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  • 第534号【現代と江戸時代をつなぐ出島表門橋】

     秋の行楽シーズンたけなわ。路面電車が走る長崎のまちでは、観光客の方々や修学旅行生が笑顔で行き交う姿が目立ちます。そんな賑わいから少し離れて、山里の風情が残る鳴滝へ足を運ぶと、木立ダリアが長い茎の先にうすむらさきの花をつけ、ススキとセイタカアワダチソウが競うように生い茂っていました。  こんな秋らしい風景に出会うと思い出すのが、向井去来の「君が手もまじるなるべし花すすき」という句です。元禄2年(1689)一時帰郷した去来が長崎を離れる際、日見峠で詠んだもの。見送りに来た親戚の人はよほど別れがたかったのでしょう。長崎街道をいく旅人は、長崎市中にほど近い蛍茶屋で見送られるのが通常でしたが、そこからもう少し離れた山あいの峠まで付き添いました。  いよいよお別れとなったとき、去来が振り返るたびに、すすきの合間から手を振り続ける親戚の姿があり、しだいに見えなくなっていく、そんな情景が浮かびます。句には長崎滞在中、皆によくしてもらったという去来の感謝の念も込められているのでしょう。時代は変わっても、二度と会えないかもしれない別れの心情はきっと同じ。ちょっとせつなくなります。  日見峠の別れのシーンから、再び賑わう街中へ。この秋、長崎を代表する観光スポット、「出島」がいつも以上に注目を浴びています。というのも出島と対岸の江戸町をつなぐ出島表門橋が架けられ、平成29年11月25日(土)から、江戸時代のように橋を渡って出島に入れるようになるのです。以前かかっていた石橋が取り払われてから約130年ぶりの架橋。洗練されたデザインで、ひとつ下流のたまえ橋から見ると、周囲になじんでしまってわかりづらいのですが、現代の橋の技術を駆使しながらも、さりげない表情がいいなあと思います。  鎖国時代、唯一ヨーロッパに開かれた窓口だった出島。かつて出島と長崎市中を結んだ一本の橋は、さまざまな人や貿易品が行き交った歴史的ルートともいえます。現在、出島内ではヘトル部屋、料理部屋、乙名部屋、銅蔵など全部で16棟の建物が復元されており、出島表門橋の上にたたずめば、往時の様子がよりリアルに感じられるかもしれません。出島表門橋は、夜間にはライトアップされ、ひとつ上流にかかる出島橋(明治時代に架けられた日本最古の現役の鉄製道路橋)とともに、美しい夜景を楽しめるそうです。  出島表門橋のたもとから後ろを振り返れば、そこは県庁裏門。そばには紅毛外科楢林流の始祖、楢林鎮山(ならばやしちんざん/1648〜1711)宅跡の碑があります。オランダ通詞だった鎮山は、職務のかたわらオランダ商館医に付いて医学を学んだそうです。出島の目と鼻の先に自宅があったという点で、さまざまな人の出入りがあり、史料には残されていないこぼれ話がたくさんあるのだろうと想像されます。   長崎県庁裏門も、長崎駅近くの新しい県庁舎がこの秋完成し、その後の移転が済めば撤去されることになるのでしょう。表玄関とくらべ地味な存在でしたが、この界隈を知る人にとっては、なじみのある風景。いまのうちに目に焼き付けておきたいと思いました。

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  • 第35回 長崎料理ここに始まる。(七)

    特集・坂本龍馬と長崎料理・かすてら(其の三) 一、はじめに▲亀山焼染付芯切(越中文庫) 長崎はいま坂本龍馬で沸き返っている。 先日、本誌の編輯子より「今回は龍馬と長崎料理を特集して下さい」との連絡があった。 そう言われてみると私は戦後昭和二十九年七月三日・毎日新聞長崎地方版に同年七月より連載させて戴いた「巷説長崎風土記」の一章に「亀山の白バカマ」と龍馬と亀山社中のことを書いていた。之が始めて戦後、龍馬と長崎のことを書いた文章であったと言われる。 次いで昭和三十三年春、司馬遼太郎先生が龍馬の資料収集のため来崎され、次いで親和銀行頭取北村徳太郎先生がわざわざ亀山社中の一人・二宮又兵衛の墓を訪ねて私の処にこられた事を思いだしている。 そして此れ等のご縁で私が平成十二年新人物往来社特集「検証・坂本龍馬」には「長崎時代の坂本龍馬」を書かせて戴いた事を編輯子は知っておられたそうである。二、龍馬はじめて長崎に 龍馬の研究では、先年亡くなられた宮地作一郎先生編輯の「坂本龍馬全集」に先ず目を通さなければならないし、最近は前述の新人物往来社より十数冊の龍馬関係資料が出版されている。 此れ等の資料を参考にして、龍馬が何時、最初に長崎へ足を踏み入れたか、其の当時の事より考えてみる事にした。 元治元年二月二十二日(一八六四)軍艦奉行に任命された勝海舟は長州藩とアメリカ等四カ国連合国との問題解決の為、一行二十名と共に熊本・島原・神代経由で愛津村(現在愛野)に着き其の夜は同村庄屋宅に一泊、翌二十三日船に乗り千々岩灘(橘湾)を渡り長崎に到着している。 この一行の中に龍馬・近藤長次郎もいたのである。当時、龍馬は文久二年三月(一八六二)土佐藩を脱藩し江戸に行き勝海舟の門下生となり、翌年、海舟が神戸に開いた私塾「海軍塾」に入塾し、塾頭となり操海技術・洋学などを学んでいたので、海舟の長崎行きには塾生として同行を認められたのである。 この時の海舟と各国との交渉は不調に終わり、四月四日には海舟の一行は長崎を出発し前路を逆に長崎より舟で愛津に渡り神代・島原経由熊本に渡っている。 この結果もあって、七月十九日長州藩は京都蛤御門の変で幕府軍と争い敗れ、更に其の翌八月五日には英米仏蘭連合艦隊の長州藩下関砲台の砲撃に合い大いなる衝撃を受けている。 この間のことを龍馬はどう見ていたのであろうか。三、長崎滞在中の海舟と龍馬▲長崎菓子屋の図(鼎左秘録) 海舟と龍馬の長崎における宿舎は下筑後町の唐寺福濟寺と記してある。福濟寺は由緒ある黄檗宗の唐寺で有名な大雄宝殿・青蓮堂があり、其の二堂の間には大きな書院もあったし、近くには永聖院・興徳庵・霊鷲庵等の末庵もあったので従者の人達もゆっくりと分宿できたと考える。また海舟にとっては前回来崎の時にもうけた一子梅太郎も寺のすぐ近くの西坂の実家に元気に育っていた。 海舟は前回の長崎滞在のとき当時の素封家で松平春嶽・貿易商グラバー等とも親しく交わり、且つ文人としても有名であった小曽根乾堂(けんどう)(一八二八~八五)に多大の援助をうけ且つ親交があったと記してある。乾堂は当時、福濟寺よりあまり遠くない本博多町(現万歳町)の坂上天満宮の隣に居を構えていた。 今回も当然、海舟は乾堂と逢い親交を重ねたに違いない。そして其の座席で海舟は塾頭である龍馬を将来のある人物として紹介したはずである。それは其の翌年慶応元年四月(一八六五)龍馬を援助する薩摩藩士小松帯刀と共に再び船で長崎に来た時、長崎における援助者が乾堂であった事でも知られる。乾堂は龍馬を志ある大いなる人物として認められていたのであろう。 龍馬は再び鹿児島に引返し翌慶応二年(一八六六)六月三日、亀山社中所有のワイル・ウエフ号が五島有川町江ノ浜塩谷崎沖で転覆した事もあって新妻お竜を連れて長崎に急ぎ、お竜は小曽根邸に預け自分は亀山社中の同誌を連れて五島に渡り江ノ浜の墓地に慰霊碑を建てている。(その慰霊碑は江ノ浜の墓地内に現存している) この間、龍馬が鹿児島に行き長崎不在中に亀山社中の同志で龍馬の代役として活躍していた近藤(上杉)長次郎がユニオン号を六万ドルでグラバー商会より購入、その代金は長州藩より支出、所属は薩摩藩とし使用は薩長共用、航海運用の実務については亀山社中という協定書の事より種々と問題が起こり、更に其の文章に無断で龍馬の名を長次郎が記した事より慶応二年一月十四日本博多町小曽根邸の庭園内の茶室で自殺するという事件が起きていた。龍馬はこの知らせを聞いたが急ぎ長崎にも行けず、前述の六月長崎を訪れた時、長次郎の墓碑に「梅花書屋氏墓」を記し供養したと伝えられている。(墓碑は現在、長崎寺町皓台寺後山小曽根家墓域内にある)。四、龍馬と西洋料理龍馬はブーツを履き、ピストルを持ち、当時としては珍重された写真にまで映像を残しキー付の懐中時計を持っていたと言うほどハイカラ好みの人物であった。 その故に編輯子は「新しい知識に興味を持ち続けている龍馬は、西洋料理を食べ、南蛮菓子のカステラも必ず食べたはず」と言われる。 そう言われてみると、亀山社中があった旧長崎村伊良林郷字垣根山のすぐ近くには我が国最初の西洋料理専門店「良林亭」が亀山社中が結成された頃には大いに繁昌し、亀山社中のいた慶應年中には旧位置より稍下の次石の地に「自遊亭」と店名を改め営業しているし、その下の伊良林本直には、其処にも和洋食料理で有名な料亭「藤屋」があり、其処に龍馬が行った事は土佐藩士佐々木小四郎宛書簡に「時に藤屋に出かけた」と記してある。たぶんに龍馬も洋食を堪能したでありましょう。(以下次号)第35回 長崎料理ここに始まる。(七) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第533号【茶処・東彼杵町のおいしいもの】

