝牛などもある。チーズはあるがバターはない。牛乳は飲まない。 註:チーズは豆腐を間違えたのだろう。 9月8日、セーリスは駿河につき家康に国王の書と使節よりの贈物を呈している、その贈物は、立派な繻子の布団・絹の穀物・飾帯・毛織布2布・ソユトラ産蘆荅・オランダ製手布3枚。二、江戸におけるセーリス一行 9月14日、一行は江戸に着いた。9月17日、将軍家光に面接。 9月21日、浦賀港の調査のため出発・浦賀より再び駿河に向かう。9月29日・駿河にはスペイン使節一行も来ていた。スペインの使節は「甘いぶどう酒5壷」と「緞子」を献上している。 10月16日、一行は京都出発、21日正后ごろ大阪に着いた。10月24日、大阪まで私達を送ってくれた平戸藩の船が大阪で持っていたので早速その船に乗り込んだ。 11月6日、朝10時頃・平戸に着いた。平戸では早速私達の船(イギリスのボート)に乗り上陸しイギリス商館に向かうとき祝砲5発があげられた。三、セーリス江戸参府・留守中の江戸 (平戸イギリス商館員リチャード・コックス日記より) 9月13日、平戸の老法印が病気と聞いたので、私は通訳ミグエルに「あまいぶどう酒の大瓶1個と砂糖漬け及び砂糖パン2箱を見舞として贈った。」 平戸ではこの当時、一般には、まだ「甘いパン」は造られることがなかったので、珍しいものとして「甘いパン」がイギリス商館内では作られていたことが知られる。 10月10日、7日以来長崎奉行が平戸に来た。この夜、長崎の役員の子息2人が来た。平戸公はこの時、イギリス商館に来られたので皆と一緒に宴席をもった。平戸公は此の時、「葱と蕪菁とを入れて煮たイギリス牛肉と豚肉を食べたいので明日もってきてくれ」との事であった。 10月11日平戸公に早速、注文の牛肉・豚肉それにぶどう酒1本と白パン6個を持たせた。公より孫の若殿、弟の松浦信実、親類の松浦主馬を招き一緒に之を賞味されたとの報告があった。▲オランダ人形(陶器) 10月13日、平戸公より使いが来てぶどう酒1本を持ってオランダ商館に来るようにとの事であった。そこには大変結構な中食が用意されていた。肉は日本風とオランダ風の両方で美味しく調味されていた。松浦公は彼の長男、若き兄弟と一つのテーブルにつかれ、他のテーブルには公の弟(信実)、それに私と松浦家の家老が席についた。オランダ・カピタン自身は席につかないでテーブルの肉を切って接待した。 10月30日、平戸公の家来より明日、城内で能(のう)があるので、食料品を献上するようにとの連絡あり、スペイン産のぶどう酒2本・焼鶏・焼豚肉・軽パン及び料理の材料3箱をとどけた。 以上のように平戸公は様式料理を非常に好まれたことが良く理解されるし、平戸には西洋料理を調理できた日本人の料理人がいたことも知られている。第26回 平戸にみる西洋料理(其の二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第515号【中国文化と長崎の「よりより」な関係】

     長崎ではおなじみの中華菓子「よりより」。はじめてその名を聞く人は、「???」ですが、そういうときは、「小麦粉で作った生地を、ぐるぐると縒って、油で揚げたものよ…」なんて説明するより、「ほーら、これよ」と差し出したほうが早い。見た目通りの名称に「なるほどね」と笑顔がこぼれます。  きつね色に揚げられた「よりより」は、香ばしく、小麦粉の旨味がしておいしい。噛むと「カキン」と頭に響くほど固いのですが、近年、サクサクと心地よく噛めるタイプも出ていて、固いタイプとともに人気のようです。「よりより」は、長崎のお土産品の定番のひとつで、パッケージには中国語の名称「麻花兒」と書かれたものも見かけます。  さて、中国といえば、旧正月(春節)を祝う「長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります。開催期間は、1月28日(土)から2月11日(土)までの15日間。これは、旧暦の元旦(春節)から1月15日(元宵節)にあたります。長崎市中心部はすでに中国ランタンの装飾がほどこされイベント開催の気分が高まっているところです。  国内外からのおよそ百万人の来場者で賑わうようになった「長崎ランタンフェスティバル」。人気の理由のひとつは、まず圧巻ともいうべき1万5千個にも及ぶ中国ランタン装飾でしょうか。極彩色の灯りが醸す雰囲気は、日本でも、中国でもない、中国文化と融合した長崎ならではの幻想的な世界。凍てつく季節のなかにあっても、長崎のまちを不思議なぬくもりで包みます。  長崎市中心部7カ所に設けられた会場(新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、孔子廟会場など)では、中国獅子舞、中国雑技、龍踊り、二胡演奏など、中国ゆかりの催しが連日行われます。期間中の土・日には、華やかな衣装に身を包んだ皇帝パレード、媽祖行列が行われます。また、昨年もいち押しの催しとして紹介しましたが、今年も孔子廟会場では「中国変面ショー」が毎日行われます。一瞬で仮面が変わる特殊な技は見応えたっぷりです。  新地中華街会場では、干支の酉年にちなんだ高さ10メートルもある巨大オブジェが設置されます。眼鏡橋がかかる中島川界隈では黄色のランタン、新地中華街そばを流れる銅座川では桃色のランタンが出迎えてくれます。頭上にゆれるランタンの灯りを見上げて歩く時、その向こうの夜空も仰いでみましょう。長崎ランタンフェスティバルは、ちょうど新月から満月になる期間と重なるので、月が次第に満ちていく様子も楽しめます。   「長崎ランタンフェスティバル」に繰り出せば、店頭で「よりより」を見かけることもあるはず。2本の生地がひとつに縒られ、螺旋を描くその姿は、はからずも普遍的。それは、中国文化と長崎の関係のようにも思えるのでした。

