第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一)


▲山下南風版画 オランダ人酒宴図


 はじめに出島・カピタン ティチング(Isaac Titsingh)について記しておかねばならない。


 彼は1779年8月15日初めて出島オランダ商館のカピタンとして在任。翌年2月19日江戸参府のため出島を出発。4月5日将軍家治に謁見。5月27日長崎帰着。11月バタビヤに帰っている。


そして、翌1781年再び出島カピタンを任命され8月2日出島に到着。1782年には再び江戸参府に出発。4月13日再び将軍家治に謁見している。この時は出島カピタンの仕事が多忙で彼が再びバタビヤに向けて出発できたのは1783年11月6日であった。ところがオランダ政府は三度彼を出島カピタンに任命したので翌1784年6月バタビヤを出発。8月18日出島に上陸している。


 但し、オランダ政府は「この仕事を最後にオランダ本国に帰ってきてよろしい」との許可を与えていた。


ティチングが無事に日本での最後の仕事を済ませ再びバタビヤに帰着したのは1785年の1月2日であった。そして彼がようやくイギリス船に乗り、ロンドンに帰着できたのは1796年12月であったと記してある。


 以上ティチングの伝記功績についての論考については沼田次郎先生翻訳の「ティチング日本風俗図誌・解説」(新異国叢書)を読まれるとよい。



一、ティチングの見た日本



▲赤絵皿(ベトナム製)


 ティチングは帰国後、多くの資料を持ち帰っていたので是等の資料を活用し各方面にその研究を発表した事によって、次第に東洋学研究者として名声が上がると共に彼の東洋関係のコレクションも有名だったと沼田先生は記し、更に其の彼の多数の編本がロンドンの大英博物館に所蔵されていると記しておられる。


 今回はティチングの代表作とされる前記日本風俗図誌を中心にして述べてみることにした。


○最初に初期の豊臣秀吉の話が出てくる。

  その当時、秀吉は非常に貧乏で婚礼の席で花嫁と祝言の酒を酌むのに必要な、ごくありふれたシガラク焼きという陶器の酒入れ(瓶子)すら持っていなかった。


○次に秀吉と家康との関係にふれて次の話を記している。

  家康の第八子ヒデユキ(Fide-youki)の夫は勇敢な武将であったので、太閤はは非常に彼を恐れていた。そこで秀吉はお茶の中に毒を入れて彼を毒殺しようとしたが、他の者の主張に従いつつmandjouと言う小さな菓子の中に毒を入れて殺してしまった。



二、長崎・深堀騒動の事


ティチングが集録した逸話の中に元禄13年(1700)長崎で起こった深堀義士の話がある。


事件は、同年12月20日長崎町年寄高木彦右衛門家では産まれた子供の名前をもらうため子供を駕篭にのせ宮参りに行く途中。(雨がひどく降っていたので道はぬかるみであった)駕篭のわきを急いで通り抜けようとした鍋島深堀藩の武士深堀勘左衛門は足をすべらせ、其の駕篭に泥を跳ね上げてしまった。これが事件の発端となっている。深堀武士は多いに謝ったが高木の家来達は武士達を大いにたたき、更にOuya-goto-matche(浦五島町)にあった深堀屋敷にまで押しかけて散々に深堀武士達を馬鹿にした。


遂に深堀の武士達は腹をたて、高木の家に押しかけ高木彦衛門の首を戦利品と持ち帰り、後本蓮寺に胴と共に埋めた。この戦いの時、高木家の白い番犬が主人を守ろうと駆け出し、何人もの敵を傷つけ、そのため殺されたが、高木の墓には其の白い犬が埋められた。


  ティチングは更に続けて、次の話を加えている。

  私の日本滞在中にその高木彦右衛門を殺した連中が血の滴る首の髪を掴んで提げて通るのを見たという婦人がまだ長崎に住んでいた。



三、九代将軍徳川家重について


○八代将軍吉宗の長子家重は過度の女色と飲酒で白痴同様になった。世人は家重をAnpontan(アンポン丹)と呼んだ。アンポン丹を服用すると暫く知覚を失う。

   家重は対馬の藩主宗対馬に「中国竜門の滝でとれた鯉を献上するよう清国に使をだせ」と命じている。其の鯉を焼いて、其の灰を水にとかし子供を洗うと疱瘡(ほうそう)のにかかった時、大変効き目があり痛みもなく、疱瘡の跡も残らないと言う。将軍は朝鮮国経由で清国竜門で得た鯉で作った焼灰を水でとき二人の子供を春夏秋冬それぞれ洗わせた。


○将軍家重は酒を飲み過ぎて健康は日々衰え、もはや言葉も出ず将軍はIsoumo-no-kami(大岡忠光)を通してのみ命令を出し、間もなく尿器官が弱って自分の部屋に閉じ込もらねばならなくなった。

   ティチングは以上の将軍家重の事のみでなく歴代将軍の裏面史も多く入手していた事が彼の著書を読めば読むほど其の思いを深くする。



四、ティチングの史料収集



▲山下南風版画 出島図


 ティチングは前述のように三回も日本に来航し、2回も江戸に参府。将軍謁見は2回もしている。そして、交友関係には、当時の長崎奉行を始め、薩摩藩主島津重豪・福地山藩主朽木昌綱、更に長崎ではオランダ通詞吉雄幸作を始め長崎の知識人、江戸では蘭学者の中川淳庵・桂川甫周等とも交友があった。それは彼の人柄と外交手腕にあったといわれている。そして、当時ティチングの名は日本人の間に広く知られ、その人物は高く評価されていた。


○ティチング自身、大いに日本趣味があり次第に日本研究に深く入り込んでいったのであろうが、彼の此の行動は当時の日本人にオランダ趣味を待たせ、オランダ研究、ひいては我が国の洋学研究を進めさせていると、ティチング研究の第一者であられる沼田次郎先生は述べておられる。


 次項では、ティチングの目から見た、日本人の祭事や儀式に関する食文化を中心に筆を進めてみたいと考えている。

 例えば、日本人は死者の葬儀の時にはできるだけ清潔に調理する。そして、小さな善にお椀の御飯と汁と三種の食物の入った椀が用意される。(以下次号)


第27回 出島・カピタン ティチングの記録より(一) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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