     超大型台風21号の被害に合われた方々に心よりお見舞い申し上げます。  暦を見ると、2週間後は立冬。刻々と深まる季節のなか、体は冬ごもりの準備がはじまっているのか、食欲は増すばかり。所用で出かけた東彼杵町(ひがしそのぎ・ちょう)で、おいしい出会いを満喫してきました。  JR長崎駅から、快速シーサイドライナーで彼杵駅(東彼杵町)まで約1時間。東彼杵町は、長崎県一のお茶の生産量をほこる茶処で、蒸し製玉緑茶の「そのぎ茶」の産地として知られています。「そのぎ茶」は、隣接する嬉野市を中心に生産される「嬉野茶」として出荷されていた経緯がありますが、近年、「そのぎ茶」のおいしさとともに、ブランド名も広く知られるようになってきました。今年9月に開催されたお茶の日本一を決める「全国茶品評会」では、「蒸し製玉緑茶」の部門で、産地賞(1位)を受賞。さらに、個人でも「そのぎ茶」の茶農家の方が農林水産大臣賞を受賞し、「そのぎ茶」のおいしさを改めて全国に知らしめました。  山あいに広がる茶畑の景色は、東彼杵町の原風景です。この時期のお茶の樹はツバキに似た白い花をつけるのですが、手入れが行き届いた茶園では、おいしい茶葉を育むため、つぼみのうちに摘んでしまうそうです。お茶の花は小ぶりでふっくらとして、うつむき加減に咲くきれいな花です。茶畑のそばを通りがかると、摘みそびれたお茶の花が数輪、秋雨に濡れていました。  東彼杵町へ出かけたとき、必ず立ち寄るのが国道205号沿いにある道の駅「彼杵の荘(そのぎのしょう)」です。食事処では、定番の鯨肉入りの団子汁と炊込みご飯のセット(680円)をいただきました。波静かな大村湾に面した東彼杵町は、江戸時代、近海でとれた鯨の集積地として発展した歴史があります。鯨肉を使った食文化がいまも息づく土地柄なのです。道の駅では、鯨肉も売られていました。  自然が豊かで農業が盛んな東彼杵。道の駅の商品は、おまんじゅうやもなかをはじめ、ソフトクリームや焼酎など、地元産の緑茶を使ったお菓子や飲料が目立ちます。また農業が盛んなまちとあって、季節の農作物も豊富。そのなかで、最近ではめずらしい「小栗(ささぐり)」を見つけました。小さな栗の実で、「柴栗(しばぐり)」と呼ぶ地域もあります。70歳前後の方たちが、口を揃えて、「小さい頃、食べてたわ」「山によく採りに行ってたのよ」と懐かしがります。店頭で「小栗」を買おうか悩んでいると、「通常の栗より、私は小栗のほうがおいしかと思うよ」と高齢の女性がすすめてくれました。湯がき終わりの頃に塩を入れるのが、おいしくなるコツだそうです。   くいしんぼうな現代人を満足させる道の駅「彼杵の荘」。そのすぐ隣には、5世紀につくられたという前方後円墳の「ひさご塚古墳」があります。「ひさご」とは「ひょうたん」のことで、古墳は文字通りひょうたんを思わせる形をしています。ほかにも一万年以上も前の旧石器時代の遺跡も見つかるなど、東彼杵町は太古の昔から人間が暮らしやすい土地であったことを物語ります。そんな自然豊かな土地で育まれた飾らない町の雰囲気、人の優しさが、秋の心にしみる東彼杵町でありました。

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  • 第532号【秋、大切なものを探して】

     10月の長崎は華やかでうれしい催しが続いています。新地中華街で行われた「中秋節」(9月30日〜10月4日)では今年も黄色の灯ろうが飾られ、龍踊りや中国獅子舞などでにぎわいました。「中秋節」はアットホームな雰囲気を楽しめる催しです。家族や友人たちとそぞろ歩く人々は、お月さまを見上げたり、二胡の演奏に聴き入ったりしながら、秋の夜長をのんびりと過ごしていました。 10月3日は、約380年の伝統がある「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)の「庭見せ」でした。「庭見せ」とは、奉納踊を担当する踊町が、本番で使用する傘ぼこや衣装、小道具、そして贈られたお祝いの品々などを飾ってお披露目するもの。踊町が点在する長崎市中心部は、庭見せがはじまる夕方から夜10時頃まで、観光客や家族連れ、仕事帰りの人々で大にぎわい。くんち本番への期待感が高まった夜でした。  10月5日夜、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞のニュース速報は、長崎の人々にとってうれしい驚きでした。長崎ゆかりの小説家であるイシグロ氏は、『日の名残り』や『わたしを離さないで』などで知られる世界的なベストセラー作家ですが、今回メディア関係者が予想した受賞者の上位には入ってなかったそうです。  イシグロ氏は、1954年長崎生まれ。長崎市新中川町に暮らしていました。長崎海洋気象台(現・長崎地方気象台)に勤務していた父親の仕事の関係で、5歳のとき渡英。以来、英国に暮らし、その後、英国籍を取得されたそうです。イシグロ氏が幼き日を過ごした長崎は、ちょうど戦後復興の最中で、原爆投下の記憶もまだ生々しく残る時代です。彼のなかに残る日本・長崎の記憶とはどのようなものだったでしょうか。デビュー作の『遠い山なみの光』には、イシグロ氏の生い立ちとどこか重なる女性が登場。遠い日の長崎の記憶が想像を交えながら描き出されています。  10月7・8・9日は、待ちに待った長崎くんちの本番。秋晴れのなか、諏訪神社での奉納踊や、「庭先回り」(まちをめぐって演し物を披露すること)が行われました。毎年くんち見物に出るという80代の男性は、「やっぱり、くんちは良かよ。シャギリの音が聞こえたらソワソワするけんね」と、笑顔でおっしゃっていました。  今年の踊町は5カ町で、馬町の本踊以外は、八坂町の川船、築町の御座船・本踊、東濵町の竜宮船、銅座町の南蛮船と、それぞれ個性的で異国情緒あふれる勇壮な引きものでした。どの踊町も子供から大人まで協力し合い、猛烈に暑かった夏の練習をのりこえてこの日に挑みました。踊り場では観客たちを感動の渦に巻き込み、「もってこーい」の歓声が響いていました。   世代や時代を超えて人と人との絆を生む伝統のお祭り。こうした催しには、さまざまな人と心意気、熱意、思いやり、優しさといった心情を分かち合う機会があります。イシグロ氏が2015年に来日したときの新聞のインタビュー記事のなかに、「人生は思うより短いもの。そのなかで、本当に大切なものは何なのかを考えてほしい」といった内容のコメントをふと思い出しました。