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  • 第514号【良い年になりますように、社寺巡り】

     年末年始、いかがお過ごしでしたか。九州地方の三が日は天候に恵まれ、和やかな新年の幕開けとなりました。  年を越した場所は、長崎市寺町にある唐寺・興福寺です。除夜の鐘が鳴り響くなか山門をくぐると、境内も本殿も新年を迎える準備が整えられ、すがすがしい空気が漂っていました。1620年(元和6)に創建された興福寺は、日本最古の唐寺。朱色の建物や仏像の姿に、のどかでおおらかな大陸文化の影響が感じられます。  その本殿で、去年今年をまたぐ深夜の数十分間、箏と尺八による演奏が行われました。あたりに染み入るように響く日本の伝統の音色。新年を寿ぐその音色が唐寺の空気と混じり合うとき、おそらく長崎でしか味わえない豊かな時間が生み出されているようでありました。新春の定番曲「春の海」も奏でられ、初詣に訪れた大勢の人々が演奏に聴き入っていました。  興福寺での年越しの演奏会は、長崎在住の箏・尺八の奏者である竹山直樹氏とそのお弟子さんらによって数年前から行われているそうです。「年の初めに、日本人の感性が育んだ伝統の音色をあらためて感じてほしい」という竹山氏。異文化に美しく馴染む日本の音色の奥深さを感じた年の初めでありました。  元旦の午前零時台。興福寺での参拝をすませ、諏訪神社(長崎市上西山町)近くを通りがかると、初詣客のために深夜運行をしている路面電車から、大勢の人が降りてきました。出店で賑わう参道は早くも人々で埋め尽くされ、長崎県内でもっとも初詣客が多いといわれる神社の変わらぬ人気ぶりを目の当たりにしたのでありました。  初詣を終えても、新年を迎えたばかりの一月は折にふれ社寺に参拝したくなります。諏訪神社近くにある松森神社を訪れると、境内に植えられたロウバイが満開を迎え、あたりに甘くさわやかな香りを漂わせていました。学問の神様、菅原道真公を祀る松森神社は、この時期とくに受験を控えた学生たちの姿が目立ちます。拝殿横に植えられた梅を見ると、大半のつぼみが膨らんで開花も近いようでありました。  毎年、元日の頃に開花することで「元日桜」の呼び名で親しまれている西山神社(長崎市西山町)の寒桜。足を運ぶと五分咲きといったところ。これから満開を迎え、一月いっぱい楽しめるとのことでした。西山神社は1717年(享保2)、長崎聖堂の学頭で天文学者であった盧草拙(ろ そうせつ)が、妙見社を建てたことにはじまります。  妙見社は北辰(北極星)を信仰するもの。西山神社の鳥居の額束(がくづか)はちょっとめずらしい丸型をしていますが、これは北極星を現したものといわれています。江戸時代中期の長崎で活躍した盧草拙はたいへん有能な人物だったようで、書物改めなど唐船との貿易に関わる務めのほか、長崎奉行所にも勤務、さらに天文学者として江戸に招かれたこともあります。   学者になるほど星好きだった盧草拙は、ちょっと気になる長崎人のひとり。彼だったら、良い年になりますようにと、夜空の星を見上げ願ったに違いありません。

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  • 第25回 平戸にみる西洋料理(其の一)

    平戸の領主は松浦氏である。平戸の開港は長崎の開港より古く、ポルトガル船の初めての入港も長崎開港より20年も前の1550年であった。そしてこの年、フランシスコ・ザビエルも平戸に到着しキリシタンの布教を開始している。そして当然、そこにはポルトガル風の料理が普及していた。当時の平戸の食の事情について、1560年平戸地方にキリシタンを布教していたフェルナンデス神父は次のような書簡をローマに報告している。▲中国染付蓋物この町(平戸)にはポルトガルと同じ食糧があります・・・・・・日本の人達は何でも平戸の町では食べているが、坊さんのみは牛肉を食べません。この地方にはポルトガルと同じ食糧はありますが其の量は少ない。平戸の人達はあまり働かないので飢餓する人が多い、又、この地方は非常に寒い。平戸・松浦地方は、ポルトガル船が入港する以前より倭冦や朝鮮貿易のこともあって唐船が入港していた。其の故もあって豚は当地方では其の一部は使用されていた。次に、長崎県下で最初にパンが焼かれ、洋風の食事が開始されたのは平戸地方であった。一、イギリス船の入港ポルトガル船は種々の事情もあって、1562年(永禄5)には平戸の港を出て、大村氏領の横瀬浦(現・西彼杵郡西海町)に入港し更に1571年には長崎港(大村氏領)に入港して以来平戸の港にポルトガル船の入港は殆どなかった。松浦氏は、1609年5月ポルトガル船にかわってオランダ船の平戸入港に成功している。オランダ人は、早速平戸の町にオランダ商館を建設し貿易を開始している。更に平戸港にはオランダに続いて1613年にはイギリス船クローブ号が入港し、同年10月には平戸イギリス商館を建設し、オランダ、イギリスの二国は長崎を中心にしているポルトガルの貿易船に対抗することになった。この時のイギリス商館長はジョン・セーリス(John Saris)といった。セーリスは1813年6月12日(慶長18・5・5)平戸に入港し、8月には将軍秀忠と前将軍家康に面接するため江戸・駿府に向けて出発し、通商の許可を受け11月6日平戸に帰着している。このセーリスはイギリス東インド会社の貿易船隊司令官であり、彼の日本来航は英国王ジェームス一世の将軍家康への国書をたずさえ、対日貿易開始の使命を帯びての事であった。そして彼は其の時の記録「日本来航記」(村川堅固訳・岩生成一校訂・新異国羨書)を執筆している。私達は今、このセーリスの渡航記の中より我が国に及ぼした食文化を考えてみることにした。尚、長崎談叢九十輯に伊東秀征氏の「平戸と長崎の出来事に関するエドマンド・セーヤーズの日記」があるので本稿には大いに参考にさせて戴いた。 二、平戸と西洋料理▲伊萬里赤絵急須セーリスは1612年1月14日胡椒七千袋を船に積み込み日本に向けバンタムの港を出発している。乗り組み員はイギリス人74名、スペイン人1名、日本人1名、インドネシヤ人5名であった。次に其の日の船中食の記録に次のように記してある。船中の給与、一Sack酒(スペイン産葡萄酒)及びビスケット。二食、全能の神が彼らに健康を恵み給う牛肉。次の日の1月15日には岩礁の難関を無事脱出した記録と次の食の記録が讀まれた。給与Sack酒及びビスケット。二食は小麦と蜂蜜なお岩礁を無事に通過した苦労に報い各員にバイトン葡萄酒。四月十四日船はモルック諸島を平戸に向かっている。其の時の食事は給与、ビスケット及びラック酒、一食は牛肉と焼団子、一食はオートミール。六月十日、船は天草の近くに進んできた。午前九時、南の疾風、西寄り北へ航進。四隻の大型の(日本人の)漁船が予の船に近付いてきた。船は一本の柱に帆をはり片側に四本の櫓がついている。予等は長崎に行くのかと聞く。予は船長・事務長に命じて漁船の船長と他の一人に平戸まで案内させることにした。彼等は三十リアルの金と、彼等の食事に要する米を報酬として望んだ。そして彼等の内二人は予の船に乗り込み予の船の全ての仕事に快く労力を提供して下さった。この日の給与、サック酒及びビスケット。一食は牛肉、一食はオートミール。翌六月十一日午後三時、平戸の手前半リーグに投錨。潮が引き進むことが出来なくなったからである。礼砲一発を射つ。それから、領主松浦鎭信公がイギリス船を訪問したと記している。然しイギリス船の平戸訪問はこの時が始めてなのであるのに、どうして領主松浦鎭信公が同船を訪問したのであろうか。これは先年来、平戸に来航していたオランダ人より、イギリス船の来航があることを知らされていたからであると考える。船長セーリスは、この時領主松浦鎭信公を「数種の缶詰をガラス器に盛ってもてなした」とある。この時がイギリス船の入港は平戸公にとっては大いに歓迎すべきものであった。この時、平戸の人達(商人達)は、セーリスに日本酒の樽、魚、豚肉を贈ったと記してある。そして平戸の身分ある婦人が船を訪ねてきたので船室に入ることを許したところ、室になったビーナスの画像をみて彼女等は此の画像をマリヤと思って礼拝し、他の人に聞こえないように「私達はキリシタンである」ことを告げた。▲ 東巴(トンパ)文字絵皿6月13日。セーリス一行は王の歓迎をうけている。この時の料理は塩と胡椒で調理された類種の野菜や菓物であった。6月22日平戸松浦の老公が船に来た。彼は遊女を同伴してきた。セーリスは音楽と色々の砂糖漬を出してもてなした。王は其れを良く食べた。私達は王に望遠鏡一個と黒絹と金の縫取りのあるナイト・キャップを贈った。平戸藩では、当時すでに洋食が大いに普及していたし、平戸公自身も大いに洋食を好まれていた。7月3日のセーリスの日記には、王と私と朝食を共にするために「イギリス商館に来られた」と記録されている。(次号に続く)第25回 平戸にみる西洋料理(其の一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第513号【師走、ちゃんぽんを食べながら】

