第512号【肥前長崎かぼちゃ町!?】

 ご近所の庭先では柚子がたわわに実り、その黄色のあたたかさにほっこり。「冬至の柚子湯で風邪知らず」などと言いますが、この日は(今年の冬至は1221日)習わし通りに柚子湯につかり、カロテンやビタミンCが豊富なかぼちゃを食べ、寒さに負けない心とからだを養いたいものです。



 

 すぐれた栄養価で緑黄色野菜を代表するかぼちゃは、戦国時代、ポルトガル船が九州に運んできたのが最初の伝来で、「かぼちゃ」の語源は産地のカンボジアが転じたものといわれています。また、九州では「ぼうぶら」とも呼ばれ、その語源はポルトガル語でかぼちゃを意味する「abo(、)bora 」(アボブラ)からきたものだそうです。ちなみに、豊臣秀吉は九州に来た時かぼちゃを初体験。その甘さに喜んだというエピソードが伝えられています。

 

 かぼちゃは、漢字では「南瓜」と書きます。これは「南蛮渡来の瓜」の意味からきたもので、これを「なんきん」とも呼ぶのは主に関西方面が多いそう。また、主に関東方面での異名として、「唐なす」があります。いずれにしても異国の野菜であることがその名に表されています。

 

 さて、16世紀半ばから17世紀初め頃の長崎には、「ボウラ町」という町名が存在したようです。「ボウラ」とは、「ぼうぶら」のこと。つまり「かぼちゃ町」ということですが、場所は、長崎市役所近くにある長崎市立桜町小学校北側の道路を隔てた一帯(長崎市勝山町と八百屋町にまたがる)です。1745(延享2)年刊本の「肥之前州長崎図」(京都・林治左衛門版)に記載されています。



 

 長崎市中を中心に長崎港沖合や近郊の様子までつぶさに描き、地名、町名、寺社、役所などの名称がこまかく記されたこの地図。ボウラ町の南側には高木代官屋敷(現・桜町小学校)、西側に長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)が通りを隔てて建っています。地図には「古ハボウラ町ト云 南蛮人ボウラヲ作リシ故ニ」とある。その昔、南蛮人がボウラを作ったのでボウラ町と呼んだ、などとわざわざ記したところに、どこか観光マップ的な意図がうかがえます。当時は、長崎に限らず、各地のまちの地図が作られていて、けっこう売れていたのだそうです。



 

 さて、高木代官屋敷の場所は、江戸時代初期には「サント・ドミンゴ教会」があり、長崎奉行所立山役所の場所には、天正年間に建てられた「山のサンタマリア教会」がありました。そうした教会跡からもわかるように、このあたりは当時、ポルトガル船でやってきた宣教師や船員などが盛んに往来したところであります。





 

 かぼちゃは、サツマイモと同じく保存がきき、やせた土地にも育つそうです。そのすぐれた栄養価を経験的に知る南蛮人たちが、寄港先でその土地の人々と一緒に作るのは当然かもしれません。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川休林)には、長崎で作ったかぼちゃを唐人や紅毛人に売っていたという内容が記されています。

 

 ポルトガル船が日本へ運んできたかぼちゃは、のちに「日本かぼちゃ」と呼ばれるようになり、「鶴首(つるくび)」「黒皮ちりめん」などたくさんの在来種を生み出しましたが、いまでは、明治以降に導入された「西洋かぼちゃ」(栗かぼちゃとも呼ばれる)に押され気味のようです。市場などをめぐると、数は少ないですがその地域でしか作られていない品種など、いろいろな種類のかぼちゃに出会います。一度手にとって味わってみませんか。



 

 

  参考:「長崎やさいくだもの博物誌」(タウンニュース社)、「からだによく効く食べもの事典」(監修・三浦理代/池田書店)、「100万人の野菜図鑑 〜畑から食卓まで〜」(野菜供給安定基金)

検索