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  • 第34回 長崎料理ここに始まる。(六)

    砂糖考(其の三) 一、砂糖文化史の研究▲初期の洋食に使用された長崎ガラス各種(長崎純心大学博物館蔵) 昨年の暮、東京八坂書房より各方面の食文化研究の中より砂糖に関する論考を集めて「砂糖の文化誌」が発刊された。(二〇〇八・十二)同誌の序文に「砂糖百科」の著者として有名な伊藤汎教授が次のように記しておられる。 砂糖の歴史は時の為政者とのつながりも強く人類とともに歩き其の時々の人類の要求に応じ人類の要求を備してきた。 また同誌の十三章には杉本先生の「世界のさとうきび」の論考がありその中に砂糖が世界史に登場した時期について次のように記してある。 砂糖の資料は紀元前四世紀アレキサンダー大王のアラビヤ遠征に始まる。大王がインドに遠征の時の記録に「インドには噛むと甘い石がある」とある。結晶砂糖の製造は古代インドの北部グル国に始まるという。それは紀元前五〇〇年サンスクリット語に記してある。 同書によると砂糖は医薬品と記してある。インドでは砂糖の事を「グラ」と言うが、其れはインド古代国の一つ「グル国」に由来する。また「砂糖きび」属をサッカラムと言うが之もサンスクリット語に由来している。砂糖きび栽培の起源は一万年前ニューギニヤ島、スラウエン島近くの地方に始まったという。次いで砂糖きびは広くつくられるようになり、赤道直下の地域を中心に拡がり、インド系の細茎種と中国系細茎種に分かれている。二、我が国の砂糖史 我が国の近世における砂糖文化史は前述のように一五四三年ポルトガル人の来航に始まっている。そして砂糖が調味料として我が国に広く活用されるようになったのは豊臣秀吉による朱印船貿易の開始にはじまっている。 その朱印船貿易研究の先駆者としては平戸出身の菅沼貞風の遺稿「大日本商業史」(明治二十五年刊)がある。次いで大正五年発刊の長崎高商(現長崎大学)教授川島元次郎の「朱印船貿易史」があり、戦後、それ等各方面の研究資料を集大成され昭和三十三年発刊された岩生成一先生の「朱印船貿易史の研究」は有名である。 我が国と中国大陸との交流は一二七四年元軍の博多来襲により変化してきた。一三六八年には元の没落。明の建国。その間隙をついて倭寇の一団が中国・朝鮮の沿岸を侵している。更に一三九二年には朝鮮高麗朝が亡び委氏朝鮮が建国されている。 一四四三年(嘉吉三)対馬の領主宗貞は委氏朝鮮国王世宗と貿易協定を結んでいる。然し一四六七年(応仁元)応仁の乱以後、我が国戦乱の時期を迎えると倭寇集団の活躍は激しくなってきた。そして其の集団の主な根拠地となった処は唐津、伊萬里、平戸、五島方面であった。 この倭寇の侵害に悩んでいた明国は嘉靖末年(一五四〇)大掃討を行い遷海会を発し対外自由貿易を禁止していたが、一五六七年明国隆慶年間穆宗は南洋渡航については貿易を許したが、日本渡航については堅く禁じていた。この事は当時、五峰王直の一族が倭寇に協力し南支那や呂宋(ルソン)方面より船を出し平戸に来航し松浦道可公と手を結び交易する事があったからである。 其の後文禄年間(一五九二~)豊臣秀吉が異国渡航を許可する朱印状の発行があったと長崎の旧記には記してあるが、この事について岩生先生は次のように記しておられる。 秀吉時代、海外渡航に対する朱印状下附については積極的に証する資料は見あたらないが、之と極めて類似の性質を有する朱印状が内外に対して下附されている。 朱印船制度については何時創設されたか明確な資料はないそうであるが前田家文書の中に慶長七年九月十五日(一六〇二)七月五日付安南国(ベトナム)渡航朱印状があると記してある。三、朱印船渡航地と積荷▲外国に輸出された長崎コンプラ正油瓶(長崎純心大学博物館蔵) 一六一五年(元和元)大阪夏の陣が終わると政変があり徳川氏の政治となり武家諸法度その他政令が配布されている。この時代になると朱印船は前述の遷海令の事があり中国領土には行けなかったが次の六地区を中心に渡航している。 交跡、呂宋、シャム(タイ)カンボチヤ、安南(ベトナム)高砂(台湾)、そして此の地方より輸入せれた貿易品は生糸、織物、鹿皮、鯨皮、蘇木、黒漆が主であり、砂糖はマニラ、交跡、カンボチヤより少量の白砂糖・蜜・黒砂糖が運ばれている。 この朱印船の制度が廃止されたのは徳川三代将軍家光の寛永十二年(一六三五)である。 砂糖の積荷が急速にあらわれてくるのは寛永十八年(一六四一)以降長崎に入港してくる唐船からである。その事は当時、出島オランダ屋敷に平戸より移住させられたオランダ商館員の「オランダ商館日記」に多く記載してある。 それによると一六四一年鄭芝竜(鄭成功の父)の船十二隻に砂糖が多く積まれていた。鄭氏一番船積荷 白砂糖一九、八〇〇斤。紗綾三反。 ロホ皮二十枚・・・・・・鄭氏二番船積荷 白砂糖四、〇〇〇斤。 黒砂糖一六、〇〇〇斤・・・・・・鄭氏三番船積荷(広東より) 白砂糖一一、五〇〇斤。黒砂糖一〇〇〇斤・・・・・・鄭氏四番船積荷 白砂糖一三、九二〇〇斤。黒砂糖一〇、〇〇〇斤。 氷砂糖三、〇〇〇斤この時代より急速に白砂糖の輸入が増加している事に注目したい。 (以下次号) 第34回 長崎料理ここに始まる。(六) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第531号【秋の風景とむかし話〜横向地蔵〜】