     師走半ば五島在住の方から、かんころもちが届きました。お礼の電話を入れると、「高齢なので、かんころもち作りはあと数年で引退かも…」とポツリ。5月、サツマイモの苗植えからはじまるかんころもち。秋の収穫やイモを蒸して干す作業も体力勝負で、家族や友人の「おいしかったよ」の声を励みに毎年作っているそうです。我が家では、かんころもちはすっかり師走の風物詩。届くと先方のお元気そうな様子が見えてきて、ほっとします。今年もありがたくいただきました。  何かと忙しい年末ですが、恒例の贈り物が届いたり、帰省した親戚の子や友人たちが、ひょっこり訪ねてくるとうれしいものです。久しぶりの顔ぶれが揃うとき、我が家では地元産の牡蠣などいつもよりちょっと贅沢な具材を使ったちゃんぽんで、もてなします。ちゃんぽんは、「おいしい」と喜ばれるのはもちろんですが、作る側にとっては手間がかからないので、ありがたい。手前味噌になりますが、麺もスープもやっぱり「みろくや」。試作と研究を重ねた絶妙な加減で、野菜やお肉、魚介類のおいしさを引き立てます。  お客さま用に加え、年越しそばならぬ、年越しちゃんぽん用など、年末年始はちょっと多めにちゃんぽん麺とスープを買い置きします。そのお買い物がてら眼鏡橋界隈へ出向くと、冬休みとあって若者の姿が多くみられました。護岸の一角にはめ込まれたハート・ストーンは、すっかり恋する人たちのパワースポットに。眼鏡橋の2つのアーチがくっきりと水面に映る光景が見られる、ひとつ下流にかかる袋橋には写真を撮る人が次々にやって来ます。この界隈で最近目立つのは、中国からの観光客です。ところで彼らは、眼鏡橋をはじめとする中島川の石橋群が、中国にゆかりのあることを知っているのでしょうか。  中島川にかかる眼鏡橋は、寛永11年(1634)、唐寺・興福寺の二代目住職で黙子如定という唐僧が浄財で架けた橋です。これを機に当時、長崎に居住していた中国人貿易商らの寄附により、中島川に次々に石橋が架けられました。石橋は、木の橋と違って洪水のたびに流されたり、腐ったりしません。当時、長崎港に入った唐船はその荷を小舟に移し、中島川上流の桃渓橋あたりまで漕いで来たそうなので、荷を上げ下ろしするためにも丈夫な石橋は必要だったのかもしれません。また、多額の寄附は、長崎を拠点にした商いで富豪となった彼らの恩返しであり、このまちに溶け込もうとした気持ちの表れであったかもしれません。いずれにしても、彼らがその財力を石橋にそそぎ、長崎のまちづくりに活かしたことは大きな意義のあることでした。  中島川の石橋群だけでなく、長崎には中国とゆかりのある場所がそこかしこにあり、興味をそそる謎めいたことも多々あります。たとえば、長崎市鳴滝地区にある唐通事の彭城(サカキ)家の別宅跡(現・県立鳴滝高校)。江戸時代、その庭園の一隅に置かれていたという陶製の織部灯篭(復元)がいまも残されています。十字のデザインが配され、別名キリシタン灯篭ともよばれるものを、禁教時代になぜ彭城家がもっていたのか。その真相は知る術もなく、謎が謎を呼ぶばかりです。  しかし、歴史の真相はわからないから面白いもの。長崎と中国の友好の証しでもあるちゃんぽんを食べ、ああだ、こうだといいながら、来年もその迷宮を右往左往して楽しみたいと思います。今年も読んでいただき、誠にありがとうございました。

