第32回 長崎料理ここに始まる。(四)

砂糖考 

一、はじめに



▲ポルトガル民芸皿


 南蛮唐紅毛時代の長崎に於ける貴重な貿易品の中に「白砂糖」の輸入があった。

砂糖には長崎奉行所では「御用砂糖」と称し長崎代官所より江戸幕府に送付される物と一般に江戸、大坂、長崎等の五カ所御用商人によって取引される物があった。


又、貰砂糖(もらいさとう)・御菓子屋除砂糖、こぼれ砂糖、寄進砂糖等と区別して取り扱われる砂糖もあった。其の他、丸山遊女の代銀として物納された砂糖や混血児養育費として使用された砂糖もあった。私は先年、これら資料の一部を整理し長崎純心大学博物館研究第三輯・第四輯に記述しているので御参考にして戴くとよい。


 我が国で砂糖の資料が登場してくる谷口学氏の「古典の中に現れた砂糖」(糖菓工芸会刊)や「本邦糖菓史」(味燈書屋)等をみると、平安時代初期の遣唐使によって薬品としての少量の砂糖が我が国に運ばれたと記してある。


中国の資料によると宮廷に始めて砂糖が登場してくるのは唐の時代のことであると次のように記してある。


砂糖 中国には本これ無し、唐の太宗の時、外国貢ぎて至る。其の役人に問う、此れ何物と云う。甘蔗汁を以て煮・其法を用い煎て成す。外国の者と等し。此れより中国に砂糖あり(老学庵筆記・六)また「本草網目集解」には次のように記してある。


 砂糖は蜀地より出ず。西戒・江東並に此れ有り。甘蔗の汁を筌し煎て紫色となる。


 これ等によると砂糖は南支那の甘蔗が唐の太宗(六二七~六四九)の頃、長安の都に伝えられたと記してある。勿論それは黒砂糖であった。


 我が国では、十六世紀になると遣明船によって砂糖が鹿児島・博多・堺などに積み渡られ貴人や有力者などの間で贈答品として使用されていたが、一般的には珍しい品であった。



二、砂糖がまだ無かった時代


 中国では味に五種(ごみ)あかりと記してあり、その五種とは鹹・苦・辛・甘である。

 そのうち甘は「飴蜜」とある。更に砂糖の糖の文字は「説文」には「飴」なりと記してある。


 日本古代史の食物の研究家関根真隆先生の「奈良朝食生活の研究」を参考にさせて戴くと同書の第五章第三節に「甘味類」の項がある。


 それによると「古代の甘味は果実・蜜などの自然採取物に始まり飴・果糖の加工甘味料に変わる」と記してある。そこには飴・甘蔗煎・蔗糖・密の名があり蔗糖は、当時は薬に使用されたものであり、「廬舍那仏種々薬帳」の中に其の名が記してあると説明されている。


 また、当時の飴は「延喜式」の中に糯米一石・萠小麦弐斗にて三斗七升」とあり、飴が糯米より造られていたことがわかる。


 甘蔗煎は「アマヅラ」、後世には「あまかづら」と言っている。この他に、蜜を和したものに「浮餾(ふる)餅」の名があげてある。浮餾は「おこしごめ」とよんでいた。それは「和名抄」に※こめ([こ]米偏+巨、[め]米偏+女)の「和名於古之古女(おこしこめ)」と注記してある事による。この他麹の事も記してある。麹の事は古くは「※こうじ([こうじ]米偏+毎)」と記してある。麹も甘酒として古代より使用されていた。



三、南蛮船と砂糖の輸入



▲ポルトガルの民芸


 一五四三年南蛮人の来航によって一五四九年以来キリスト教の布教か開始され、其れによって多くの神父達が我が国に於ける布教の現状や其の国の生活様式をローマのイエズス会本部に報告している。そして其の文書は現在もローマに保存され日本国についての部分は多く翻訳され「イエズス会文書」として出版されている。


 一五六三年長崎に来航してきたフロイス神父は「日本人の食事と飲食の仕方」についてローマに次のように報告している。


no.19 吾れ吾れは甘い物を好むが日本人は塩辛いのがすきである。


 この時代はまだ日本人は砂糖を多く使用していなかったのでありましょう。当時の砂糖は大変珍しいものであった。当時の土佐の領主長曽我部氏が織田信長に天正八年六月(一五八〇)砂糖三千斤を献上した記録が残っている。(小瀬甫庵・信長記)


 当時は唐船によって砂糖は輸入されていた。「明史」や「籌海図編」「日本一艦」などの資料によると当時の唐船は土佐・博多・日向・薩摩・平戸・五島・種子島・屋久島に来航し倭冦と大いに関係があり其の貿易品をあげているが、砂糖の積み荷の事について殆ど記されていない。


 然しこの倭冦時代以後、豊臣秀吉の頃より始まる御朱印船時代になると其の積荷の中に砂糖の事が現れてくる。一例をあげると

●マニラより生糸・巻物・蘇木・砂糖

●交跡より黄糸・北絹・砂糖・蜜

●束浦塞より鹿皮・蜜・黒砂糖


 一六〇三年(慶長三)長崎のコレジョで編集された「日本ポルトガル辞書」(原文ポルトガル語・邦訳土井忠生・森田武・長南実)には多くの砂糖に関する言葉が集録されている。当時すでに「砂糖」が我が国の人たちの間に多く用いられるようになった事が之によってわかる。


 日ポ辞書により砂糖に関係する言葉を二・三ひろってみると

AmMochi(アン モチ) 豆をつぶしたものにJagraを加えたもの、又はJagraを加えない豆をつぶした物を入れた米の餅。

 註・Jagraはインド及び東部アフリカで椰子や甘蔗から作る黒砂糖と説明してある。当時は白砂糖より黒砂糖を多く使用していたのであろう。 

SatoMangiu(サトウ マンジュ) お湯の蒸気で蒸した、ある種の小さなパンでJagraを入れて作ったもの。

Yocan(ヨウカン) 豆とJagraをまぜて作ったもの。

Ame(アメ) 日本の麦その他のものから作る。


(以下次号)


第32回 長崎料理ここに始まる。(四) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

検索