     秋彼岸のときに合わせ、毎年きちんと咲いてくるヒガンバナ。その正確さには感心させられるばかりです。先週土曜日は秋分の日で彼岸の中日でした。長崎市の寺町界隈へ出向くと、お墓参りに訪れた人々を見守るようにヒガンバナがやさしく風に揺れていました。  秋の花といえば、万葉集でもっとも多く歌われた植物として知られるハギが代表的。また、さりげなく咲いて秋らしい風景を彩る野菊も美しい。淡い黄色の花をたくさんつけるアキノノゲシや、白く細い花びらが可憐なシロヨメナ、淡い青紫色の花びらのノコンギクなど、ひと口に野菊と言っても種類も多くそれぞれ個性的です。名前を覚えると、親しみがわいて楽しいもの。ポケットサイズの図鑑が手放せません。  秋の花咲く風景は、どこか郷愁を誘います。素朴で懐かしいものに心がひかれ、地元に伝わるむかし話や言い伝えにも自然と耳を傾けたくなります。長崎市の矢の平地区で語り継がれるユニークなお地蔵さまの話をひとつご紹介します。矢の平地区には寛政3年(1791)に設けられたという地蔵堂があり、大切に祀られているお地蔵さまは、顔を横にそむけためずらしいお姿をしています。  言い伝えのあらすじです。『むかし、まちで泥棒をはたらいた男が、まちはずれの矢の平でひと休みしながら、盗んだ品々の品定めをしていました。男がふと、顔を上げると、ほこらがありお地蔵さまが立っていました。驚いた男が、「お地蔵さま、許してくだされ。誰にも言わないと約束してくだされ。」と頼むと、お地蔵さまは、「一度だけは見逃してやろう。お前も人にしゃべるなよ」と言い、顔を横にそむけました。  それから何事もないまま3年が経ち、男がほこらへ来てみると、顔をそむけたままのお地蔵さまがいらっしゃる。驚いた男は、ほこらにお参りに来ていた人をつかまえて、「このお地蔵さまはお頼みしたことは必ず聞き入れてくださる。実は、昔のことですが…」と、あの日の出来事を全部喋ってしまいました。  すると、男の話を聞かされていた人の顔色が変わり、「3年前、うちの大事な品々を盗んだのは貴様だったのか!」。図らずも悪行を自らばらした男は、奉行所に突き出されました。お地蔵さまはこうなることを初めからお見通しだったというわけで、以来「横向地蔵」と呼ばれ、人々にますます尊ばれるようになりました。』  プイと顔をそむけた横向地蔵の表情が、「わしゃ、知らんよ。自業自得だな」と言っているよう。どこかユーモアのあるお地蔵さまでありました。   横向地蔵の帰り道、道路脇でイシガケチョウ(石崖蝶または石垣蝶)を見つけました。イシガケチョウは、石崖や石垣のような模様の翅(はね)が名前の由来。緯度と経度を記した地球儀のようにも見えます。また、ウラギンシジミ(裏銀蜆)も道の真ん中で翅を広げていました。ウラギンシジミは、その名のとおり、翅の裏が銀色です。表はオレンジ色とこげ茶色で、鮮やかな色彩が目を引きます。温かい地域に分布するこうしたチョウたちも、今夏は暑すぎたのかあまり見かけませんでした。過ごしやすい季節になったいま、のびのびと飛び回っているようです。

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  • 第530号【残暑の初秋、郷土食で養生】

     猛暑をのりこえて、ほっとひと息。朝夕の涼しい風がとてもうれしいですね。しかし、九州の日中は夏にもどったような暑さがまだ続いています。そんな気候に身体がついていかず、体調をくずしている方も多いことでしょう。そんなときにおすすめなのが「トウガのおつゆ」です。  「トウガ」とは長崎での呼び名で「冬瓜(とうがん)」のこと。地元では8月16日の精進落ちに「トウガのおつゆ」を食べる習わしがあります。トウガは、盛夏の食材のイメージが強いのですが、初秋も旬は続いています。90%以上が水分で、ビタミンCも多めに含まれるトウガは、薬膳では、利尿作用がある食材として知られています。味は淡白で、生のまま食べるとスイカの皮(白い部分)に似た味がします。絞り汁は、発熱時や暑気あたり、食あたりに効果があるといわれています。  「トウガのおつゆ」は、高タンパクで低カロリーの鶏肉や肺の乾燥を潤し空咳やのどの渇きにいいとされるキクラゲも加えて煮ます。素材の旨味をいかしたあっさりとしたスープに、トロリとやわらかく煮えたトウガ。冷めてもおいしいおつゆです。  夏バテなのか、熱がこもったような身体には、ナスを使った料理もおすすめです。身体のほてりやむくみをとり、血圧を下げるなどの薬効があるといわれています。ナスは代表的な夏野菜のひとつですが、収穫時期は梅雨の頃から秋までと、けっこう長く楽しめる野菜です。  長崎には古くから栽培されてきた伝統野菜・地域野菜として、「長崎長ナス」、「枝折れナス」という品種があります。「長崎長ナス」はその名のとおり、細長いナス。「枝折れナス」は、枝が折れるくらい実がたくさんなるところから付けられた名称だそうです。  農業の盛んな長崎県諫早地区を中心とした地域では、「ナスの味噌ころ」が昔ながらの惣菜のひとつ。一口大に切ったナス、タマネギ、厚揚げを油で炒め、野菜がしんなりしたところで麦味噌と砂糖少々を加え、炒め煮したもの。麦味噌の風味が素朴なおふくろの味です。  店頭では、そろそろサトイモも出回るようになりました。サトイモは独特のぬめりに薬効があって、血中のコレストロールを取り除き、胃や腸壁の潰瘍予防にもいいといわれています。ですから、調理の際はぬめりを落としすぎないのがコツです。  サトイモは、秋祭りや中秋の名月(十五夜)など、豊作を感謝する行事の際によく供えられます。中秋の名月が「芋名月」とも呼ばれる由縁です。長崎県島原地方などでは、家の外に醤油がめなどを置いていた時代には、ホクホクに煮付けた初物のサトイモを深皿に盛って、醤油がめの上に置き、名月へのお供えとしていたそうです。自然に感謝する当時の人々の素朴な姿や風景が目に浮かびます。   旬の素材で作る昔ながらの日常的な料理には、季節ごとに変化する身体をいたわる力があるようです。秋の夜長にゆっくり味わいたいものですね。

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  • 第33回 長崎料理ここに始まる。(五)