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  • 第512号【肥前長崎かぼちゃ町!?】

     ご近所の庭先では柚子がたわわに実り、その黄色のあたたかさにほっこり。「冬至の柚子湯で風邪知らず」などと言いますが、この日は(今年の冬至は12月21日)習わし通りに柚子湯につかり、カロテンやビタミンCが豊富なかぼちゃを食べ、寒さに負けない心とからだを養いたいものです。  すぐれた栄養価で緑黄色野菜を代表するかぼちゃは、戦国時代、ポルトガル船が九州に運んできたのが最初の伝来で、「かぼちゃ」の語源は産地のカンボジアが転じたものといわれています。また、九州では「ぼうぶら」とも呼ばれ、その語源はポルトガル語でかぼちゃを意味する「abo(、)bora 」(アボブラ)からきたものだそうです。ちなみに、豊臣秀吉は九州に来た時かぼちゃを初体験。その甘さに喜んだというエピソードが伝えられています。  かぼちゃは、漢字では「南瓜」と書きます。これは「南蛮渡来の瓜」の意味からきたもので、これを「なんきん」とも呼ぶのは主に関西方面が多いそう。また、主に関東方面での異名として、「唐なす」があります。いずれにしても異国の野菜であることがその名に表されています。  さて、16世紀半ばから17世紀初め頃の長崎には、「ボウラ町」という町名が存在したようです。「ボウラ」とは、「ぼうぶら」のこと。つまり「かぼちゃ町」ということですが、場所は、長崎市役所近くにある長崎市立桜町小学校北側の道路を隔てた一帯(長崎市勝山町と八百屋町にまたがる)です。1745(延享2)年刊本の「肥之前州長崎図」(京都・林治左衛門版)に記載されています。  長崎市中を中心に長崎港沖合や近郊の様子までつぶさに描き、地名、町名、寺社、役所などの名称がこまかく記されたこの地図。ボウラ町の南側には高木代官屋敷(現・桜町小学校)、西側に長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)が通りを隔てて建っています。地図には「古ハボウラ町ト云 南蛮人ボウラヲ作リシ故ニ」とある。その昔、南蛮人がボウラを作ったのでボウラ町と呼んだ、などとわざわざ記したところに、どこか観光マップ的な意図がうかがえます。当時は、長崎に限らず、各地のまちの地図が作られていて、けっこう売れていたのだそうです。  さて、高木代官屋敷の場所は、江戸時代初期には「サント・ドミンゴ教会」があり、長崎奉行所立山役所の場所には、天正年間に建てられた「山のサンタマリア教会」がありました。そうした教会跡からもわかるように、このあたりは当時、ポルトガル船でやってきた宣教師や船員などが盛んに往来したところであります。  かぼちゃは、サツマイモと同じく保存がきき、やせた土地にも育つそうです。そのすぐれた栄養価を経験的に知る南蛮人たちが、寄港先でその土地の人々と一緒に作るのは当然かもしれません。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川休林)には、長崎で作ったかぼちゃを唐人や紅毛人に売っていたという内容が記されています。  ポルトガル船が日本へ運んできたかぼちゃは、のちに「日本かぼちゃ」と呼ばれるようになり、「鶴首(つるくび)」「黒皮ちりめん」などたくさんの在来種を生み出しましたが、いまでは、明治以降に導入された「西洋かぼちゃ」(栗かぼちゃとも呼ばれる)に押され気味のようです。市場などをめぐると、数は少ないですがその地域でしか作られていない品種など、いろいろな種類のかぼちゃに出会います。一度手にとって味わってみませんか。   ◎  参考:「長崎やさいくだもの博物誌」(タウンニュース社)、「からだによく効く食べもの事典」(監修・三浦理代/池田書店)、「100万人の野菜図鑑 〜畑から食卓まで〜」(野菜供給安定基金)

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  • 第24回 パン物語(三)

    一、パン製造の古文献先年、千葉大学教育学部の松下幸子先生より東北大学狩野文庫蔵書の中より「南蛮料理書」と「阿蘭陀料理煮法」のコピーを御恵送いただいた。前者は江戸時代初期のものであり、後者は幕末のものである。両書共にパンの製法の事が次のように記してあった。○南蛮料理書 一はんの事 麦のこ あまさけにてこね ふくらかしてつくり ふとんにつつみ ふくれ申時 屋き申也 口伝有○阿蘭陀料理煮法 一パン拵様 麦粉を白酒にて堅くこね 凡茶碗にて丸くなし長目に造り 鍋に入 上下より蒸焼きにす 始めは至極少火にて焼 少しふくれの出きる時 武火(つよび)を以やき終る也 但白酒はまんぢうを拵る時もちうる白酒也前回述べたようにポルトガル船が来航していた頃の長崎の街では自由にパンが焼かれていたが、キリシタン禁教の時代を迎えると、「パンはキリストの肉体」という教えから幕府はパンを食べる事を禁じている。然し、亨保4年(1719)に長崎の人・西川如見が著した「長崎夜話草」を讀むと其の中の長崎土産の項に「ビスケット・タマゴ・ソメン・パン・・・・・・」の名をあげているが、此の事は当時の長崎にはパンは一般には食用とされなかったがオランダ人のためには焼かれていたので名前をあげたのであろう。二、出島オランダ屋敷とパン▲蘭人出島会食図出島オランダ商館の日記を讀むと次のようなことが記してあった。1643年2月早朝、江戸参府に出かけていたカピタン一行が大阪より船に乗り長崎の出島に入った。翌二十八日前カピタン・エルセラック君が住んでいた旧宅に移転を命じられた。次いでパンを食べることは日本人に禁じられていたが、私達は奉公に願って昨日特にパンを食べる事を許された。前回も述べたが出島内には料理室もあり、日本人の料理人も雇われていたが出島内でパンを焼く事は許されなかった。其の故にオランダ人のパンは長崎の町に唯一一軒パンを焼くことを許されていたパン屋が毎日きめられた数だけのパンを焼いていた。出島オランダ商館日記を讀むと更に多くのパンに関した記事が記してある。一六四九年八月四日パン屋から、小麦その他商館用品の全てが値下げになったので今後一年間は十個のパンのかわりに良く焼いて目方もかわらぬパン十一個半ずつを納めると言ってきた。これで私達は目方六十五匁のパン百個であったのが百十五個となった。三、長崎のパン屋▲オランダ焼皿江戸時代、全国でパン屋が営業できたのは長崎の町のパン屋一件だけであった。そのパン屋では前述のように出島のオランダ人のために納品したパンだけでなく、毎年春に入港し、取り引きを終え秋に出帆するまでに港に碇舶しているオランダ船の船員の食用としてのパンも納品していたのである。オランダ船は毎年一・二艘は入港し、船員の人達は上陸し町中を歩くことは禁止されていたので、毎日が大変であったと考える。一艘の乗員は120人内外であり、出島で生活できるオランダ人は12・3人であった。この人達のすべてが食用とするパンを長崎のパン屋は納品し其の代償の取引については「長崎会所五册物」に次のように記されている。一、日用食物パン代の儀はオランダ人食用に付、日日パン屋より賣込来る。右代銀は償これなし、オランダ人買調候に付き代銀は月々長崎会所お取替渡し仰付らる。オランダ船滞在中に相調候分は出帆引合に相立て差引仕り・・・・・・これによるとパン屋の代金は全て長崎会所が立替え支払うのでパン屋は欠損なく大儲けしていたのである。この事について1790年頃オランダ通詞として活躍していた楢林重兵樹が書き留めた「楢林雑話」を讀むと次のように記してある。オランダ人は常食としてパンというものを用う。長崎にて之を賣ることをなすものあり、之をハン屋という。オランダ人みな之のハン屋より買うて食す。ハン屋の年中の利益は二百両ばかりなりと云う。オランダ人はパンの上に牛羊の酪・ボートル(バターの事)を引いて食す。又密を煎じて卵をかけて煮るをパンドウスと云う。パンはゼルマニヤ語なるべし。パンはオランダ語にては鍋にてパンは蒸して作る食べものなりとの意なるべし。又パンの鍋にやきつきたる皮をコロインと云ひ子供の虫にて食を忌むとき、又は面部などの腫るるときは之を塗るとよし。また、江戸時代第一の知識人として知られた司馬江漢も天明8年10月(1788)長崎に来遊し其の時見聞きしたことを綴って「西遊日記」を著しているが、その中にも「パン」の事を次のように記している。彼のオランダ国は牛肉を上食とす、中以下はパンとて小麦にて製する物を食す。オランダは寒国にて米を生ぜざる故なり。この全盛をきわめた長崎のパン屋はオランダ屋敷に近く大波止にも近かった、樺島町にあったと言う。▲有田焼色絵カップ安政六年、(1859)幕府はそれまでの鎖国令を止めて開国に踏み出した事より長崎の街の様子は一変した。そして開国の翌年、万延元年10月(1860)には大浦地区に居留地が完成したので外国の人達は出島を出て大浦地区に洋館を建て移り住んだ、このとき外人の家では料理人を雇い自家製のパンを焼いたり、新しいパン屋が大浦地区には開店した。その故に、それまで唯一一軒で販賣していた長崎のパン屋は、他の出島出入賣込人と共同し次の歎願書を出している。私共これまで出島用取掛り仰付られ勤め候 その故に外人商売については從来の如く一切おまかせ下され度・・・・・・然し、時代は大きく展開していたのであった。第24回 パン物語(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第511号【風雅を愛した何兆晋〜心田菴〜】

