第24回 パン物語(三)
一、パン製造の古文献
先年、千葉大学教育学部の松下幸子先生より東北大学狩野文庫蔵書の中より「南蛮料理書」と「阿蘭陀料理煮法」のコピーを御恵送いただいた。前者は江戸時代初期のものであり、後者は幕末のものである。両書共にパンの製法の事が次のように記してあった。
○南蛮料理書 一はんの事
麦のこ あまさけにてこね ふくらかしてつくり
ふとんにつつみ ふくれ申時 屋き申也 口伝有
○阿蘭陀料理煮法 一パン拵様
麦粉を白酒にて堅くこね 凡茶碗にて丸くなし長目に造り
鍋に入 上下より蒸焼きにす 始めは至極少火にて焼
少しふくれの出きる時 武火(つよび)を以やき終る也
但白酒はまんぢうを拵る時もちうる白酒也
前回述べたようにポルトガル船が来航していた頃の長崎の街では自由にパンが焼かれていたが、キリシタン禁教の時代を迎えると、「パンはキリストの肉体」という教えから幕府はパンを食べる事を禁じている。
然し、亨保4年(1719)に長崎の人・西川如見が著した「長崎夜話草」を讀むと其の中の長崎土産の項に「ビスケット・タマゴ・ソメン・パン・・・・・・」の名をあげているが、此の事は当時の長崎にはパンは一般には食用とされなかったがオランダ人のためには焼かれていたので名前をあげたのであろう。
二、出島オランダ屋敷とパン
▲蘭人出島会食図
出島オランダ商館の日記を讀むと次のようなことが記してあった。
1643年2月早朝、江戸参府に出かけていたカピタン一行が大阪より船に乗り長崎の出島に入った。
翌二十八日前カピタン・エルセラック君が住んでいた旧宅に移転を命じられた。次いでパンを食べることは日本人に禁じられていたが、私達は奉公に願って昨日特にパンを食べる事を許された。
前回も述べたが出島内には料理室もあり、日本人の料理人も雇われていたが出島内でパンを焼く事は許されなかった。其の故にオランダ人のパンは長崎の町に唯一一軒パンを焼くことを許されていたパン屋が毎日きめられた数だけのパンを焼いていた。
出島オランダ商館日記を讀むと更に多くのパンに関した記事が記してある。
一六四九年八月四日
パン屋から、小麦その他商館用品の全てが値下げになったので今後一年間は十個のパンのかわりに良く焼いて目方もかわらぬパン十一個半ずつを納めると言ってきた。これで私達は目方六十五匁のパン百個であったのが百十五個となった。
三、長崎のパン屋
▲オランダ焼皿
江戸時代、全国でパン屋が営業できたのは長崎の町のパン屋一件だけであった。そのパン屋では前述のように出島のオランダ人のために納品したパンだけでなく、毎年春に入港し、取り引きを終え秋に出帆するまでに港に碇舶しているオランダ船の船員の食用としてのパンも納品していたのである。
オランダ船は毎年一・二艘は入港し、船員の人達は上陸し町中を歩くことは禁止されていたので、毎日が大変であったと考える。一艘の乗員は120人内外であり、出島で生活できるオランダ人は12・3人であった。
この人達のすべてが食用とするパンを長崎のパン屋は納品し其の代償の取引については「長崎会所五册物」に次のように記されている。
一、日用食物パン代の儀はオランダ人食用に付、日日パン屋より賣込来る。右代銀は償これなし、オランダ人買調候に付き代銀は月々長崎会所お取替渡し仰付らる。オランダ船滞在中に相調候分は出帆引合に相立て差引仕り・・・・・・
これによるとパン屋の代金は全て長崎会所が立替え支払うのでパン屋は欠損なく大儲けしていたのである。
この事について1790年頃オランダ通詞として活躍していた楢林重兵樹が書き留めた「楢林雑話」を讀むと次のように記してある。
オランダ人は常食としてパンというものを用う。長崎にて之を賣ることをなすものあり、之をハン屋という。オランダ人みな之のハン屋より買うて食す。ハン屋の年中の利益は二百両ばかりなりと云う。
オランダ人はパンの上に牛羊の酪・ボートル(バターの事)を引いて食す。又密を煎じて卵をかけて煮るをパンドウスと云う。
パンはゼルマニヤ語なるべし。パンはオランダ語にては鍋にてパンは蒸して作る食べものなりとの意なるべし。又パンの鍋にやきつきたる皮をコロインと云ひ子供の虫にて食を忌むとき、又は面部などの腫るるときは之を塗るとよし。
また、江戸時代第一の知識人として知られた司馬江漢も天明8年10月(1788)長崎に来遊し其の時見聞きしたことを綴って「西遊日記」を著しているが、その中にも「パン」の事を次のように記している。
彼のオランダ国は牛肉を上食とす、中以下はパンとて小麦にて製する物を食す。オランダは寒国にて米を生ぜざる故なり。この全盛をきわめた長崎のパン屋はオランダ屋敷に近く大波止にも近かった、樺島町にあったと言う。
▲有田焼色絵カップ
安政六年、(1859)幕府はそれまでの鎖国令を止めて開国に踏み出した事より長崎の街の様子は一変した。そして開国の翌年、万延元年10月(1860)には大浦地区に居留地が完成したので外国の人達は出島を出て大浦地区に洋館を建て移り住んだ、このとき外人の家では料理人を雇い自家製のパンを焼いたり、新しいパン屋が大浦地区には開店した。
その故に、それまで唯一一軒で販賣していた長崎のパン屋は、他の出島出入賣込人と共同し次の歎願書を出している。
私共これまで出島用取掛り仰付られ勤め候 その故に外人商売については從来の如く一切おまかせ下され度・・・・・・
然し、時代は大きく展開していたのであった。
第24回 パン物語(三) おわり
※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。