    砂糖考(其の二) 一、ヨーロッパと日本(一)▲出島蘭人遊興図(長崎古今集覽名勝図絵) ポルトガル人が初めて種子ヶ島に上陸したのは一五四二年(又は四三年)天文十一年の事と記してある。当時、我が国は戦国動乱の末期で各地で戦乱が繰り広げられていた。 九州方面では薩摩の島津氏、大分の大友氏、島原の有馬氏、佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、大村の大村氏、諫早の西郷氏、山口の大内氏等々が争っていた。 当時、ヨーロッパの人達は、あまり日本の事について知識を持っていなかった。ヨーロッパ人の日本に対する知識はベネチヤ人、マルコ・ポーロによってラテン語で書かれたOricental Travel(東方旅行記)のみであった。 それによると日本の国名はZipangu又はZipangri・Gyampaguと記してある。この日本の国名は同書によると中国人が日本の事をJih-pan-guoとよんでいたからであると記してある。そしてその中国語の意味はSan-sowrce Kingdamであるという。(R・ヒルドレスの著書より) マルコ・ポーロは我が国に来た事はなかったが、彼は元のフビライ帝の時代・一二七五年頃より十七年間中国に滞在していた。ちょうどこの時期は元軍が博多に攻めてきた「文永の役」(一二七四年)・「弘安の役」(一二八一年)の時期であった。マルコ・ポーロは此の時代の中国商人達が伝えた日本国の事情を次のように記している。日本は中国海岸より一、五〇〇マイル離れた島国でかなり広い。住民の顔色は美しく、作法に整っており、宗教は偶像崇拝で他国に征服された事はない・・・日本は金銀財宝に豊かである。王宮の屋根は黄金で葺かれ、部屋の天井は貴金属で飾られ、室内には純金の机があり窓には金の飾りがある。・・・そして後段には元寇の事も記してある。二、ヨーロッパと日本(二)▲マカオ付近で1845年頃につくられた陶器 次にヨーロッパに我が国の事が紹介されたのは一五一一年マライ半島マラッカをポルトガルが占領した以降の事である。 当時の資料として私達は先ずポルトガル人F・Mピント(Fernam Mendey Pinto)の記録で一六一四年出版されたPeregrinations in the East(東洋旅行記)を読むことが出来る。 ピントの話によると、彼はD・ZecimotoとC・Borellと共に中国の船に乗り種子ヶ島に到着、島王のNantaguim(時堯)と面接。三人のポルトガル人は寺に宿泊していた。そこでZainmotoは当時の日本にはなかった小銃で二十六羽の鴨を撃ち、競馬を見物中の島王時堯に献上している。 この時、種子ヶ島で小銃を模倣して製作したとも記してある。そして間もなく豊後の殿(大友氏)の船が多くの商人を連れて種子ヶ島に着き、以来、日本国に小銃が広まったと記してある。其の後ピントは大友氏の城下町臼杵に行っている。 一五四七年、再びピントはマラッカから種子ヶ島に向かい次いで大友氏の臼杵に到着している。然し、当時の大友氏は内乱が起こり貿易が出来なかったのでピントの船は鹿児島の山川に回漕している。そのピントが帰国しようとした時、鹿児島を脱出しようとしていた安次郎が「お助け下さい」とかけこんできた。ピントは大急ぎで彼を船に乗せマラッカに脱出させている。 この時、ピントはマラッカでザビエルに初めて面接、安次郎も亦ザビエルの教えを聴き日本人として最初のキリシタンとなっている。 一五四九年ザビエルは安次郎を案内人として鹿児島に上陸、その翌年は平戸に行き、我が国でキリシタンの布教を開始している。  以来、西欧の文化が我が国に伝えられ、我が国の言葉の中にポルトガル語が多く取り入れられる事になってきた。一六〇〇年頃には我が国の言葉の中にポルトガル語が多く残っている。それは四千語はあったと言う。その中で今日もなお使用されている言葉の中では食物と衣類関係が多いと記してある。食物の中では砂糖関係のものが一番多いそうである。その中より一例をあげると〇アメンドウ(Amendoo) 扁桃の実(味)。〇アルヘイトウ(Alfeloo) 有平糖、砂糖菓子。〇ビスケット(Biscoito) 菓子。〇丸ボロ(Bolo) 丸い菓子。丸ボーロ。花ボーロとよばれている。〇カラメル(Caramello) キャラメル。〇カステラ(Castela) 本来カステラ国の名でカステラ国で造られた菓子の意。カステラ巻(カスマキ)にも変化している。〇カスドウス(Castela doce) doceは甘いという意味。甘いカステラ菓子。 現在平戸地方の銘菓。〇コンペイトー(Confeitos) 金平糖。明治以前は長崎名物の一つだった。〇ザボン漬(Jumboa) ザボンの砂糖漬。当時はザボンのみでなく、多くの砂糖漬があった。〇マルメロ(Marmelo) 砂糖菓子の一種。〇カセイタ(Caixeta) 小さな菓子の意。現在熊本名物の一つ。〇鶏卵ソーメン(Fias re Ovos) 卵菓子の意。現在博多名産であるが、昔は長崎で「たまごソーメン」として売られていた。〇チンタ酒(Tinta vinho) 葡萄酒。(以下次号)第33回 長崎料理ここに始まる。(五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第529号【江戸時代の将棋指しのお墓】

     きょうは処暑。暑さがようやく収まって、朝夕の風が少しずつ涼しくなっていく頃です。今年の西日本の夏は、連日30度超えが続き、いつも以上に秋の到来がまちどおしい。食事や睡眠などに気を付けて、のりきりましょう。  子どもたちの夏休みも終わりが近づくなか、観光客で賑わう出島へ足を運びました。出島内の東側にあるシーボルトゆかりの植物が植えられた庭園では、ぶどう棚に果実がたくさん実っていました。その隣に植えられた柿の木にも青い実がたくさん。秋の果実の姿にめぐる季節を感じて何だかホッとしました。  同園内では、甲子園球場の外壁にもあるナツヅタが青い葉を絡ませていました。気温が低くなると紅葉となるナツヅタ。ブドウ科だけあってブドウに似た実もつけます。そばには翼の形をした果実で知られるイロハモミジもありました。これらの植物は、その昔、シーボルトが日本からオランダへ送った約260種にもおよぶ植物のなかから、近年、日本へ里帰りしたもの。大海原を渡ったり、空を飛んだりしながら国を行き来し、世代を超えて生き延びてきたたくましい植物たちでありました。  自由研究なのか、出島ではノートをとっている子どもたちがいました。興味のあることに夢中になっているその姿を見てふと思い出したのが、この夏、将棋の最年少プロ藤井聡太四段(15)の影響で、将棋をはじめるお子さんが増えたという話です。加藤一二三九段を下したデビュー戦をかわきりに公式戦では29連勝の新記録を樹立。中学生にして快挙を成し遂げた藤井四段の姿は、将棋を指す大人だけでなく、子どもたちの心も動かしたようです。  古代インドにさかのぼるといわれる将棋のルーツ。日本への伝来は諸説あり、6世紀頃ともいわれています。江戸時代には囲碁とともに幕府公認となり、将棋指しの家元三家(大橋家、大橋分家、伊藤家)には俸禄が支払われたそうです。将棋が庶民のゲームとして広く各地で親しまれるようになったのもこの時代。そうした歴史のなごりを感じられるお墓が長崎に残されていました。  かつての長崎街道沿いの一角にたつ、江戸時代の将棋の名手、大橋宗銀のお墓(長崎市本河内)です。宗銀は武蔵国出身で、当時の家元のひとつ大橋家の流れをくむと思われる人物です。長崎見物をかねて、将棋を指しにきたのでしょうか。長崎に来た理由も、亡くなった理由も不明ですが、天保10年(1839)、この地で没したことが墓石に刻まれています。   大橋宗銀のお墓の近くには、江戸期の長崎で囲碁を広めたとされる、南京房義圓(なんきんぼうぎえん)のお墓があります。ケヤキの大木のたもとにあり、墓石はお坊さんのお墓に共通する頭部の丸いものです。蓮華座下の台石は碁盤になっていて、その前に設けた花筒は碁笥(ごけ:碁石入れ)をかたどっています。いまもひっそりと花をたむけられている、江戸期の将棋や囲碁の名人のお墓。その技能は愛好家たちの間で脈々と受け継がれているのでしょう。