     月が地球に最接近したときと、満月になるタイミングがあったときに観ることができるスーパームーン。今月14日でしたが、ご覧になられましたか?長崎はあいにくのお天気でしたが、翌々日くらいまで、大きく輝く月を拝むことができました。  月を愛でたり、紅葉を眺めたりと、風雅なシーンをいろいろ楽しめるこの時季に合わせて、今年も長崎では「心田菴(しんでんあん)」(長崎市片淵2丁目/長崎市指定史跡)の一般公開(11月17日〜12月13日迄)がはじまりました。日本庭園とかやぶき屋根の家屋が江戸時代の風雅を伝える「心田菴」。庭園では、松の大木、梅、桜、ヤブ椿など約50種類の植生が見られるとか。公開初日に足を運ぶと、色づきはじめた山紅葉、赤い実をつけた千両、万両、そして黄色いツワブキの花などが晩秋らしい彩りを添え、来場者の目を楽しませていました。  「心の田畑を耕すことが大切である」との思いから名付けられたといわれる「心田菴」。茶室を設けた家屋も庭園も簡素で控えめな印象です。建てたのは何 兆晋(が ちょうしん)(1627頃〜1686)という人物。字(あざな)は「可遠(かえん)」、号は「心聲子(しんせいし)」、日本名は仁右衛門(にえもん)といいます。兆晋は、この別荘を建てる前、唐小通事を10年ほどつとめています。唐小通事とは、江戸時代に中国との貿易交渉などにあたった通訳の「唐通事(大通事・小通事・稽古通事)」を構成する職務のひとつです。  兆晋の父は、何 高材(が こうざい)という福建省出身の帰化唐人で、日本との貿易で財をなした大富豪でした。高材は、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の大雄宝殿や清水寺本堂(長崎市鍛冶屋町)の建立、そして石橋築造などに寄進し、長崎のまちづくりに尽力。兆晋も父とともに寄進することがあったようです。兆晋が唐小通事職を辞した理由については、以前本コラムでも紹介した「伊藤小左衛門事件」に、兆晋の下人が関わっていたことによるものと推測されています。兆晋42歳の頃でした。その後、「心田菴」を建て風流人として暮らしたとされていますが、裕福であったとはいえ、どのような思いで当時の長崎のまちや人を見ていたでしょうか。  ところで兆晋は、中国の伝統楽器、七弦琴(しちげんきん)の名手であったそうです。そのご縁で、肥前鹿島藩の第四代藩主・鍋島直條(なべしま なおえだ)と交流がありました。直條は、近世初期の西国随一の文人大名と称される人物です。直條とその友人らの漢詩や和文などの作品を収めた『詩箋巻』には、直條との親密さがうかがえる兆晋(心聲)の作品が多く収められています。  兆晋亡き後、江戸時代後期の文人画家で長崎に遊学した菅井梅関が「心田菴図」を描いており、幕末の国学者・中島広足も心田菴を紹介する記述を残すなどしています。また、兆晋と交流があった長崎出身の儒学者・高玄岱(こうげんたい)は、『心田菴記』を記し、世俗の盛衰や存亡などとは縁はなく、倹約の暮らしがあった心田菴の様子や兆晋の人柄などについて次のように書き残しています。「……格別な一世界である。これはいわゆる心田と言うべきか。……君がもとより富む人でありながら世俗の垢や塵を棄て、山水の間に放って、楽しみながらも酒食や浪費をしないでくらしていることを知って友とするのである。この楽しみは、君と交わって尽きることはない。」心やさしき風流人、何 兆晋が残した心田菴。紅葉の見頃はこれからだそう。足を運んでみませんか。   ◎参考:「高玄岱 自筆巻子本『心田菴記』について」(若木太一/長崎歴史文化博物館『研究紀要』第七号)、『文人大名 鍋島直條の詩箋巻』(中尾友香梨、井上敏幸/佐賀大学地域学歴史文化研究センター)

