第25回 平戸にみる西洋料理(其の一)
平戸の領主は松浦氏である。平戸の開港は長崎の開港より古く、ポルトガル船の初めての入港も長崎開港より20年も前の1550年であった。そしてこの年、フランシスコ・ザビエルも平戸に到着しキリシタンの布教を開始している。そして当然、そこにはポルトガル風の料理が普及していた。当時の平戸の食の事情について、1560年平戸地方にキリシタンを布教していたフェルナンデス神父は次のような書簡をローマに報告している。
▲中国染付蓋物
この町(平戸)にはポルトガルと同じ食糧があります・・・・・・日本の人達は何でも平戸の町では食べているが、坊さんのみは牛肉を食べません。この地方にはポルトガルと同じ食糧はありますが其の量は少ない。平戸の人達はあまり働かないので飢餓する人が多い、又、この地方は非常に寒い。
平戸・松浦地方は、ポルトガル船が入港する以前より倭冦や朝鮮貿易のこともあって唐船が入港していた。其の故もあって豚は当地方では其の一部は使用されていた。
次に、長崎県下で最初にパンが焼かれ、洋風の食事が開始されたのは平戸地方であった。
一、イギリス船の入港
ポルトガル船は種々の事情もあって、1562年(永禄5)には平戸の港を出て、大村氏領の横瀬浦(現・西彼杵郡西海町)に入港し更に1571年には長崎港(大村氏領)に入港して以来平戸の港にポルトガル船の入港は殆どなかった。
松浦氏は、1609年5月ポルトガル船にかわってオランダ船の平戸入港に成功している。オランダ人は、早速平戸の町にオランダ商館を建設し貿易を開始している。
更に平戸港にはオランダに続いて1613年にはイギリス船クローブ号が入港し、同年10月には平戸イギリス商館を建設し、オランダ、イギリスの二国は長崎を中心にしているポルトガルの貿易船に対抗することになった。この時のイギリス商館長はジョン・セーリス(John Saris)といった。セーリスは1813年6月12日(慶長18・5・5)平戸に入港し、8月には将軍秀忠と前将軍家康に面接するため江戸・駿府に向けて出発し、通商の許可を受け11月6日平戸に帰着している。このセーリスはイギリス東インド会社の貿易船隊司令官であり、彼の日本来航は英国王ジェームス一世の将軍家康への国書をたずさえ、対日貿易開始の使命を帯びての事であった。そして彼は其の時の記録「日本来航記」(村川堅固訳・岩生成一校訂・新異国羨書)を執筆している。
私達は今、このセーリスの渡航記の中より我が国に及ぼした食文化を考えてみることにした。
尚、長崎談叢九十輯に伊東秀征氏の「平戸と長崎の出来事に関するエドマンド・セーヤーズの日記」があるので本稿には大いに参考にさせて戴いた。
二、平戸と西洋料理
▲伊萬里赤絵急須
セーリスは1612年1月14日胡椒七千袋を船に積み込み日本に向けバンタムの港を出発している。乗り組み員はイギリス人74名、スペイン人1名、日本人1名、インドネシヤ人5名であった。次に其の日の船中食の記録に次のように記してある。
船中の給与、一Sack酒(スペイン産葡萄酒)及びビスケット。二食、全能の神が彼らに健康を恵み給う牛肉。
次の日の1月15日には岩礁の難関を無事脱出した記録と次の食の記録が讀まれた。
給与Sack酒及びビスケット。二食は小麦と蜂蜜なお岩礁を無事に通過した苦労に報い各員にバイトン葡萄酒。
四月十四日船はモルック諸島を平戸に向かっている。其の時の食事は給与、ビスケット及びラック酒、一食は牛肉と焼団子、一食はオートミール。
六月十日、船は天草の近くに進んできた。午前九時、南の疾風、西寄り北へ航進。四隻の大型の(日本人の)漁船が予の船に近付いてきた。船は一本の柱に帆をはり片側に四本の櫓がついている。予等は長崎に行くのかと聞く。予は船長・事務長に命じて漁船の船長と他の一人に平戸まで案内させることにした。彼等は三十リアルの金と、彼等の食事に要する米を報酬として望んだ。そして彼等の内二人は予の船に乗り込み予の船の全ての仕事に快く労力を提供して下さった。
この日の給与、サック酒及びビスケット。一食は牛肉、一食はオートミール。
翌六月十一日午後三時、平戸の手前半リーグに投錨。潮が引き進むことが出来なくなったからである。礼砲一発を射つ。
それから、領主松浦鎭信公がイギリス船を訪問したと記している。
然しイギリス船の平戸訪問はこの時が始めてなのであるのに、どうして領主松浦鎭信公が同船を訪問したのであろうか。これは先年来、平戸に来航していたオランダ人より、イギリス船の来航があることを知らされていたからであると考える。
船長セーリスは、この時領主松浦鎭信公を「数種の缶詰をガラス器に盛ってもてなした」とある。この時がイギリス船の入港は平戸公にとっては大いに歓迎すべきものであった。
この時、平戸の人達(商人達)は、セーリスに日本酒の樽、魚、豚肉を贈ったと記してある。そして平戸の身分ある婦人が船を訪ねてきたので船室に入ることを許したところ、室になったビーナスの画像をみて彼女等は此の画像をマリヤと思って礼拝し、他の人に聞こえないように「私達はキリシタンである」ことを告げた。
▲ 東巴(トンパ)文字絵皿
6月13日。セーリス一行は王の歓迎をうけている。
この時の料理は塩と胡椒で調理された類種の野菜や菓物であった。
6月22日平戸松浦の老公が船に来た。彼は遊女を同伴してきた。セーリスは音楽と色々の砂糖漬を出してもてなした。王は其れを良く食べた。私達は王に望遠鏡一個と黒絹と金の縫取りのあるナイト・キャップを贈った。
平戸藩では、当時すでに洋食が大いに普及していたし、平戸公自身も大いに洋食を好まれていた。7月3日のセーリスの日記には、王と私と朝食を共にするために「イギリス商館に来られた」と記録されている。(次号に続く)
第25回 平戸にみる西洋料理(其の一) おわり
※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。