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  • 第528号【長崎半島先端・野母崎町の浜辺散策】

     きょう8月9日は、72回目の長崎・原爆の日。人類が同じあやまちをくりかえさないことを願いたい。おおきな犠牲をはらって、いまの平和な暮らしがあることをあらためて心に刻みたいと思います。  さて、今回は、夏休み中の子どもたちといっしょに楽しめる浜辺散策がテーマです。波や風の跡を刻みながら表情を変える浜辺は、出かけるたびに新しい発見があります。貝殻や海藻、流木、石ころなどの漂着物には、それぞれのストーリーがあり、海の向こうの国を思ったり、地球のダイナミックな鼓動を感じることもできます。  散策したのは、長崎半島の先端にある長崎市野母崎町の脇岬海水浴場です。東シナ海に面した長さ約2キロにわたる白い砂浜とコバルトブルーの海の色がとても美しい脇岬海水浴場は、環境省の「日本の水浴場88選」にも選定されています。また、この浜辺の端のほうには、県の天然記念物であるビーチロック(棚瀬)があることで知られています。ビーチロックとは、小石や砂が石灰質により固められた岩場のことで、満潮時には水面下にありますが、干潮時に扇型に層をなした自然の造形美が現れます。訪れたときは、潮がひきかけた頃で、ビーチロックは少しだけ顔をのぞかせていました。  風紋を刻んだ砂浜の片隅に目をやると、色とりどりの貝殻が打ち寄せられていました。こうした貝殻の多くは遠くからの漂着物ではなく、近場に生息していた可能性が高いといわれています。見つかる貝の種類で、その浜辺の環境の特色がわかるそうですが、詳しいことを知らなくても、いろいろな姿形をした貝との出会いは楽しいものです。  波打ち際を歩くと、平べったい小石が目立ちます。石は川から流れてくるときは、全体の角がとれて丸くなります。砂浜では、寄せては返す波に水平に動かされるので、すり減って平べったくなるのです。それにしてもいろいろな色合い、質感の石があるものです。長崎半島は古代の地層があらわになったところが各所にあるので、小石を通して地質・地層のことを学べそうです。  近年、長崎半島の地層からは恐竜や翼竜の化石が見つかり話題になりました。恐竜の化石は、半島西側の海岸から沖合に見える軍艦島(端島)や高島にまたがる地域に点在する、中生代白亜紀にできたもっとも古い地層、「三ツ瀬層」から発見されたものです。   半島西側海岸にある田の子地区へ行ってみました。干潮時には地続きになる田の子島があるところで、沖合に軍艦島、高島が見えます。このあたりの海岸は、脇岬より小石が多く、石の表情もより個性的なものが多いよう。ちなみに、田の子地区には2022年をめどに長崎市の恐竜博物館がつくられる予定です。長崎半島は、古生物学者や地質学者はもちろん、恐竜や地層などに興味のある人には目が離せないスポットでありました。

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  • 第32回 長崎料理ここに始まる。(四)

    砂糖考 一、はじめに▲ポルトガル民芸皿 南蛮唐紅毛時代の長崎に於ける貴重な貿易品の中に「白砂糖」の輸入があった。砂糖には長崎奉行所では「御用砂糖」と称し長崎代官所より江戸幕府に送付される物と一般に江戸、大坂、長崎等の五カ所御用商人によって取引される物があった。又、貰砂糖(もらいさとう)・御菓子屋除砂糖、こぼれ砂糖、寄進砂糖等と区別して取り扱われる砂糖もあった。其の他、丸山遊女の代銀として物納された砂糖や混血児養育費として使用された砂糖もあった。私は先年、これら資料の一部を整理し長崎純心大学博物館研究第三輯・第四輯に記述しているので御参考にして戴くとよい。 我が国で砂糖の資料が登場してくる谷口学氏の「古典の中に現れた砂糖」(糖菓工芸会刊)や「本邦糖菓史」(味燈書屋)等をみると、平安時代初期の遣唐使によって薬品としての少量の砂糖が我が国に運ばれたと記してある。中国の資料によると宮廷に始めて砂糖が登場してくるのは唐の時代のことであると次のように記してある。砂糖 中国には本これ無し、唐の太宗の時、外国貢ぎて至る。其の役人に問う、此れ何物と云う。甘蔗汁を以て煮・其法を用い煎て成す。外国の者と等し。此れより中国に砂糖あり(老学庵筆記・六)また「本草網目集解」には次のように記してある。 砂糖は蜀地より出ず。西戒・江東並に此れ有り。甘蔗の汁を筌し煎て紫色となる。 これ等によると砂糖は南支那の甘蔗が唐の太宗(六二七~六四九)の頃、長安の都に伝えられたと記してある。勿論それは黒砂糖であった。 我が国では、十六世紀になると遣明船によって砂糖が鹿児島・博多・堺などに積み渡られ貴人や有力者などの間で贈答品として使用されていたが、一般的には珍しい品であった。二、砂糖がまだ無かった時代 中国では味に五種(ごみ)あかりと記してあり、その五種とは鹹・苦・辛・甘である。 そのうち甘は「飴蜜」とある。更に砂糖の糖の文字は「説文」には「飴」なりと記してある。 日本古代史の食物の研究家関根真隆先生の「奈良朝食生活の研究」を参考にさせて戴くと同書の第五章第三節に「甘味類」の項がある。 それによると「古代の甘味は果実・蜜などの自然採取物に始まり飴・果糖の加工甘味料に変わる」と記してある。そこには飴・甘蔗煎・蔗糖・密の名があり蔗糖は、当時は薬に使用されたものであり、「廬舍那仏種々薬帳」の中に其の名が記してあると説明されている。 また、当時の飴は「延喜式」の中に糯米一石・萠小麦弐斗にて三斗七升」とあり、飴が糯米より造られていたことがわかる。 甘蔗煎は「アマヅラ」、後世には「あまかづら」と言っている。この他に、蜜を和したものに「浮餾(ふる)餅」の名があげてある。浮餾は「おこしごめ」とよんでいた。それは「和名抄」に※こめ([こ]米偏+巨、[め]米偏+女)の「和名於古之古女(おこしこめ)」と注記してある事による。この他麹の事も記してある。麹の事は古くは「※こうじ([こうじ]米偏+毎)」と記してある。麹も甘酒として古代より使用されていた。三、南蛮船と砂糖の輸入▲ポルトガルの民芸 一五四三年南蛮人の来航によって一五四九年以来キリスト教の布教か開始され、其れによって多くの神父達が我が国に於ける布教の現状や其の国の生活様式をローマのイエズス会本部に報告している。そして其の文書は現在もローマに保存され日本国についての部分は多く翻訳され「イエズス会文書」として出版されている。 一五六三年長崎に来航してきたフロイス神父は「日本人の食事と飲食の仕方」についてローマに次のように報告している。no.19 吾れ吾れは甘い物を好むが日本人は塩辛いのがすきである。 この時代はまだ日本人は砂糖を多く使用していなかったのでありましょう。当時の砂糖は大変珍しいものであった。当時の土佐の領主長曽我部氏が織田信長に天正八年六月(一五八〇)砂糖三千斤を献上した記録が残っている。(小瀬甫庵・信長記) 当時は唐船によって砂糖は輸入されていた。「明史」や「籌海図編」「日本一艦」などの資料によると当時の唐船は土佐・博多・日向・薩摩・平戸・五島・種子島・屋久島に来航し倭冦と大いに関係があり其の貿易品をあげているが、砂糖の積み荷の事について殆ど記されていない。 然しこの倭冦時代以後、豊臣秀吉の頃より始まる御朱印船時代になると其の積荷の中に砂糖の事が現れてくる。一例をあげると●マニラより生糸・巻物・蘇木・砂糖●交跡より黄糸・北絹・砂糖・蜜●束浦塞より鹿皮・蜜・黒砂糖 一六〇三年(慶長三)長崎のコレジョで編集された「日本ポルトガル辞書」(原文ポルトガル語・邦訳土井忠生・森田武・長南実)には多くの砂糖に関する言葉が集録されている。当時すでに「砂糖」が我が国の人たちの間に多く用いられるようになった事が之によってわかる。 日ポ辞書により砂糖に関係する言葉を二・三ひろってみると〇 AmMochi(アン モチ) 豆をつぶしたものにJagraを加えたもの、又はJagraを加えない豆をつぶした物を入れた米の餅。 註・Jagraはインド及び東部アフリカで椰子や甘蔗から作る黒砂糖と説明してある。当時は白砂糖より黒砂糖を多く使用していたのであろう。 〇SatoMangiu(サトウ マンジュ) お湯の蒸気で蒸した、ある種の小さなパンでJagraを入れて作ったもの。〇Yocan(ヨウカン) 豆とJagraをまぜて作ったもの。〇Ame(アメ) 日本の麦その他のものから作る。(以下次号)第32回 長崎料理ここに始まる。(四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第527号【長崎南画家、蟹の八百叟】