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  • 第510号【西海キリシタンゆかりの地を訪ねて】

     「北海道の各地では積雪…」というニュース映像が流れていましたが、九州では小春日和が続き日中は20度を超える日もあります。そんな晴天に恵まれた先週末、「長崎日本ポルトガル協会」が主催するバスツアー「西海キリシタン史跡めぐり」に参加。自然豊かな西彼杵半島(にしそのぎはんとう)に息づく歴史を味わってきました。  九州の北西部に位置する西彼杵半島。南北に伸びる半島の西岸は角力灘・五島灘に面し、北岸は佐世保湾、東岸は大村湾に面しています。農業が盛んな地域で、行き先々で収穫した稲を天日干ししている風景が見られました。  江戸時代、この半島一帯をおさめていたのは、日本初のキリシタン大名・大村純忠で知られる大村藩です。今回訪れた室町から江戸時代にかけての史跡は、藩主・純忠が洗礼を受け、その後間もなく禁教の時代がやってきて、すでにキリシタンとなっていた人々が迫害を受けた歴史の跡でありました。  長崎市街地を出て間もなく、遠藤周作の『沈黙』の舞台となった長崎市外海地区(黒崎・出津)へ向かう途中でバスを下車。国道202号そばの山の斜面にある「垣内の潜伏キリシタン墓碑」(長崎市多以良町垣内地区)を見学しました。長方形の石を伏せた「長墓」がいくつも並んだこの墓碑群は、キリシタンが厳しい迫害を受けた江戸初期のものといわれていますが、破壊されることなくほぼ完全な形で残っているとか。迫害を免れた理由は、垣内地区が佐賀藩深堀領の飛び地であったため、周囲の大村藩領に比べ取り締まりがゆるやかで見逃されたという説や「平家の落人の墓」と伝承されていたため、という説があるそうです。  国道をさらに北上。天正遣欧使節のひとり、中浦ジュリアンの出生の地である西海市中浦へ。畑に囲まれたのどかな場所に「中浦ジュリアン記念公園」があり、海原の向こうのローマを指差す中浦ジュリアンの銅像が建っていました。1582年(天正10)、長崎港を出帆した使節団。ローマ教皇に謁見し日本にもどったのは8年後の1585年。キリスト教の布教が禁じられた時代でした。帰国した中浦ジュリアンは迫害のなか布教活動を続けますが、その後捕えられ長崎・西坂で殉教します。西果ての小さな村に生まれ育った中浦ジュリアン。波乱に満ちた人生をおくり、まさか400年以上も先の未来で語られる人物になるとは想像だにしなかったことでしょう。  半島の北端に近づくと、大根畑が目立つようになりました。「ゆでぼし大根」の産地として知られる面高(おもだか)地区です。冬、収穫された大根は短冊に切って大釜で茹でられ、空っ風にさらされておいしい「ゆでぼし大根」になります。栄養価も優れ、素朴な味わいが人気です。   史跡めぐりでは、大村純忠を支援した多此良領主小佐々氏の墓所(敷地内に数基のキリシタン墓碑がある)、純忠が長崎に先駆けて南蛮貿易港として開港した横瀬浦、さらに大村湾に面した場所にある小干浦キリシタン殉教碑なども訪ねました。各所を案内してくれた方がツアーの最後に、キリスト教関連の史跡に対する土地の人々の言い伝えは、激しい弾圧を逃れるために、口をとざした部分があったり、事実がゆがめられたりしているものが多く、真相は闇の中というケースがほとんどではないだろうか、という話が印象的でありました。

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  • 第23回 パン物語(二)

    一、 オランダ商館・長崎出島に移転のこと 長崎の港内・長崎奉行所下(当時の奉行所は現在の長崎県庁本館の地にあった)の海岸を埋め出島の地が完成したのは寛永13年5月(1636)で、その面積は3,969坪(約13ヘクタール)であった。 この出島が築造された目的は、「ひとつは幕府における海外貿易の統制」と他のひとつは「キリシタン禁教のため」であった。その故に1571年(元亀2)長崎開港以来、長崎の町に自由に住み、日本婦人と家庭と持つことも許されていたポルトガルの人達を全て出島の中に収容し、許可なく自由に長崎の町に出ることを禁じている。 そして、唐船に対しても我が国に貿易のため入港を許す港は長崎一港に限り、今までのように平戸、その他に港に来航することも禁じている。 寛永16年7月(1639)幕府は更にポルトガル人(船)の長崎入港を禁じ、ポルトガル人を追放し、我が国に入港を許す船は唐船(ベトナム・タイ・カンボチヤの船を含む)とオランダ船のみと命じた。▲オランダ色絵皿 そして、この時、幕府は更に前年(1614)実施した我が国のキリスト教徒148名をマカオ・マニラに追放した事に続いて、イギリス・オランダ人の混血児とその関係者11名をジャカルタに追放している。 この中の一人に長崎筑後町生まれのジャガタラお春がいた。 翌1640年9月(寛永17)大目付井上筑後守は平戸オランダ商館に行き商館長マキシミリアン・メールに、ポルトガル人に立ち退かせたあと空家となっていた長崎出島の地に移るように命じた。  これに対してオランダ人は幕命であり否応は言えなかった。二、オランダ人・出島に移転す 1641年6月25日(寛永18・5・17)のオランダ商館の日記には次のように記してある。 (村上直二郎先生訳・岩波書店刊) 日の出の頃、船が長崎についたので直ちに予は(M・メール)オランダ人及び(船に乗船してきた)日本人の通詞他の人々に室をきめ、日本人家主(25人の長崎町人)に必要な修理を頼んだ。午后、主なオランダ人と奉行所に挨拶に行き今まで平戸で使用していた日本人の使用許可を願った。 食事のことについてはあまり記載されていないが、それは前回述べたように当時の長崎の町には既にポルトガル人が1571年以来、自由に町中に住み・牛肉やパンなどをとる食生活があったので即座に不自由はなかったからである。 8月1日(寛永18・6・25)次の申し渡しがあった。それは食用に関するものであった。 オランダ船が持参した牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤ・フランスの葡萄酒、オリーブ酒、その他キリシタンが通常使用するものを日本人、中国人又は外国人に賣渡し、交換または贈与してはならぬ。 8月9日(寛永18・7・3)幕府はオランダ人に日本人に対してキリスト教布教の厳禁を命じている。その一節には次のように記してある。 日本人の面前でキリスト教の儀式を行ってはならぬ。日曜や聖日を祝い休んではならぬ。聖書・聖歌集を日本人に見せてはならぬ。 1641年8月19日(寛永18・7)出島門前に次の制札が建てられたと記している。1、 日本人はオランダ人と共謀し金・銃器・その他禁制品の輸出を禁ず。1、 オランダ人は許可なく出島外に出てはならない。1、 遊女以外の女、僧、乞食は出島に入ることを禁ず。1、 日本人の船は出島の周囲に建ててある杭の中に入ることを禁ず。1641年10月24日(寛永18・9・20)長崎奉行所に幕府より派遣されて来た大目付井上筑後守は島原藩主高力摂津守ならびに馬場・拓殖両長崎奉行と共に午后出島オランダ商館を訪ねてきた。商館長は葡萄酒及び料理で出来るだけ飲待したが「彼等は料理に出した葡萄酒・アラク酒・牛酪・酪酪の事について種々質問した」 以上の他・次のことがあった。▲赤絵オランダ船絵付コーヒーカップ1、 オランダ人は日本滞在中は陸上でも船上でもラッパを吹かぬこと。(1641・8・11)2、 オランダ人は今後日本人を使用することを禁ずる。(1864・8・11)これによって商館内に平戸以来雇用してきた日本人使用人21人の内13人を解雇し、奉行所より派遣使用人として通詞2人、青記1人、料理人2人、部屋召使3人の計8人を申請した(1846・8・13) この2人の出島料理人は寛文4年(1664)より奉行所派遣の定役となり、人員も3人となり「阿蘭陀台所へ毎日相詰め」「出島くずねり」とよばれ、1ヶ月に1人前45匁づつ遣申候」といっている。 然し長崎出島オランダ屋敷内の台所でパンが焼かれることはなかった。出島内で食用されていたパンは後述するが長崎の町なかで作られ出島に運ばれていた。 尚、当時オランダ船をはじめポルトガル・イギリス船も航海中はパンを食用とせず全てビスケットを食用していた。此の事については、伊東秀雄先生の「イギリス東インド会社船・クローヴ号船員の食生活」(長崎談叢87輯・平成10・5刊)を参考にお読み下さるとよい。(以下次号)第23回 パン物語(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第509号【秋めく長崎でシーボルトを想う】

     鳥取地震の被害に合われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。1日も早く余震が収束し、平穏な生活をとりもどすことができますようお祈りいたします。  10月も中旬を過ぎてから、ようやく本格的に開花した長崎のキンモクセイ。町中に香りを漂わせたちょうどその頃、関東から来た人に、「東京のキンモクセイは、すでに時期は過ぎましたよ」と言われました。長崎では、9月下旬から一部咲きはじめたのですが、その後、夏日が続いたことで開花が先延ばしになったものが多かったようです。いまは秋雨が橙色の小さな花をおとし、甘い香りを消しているところ。日に日に秋が深まっています。  めくるめく季節のなかで四季折々にさまざまな植物の姿を楽しめる日本。その多彩で豊かな自然に魅せられたのが、江戸時代に日本を訪れたシーボルトでした。  ドイツ生まれの医師で、博物学者であったシーボルト(1796-1866)。1823年(文政6)27才のときにオランダ商館医として来日。翌年には鳴滝塾を開き、門人として集まった全国各地の俊英たちに近代的な西洋医学を伝えました。一方で、日本の自然や地理、人々の生活の様子などに関するさまざまな資料を、門人などを通して収集。江戸参府に同行した際には、日本を知る絶好の機会とばかりに、旅の途中で動植物の採取をし、各地の植木屋などにも立ち寄るなどして、さまざまな観察調査を行ったと伝えられています。  シーボルトが集めた資料は、のちの「シーボルト事件」で一部没収されたものの、監視の目を逃れた多くの資料がヨーロッパに持ち帰られました。シーボルトは、その資料をもとに日本研究に没頭。そして著した『日本』や『日本植物誌』などは、江戸時代の日本を知る貴重な史料としていまも活用されています。  ところで、今年はシーボルト没後150年の節目にあたり、今年から来年にかけてシーボルト関係の催しが各所で行われているようです。長崎では、この秋、「国際シーボルトコレクション会議」が開催され、国内外のシーボルト研究者が集いました。またこの夏、国立歴史民俗博物館で開催した「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」という企画展が、来年には長崎歴史文化博物館でも開催(2017年2月18日〜4月2日まで)される予定。いままであまり紹介されてこなかった展示物もあるとのこと。長崎での開催が楽しみです。  シーボルトゆかりの地である長崎は、これまで生誕や没後の節目の年に記念行事などが行われてきました。鳴滝塾跡にある「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝)の庭園入り口には、1897年(明治30)にシーボルト生誕100年を記念して建てられた石碑が残されています。当時の長崎県知事の発議によって建立されたもので、使用した石は、塾舎の礎石だったとも伝えられています。  生誕200年にあたる1996年(平成8)には、日本とドイツ両国で記念郵便切手が発行されました。ちなみに7年後の2023年は、シーボルトが初めて出島に降り立った日からちょうど200年目にあたります。このときは、どんな記念行事が行われるでしょうか。  シーボルトの多岐にわたる日本研究や、それを支えた鳴滝塾の門人らのことなどについて、知れば知るほどその全体像は広範で複雑になり、人物像も功績もどこかつかみどころがなくなってきます。節目節目の記念行事は、時間によってひもとかれたシーボルトのあらたな一面を知るいい機会になっているようです。   ◎参考にした本/『ケンペルとシーボルト』(松井洋子 著/山川出版社)、『長崎市史 地誌編』

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  • 第508号【時を超え天空を翔ける青龍】

     7世紀末から8世紀初め頃に造られたとされるキトラ古墳(奈良県明日香村)。近年、その石室内に天文図や四神像、そして十二支像の美しい絵が確認され、大きな注目を浴びました。はるか昔のものとは思えないほどの繊細で色鮮やかなその絵に驚かされた方も多いのではないでしょうか。  大陸文化の影響を受けたキトラ古墳。中国にゆかりの深い建造物や行事がまちを彩る長崎で暮らしていると、キトラ古墳にも描かれている四神像については、折に触れ、見聞きする機会があります。四神像とは、四つの方位を守る神のこと。東の青龍、西の百虎、南の朱雀、北の玄武。いずれも人間のイマジネーションから生まれたいわゆる霊獣(れいじゅう)です。長崎新地中華街の東西南北に設けられた中華門にも、これらの霊獣が描かれています。  四神像のなかでも「青龍」は、長崎ではなじみ深い存在です。毎年10月7、8、9日に開催される諏訪神社の伝統の大祭「長崎くんち」の演し物のひとつである龍踊(じゃおどり)を通じて、その姿や舞いはよく知られています。長崎の「龍踊」は、江戸時代に唐人屋敷に居住した中国人から伝えられたといわれています。今年の「長崎くんち」では、筑後町が龍踊を奉納。2体の「青龍」と1体の「白龍」が大迫力の舞いを見せてくれました。  さて、キトラ古墳の「青龍」と、龍踊の「青龍」。物ごとは長い時の流れのなかで、しだいに姿かたちが変化していくものですが、キトラ古墳に描かれた「青龍」は、足の長さなど多少の違いはあるものの、馬やラクダに似た長い頭、雄鹿のような角、蛇のような長い胴体と舌、鷲のようなするどい爪など、複数の動物をあわせたような姿をして、いまの私たちが知る「青龍」とほとんど変わっていません。  悠久の時を軽々と超えてくる「青龍」。神話や伝説として語られるこのような幻獣は、古今東西に存在するようです。よく知られるのが西洋の「ドラゴン」です。物の本によると、「龍」や「ドラゴン」は、畏敬、脅威、恐怖など、人間の内面を象徴するものが形になったともいわれているそうです。興味深いのは、中国神話では「青龍」は神々しいものとして語られ、皇室の象徴とされたりしましたが、西洋の「ドラゴン」は、人々に恐怖をもたらすというパターンの物語が多いそうです。いずれにしても、時代を超え、国を超え、こんなにも長く人間とともにあるのは、この幻獣に普遍的な何かがあるからなのでしょう。  晴天に恵まれた「長崎くんち」の最終日、東の天空を仰ぎ見れば、雲の形にドッキリ。数体の「青龍」が、シャギリの音色と歓声が響くまちを見下ろしながら、気持ち良さげに蛇行しているようでありました。  ◎参考にした本/『ドラゴン』(久保田悠羅とF.E.A.R.著/新紀元社)、『幻獣辞典』(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著/晶文社)