     暑中お見舞い申し上げます。長崎では先週の梅雨明けに合わせるかのように、サルスベリが開花。フリルのような花びらが夏の青空に映えてとてもきれいです。  今回は、江戸後期に生まれ、明治・大正を生きた八百叟(やおそう)こと伊藤惣右衛門(いとう そうえもん)(1835〜1917)という長崎南画の名手をご紹介します。八百叟とは雅号で、ほかにも、玉椿軒(ぎょくちんけん)、蔬香(そこう)とも称しました。とくに蟹の画を得意としたことから、「蟹の八百叟」と呼ばれ、そのユニークな人柄とともにいくつかのエピソードが語り継がれています。  八百叟の家は立山の長崎奉行所にほど近い今博多町にありました。代々、野菜や乾物などをあつかう商家で、長崎奉行所の御用も務めました。八百叟は五代目として家業を継ぎ、そのかたわらで趣味人として南画を描いたようです。  ところで、長崎南画は、江戸時代に中国から伝わったもので、長崎三筆と称される南画家、鉄翁祖門(1791〜1871)、木下逸雲(1799〜1866)、三浦悟門(1808〜1860)によって大成されました。その画法を学ぼうと、長崎には各地から人々が集い、また長崎から全国へ広まりました。長崎南画がもっとも盛んな時代に生まれた八百叟は、鉄翁祖門や木下逸雲に学び、南画を描く中国人とも交流があったと伝えられています。  なぜ、八百叟は蟹画を得意としたのか。はっきりした理由はわかっていませんが、とにかく幼い頃から蟹をよく描いていたそうです。すでに南画の大家であった鉄翁祖門には、蟹をよく観察して描くようアドバイスを受けたこともあったとか。また、八百叟と鉄翁との間には次のようなエピソードも伝えられています。当時、春徳寺の住職だった鉄翁。八百叟がそこへ出向くのは、いつもお昼近くで、たいがい蕎麦を持参しました。蕎麦は鉄翁の好物。気を良くした鉄翁は、毎回お礼に自分の作品を八百叟に与えたそうです。商人でもあった八百叟のちゃっかりとした面がうかがえます。  もうひとりの師・木下逸雲とは、生死を分けるエピソードが残されています。中島川をはさんだ隣町の八幡町に住んでいた逸雲とは、親しい交流があったようで、慶応2年(1866)、逸雲が江戸に旅した時に八百叟も同行しています。しかし、帰路の船で逸雲は遭難。八百叟はたまたま船に乗り遅れ難を逃れました。また、明治5年(1872)、長崎への明治天皇行幸の際、八百叟は、天皇が使用した白木の箸や食べ残しのご飯の下賜を願い、保管しました。大胆にそのようなことを願い出るところがユニークです。そのときの箸とご飯が、現在も長崎市立桜町小学校の地域・学校交流センター内に展示されていることは、あまり知られていません。  かつて八百叟の家の隣で海産物商を営んでいたというお宅のご子孫が大切に所蔵している八百叟60歳のときの蟹画を見せていただきました。11匹の蟹がイキイキと楽しそうに描かれています。また、八百叟の描いた蟹画は、桜馬場天満宮の天井絵にも残されています。   サワガニにしても、ワタリガニにしても、甲羅からかわいく突き出た目、1対のハサミ、そして4対の脚で横歩きするその姿は、子ども心をくすぐります。八百叟は、そんな童心を生涯持ち続けたのかもしれません。大正6年(1917)84才で亡くなった八百叟。ちょうど没100年にあたります。大音寺後山(長崎市鍛冶屋町)にある墓碑には、雅号を連ね「玉椿軒八百叟蔬香之墓」と刻まれていました。

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  • 第526号【乗り越えていく】

     九州北部地方での記録的豪雨による被害に合われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。引き続き大雨や土砂災害の情報に注意して過ごされ、どんなときも身の安全に努めてください。そして、1日も早く安定した状況になることをお祈り申し上げます。  歴史を振り返れば、異常気象や地震などの自然災害で、わたしたちの生活は幾度も窮地に追い込まれました。自然の脅威には逆らえないことを思い知らされる一方で、人々は自然発生的に炊き出しや救護を行い、助け合いながら切り抜けてきました。全国各地にはそうしたエピソードがいくつも語り継がれ、ゆかりの品々などが大切に残されていることもあります。  長崎市鍛冶屋町にある唐寺・崇福寺の大釜(市指定重要文化財)もそのひとつです。大釜の重さは約1,200キログラム、直径1.86メートル、深さ1.7メートル。一見、五右衛門風呂のようでもあるこの大釜は江戸時代のもの。石畳の境内の一角に設置されていて、いつでもその姿を拝むことができます。  この大釜が造られたのは、延宝年間(1673-1681)に各地で不作が続き飢饉が発生したことがきっかけです。その流れで長崎では1681年(延宝9)に大飢饉が起き、餓死者が出ました。当時の崇福寺の住職は自分の衣類や道具を売ったり、托鉢をして浄財を得、庶民に粥を施したと伝えられています。そして、増える難民に応じるためだったのでしょう、翌年、同町内の鋳物師に、一度に十俵(約三千人分)の粥を炊くことができる大釜を造らせたのでした。  大釜は、その大容量で多くの難民を救ったと伝えられています。実際に目の当たりにすると、釜戸に乗せたり、米と水を入れたり、粥をついだりする作業はかなりたいへんだったろうと想像できます。まさに人々が協力し合っての施粥だったに違いありません。  近年、相次ぐ自然災害の折、被災地で人々が助け合い、協力し合う姿を報道などでよく見聞きします。人はきっと、危機にさらされた状況を見たとき、本能的に手をつなぐようにできているのかもしれません。そして、今回の豪雨の被災地に対しても、自分にも何かできることはないかと思う方も大勢いらっしゃることでしょう。  災被災された方々が元気をとりもどすことを願って、本当にささやかですが、長崎から「ハート」のある風景をお届けします。まずは、眼鏡橋のそばにあるハートストーン。ここは観光客の姿が絶えない場所。愛する気持ちをたくさん浴びたストーンですから、きっと縁起がいいはず。そして、ハト胸ならぬ、ハート胸のネコ。数年前、浦上天主堂の敷地内でひょっこり出会ったネコです。胸の毛並みを見るたびに、気持ちがゆるみます。   梅雨空の下、長崎港に出ると先月下旬に初入港した「ノルウェージャン・ジョイ」(167,725t)という大型客船が再び寄港していました。建造されて間もない船で、白い船体に描かれたイラストが目を引きます。長崎港にはこの夏も多くの客船が入港を予定しています。多くの人が笑顔で往来する平穏な風景のありがたさを感じるほどに、被災地への思いは募ります。被災された方々がこの窮地を乗り越え元気をとりもどすことを心から祈ります。

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  • 第31回 長崎料理ここに始まる。(三)

    一、南蛮料理編(二)▲ポルトガルの人形 我が国で南蛮(人)と言えば、一五四三年以来、徳川幕府が鎖国令を発した寛永一六年(一六三九)までの間に来航してきたポルトガル船・スペイン船により我が国に来航してきたポルトガル人、スペイン人、イタリヤ人を南蛮(人)と呼んでいる。 今回は、その南蛮から来航してきた人たちが、当時の日本人の食生活を、どのように理解していたかと言う事を中心に話を進めてみたいと考えている。其の一  一五四四年 メンデス・ピントとともに日本に渡り九州地方を回っているジョルジュ・アルバレスの報告書(この報告書はヨーロッパ人が直接に我が国を訪ねた人の報告書としては最初のもので七ヶ国語に訳されヨーロッパで広く読まれていた)によれば次のように記してある。 日本は美しい国で多くの松、杉、梅、桜、栗、樫がある……味のよい梨があるが日本人は食べなかったが私たちが食べたのをみて食べるようになった。私たちの土地にはない多くたくさんの果物があった。日本人は自分の家に飲み食いに来るようにと招待し、欲深くなく、極めて大様な国民である。…食事のことについても次のように記している。 日本人は日に三度の食事をする。毎回少ししか食べない。肉はわずかしか食べない。但し鶏は食べない。それは鶏は家に飼っているから食べないそうである。日本人が食べるのは米と豆とムンゴ(インド地方で木の実を言う)山芋と麦。また麦をどろどろに煮て食べるようである。日本人がパンを作るのを見なかった。米から作る酒と身分の別なく飲む酒があり、酩酎すると日本人はすぐに眠ってしまうので酔っぱらいは見たことがない。豆で作るチーズを食べる(豆腐)私は食べたことがないので其の味はしらない。食器については次のように記している。 食事は床の上で食べている。各自が彩色した自分の食器を持っており、中国人と同様棒(箸)で食べている。食器は陶器と外は黒く中は赤く塗ってある鉢と皿(漆器)をつかっている。▲ポルトガル人は鳥を大事にする其の二  一五四九年、F・ザビエルが我が国にキリスト教の布教を開始して以後、イエズス会の神父たちが多く布教のため来日してきた。其の神父達は我が国におけるキリスト教布教の状況を毎年ローマに報告している。それを私達は「イエズス会士 日本通信」とよんでいる。その通信文を一五九八年ポルトガルのエヴォオラのManoel de Lyraから出版している。その通信文の内容は一五四九年より一五八〇年までの書簡集である。 私はこの日本通信(上下・新異国叢書 柳谷武夫先生訳)の中より食に関することに限定し収録させて戴くことにした。A、 一五五四年、パードレ・ガスパル・ビレラが初めて平戸に赴くに当たってインドのコチンより本国のコインブラに送った書簡。この時にはまだビレラ神父は我が国の事は良く知らなかったのでコチンで友人達から教えられた日本の状況を報告している文章であり、当時の人達が我が国の事をどのように考えていたかが知られる。食事のことについても次のように記している。日本は貧弱でポルトガル国よりも寒く、山多く、雪がふる処である由。然し国民は文化的に開け物の道理は良くわきまえている。食料は大根の葉の上に少し大麦の粉をかけたものを食べている。日本には油、牛乳、卵、砂糖、蜂蜜、酢はないそうである。又、塩がないので大麦の糖を用いている。註・大麦のヌカと言うのは味噌の事を言っているのであろう。B、 一五五五年九月平戸に居たガゴ神父がポルトガルに送った手紙。手紙によると当時平戸には五百人のキリシタンがおり、領主松浦氏はキリシタンになることを望み、キリシタン信者の為に墓地を与えたので「九月二十四日その地に十字架を建てたのでキリシタン信者は盛大な祝祭を行いました」と記している。同じ書籍の中でガゴ神父は山口(山口県)の事を次のように記している。 この山口の地には信者は二、〇〇〇人います。然し、此の地は食物欠乏の地です。此の地には少しの米と野菜しかありません。然し元は肥満の地だったそうです。この山口は海岸より遠く魚は稀にしかありません。物は多く不足しています。 牛は殺さず野獣の肉は時々食べます。日本人は唐人を非常に軽蔑しています。日本人は戦いを好み、十歳位より刀を帯び刀をだいてねているようです。C、 一五五七年。ビレラ神父は平戸よりイエズス会に長い報告文を送り我が国に於ける布教の状況を報告している。その中に日本人が大分で祝日の日に次のように牛肉を食べた事が報告されている。そして、之の文章が日本人が牛肉を食べた最初の報告文であるとされている。一五五七年、大分に於いて四旬節が近づいた。四月十一日その聖週を向かえた。その御復活祭の翌日は大いなる祝日である。其の日は約四百人のキリシタン一同を食事に招きました。其の時、我等は牡牛一頭を買い、その肉と共に煮たる米を彼らにあげました。彼らは皆、大いに満足を以て之を食べました。また多くの貧民も集まり皆・主を讃美しました。 一五五七年には、まだ長崎開港の前であり、大村領主大村純忠もまだキリシタンに入信していなかった。やがて一五六二年ポルトガル船は初めて大村領横セ浦(現長崎県西海市)に入港している。(以下次号)第31回 長崎料理ここに始まる。(三)  おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第525号【職人町だった界隈(魚の町)】

     前号でご紹介したウラナミジャノメと思われるチョウ。後になって、絶滅のおそれがある希少な動植物をまとめた長崎県のレッドデータブックに掲載されていたことがわかりました。それを機に、これまで以上にチョウの存在が気になるように。6月下旬、花期も終盤となったシロツメクサのまわりを飛んでいたのは、お馴染みのモンシロチョウと、オレンジ色系の翅を持つツマグロヒョウモン。翅の先端に黒、白、グレーのきれいな模様を持っていたので、これはメス。オスにこの模様はありません。ツマグロヒョウモンは、もともとは南方系のチョウでしたが、近年は温暖化の影響で近畿地方でもよく見られるとか。小さな昆虫たちの世界からダイナミックな気象の変化が垣間見えます。  長崎市中心部は、オフィスビルが建ち並ぶバス通りからせまい路地に入ると、古い側溝や石垣などがそこかしこに残り、季節まかせの草花がのんびりと咲いています。チョウたちは、そんなところにふわりと姿をあらわすのですが、長崎市桜町にある長崎市役所別館の裏手もそうした界隈のひとつです。まちの真ん中にありながら、静かな路地裏の風情が漂うそのエリアは魚の町(うおのまち)。一角ではいま、長崎市公会堂の解体工事が進められていて、跡地には長崎市役所本庁舎が建てられることになっています。  まちの表情が大きく変わろうとするなか、このあたりの江戸時代をふりかえってみると、今紺屋町、中紺屋町、本大工町というまちが隣接。町名からわかるように、それぞれ紺屋(染物屋)、大工職人が集まる職人町でした。  紺屋は大量の水を使う仕事なので、中島川沿いに発展しました。実は今紺屋町、中紺屋町より先に、慶長2年(1597)につくられた最初の紺屋町が少し下流にあって、それが本紺屋町。南蛮貿易で栄え、長崎の人口がどんどん増えるなか、紺屋は大繁盛。職人も増えて10年もしないうちに、今紺屋町ができ、間もなく中紺屋町も生まれたのでした。同じ頃、中紺屋町の隣には、桶職人らが集まった桶屋町もありました。  かつて大工職人が居住した本大工町。現在、長崎市内で、「大工」が付く町名は、新大工町と出来大工町の2つがありますが、そのルーツが、この本大工町です。長崎開港後、まちの発展に伴うもろもろの建設に大工職人は不可欠。次第に職人も増え、本大工町だけでは収まりきれなくなりました。慶長11年(1606)、近隣に新大工町ができ、その後さらに、新大工町は2分され一方は出来大工町と称しました。いずれもその当時とほぼ変わらぬ場所で、現在に至っています。   南蛮貿易の時代から江戸時代にかけて商人のまちとして発展した長崎。そこには貿易に携わる者だけでなく、まちを形造り、生活に欠かせない物をつくるさまざまな職人たちの存在もありました。史料には残されていないそうした職人たちの姿を想像すると、また違った長崎の歴史の表情が見えてくるようです。

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