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  • 第22回 パン物語(一)

    はじめに 昨今、各方面から、どうした訳かパンの事について問い合わせが多い。そこで今回は我が国におけるパンの歴史を訪ねることにした。 パンという言葉が我が国で一般に使用されるようになったのは1549年F・ザビエルが鹿児島に上陸し本格的にキリスト教の布教を開始したことにより始まっていたと考える。それはパンと葡萄酒がキリスト教に関係があるからである。  ポルトガル人の種子島来航はザビエル上陸以前のことであり、当時のポルトガル船には当然食料としてパンは持ち込まれていたがそのパンは船員用であり日本人一般には普及されていなかったと考える。1.パンの始まり▲オランダ船図(越中文庫) パンの語源はポルトガル語のPaoである。~ 1562年10月西海町横瀬浦からローマに報告されたアルメイダ神父の手紙をみると、この年大村純忠を教会に招待したと記してあり、その中に次のように記してある。 私達は修院を良く飾り大村の殿様と其の一族の人達を食卓に迎えました。 この時、日本人の食事、ならびに我が国風(ヨーロッパ式)の食事もつくりもてなしました。そして其の間に3つのビオラの楽を演奏しました。 このようにヨーロッパ式の食卓を用意したのであるから、そこにはパンが焼かれ牛肉料理が用意されていたと考える。 横瀬浦の開港は1562年であるが平戸にポルトガル船が初めて入港したのは1550年であり、槙セ浦開港以前ポルトガル船が入港し、キリシタンの信者も多くいた府内(現在の大分市)の街では此のとき既にパンは造られていたと考える。 それは1655年ガゴ神父がポルトガルに送った府内のことを報告した書簡の中に病人のためにパンを造ったと次のように記してあるからである。 貧窮な病人のため他に薬がないので聖水と聖パンを供した然しこの聖パンというのは洗礼の時に使用されるパンはホスチヤのことである。2.ホスチヤのこと▲デルフト(オランダ)焼絵皿(越中文庫) 1600年(慶長5)6月長崎イエズス会の後藤宗卯(当時、長崎を代表する頭人の一人)が刊行した「ドチリ・キリシタン」に次のように記してある。 バテレン様(神父)ミサをおこない給うとき、聖書のお言葉をカリスとパンの上にとなえ給えば、其の時までパンたりしもの即時にゼス・キリスト様のまことの御身となり、カリスの中にある所の葡萄酒はイエス・キリスト様の御血となる(意訳) ドチリナキリシタンという書名は「これキリシタンのおしへと言う義也」と記してある。 この意味でパンと葡萄酒はキリスト教では宗教上大事なものとしてであり、キリスト教の我が国布教と同時にパン(ホスチヤ)が作られたが、パンを日本人の食卓に用いることはなかった。 1604年(慶長14・9)上総国に漂着したドン・ロドリコの報告書によると次のように記している。 日本人はパンを(主食として)食べるより菓物を食べるように食べていた。 1600年代になると長崎の町にはイエズスの本部や岬の教会、ミセルコルデイヤの教会など多くの教会があり、街の人達は全てキリシタンの信者であり、まだ長崎の町にはひとつもお寺もお宮もなかったのである。 前回に引用した事もあったが1618年10月18日長崎の教会にいたコロウス神父はローマの本部に次のように長崎の町のことを報告している。 長崎の町には建物はヨーロッパ風であるし牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く町中にいるのでポルトガルやスペインに住んでいるのと同じような生活ができる。 この頃(1604年頃)、全国のキリスト教徒は75万人で我が国のキリシタン史上最高の人数であり1610年の長崎の人には1万5千人と記してある。 然し1612年徳川幕府はキリシタン禁教令を発したので教会が破却されている。これ以来キリシタンに対する弾圧が始まり1622年(元和8)8月には長崎では西坂の地で元和の大殉教が行なれている。3.オランダ船来航とパン▲スペインの水壺(越中文庫) オランダ貿易船が我が国に始めて来航したのは平戸であり其の時は1597年7月(慶長7)であった。 平戸の町は1500年ポルトガル船の入港以来南蛮貿易港として栄えていたが、宗教上の事もあって1564年(永禄8)以後は南蛮船が入港することが無くなったので町は寂しくなっいた。其の町へオランダ船の入港をみたので町は大いに沸いた。 1612年、オランダは平戸オランダ商館を平戸崎方に設置している。そして其の翌年にはイギリスの貿易船も平戸に入港し、町は一層にぎやかになった。 幸なことに、この平戸オランダ商館の日記が現在オランダのハーグの国立文書館に保存されていたのである。(永積洋子訳・平戸オランダ商館の日記)その日記を読むとパンに関する多くの資料が記されている。当時の平戸の町には既にパンを焼くことのできる人達がいたと記してある。  一例をあげると1615年のコックス日記(コックスは平戸イギリス商館長)を読むと次のように記してある。 私はパン製造人に小麦一袋を渡しました。そして其の代金の代わりにパンで返してもらうことにした。 1630年代の平戸オランダ日記には「砂糖入りパン」という言葉もあった。パンは平戸オランダ、イギリス商館内では常食として使用されていたことが知られる。勿論長崎の町でも当時はポルトガル人はパンを常食としていた事は前述のとおりである。(以下次号)第22回 パン物語(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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